コンセプシオン
09年9月3日の記事に加筆修正。
基本設定の一つ。人工子宮を指す。
スペイン語「コンセプシオン concepción」はそのままだと「妊娠」だが、「無原罪懐胎(インマクラーダ・コンセプシオン inmaculada concepción」の略でもある。
無原罪懐胎とはカトリックの教義で、聖母マリアはその母アンナの胎内に宿った時点からすでに原罪を免れていたのだとする。「処女懐胎」とは別物。inmaculada は、「穢れのない、汚染されていない」という意。
カトリック以外のキリスト教諸派では、この教義は認められていない。カトリック圏でも、概念として広まり始めたのが15世紀以降、教義として正式に認められたのが1854年である。因みに『ラ・イストリア』執筆の際、ヒスパニック系でカトリックの米国人男性に「カトリック教徒でも無原罪懐胎と処女懐胎を混同することはあるのか」と尋ねたところ、「ある」という返答を得ている。
シリーズに於いて、人工子宮は重要なガジェットである。20世紀末には実用化され、労働力となる奴隷種を大量に生産したばかりでなく、医療や食肉生産にも用いられた。本体と内膜組織から成る。二世紀余りを通じて本体はしばしば改良され、さまざまな型が造られたが、内膜組織はただ一種しか存在しなかった。
内膜組織は生体素材であり、受精卵や初期化された体細胞などは、これに附着して胎盤を形成する。内膜はすべて「株分け」で殖やされていた。幹細胞の状態で培養されている親株から一部を取って分化させ、人工子宮内壁の表面で増殖させる。
すべての内膜組織のオリジナルとなるのは、とある一人の女性の体細胞だった。
この女性は、重度の先天性免疫不全だった。免疫系がまったく機能せず、自己と非自己の区別もつかないが、細胞の非特異的防御機構は極めて優れており、毒素に対する耐性やDNA修復能力も高かった。
こうした特質により、人工子宮の素材にアレルギーを起こさず、何より胎児を異物と認識することがないため、内膜組織の素材として選ばれたのである。人間だけでなく、異種生物に対しても拒絶反応を起こさない。また病気治療のための使用でも、患者の病原体に感染する危険が非常に低い(この場合、内膜は一度の治療ごとの使い捨てになる)。
彼女自身について、判っていることはほとんどない。本名どころか経歴も一切不明である。一枚だけ肖像写真が公開されているが、果たして本人のものなのかも明らかでない。
その写真というのが、「齢の頃14、5歳の少女が、やや仰向いて立ち、降り注ぐ光を全身に浴びている。背景は霞んで判然としない。微風にたなびく長い髪は金色、頭上へと向けた瞳は青かった。薔薇色の頬をした、愛らしく美しい乙女。簡素な白いドレスに身を包み、左腕に足許まで届く大きな青いショールを掛け、右手を軽く添えている。」(『ラ・イストリア』より)
要するに、これそっくりの構図なのである。
バルトロメオ・ムリーリョ(1617-1682)の「無原罪懐胎(エル・エスコリアルの)」。
遺伝子管理局治下の文化は、一言で言って「俗悪な衒学趣味」だった。内膜組織のオリジナルとされる女性の肖像写真一つを制作するのにも、恥ずかしいほど有名な宗教画を露骨にぱくった上に、わざわざモデルを金髪碧眼に変えている。
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この肖像写真から、主にラテンアメリカで彼女は「コンセプシオン」と呼ばれるようになった。当初は彼女自身のみを指していたのだが、やがて内膜組織や人工子宮をも指すようになる。「コンセプシオン」はスペイン語圏では一般的な女性名であり、愛称は「コンチャ Concha」「コンチータ Conchita」など。なお、22世紀末~23世紀初頭には一部のマニアックな人々の間で「シオンたん」なる呼称が存在していたことが確認されているが(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の「The how Must Go On, and…」)、これがどの範囲でどの程度定着していたかは不明である。
無論、非カトリック圏外では、彼女には別の名が与えられていた。『ミカイールの階梯』で明らかになったところによると、スラヴ圏、特にロシアでは「マトリョーシカ Матрёшка」。
あの入れ子人形の名称だが、もともとはマトリョーナ Матрёнa(もしくはマトローナ Матрона)の愛称で、さらに語源を辿れば「matrix 子宮」である。
ロシアの伝統工芸の代名詞ともいえるマトリョーシカだが、実は大して伝統があるわけではないという説が有力だ。それを承知の上で、ロシア人たちは「マトリョーシカ」の名を選んだ。絶対平和の文化は、そのようなものだった。
イスラム圏に於いては、さらに露悪的だった。無原罪懐胎の概念こそないが、マリア(ミリアム ペルシア語ではマルヤム Maryam)の処女懐胎はクルアーンに記されている(イーサーすなわちイエスは偉大な預言者ではあるが神の子ではないので、本当に父親不明ということになるが)。しかし彼らが選んだ名は「シャフラザード Shahrazad」だった。
『千夜一夜』の語り部である。なお、シェヘラザード(シェエラザード)という発音はアラビア風。この名はペルシア語起源で「町 shahr シャフル」+「自由 azad アーザード」で「町の自由 シャフラーザード」だとされる(意味については異説もある)。現代ペルシア語の発音では「シャフルザード Shahrzad」となるようだが、作中では本来の発音に近く、かつ日本人に馴染みのある「シェヘラザード」に近い「シャフラザード」の表記にした。
欧米に於ける『アラビアン・ナイト』のイメージは荒唐無稽で猥雑な中東、というものであり、オリエンタリズムの極みである。その象徴ともいえるハレム(ペルシア語ではハラム)の女シャフラザードの名を選んだ者たちは、さらに彼女の「肖像画」をも制作した。提供者の公式「肖像写真」と同じ顔の金髪碧眼白皙の美少女が、東洋風の調度の中でしどけなく横たわる、というものだった。
近代オリエンタリズムのイコンともいえる「横たわるオダリスク」が白人(それも東欧ではなく西欧)の少女、という二重に屈折したオリエンタリズム:中東幻想/妄想である。さらに制作者「オリエント」人であることも加えれば、三重の屈折となる。
こうした悪意ある趣向とはまた別に、『千夜一夜』の荒唐無稽さを逆手に取ったかたちで、シャフラザードの名は選ばれている。千と一夜、語り続ける間に、彼女は王に気づかれることなく三人もの子を産むのである。敢えて物語上の破綻ではなく超自然的出産と解釈することは可能であり、また無限に物語を生み出し続けるという意味でも、彼女は超自然的母胎(matrix)だといえる。
大災厄の訪れとともに絶対平和は崩壊するが、直接の原因は動植物の疫病による混乱ではなく、亜人の大量生産の停止である。変異して毒性の強くなった諸々の病原体は、コンセプシオンの防御機構をも打ち破ったのである。
「妊娠」中のコンセプシオンが病原体に感染した場合、どのような事態になるかは『ラ・イストリア』で描写されている。
『ラ・イストリア』では「培養組織か合成蛋白の牛肉」に言及される。疫病で家畜が激減し、人工子宮による食肉生産も不可能になったため、こうした人造肉が生産されるようになった。人工子宮によらない組織培養は、筋繊維その他の組織の分化が不完全であり、たぶんかなり不味い。合成蛋白も美味しくないと思う。それでも2256年の時点では、これら人造肉でさえ貴重なものになっていたのである。
『ミカイールの階梯』では、ウイルス禍による草食禽獣の減少から、この人造肉の技術を保持することが覇権の保持の必須条件となる。
関連記事; 「遺伝子管理局」 「亜人」 「絶対平和」 「大災厄」
以下、ネタばれ注意。
連作〈The Show Must Go On〉(単行本タイトル『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)中の「はじまりと終わりの世界樹」は、「人工子宮内膜の細胞提供者」の生涯が語られている。ただし、ここでも彼女の本名は不明なままである。
同連作の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」に登場する亜人はプロトタイプであり、知能などは低いが頑強な単純労働向けだったが、その約10年後の「はじまりと終わりの世界樹」ではすでに、労役のタイプに応じてさまざまな種が造られるようになっている。 いずれも思考や感情は抑制されているものの、あまりにストレスが大きければ性能が低下してしまう。防止策として、「過酷な労役」に就いたと見做された亜人種は、就役時の記憶をそのたびごとに消されることとなった。
しかし記憶というものは脳のあちこちに断片化して保存されるのであり、それらをすべて消去するのは不可能である。実際に行われる措置は、「記憶の固定化(=長期記憶化)と「記憶の断片の再構成(=想起)」の阻害であり、何かの拍子に思い出してしまう可能性は皆無ではなかった。 特にその可能性が高いのはレム睡眠中だった。夢は、記憶を整理する働きがあるからだ。その予防処置として与えられていたのが、「母の夢」(ソムニウム・マトリス somnium matris:ラテン語。『グアルディア』においては「マドレ(madre:スペイン語で「母」)の夢」と呼ばれている)である。それは何か「柔らかくて温かいものに包まれている」という漠然としたイメージであり、映像や音は付与されていなかった。しかし個体によっては、MADREを金髪碧眼の美しい女性として夢見ることがあった。そのような条件付けは為されていないにもかかわらず、である。
金髪碧眼の美しい女性、というその姿は、どうやらコンセプシオンの肖像写真のイメージが重ねられているらしい。すべての亜人には、「産みの母」であるコンセプシオンの情報(無論、一般公開されている範囲)が植え付けられている。 JDはMADREの夢に映像を伴わないが、「金髪碧眼の美しい少女」であるカルラに一目で恋に落ちたのは、やはり無意識にコンセプシオンのイメージを重ねたためだと思われる。
『ラ・イストリア』の表紙、生体端末ブランカの衣装は上のムリーリョの「無原罪懐胎」を参照に描いていただいた。「無原罪懐胎」と「処女生殖」の意図的な混同であり、彼女、ひいてはアンヘルへと至るすべての生体端末の運命を暗示している。
『ミカイールの階梯』に登場するミカイリー一族が保持してきた旧時代の知識の中には、当然ながら人工子宮に関する資料もあったが、それらは21、22世紀中、一般に知られていたもの(一般公開されいたデータ、およびコンセプシオン、シャフラザードといった「通称」など)に限られていた。
ミルザ・ミカイリーは、それらの資料の中から、多数の病原体のリストを発見した。そのリストがなんなのか、解き明かす手掛かりは存在しない。このリスト、および21、22世紀中には知られていなかった(と思われる)「コンセプシオン/シャフラザード」の「能力」と「疫病(えやみ)の王」と呼ばれるゼキとの関係は、すべてミルザの仮説(レズヴァーンに言わせれば憶測)である。 この時点では、これ以上の情報が出てこないので、「仮説」を証明することはできない。しかし「事実ではない」とは限らない。
さらに連作〈The Show Must Go On〉のエピローグでは、疑似ウイルス型兵器「生体甲冑」が「コンセプシオンの核外遺伝子」に由来することが明らかにされる。この「核外遺伝子」が、細胞質に微量に含まれるコンセプシオン自身の遺伝子なのか、彼女に感染または「共生」していた微生物の遺伝子なのか、今のところ不明である。
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