絶対平和の戦争
連作〈The Show Must Go On〉(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)の後半三作「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and…」「…’STORY’ Never Ends!」は、人類の未曾有の平和と繁栄の時代「絶対平和」の物語であるが、それはこの時代における「戦争」を中心に語られる。
「絶対平和」は、遺伝子工学によって生み出された人造人間「亜人」の犠牲の上に築かれたものである。犠牲とは、単に労働を担わせただけではない(もちろんそれも大きいが)。暴力と差別の根本的原因は、自尊心の欠如である。それを埋めようと、人は他者を傷つけ貶める。亜人という「人に似た、しかし人より少しだけ劣った他者」を造り出すことにより、人は初めて欠乏を満たすことができ、すべての人は平等だという感覚を持つことが可能となったのである。
しかし、「少しだけ劣った他者」によって奉仕される、というだけでは人間の自尊心を完全に満たし、暴力性を押さえ込むことは不可能だった。それは亜人への暴力という形で現れた。
どんな支配体制であれ、要となるのは暴力のコントロールである。国家は「暴力を行使する権利」を独占する方向に発展してきた。絶対平和の体制が個人による亜人への暴力を禁じたのは同じ原理からだったが、それだけではない。反体制派すなわち亜人撲滅派は、亜人への暴力から最終的に人間への暴力に至った。亜人への個人的(私的)暴力は、全人類の完全な平等と平和という「絶対平和」の根幹を揺るがすものだった。
抑えきれない暴力性を発散させ、かつ暴力の行使権が体制によって独占されていることを知らしめる手段として選ばれたのが、戦争と闘技である。
「もう一つの歴史」上の1991年、北米の「某超大国」は湾岸戦争で国連も多国籍軍も無視してバグダッドを占領し、「悪の独裁者」を処刑した。この独断専行に対する国際的な非難は、さしもの「某超大国」をも屈服させ、言いなりにイラク撤退と軍縮が行われた。
しかし屈服は見せかけで、やがて内戦により完全に無力化したイラク政府は、軍事も行政も「某超大国」企業のアウトソーシングによって乗っ取られることになる。
この乗っ取りに先立って行われたのが「某超大国」国軍の民営化で、装備から人員に至るまで、そのまま民営軍事企業に流用された。同時期、冷戦終とソ連崩壊、アパルトヘイト廃止などにより、世界中で軍縮とそれに伴う民営化が進行していた。
そして1999年、亜人が登場する。
亜人は人間に対して絶対に危害を加えることができないため、対人戦闘には当然使えない。また「妖精」と呼ばれた初期の亜人は著しく能力が制限されていた。そのため亜人は比較的早い段階から戦場に投入されたものの、荷運びなどの単純労働または地雷除去のような危険だが限定された任務に就いていただけだった。
やがて亜人の存在により人間の「自尊心の回復」が進むにつれ、戦争もテロも終息に向かう。しかしついこの間までの憎しみや恨みは、そう簡単に消えはしない。贖いとしての血が必要だった。それが、亜人同士による代理戦争である。
この転換により、民営軍事企業の業務は代理戦争のプロデュースとなった。重要なのは勝敗ではなく、どれだけ、どのように血が流されたかだったから、必然的に詳細な報道が望まれた。
間もなくエンターテインメント産業が、この「新しい戦争」に参入することになる。90年代、「某超大国」では湾岸戦争に端を発した国際的な孤立に伴い、国内では思想統制が強化され、ハリウッドを筆頭とする文化産業が軒並み「亡命」する事態となっていた。
この「亡命者」たちは世界中の文化産業を結びつける役割を果たし、まったく新しい多彩で豊かな国際文化が生み出されたのである。
その背後には、「某超大国」の文化的覇権を突き崩そうとする「組織」の思惑があったとされるが、ともかく「亜人による代理戦争」におけるエンターテインメント産業と民営軍事企業との提携から、やがて亜人兵士や物資の提供から作戦立案・遂行に至るまでの戦争業務全般を請け負い、娯楽として提供する複合企業「スタジオ」が生まれる。
暴力性だけではなく利己性も抑制されたため、人間とその財産だけでなく環境も傷つけないことが当然の前提となり、使用される武器兵器の破壊力には制限が掛けられた。食料生産の工業化(動物性食料も植物性食料も工場で生産されるようになる)に伴い、不要となった広大な農地で森林や草原の再生が進められており、そうした土地の一部が戦場に指定された。同様の理由から、一回の戦争の規模も縮小され、長くてもせいぜい半日、投入される兵員は両軍合わせてせいぜい数千だった。
先述のとおり、重要なのは勝敗ではなく、どのように血が流されるかだったから、作戦は戦争当事者同士の協議で決められるものとなった。その仲介も、「スタジオ」の役目だった。
この「贖いとしての代理戦争」も、わずか数年のうちに終息に向かった。だが代理戦争自体は、問題の早期解決手段としてむしろ頻繁に行われるようになった。人間が賢く穏やかになり、私利私欲が抑えられたといっても、何が最善であるかの答えが常に出せるとは限らない。そこで議論で時を浪費するより、一種の賭けとして亜人同士を戦わせるようになったのだ。
すでに戦争の「サーカス」化は進んでいたため、当事者以外の人々も戦争のニュースやドキュメンタリーを消費し、批評した。贖いとしての戦争とは違って勝敗は重要だったが、戦いでは勝ったのに、世論によって覆されるということが起きた。
そのため、「いかに勝つか」ではなく、「いかに戦うか」「いかに魅力的に観せるか」が問題となり、サーカス化はますます進んだ。この頃までに亜人の外見や機能は多様化しており、魅力的な外見と魅力的な軍服を纏うようになった。この「デザイン」は日本のポップカルチャー(特にアニメ、漫画、ゲームなど)を基盤としており、当然、日本人デザイナーが大いに活躍することとなった。
このように亜人への「公的な暴力」のサーカス化と制度化が進む一方、非合法の「私的な暴力」を合法化しようとする動きも起こった。亜人への直接暴力は論外だが、亜人同士を闘わせる(多くはどちらか一方が死ぬまで)「地下闘技場」は日本的センスによる闘奴や試合形式のデザイン向上もあって、やがて合法化が実現した。合法化された闘技は、地下ではなく公共の闘技場で行われるようになった。
これら一連の動きは、2007年に最初の亜人国際法が制定されるまでに概ね完了していた。この頃までに、戦争は「旧時代文化の保存活動」という建前も出来上がっていたと思われる。
こうして絶対平和の戦争は、過去に実際に行われた戦闘をモデルとしたものになった。とはいえ、環境保護などによる規制、戦力均衡の原則、亜人に人間の振りをさせることを禁じる法律(亜人と人間の差別化こそ、絶対平和の基盤だから)、さらにショウとしての見栄えの優先等、さまざまな理由から、忠実な再現にはなりえなかった。
また環境と亜人の保護を理由に、大量破壊兵器は法で禁止された。そのため、モデルとする戦争は19世紀までとし、さらに19世紀末には登場していた機関銃やダムダム弾などの強力な武器兵器も使用しないという不文律が出来上がった。スタジオの側からすれば、あまりに強力な武器兵器は一方的な殺戮を生むだけで、ドラマが生み出される余地がなくなるため、使用禁止に否やはなかった。
つまり絶対平和における戦争は、長期間の協議に替わる早期解決手段であり、過去の文化の保存事業であり、亜人という奴隷による大規模な殺し合いショウだった。
モデルとされる過去の戦争は、原則として係争が起きた現地で行われたものとされたが、各戦争当事者たちがモデルとした戦闘集団の子孫だというようなことはほとんどなく、あったとしても当人たちを含め、誰も気にしなかった。賢く穏やかになった新人類は、過去の因縁などとは無縁なのだ。
時代考証は、せいぜい「尊重する」程度でしかなく、使用される武器兵器も、見た目がそれらしければ良いのであって、正確な復元は求められていなかった。素材は全般に強度が高く、かつ再利用できる物に替えられていただろうし、たとえば近世の大砲は実際には威力も命中率も低く、砲身の破裂も珍しくなかったので「殺されるのは敵よりも味方のほうが多い」代物で、また火薬も湿気やすく煙の量が多かったため、点火できなかったり、できたらできたで硝煙が濛々と立ち込めて何も見えなくなるという有様だったが、そういった問題はすべて取り除かれていたはずである。
戦争の娯楽化に伴って進行したのが、亜人兵士の「キャラクター化」である。コストの題から、身体能力を大幅に強化することのできる兵士の割合は限られていたが、スタジオはその稀少性を活かし、外見のデザインにも投資した。こうした「特注」兵士はファンが付き、キャラクターと呼ばれるようになった。やがて、これらのキャラクター兵士を主人公とした「スピンオフ」が作られるようになった。
それ以前から、戦争のドキュメンタリーなどはドラマチックで映画じみたものとなっており、また人間の私利私欲が抑えられた「副作用」なのか、創造性が明らかに減退して従来のジャンルで新たな作品が生み出されなくなっていた。その空隙を埋めるように、戦争のスピンオフはアニメ、漫画、小説、ゲームなどさまざまなメディアで展開された。
おそらく当初はアマチュアによる同人的な活動であったと思われるが、やがてスタジオが「公式スピンオフ」としてその制作を担うようになった。もちろん、それら「公式作品」のファンによる「二次創作」も行われた。
戦争の勝敗を全成人による投票で決定する制度は、絶対平和が完成した2020年代~30年代には成立していたと思われる。次いで、キャラクターの人気投票が行われるようになるが、これは一部のマニアだけの特権だった。
キャラクター兵士は特注品として、大量生産のモブとは別に制作された。作成を担当するのは遺伝子設計者(ジーン・デザイナー)である。遺伝子設計者は、外見にしろ性格にしろ能力にしろ、形質を発現させる遺伝子を設計(デザイン)を行い、それは対象が人間や一般種(戦闘種以外の総称)亜人、動植物であっても変わらない。
ただしキャラクター兵士の場合は大雑把ではあるが架空の過去を設定するのもデザイナーの仕事で、また形質のデザインもより創造性が求められとして特別視された。「キャラクター」は特注の兵士限定の呼び名とされ、そのデザイナーは「キャラクター・デザイナー」と呼ばれた。
キャラクター兵士はたとえ戦死しても、票次第で何度でも復活できた。得票が再生コストに見合わなくなれば、廃棄されることになる。
しかしキャラクターと人気投票が定着するにつれ、スタジオの思惑どおりにはキャラクターの人気が出ないということも起きた。また一方で、無個性なはずのモブに個性が見出され、人気を獲得することもあった。
試行錯誤の結果、当初の「一個体一キャラクター制」は廃止された。兵士はすべて無名のモブとして大量生産される。総合的な能力は均等だが、外見等のデザインにはばらつきがある。そこに個性を見出すのは視聴者で、スタジオはその反応を見ながら、デザインの改造を繰り返し、キャラクターを「育成」していく。
この「一個体複数キャラクター制」が完成したのは、21世紀末のことである。この制度なら、ある兵士の一つのキャラクターが不人気でも別のキャラクターの人気で廃棄を免れうる。
また旧制度では自ずとキャラクター兵士同士の「絆」が形成され、それが戦死/廃棄により失われた時、残された兵士が精神に変調を来し、最悪の場合は廃棄せざるを得なくなるという事態がしばしば起こった。これはキャラクターの廃棄と並んで、亜人活動家の非難の的となった。
新制度の確立に伴い、「絆」の形成は極力回避されるようになった。これは「物語」の派生を犠牲とすることとなったが、少なくとも一個体が複数のキャラクターを有する新制度では、特定のキャラクター同士が何度も「戦友」となる事態は旧制度より回避しやすくなっていた。
建前上、戦争は「政治の延長」であり、「旧時代文化の保存活動」であったのに対し、闘技は純粋な娯楽だったが、実態は「キャラ化」や「スピンオフ」は先に戦争において発展し、闘技がそれに追随するかたちとなった。
時代が下るにつれ、無数に割拠していた小スタジオは統合されていき、最終的には(正確な時代は不明)わずか五つとなり、五大スタジオと呼ばれるようになった。パラマウント、ロウズ、フォックス、ワーナー、RKOである。これらの社名は黄金期の「五大スタジオ」に因むものだが、直接にも間接にも繋がりは皆無である。
この統合の過程で、闘技もスタジオの一部門として組み込まれた。
戦争を「旧時代文化の保存活動」とする建前上、軍隊という組織も保存の対象とされた。スタジオは、現に戦争を請け負っているだけでなく、前身の一部が民営軍事企業で、そのさらに前身が各国軍であることから、「軍隊組織の保存」も担うこととなった。
こうして各スタジオの社員は全員が将校または下士官となった。兵士は亜人であり、戦争やスピンオフにおける階級は、キャラクターと同じくあくまで架空のものである。
軍服(歴史上の軍隊の軍服をモデルにデザインした制服)の着用が義務付けられ、戦争に直接関わる部門は「前線」、スピンオフ政策に関わる部門は「後方」と呼び分けられ、スタジオのトップは「統合参謀本部」、世界各地の支部はその規模(動員兵士の数等)によって「師団」「連隊」「大隊」に区分された。
言うまでもなく、これらは「建前」に過ぎず、実態はほとんど「軍隊ごっこ」であった。だからこそ、いくら才能に期待されたとはいえ、軍曹(下士官の下から二番目)でアシスタント・デザイナーに過ぎないアキラが、半年で大尉にまで昇進するようなことが起こるのである。またアニメ脚本家のレイチェル呉が、アカデミーにノミネートされるほどの実力を持ちながら少尉のままでいるのも、本人が昇進を望まないからであろう。
なお、半ば独立した部門である闘技には、この「軍隊ごっこ」は適用されていないと思われる。
22世紀末から微生物の変異を原因とした災害が多発し、社会不安が広がり始める。災害一つ一つの程度は比較的軽微だったとはいえ、そのほとんどが長引いたため、人々は自分とは関わりのない時事には関心を持たなくなっていった。
その結果、戦争の投票率は低下し、危機感を抱いたスタジオは、視聴者の関心を呼び戻すため機関銃をはじめとする「大量破壊兵器」の使用と、兵士同士の「絆」形成に踏み切る。
よ りドラマチックになった亜人の苦しみは、一時は視聴者を惹き付けるが、その間にも災厄は徐々に深刻化する。人々の関心は「センセーショナルな見世物」としてより手軽に消費できる闘技に流れ、スタジオもまた近い将来、戦争は再び武力で勝敗を決するものとなると予測し、より強力な兵器の入手を模索する。
その一つが、「生体甲冑」である。
関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和 Ⅱ」 「絶対平和の社会」
「亜人」 「HISTORIAにおける歴史改変」 「JD(2190~)」
| 固定リンク