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絶対平和の社会

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「The Show Must Go On!」「The Show Must Go On, and...」および「...'STORY' Never Ends!」では、未曾有の平和と繁栄の時代「絶対平和」が描かれる。

 絶対平和においては、「自然のまま」の姿で、「自然に近い」「伝統的な」生活をすることが理想とされた。ただしこの場合の「自然」も「伝統」も虚構のものである。

 まず、各文化圏ごとに「理想化された伝統的な生活」が設定された。以下は作中設定ではなく現実の話だが、「伝統」なるものはおしなべて、すべからく捏造されたものである。捏造という言い方に語弊があるのなら、「創出」と言い換えてもよい。
 何世代にもわたって連綿と続いてきた伝統などというものは存在しない。無論、個人や家庭、共同体などが有する「慣習」ならば実際に存在するものである。慣習を形成するのは物質的な制約と、ヒトの保守性すなわち「慣れ親しんだもの・やり方」を好む習性である。個人や集団を取り巻く環境が変化して慣習を維持することが不可能になることもあれば、そのような外的要因がなくても個人または集団が自主的に慣習を変えることもある。
 ヒトの脳は、新しいことを憶えたり考え出したりするのを厭う(余計なエネルギーを使うから)保守的な傾向と、新奇性や利便性を求める傾向とを併せ持つ。後者が前者を凌駕することが、慣習を変える要因となるのである。
 
 外的要因や内的要因によって慣習が変化を迫られた時、集団内の少なからぬ者が慣習の維持に固執する。そうさせるのはヒト本来の保守性だけでなく、アイデンティティと既得権に対する危機、あるいは危機感である。そもそもあったかどうかも怪しい既得権が主張されることもままある。そのようにして単なる慣習が固守すべき「伝統」と規定された時点で、すでにそれは「つくられたもの」と化すのである。
 神事をはじめとする儀礼にしても、たとえ起源はどれだけ古かろうと、近代以降に改めて意義を与えられ体系化された、「つくりなおされた」ものがほとんどであろう。
 
 科学(特に進化論)とイデオロギー(信仰を含む)との対立は、多くの社会に見られる。『天皇制と進化論』(右田祐規、青土社)によれば、日本でも戦前のある時期から戦中には皇国史観に反するとして進化論への批判が高まった。しかしそれより前の時代には、多少の緊張をはらみながらも進化論と皇国史観は何十年も共存してきたし、進化論批判派の勢力が最も大きくなった1930年代末以降ですら、進化論教育に混乱がもたらされた程度であった。
 これは本音(富国強兵の一環としての科学教育)と建前(皇国史観)の使い分けが巧く機能した結果であろう。このことの是非はここでは論じないが、本音と建前の使い分けそのものに関して言えば、「できるけどしない」という選択ではなく、「最初からできない」のは未成熟の現れであり、「できていたのができなくなる」のはある種の末期状態を示しているのではないかと思う。

 設定解説に戻る。亜人の存在によって賢く穏やかになった人類は、科学と信仰との折り合いをつけるためにこの「本音と建前」を採用した。
「本音と建前」は間もなく、あらゆる分野に積極的に適用されるようになった。「伝統」もその一つであり、伝統なるものは近代以降に創出されたものだと承知したうえで、それらにさらに手を加え、人も環境も傷つけないものに改変された。
 このような創られた「伝統」的な村(移動生活民であれば、バンド)での生活が、「人間の在るべき姿」とされた。実際にエネルギー消費量は低いが、それは亜人の労働によって支えられたものである。
 
 子供はすべて、こうした村またはバンドで生まれ育つ。この時代、子供を作ることは男女の「協同事業」であり、厳密な契約の下に行われる。婚姻の形態は一律に一夫一妻(現実に一夫多妻や一妻多夫の伝統がある社会でも、比率としては一夫一妻が多い)。ただしこれは村/バンドにおいてであり、町や都市ではさまざまな婚姻形態があるはずである。
 老化防止や若返りの技術が発達しているため、晩婚が普通である。二十代では人格的に未熟だとして、結婚はまだしも子育ては望ましいとされないだろう。未成年者は絶対的に保護されるべき存在なので、成人と未成年者の結婚は許されない。未成年同士なら18歳くらいから可能かも。どのみち、子供は持てない。
 
 子供はほとんどが人工子宮による出産で、3~5人。兄弟姉妹が多いのが理想とされるからである。しかし兄弟姉妹の中で子供を持つのは、せいぜい1人か2人である。絶対平和成立から5世代を経た22世紀末の時点で、人口はかなり減少している。
 末子が18歳(遅くても20歳)になるまでが子育て期間であり、それが終われば夫婦の契約もとりあえず終わる。そのまま村/バンドで共同生活を続けることもあれば、離婚してそれぞれの生活を始めることもある。子育てには祖父母の同居が望ましいとされるので、孫が生まれれば再び「契約」の上で同居することになる(相手方の両親が同居するのでない場合)。
 
 村/バンドでは、成人住民のほとんどは「伝統的な」農業、漁業、遊牧、狩猟採集に従事するが、それらの主目的は「文化の保存」であり、重労働は亜人が担う。食料や生活必需品の類は原則として自給自足だが、環境への負担は抑制される。
 わずかな余剰生産物は販売され、不足分を他地域から購入する費用とされる。それらの購入品もまた、「伝統的」手段で生産されたものである。それでもなお不足する物品は、工場生産品が無料支給されることになる。
 
 上記以外の「伝統産業」(工芸など)も営まれているが、自給自足が原則なので、専業化しているかは不明。「伝統芸能」の継承も必須であり、指導者は当然いるはずだが、これも専業化は不明。
 村には「伝統文化の保存」以外の職業として、役場の職員、医師、商店員、小学校教師などがいる。移動民のバンドにも、子供たちの教師はいる。
 いずれにせよ、村の成人は全員なんらかの職に就いている。
 
 村(またはバンド)以外の生活環境は、人口や工業化のレベルによって「町」と「都市」に大別される。町と都市も旧時代すなわち21世紀初頭以前の各時代の景観や生活を保存あるいは復元されている。場合によっては前近代の街並みと暮らしが再現されていることもあるが、その場合はもちろん亜人の労力が多大に投入されている。
 20世紀末~21世紀初頭の景観が保存・復元されているのは、都市の「新市街」に限られている。
 ほかは自然環境の保護監察官や研究者、考古学者等が例外的に人里離れた場所に住む。これらの職種を除き、村/バンド、町、都市以外での居住は禁止されている。またこの時代、遠洋漁業はおそらく行われていない。
 
 町と都市の住民が口にできる食料は、原則として工場生産品のみである。動物性食料は人工子宮で培養される。植物性食料は水耕栽培、または微生物の生産物の加工品。もっとも、「伝統文化」が重んじられている以上、調理まで工場で行われることは少ないと思われる。
「本物」の食べ物は町や都市では非常に高価で入手困難。村/バンドに「体験学習」(という名目の観光)に行くという手もあるが、いずれにせよクレジット(この時代の金銭)が必要。

 町と都市では職業の種類は大幅に増えるが、「伝統文化の保存」か「社会の安定維持」のどちらか(あるいは両方)に関わる職業しか存在しないのは村と同じ。たとえばスポーツ選手も、行うのは「競技」ではなく「伝統文化の保存」なのである。したがって、もし絶対平和成立以降(21世紀初等以降)に新しいスポーツが生まれていたとしても、それを行う者はアマチュアしかいないということになる。
 いずれにせよ、いかなる職業も、経費を除いた純利益はプラスアルファ程度。
 
 町と都市では、職に就かず、支給されるクレジットだけで生活することが可能。職に就かずにクレジットを稼ぐ手段は、おそらく戦争と闘技のスピンオフ作品(アニメ、漫画、小説、ゲームなど)の二次創作を行い、販売することのみ。その価格も経費+αで、公共か有志か知らないが、監視機構があるんだろう。

関連記事: 「絶対平和 Ⅰ」 「絶対平和 Ⅱ」 「連作〈The Show Must Go ON〉」 

       「The Show Must Go On!」(同題連作中の中篇)

       「絶対平和の戦争」 「亜人」 

       「等級制‐‐概念」 

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