GODZILA
『ゴジラ』の原体験と呼べるものは、映画のどれかではなく、80年代のいつか(84年の映画公開時だったかもしれない)に放映された特集番組だった。
『ゴジラ』の原点は、人間による環境破壊に警鐘を鳴らした硬派な社会派ドラマである、という切り口の特集で(したがって『ゴジラ』と銘打ってはいても、子供向け要素や娯楽色の強い作品は邪道であると断じていた)、白黒のため何やらとても恐ろしげに見える初代ゴジラの映像とともに、ゴジラとはそういうものである、という刷り込みが子供心にくっきりと為されたのであった。
その後、90年代にゴジラは何本か付き合いで観たんだが、付き合いで観たという以上のものではなく、あの特集番組のインパクトには遥かに及ばない。
そんなわけで、今回の『ゴジラ』は造形や動きといい、その見せ方といい、環境破壊問題と絡めた脚本といい、おお、これこそまさにゴジラだ。つまり、結局現在に至るまで観ていない第一作を含めた実在の『ゴジラ』作品ではなく、例の特番によって形成されたゴジラのイメージである。ザバザバと海へ入っていく後ろ姿なんか、もうそのまんまだ。
エメリッヒ版の『GODZILA』は(予告を観る限りでは)やたらと動きが速いが、『ジュラシックパーク』のティラノサウルスも高速だし、『トランスフォーマー』に至っては目が付いていけないほどだから、アメリカ人は「強い=速い」と思っているのかもしれない(そして当然、アメリカ人だから「強い=大きい」)。
確かに実際には、同じサイズとパワーだったら遅いより速いほうが脅威だが、映像としては、小さなものはともかく巨大なものは動きが遅いほうが力強く威圧的に見える。そして『ゴジラ』は映画である。
本作のゴジラは動きが緩慢なだけではなく、なかなかその全貌を顕わにしない。前半は背びれや尻尾だけしか画面に映らない。ようやく観客の前に姿を現すと、今度はカメラは舐めるように下や横から頭部へとゆっくりと移動する。煙と粉塵が立ち込める中、斜め後ろ姿の構図など、ゴヤの(作とされていた)「巨人」のようだ。
ゴジラと対峙する怪獣MUTOも、登場の仕方はものすごく勿体を付けているし、オスのMUTOがメスのMUTOに口移しで核ミサイルを与える場面は動物の求愛行動のようで、この監督、ほんとに怪獣が好きなんだなあ。
以下、ネタバレ注意。
害獣は滅び、家族は再会し、ゴジラは海へ去っていくハッピーエンドだが、で、放射能汚染は?
せっかくゴジラが悪い怪獣をやっつけてくれたのに、人間は余計なことをして太平洋を死の海にしてしまいました、というオチではまったくないのは明らかである。サンフランシスコの数キロ沖でメガトン級の核が爆発したら、怪獣たちによる破壊(ゴジラが吐いた放射能も含めて)どころじゃない被害だ。ハリウッドでは放射能汚染に無頓着じゃなきゃいけないという規則でもあるのかね。
話の展開からしても、核を爆発させる必然性もまったくないしな。主人公が爆発を阻止できなかった理由が、ケースの蓋が開かなかっただけ、というのもなんかしょぼいし。いくらマッチョになっても、『キックアス』だから仕方ないのか。
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