コンセプシオン、疫病の王、生体甲冑、そしてキルケー・ウイルス
全般にネタバレ注意。
「コンセプシオンconcepcion」はスペイン語で「妊娠」だが、カトリックの教義「無原罪懐胎(インマクラーダ・コンセプシオン inmaculada concepcion)」の略であり、聖母マリア自身を表し、「インマクラーダ(汚れない)」とともにスペインの一般的な女性名でもある。
HISTORIAシリーズでは、「コンセプシオン」は人工子宮内膜の基となった細胞を提供した女性の通称であり、後には人工子宮内膜、ひいては人工子宮そのものの通称にもなった。
人工子宮内膜の提供者が「コンセプシオン」でなければならなかった理由は、彼女が重度の免疫不全症だったからであった。そのため、「胎児」のゲノムがヒトでなくても、あるいは著しく改変されていても、拒絶反応を起こす危険がない。金属やシリコンなど、人工子宮本体の素材に対しても同様である。
免疫不全ではあるが、病原体をはじめとする異物の侵入を防ぐ非特異性防御機構は人一倍強力だった。それをくぐり抜けて侵入に成功したウイルスや微生物を排除することはできないが、その増殖を押さえ込む能力をも有する。したがって、人工子宮は感染患者の治療にも有効だった。へその緒を通して病原体の活動が無害なレベルに抑制されるからである。
「コンセプシオン」の特異性はそれだけではなかった。彼女の細胞は簡単な操作で初期化され、万能細胞に戻る。初期化を引き起こすタンパク質(初期化遺伝子が作り出すタンパク質)は通常の動物細胞にも初期化能を与えることが判明し、改変されたHISTORIAにおける1980年代後半の飛躍的な遺伝子工学の発展を導いた。
この発展によって20世紀末、人工子宮と奴隷種「亜人」が生み出された。その後200年続くことになる「絶対平和」を支えたのは亜人の奉仕であり、その亜人の大量生産を可能にしたのが人工子宮である。21世紀には、人間の妊娠・出産も人工子宮が主流となっていた。
「コンセプシオン」は、大いなる母となったのである。
しかしその重要性にもかかわらず、「コンセプシオン」本人についてはまったく知られておらず、また関心も持たれていなかった。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「はじまりと終わりの世界樹」では、「コンセプシオン」の生涯が語られる。そこでも彼女の本名は明らかにされないが、以下、便宜上「コンセプシオン」と呼ぶ。
「はじまりと終わりの世界樹」で明らかになったのは、コンセプシオンの精神の特異性である。彼女は「己」というものを持たないかのように、他人の思考や感情に簡単に染まってしまう。しかも、相手が俗悪であるほど強く影響を受ける。
1985年に生まれて13歳で死去した彼女は、容貌が美しいだけでなく立ち居振る舞いも非常に魅力的な少女だった。その中身は薄っぺらで俗悪だったが、だからこそ多くの人にとって魅力的だった。他人の思考や感情を写し取るだけの空っぽの精神の持ち主だったからこそ、相手の理想を写し取って魅力的な少女として振る舞うことができたのかもしれない。
その一方で、彼女の周囲では、人々が己の負の感情を増幅させ、互いに憎み合い、争うようになるという事態が頻発した。またそうした人々の間では、悪性の感染症がしばしば広まった。
彼女の全身には、無数のウイルスや微生物が巣食っていた。それらは彼女に一切害を与えず、あたかも共生しているかのようだった。他人への感染能も失っていた……通常は。
「組織」(後に「遺伝子管理局」と呼ばれる)のエージェントで、「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」ではオブザーバーまたはエイプリルと名乗っていた人物は、コンセプシオンが物理的にだけでなく精神的にも「非自己」に簡単に「感染」してしまうのだと推測した。それだけでなく、相手の負の感情を増幅させる装置としての役割を無意識に果たしているのだと。コンセプシオンに救う病原体が感染能を回復するのは、彼女の精神が周囲の負の感情に反応し、免疫機構にも作用するのではないか、と(実際に、ヒトの免疫機構の働きは精神状態に作用される)。
またコンセプシオンの双子の弟(語り手)は、「アブグレイブ」の悪夢の中で聞いた幻とも現実ともつかない彼女の発言から、彼女は苦しみの贖いを求める死者たちの思念に囚われているのではないかと想像する。
これらは現在のところ、まったくの推測/想像に過ぎない。コンセプシオンの死から四百数十年後、『ミカイールの階梯』に登場するカザークの首領ゼキは、あらゆる病原体に感染し、それを周囲に撒き散らして悪疫を発生させながら、自身はまったく発症せずいる。
ゼキの免疫機構に異常はなく、また彼の細胞内に巣食う病原体は常に感染能を有しており、意識的にせよ無意識的にせよ彼には制御できないのだが、コンセプシオンとの類似は明らかである。そして彼の血を摂取した者は、彼ほどではないものの感染しても発症しにくい体質を獲得する。
このためゼキは疫病(えやみ)を操る力を持つ王、「疫病の王」と呼ばれるようになる。
ミルザ・ミカイリーは、ゼキの細胞から未知の共生微生物を発見した。同じ能力を持つゼキの弟からもこの微生物は見つかった。兄弟の血(ごく少量で充分)を摂取した者には、他の病原菌とともにこの共生微生物が感染する。共生微生物は速やかに宿主の全身に広がるが、やがて死滅してしまう。その際、放出された遺伝子の一部が宿主の核内に取り込まれ、そのゲノムの一部となる。
途中で研究が続行不能となったため、この共生微生物の働きを解明することはできなかったが、ミルザはこれこそが寄生生物(病原体)と宿主細胞を協調させ、発症を抑え込む力を持つのではないかと推測する。
またミルザは、この共生微生物をコンセプシオンも有していたことを示す資料を発見した。ただし彼女の共生微生物は感染能を持っていなかった。共生微生物というよりむしろ、細胞小器官と呼ぶべきかもしれない。
この未知の共生微生物/細胞小器官はゼキ兄弟の精子にも含まれているが、父性遺伝はしない(するとしても非常に確率が低い)ことが判明した。この共生微生物が母親由来であることはゼキたちの証言からも明らかだったが、彼らとコンセプシオンに遺伝上の繋がりはない。
「コンセプシオン(無原罪懐胎)」と「疫病の王」の共通点は、これだけではない。神秘主義教団ホマーユニーの教主ユスフ・マナシーは、ゼキの精神が「虚」であると看破した。他者の精神を鏡のように映し、またレンズのように収束し増幅させるが、自身の中身は虚であると。
ただしコンセプシオンが映し出し、収束・増幅させるのは、他者の憎悪をはじめとする負の感情だったが、ゼキの場合は欲望である。大災厄が終息し、人類が復興へと向かい始めたそのエネルギーを増幅し、方向性を与える。コンセプシオンは破壊しかもたらさなかったが、ゼキがもたらすのはおそらく破壊と創造の両方である(最終的に何をもたらしたのかまでは語られない)。
また彼は、自身の欲望が他者の欲望を映したものに過ぎないことを自覚している。コンセプシオンと同じく自身の印象を都合のいいように操ることができるが、コンセプシオンと違って自覚的である。
『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』のエピローグ「…’STORY’ Never Ends!」では、疑似ウイルス型兵器「生体甲冑」がコンセプシオンの「核外遺伝子」に由来することが明かされる。
生体甲冑の疑似ウイルスは、宿主(着用者)の細胞内に侵入すると、宿主細胞に自身のコピーを作らせるのではなく、自身を並べ替えて宿主細胞のコピーを作る。そして宿主細胞と置き換わる。置き換わったコピーは宿主細胞の潜在能力を解放するが、それにより宿主はヒトならざるものと化してしまう。
「絶対平和」を崩壊させる「大災厄」の直接の原因は、「キルケー・ウイルス」である。これは宿主の遺伝子を取り込んで次々と変異していくウイルスで、種の壁も容易に越えて感染していき、その過程で宿主の遺伝子を攪拌する。
コンセプシオンが「母」であり、「母」は二面性を持つこと、コンセプシオンが慈愛に満ちた母であったのに対し、無慈悲で貪欲な魔女キルケーは母のもう一つの面を表すことは、『ラ・イストリア』で語られている。
『ミカイールの階梯』でも、コンセプシオンの異称であるシャフラザード(シェヘラザード)は聡明で貞淑な王妃だが、邪悪で淫蕩なもう一人の王妃と対の存在であることが示される。シェヘラザードは暴虐な王を慰撫し、改心させたが、そもそも王が非道を行った元凶は、先妻の裏切りである。
「人類の母」エバは本来、蛇体の地母神だった。その力を恐れたユダヤの祭司たちはエバと蛇を分離し、両者を罪に落として力を奪った。聖母マリアは「母」の復権ではあるものの、「慈愛に満ち、清らかで若く美しい母」であり、淫蕩で貪欲で制御不能の絶大な力を持つ恐ろしい母の要素は見事に剥ぎ取られている。
「遺伝子管理局」はコンセプシオンの負の側面を封じ、その力を支配して「慈愛に満ち、清らかで若く美しい母」に仕立て上げ、絶対平和を築いた。
HISTORIAシリーズに「裏設定」は存在しない。つまり、作中で明言されているか容易に推察されること以外の設定は存在しない。コンセプシオンとキルケー・ウイルスが表裏一体であることは幾度も言明されてきたし、「はじまりと終わりの世界樹」と「…’STORY’ Never Ends!」では、コンセプシオンの封じられた負の面が「目覚め」ることにより引き起こされる災厄が予言される。
それらはしかし、キルケー・ウイルスがコンセプシオンに由来するという推測を導き出すには、まだ不充分である。
関連記事: 「コンセプシオン」 「生態甲冑 Ⅲ」 「キルケー・ウイルス」
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