« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

小説家への迷い道②

 1998年、大学院を卒業した私は、在学中から始めていた書店アルバイトをフルタイムで続けられたため、しばらくは世間の荒波に身をさらさずに済んだのであった。

 その店でまず驚かされたのは、小説が売れないということだった。そこそこ大きな店で、お客も入った。だが彼らが買う本のほとんどは小説ではなかったのである。
 もう十数年前のことであり、現状はさらに悪化しているだろう。小説家志望の人は、一度書店で働いてこのことを実感してみるべきだと思う。それで諦められるのであれば、そのほうがいいだろう。それでもなお夢を持ち続けるとして、売れなくてもいいから小説家になるのだと覚悟するか、自分はほかの誰よりも売れる小説家になるのだと決意するかは、まあ人それぞれだ。

 小説を読まないのはお客に限ったことではなく、その店の従業員は全員、小説を含めて本を読まない人ばかりだった。学部時代後半から院生時代にかけて、私が読む本のほとんどは自分の専攻(東洋史)関係になっていたのだが、それらを別にしても、私が店で一番の読書家という有様だった。
 そのうえ皆、本のタイトルや作者名も全然憶えない。私は記憶力はそういいほうでもないのだが、小説に限らず本のタイトルや作者名、紹介文の内容等は比較的よく憶えられる。店内の本の場所についても彼らに比べれば物覚えがよく、お客のために本を探すのは私の役目になった。
 小説が売れないと言っても、毎日売れる本の数はそれなりであったから、小説も日に何冊かは売れる。必然的に私も小説本に接触する機会が増え、そのうち自分でも読むようになった。従業員は一割引で本が買えたのである。

 かようになかなか快適な職場ではあったが、実はそこには女王様が君臨していた。20代後半の正社員で担当は経理である。もう一人の正社員である店長(定年間近の男性)からパートの中高年女性二名、何人もいる男子バイトの誰一人として彼女に逆らえなかった。
 で、その女王様が、ただ一人の女子バイトである私に、当初からチクチクと嫌味を言うのである。
 私の前の女子バイトは、この嫌味攻撃に耐え切れずに辞めてしまったのだそうである。私と一緒に売り場を担当するパートの女性も、時々女王様の意地悪なお言葉に泣かされていた。経理を補佐するもう一人のパート女性はひたすら迎合して難を避けていたし、店長は女王様が勤務中にお喋りをしたり雑誌を読んでいても何も言えず、男子バイトたちは下僕であった。

 しかし嫌味と言っても、内容も表現のヴァリエーションも乏しいし、彼女と顔を合わせるのは日に数回だけだし、ほかに何をされるわけでもないので私は気に止めていなかった。
 それに、彼女は結構な美人だったのである。私は美人が好きである。別に仲良くなりたいとかそういうんではなく、純粋に鑑賞対象としてなので、その人の性格が良かろうが悪かろうが、私に悪意を持っていようがいまいが、どうでもいい。

 ところで、美女が他人をいじめたり罵ったり、陰口を叩いたりというような行為をすると、「彼女の美しい顔は醜く歪んだ」というような表現に時々出くわすが、そういうことを言う人は観察力が足らんよ。それか、本当に性格の悪い美人というものに会ったことがないんだ。
 悪意に満ちた行為を心底楽しんでいる美女は、醜くなったりなんかしない。ますます美しくなるのである。瞳は潤んできらきらと輝き、頬は上気し、唇は赤みを増す。それはもう美しいのだ。怖い怖い。

 そういうわけで、先に耐え切れなくなったのは私ではなく女王様だった。採用から一年数ヵ月経ったある日、唐突に、まったく唐突に私は「辞めろ」という御命令を賜ることとなった。前兆の類(嫌味がきつくなるとか)は一切なかった。で、理由というのが、「あんたがいると不快になるから」。さすが女王様である。
 いくら実際には女王様にはなんの権限もないとは言え、そしていくら私の神経が太いとは言え、さすがに面と向かってそこまで言われては辞めざるを得なかった。

 かくして、私の安穏とした日々はついに終わりを迎えたのであった。

 続く。

 迷い道①へ

|

小説家への迷い道

 デビュー作『グアルディア』の刊行は、2004年8月25日である。そう、つまり仁木稔は今年でデビュー十周年なのであった。
 この十年はいろいろあった……と言いたいところだが、実情は書いては直し、書いては直し、挙句の果てには出来上がったものが没になる、という期間がかなりの部分を占めるため、大して語るべきことはない。どうもすみません。

 だいたい、物心付いて以来「お話を書く人」になりたかったのだから、小説家志望でいた時期は小説家になってからよりも遥かに長いのである。
 と言っても、自分が書きたい「お話」がどんなものなのかを見出したのは、12歳の春に大原まり子(直接お会いしたことがないので、敬称略とさせていただきます)の『一人で歩いていった猫』と出会ってからである。

  何を書きたいのか見出すだけにそこまで時間が掛かったのは、「マニュアル」を鵜呑みにしていたせいである。70年代後半~80年代前半には子供版「物語の体操」などなかったが、当時山ほど読んでいた海外児童文学の巻末解説には必ずと言っていいほど、作者は子供の頃に「自分を主人公にしたお話」を書いていた、とあったのである。
 だから私も「お話を書く人」を目指すなら、まずは「自分を主人公にしたお話」を書かなければいけない、と思い込んでしまったのである。

 そうして小学校時代は、「自分を主人公にしたお話」をあれこれ考えてみたのだが、これがまた全然楽しくないのである。日常的な話だろうと、非日常的な話だろうと、『はてしない物語』のバスティアン並みに「自分」のスペックを高くしてみようと、ぜんっぜん楽しくない。
『一人で歩いていった猫』でやっと気がついたのは、私が「書きたいもの」はSFだった、ということのみならず、「私が出てこない話」であった、ということであった。
 私は私が出てくる話なんか、読みたくもないし書きたくもない。そのことに、ようやく気がついたのである。

 というわけで、「私」の枷から解き放たれた私は、いろいろアイデアを思いついたりプロットを練ったりするところまではできるようになった。が、それをいざ書き始めてみると、たちまち空中分解してしまうのであった。
 私にとって、小説を書くという作業は、「念動力」で建物を建てるようなものだ。土台は、それまでに身につけてきた知識と経験のすべてである。建材となるのは細部のアイデアとそれを補強する知識。その建材を使って、屋根から下に向かって造っていくのである。
 しかるべきサイズと形の建材を組み立てる設計力(構成力)も重要だが、「空中楼閣」を上から下へ向かって築いていき、最後にきちんと土台の上に建たせるのは、ひたすら力業あるのみ、である。設計を間違えるのはもちろん、「念動力」が足りなければ、空中分解してしまう。
 
 当時の私には知識も経験も構成力も、何より「空中楼閣」を築き上げて(築き下ろして?)土台に載せるまでの「念動力」も、決定的に欠けていた。ネタを考える能力までは欠けていなかった、少なくとも皆無だったわけではない、と思う。
 とにかく文字にするとつまらなく思えてしまうので、そのうちネタを書き留めることすらしなくなった。だから、ほとんど忘れてしまったわけだが、幾つかは断片的に憶えている。それらのさらに幾つかは、デビュー以後の作品に使われている。特に「はじまりと終わりの世界樹」の核になる双子の姉弟と彼らの「娘」の物語は、高校時代のプロットほとんどそのままである。

 しかし恐ろしいのは、当時の私が、「いつか小説を書けるようになる」となんの根拠もなく信じ切っていたことだ。書けるようになるための努力など高校一年の時点で放棄していたし、どうすれば書けるようになるかを考えることすらしなかった。絵に描いたような駄目小説家志望である。
 ただし、かろうじて羞恥心はあったため、小説を書く努力をやめた時点で、小説家志望であることを公言するのもやめた。小説家志望のくせに小説を書けないのが恥ずかしくて、文学部(母校の文芸部は、なぜかそう呼ばれていた)にも入らなかった。いや、文学部の部室まで行くことは行ったのだが、応対してくれた先輩が何かものすごく不機嫌だったので、びびってしまったのである。
 実は、その文学部の二年先輩に、『みずは無間』の六冬和生氏がおられたのだが(応対してくれた怖い先輩ではない)、こうして行き会うことなく終わったのであった。

 代わりに入ったのが漫研である。とにかく、なんらかの形で創作欲を満たしたかったのである。そしてそのまま、漫画ばかり描いて過ごす高校時代を送ることになる。もちろん漫画家になれるなどと思っていたわけではないが、どうせなら巧くなりたいではないか。
 それにまた、漫画を描く経験は小説を書くのに必ず役に立つ、と信じていたのである。

 実際のところは、どうなんだろうな……視覚的な想像力は鍛えられたはずだが、たとえばキャラ作りや物語作りの技術を磨けたほど作品を描いたわけでもないからな(絵が下手なので、描くのも遅かったのである)。
 唯一確実に得たと言えるのは、「人間、努力しても駄目なものは駄目」という身も蓋もない教訓だけだ。いや、まじで。
 解りやすい例を挙げると、義弟(妹の旦那)はデザイン関係の仕事に就いているわけでもないし、毎日絵を描いているわけでもないのに、たとえば自分の娘のためにプリキュアの切り絵を下描きもなしに、途中で鋏を止めることすらなしに、ちゃちゃっと作ってしまう。あの複雑怪奇な髪型や衣装のシルエットを、だ。もちろん、練習などしていない。見本となるイラストは手許にあるのだが、それとは違うポーズを切り抜くのである(ついでに、プリキュアのファンでもない。娘に付き合ってプリキュアの映画に行っても爆睡するそうだ)。
 もうね、こういうのを見せられると、絵を描ける人と描けない人とでは、脳の構造からして違うんだと思わずにはいられない。努力で埋められる差じゃないよ。
 
 つまり漫研での三年間はまったくの無駄だったのかもしれないのだが、まあ済んだことは仕方がない(あまり後悔というものをしないのである)。どのみちこの三年の間に、SF作家志望にとってのさらなる危機が、別の形で訪れていたのであった。「SF冬の時代」だ。

 最初の躓きは、オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』だった。短篇版のほうではそうでもなかったんだが、長篇版は、何かものすごく気持ち悪かったのである。何が気持ち悪かったのかはとっくに忘れてしまったし(無意識のうちに記憶を削除したのであろう)、再び気持ち悪くなるのは嫌だから再読する気もないが、今にして思えば、あれは「セカイ系」的な気持ち悪さだったのかもしれない。
 続いて、異世界ファンタジーと「サイエンス・ファンタジー」の氾濫となった。異世界ファンタジーは、嫌いとまでは言わないが、SF者としてどうしてもその世界設定に引っ掛かりを覚えてしまうし(そこは地動説の世界なのか、天動説の世界なのか? いや、そもそも物質の組成はこの宇宙と同じなのか、違うのか?)、ブームの常として間もなく粗製濫造となり、すっかりうんざりさせられてしまったのである。それは、サイエンス・ファンタジーについても同様だった。

 こうして私は次第にSFもファンタジーも読まなくなり、高校三年生になる頃には小説自体、ほとんど読まなくなっていた。この小説離れは、十年近く続く。
 もっとも小説を全然読まなかったわけではなく、時々突発的に読み出すこともあった。太宰治はこの時期に読んだし、『ファイア・スターター』と『ロリータ』は生涯の愛読書になるだろう。SFからも完全に離れたわけではなく、例えばティプトリーJrと神林長平(敬称略)は高校以前よりもこの時期のほうが多く読んでいる。
 しかし年間あたりの読書量は、せいぜい十冊程度だったはずだ。この長いブランクは、未だに埋められずにいる。

 そしてもちろん、小説も書かなかった。大学時代に創作欲を満たしたのは、自主制作映画と演劇である。映画を撮るにせよ、演技をするにせよ、全然モノにならなかったのは、無論才能がなかったからだが、もう一つ、当時は解っていなかったのだが、私は自分が主体として行動することが苦手だし、そうすることも望まないのだ。
「自分が主人公」の物語を書けない・書きたくないのと、まったく同じ理由である。私は常に客体でいたいのだ。劇団(と自称しているが、要は大学の演劇部)に途中入部したのも、観客として舞台を観ているうちに、演劇というものについてもっと多くを知りたい、内部から知りたいと思うようになったからである。つまりあくまで客体でいたかったわけで、自分が演技をしたかったわけではない。
 とか言いつつ、ピンスポを浴びるのは気持ちよかったんだけど。

 そうしてなお、「いつか小説が書けるようになる」と信じていたのである。映画も演劇も、モノにならないことはちゃんと自覚していたが、いつか小説を書けるようになったら役に立つと考えていたのである。
 この自信は一体何を根拠にしていたのか本当に謎だが、ともかく漫研と違って映画と演劇の体験は、明確に小説の創作に役立っている。キャラクターの作り方、動かし方は演劇から学んだし、何より私の小説の書き方は、まずシナリオ形式(セリフとト書き)で書いてから、小説の文章に直していく、という方法なのである。

 サークルを引退してほかにすることがなくなったら、専攻である東洋史が急におもしろくなってきた。それで大学院進学となるのだが、結局のところ、東洋史研究も私にとっては小説創作の代替行為なのだった。論文もゼミ発表もレポートもすべて、「物語」なのである。がっつり史料に基づいて、細部では一切創作をしていないが、それでも全体としては創作なのだ。
 私の学士論文は、副審であった陳謙臣先生(中国語の先生でもある)によれば、「文章が巧い」とのことであった。先生は陳舜臣(敬称略)の弟さんである。この評は、ほかに褒めるところがなかったからではなく(一応仮にも大学院に進学してるし)、私の卒論が一つの「物語」であることを見抜いたものではないかと思う。

 そういうわけで、私が研究者になれないのは、当然のことだった。だいたい、この期に及んでなお、「いつか小説を書けるようになる」と信じていたし。学部時代までならまだしも、そろそろただのやばい奴である。
 そしてまた、この学究生活もいつか創作に役立つと信じてもいた。この時期は、SF作家になる気をなくしていたわけではないものの、歴史小説を書きたいなあとか思っていたのである。ま、思うだけなら自由だ。
 実際に役立ってるのは、リサーチとか文章にだな。特に物語パート以外の部分の記述は、まるっきり論文と同じ調子で書いてるし。
 
 かくして文学修士という、役に立たないにもほどがある肩書きを得て大学院を卒業したのであるが、在学中からしていた本屋のバイトをフルタイムで続けられたので、しばらくは世間の荒波に直面することはないのであった。ほんのしばらくの間だけであったが。
 
 続く。

|

等級制――システム

 連作〈The Show Must Go On〉(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)に関する設定記事は、ひとまずこれで終わり。最後なので、ほかの設定記事にも増して、仁木本人のための覚書です。なお、本シリーズには原則として「裏設定」は存在しない。つまり作中で明記されているか、文脈から推測できる以外の設定は存在しません。
 
 等級の変更は自由で、比較的簡単にできる。ただし軽はずみな者(特に未成年)が無闇に等級を変えないよう、一度等級を変えたら数ヶ月は留まらねばならない、とかいうことになってるんだろう。等級変更の条件も、未成年のほうが厳しいはずだ。×歳までは親の許可が必要、とか。

等級零
 生まれたままの「自然のまま」の姿だとされるが、これはもちろん建前。「生まれたまま」なのは事実だが、すでに配偶子の段階から(必要とあれば出生前の各段階でも)遺伝子の選別と修正を受けている。出生後は額皮下に個人番号を記されるほかは、一切の肉体改造は禁止。刺青やピアスなど「伝統的」な改造(身体加工)も同様。医療行為は「人間として在るべき姿に戻す」ためのものであるから、その限りではない。額のスティグマ(認証印)はないため、「無印(ムジルシ)」と通称される。
 所属する村またはバンド(移動生活の集団)でしか生活できず、支給されるクレジット額は当然ながら最も低い。受けられるサービスも非常に限定されている。成人(二十歳以上)であっても「伝統産業」(農業・漁業・狩猟採集などのほか必需品の製作など)に従事する以外の就業は禁止。
 
 子供はすべて村(または移動民のバンド)で生まれ育つ。初等教育もそこで行われる。一級に昇級できるのは、就学時の一、二年前くらいか。本人の希望と両親の許可が必要。
 制度上は中学校入学時まで零級のままでいることが可能だが、そんな子供はまずいない。一級以上に昇級しているほかの子供たちとの付き合いに支障を来すし、保護者(両親および祖父母など)も子供に過度の禁欲を強いていると非難されることになる。
 中学入学以降、再び零級に戻れるのは、17、8歳くらいか。そこまで降級すれば村/バンドで生活することになる。ただし、そういう若者はまずいないだろうし、いたとしても、どこか問題があると見倣される。

 零級の子供にクレジットが支給されるかは不明。されるとしても、小遣いレベル(これはすべての未成年あるいは18歳以下に共通)。当然、一級より少ない。

 大人も子供も、個人端末は持てないが公共端末は使用できる。使用時間、閲覧可能な情報等は制限がある。
 移動生活民の場合は、ルート上に情報機器や医療機器を備えた施設が幾つも設けられていると思われる。
「パン」(クレジット)と同様、「サーカス」(亜人同士の殺し合いという見世物)はすべての成人に供給されている。零級でも成人は公共端末でそれらを視聴できるだけでなく、都市や町にある闘技場まで赴いて見物できる(頻度は制限されている)。
 端末で視聴できる戦争や闘技のニュースおよび派生作品の内容や量は、等級と年齢に応じて細かく制限されている。

.

等級一
 スティグマのデザインは額中央の縦長の種。ちなみにスティグマの色は地肌と明確に区別できる色なら何色でもいいが、イリデッセンス(虹色。真珠貝やモルフォ蝶のように角度によって変わる色)みたいに複雑な構造が必要な場合は、等級が高くないと無理なんだろうなあ。
 上述のように未成年は5歳くらいから。中学入学時には必ず二級になっていなければならない。17、8歳になるまで一級以下に戻れない(たぶん)。
 成人も未成年も、町と都市に住むのは禁止。

 クレジット支給額とサービスの量や内容は増大。遺伝子改造は不可(「サイボーグ化」も軽微なものであっても遺伝子改造が必要)。ピアス、刺青などの身体加工は可。
 これらの身体加工は無痛で施されるが、「伝統」として行われない社会では、子供はこの等級を飛ばすことが多い(と思われる)。

 村またはバンドでの「伝統産業」従事者以外、つまり小学校教師や医師、あるいは役場や店舗がある場合はその就業者は一級以上であることが条件。ただし一級以上であっても、それらの職に就かなくてもいい。
 この時代、20世紀以前に成立したスポーツはすべて「伝統文化」であり、スポーツ選手はプロアマ問わず、「伝統文化のパフォーマー」となる。彼らの中には、能力増強されていない肉体で「限界に挑む」ことを好む者もいると思われる。村/バンドによっては特定のスポーツを「伝統文化」として選択しているところもあるので、そのスポーツを「極める」ためにわざわざその村の住民になる者もいるかもしれない。

「肉体の限界に挑む」ために零級や一級に留まる者として、ほかに人里離れた自然を保護監視するレンジャーもいるだろう。

.

.等級二
 スティグマは額中央の種から、小さな蔓と葉が芽吹いているデザイン。等級が上がるほどに蔓草模様が複雑になっていく。

 未成年は5歳から12歳の間のいつかに昇級可(正確な時期は未設定)。たぶん高校入学時には一律に三級以上になっていないといけない。
 出生前の遺伝子選択と修正で、人間の能力は均質化が進んでいる。なお、出生前の能力増強は禁止だが、身体能力や音感などをちょっぴり強化するくらいの抜け道はあるかもしれない。しかし知能増強の遺伝子は、明らかに各種の神経疾患と結びついているとして禁止対象となっていると思われる。「創造性」の遺伝子も双極性障害との結び付きから同様であろう。
 能力と教育の均質化が進んでいるとはいえ、個人差は尊重されるので、一、二年くらいなら飛び級はあるのではないかと。その場合でも、中学入学は二級以上といった諸条件は満たさなければならない。

 二級の成人は村/バンドと町のどちらでも生活できるが、未成年は中学入学前は村に、入学後は親元を離れて最寄りの町に住まなければならない(17、8歳になればたぶん村に戻れるが、そういう禁欲的な性向は以下略)。
 遺伝子改造はこの等級からだが、ごく軽微。個人端末やペルソナ(仮人格)の使用権もこの等級から。ペルソナはハンドルネームのようなものだが、ネット上以外でも使える。何をするにも個人番号を認証され、匿名活動が事実上不可能な社会にあって、ペルソナの利用価値は高い。無論、ペルソナ取得にも認証は必要なので、不正行為は不可能。

 同人活動すなわち二次創作の公開ができるようになるのもこの等級から(この時代、完全にオリジナルな創作というものは廃れている)。二次創作作品を販売できるのは、きっともっと等級が高くなってから。
 同人活動は実名でもできる。とはいえ成人は実名を自由に変えられるし、プロフィールの基本情報(性別、生年、出身地)を非公開にすることもできるから実名でも問題ないが、未成年はそういうことができないので、ペルソナ取得が必須だろう。

.

等級三
 都市には住めない。昇級は十歳くらいからだが、十二歳以下で三級まで昇る子は、飛び級と同じく少数だろう。この等級の中学生は、地元以外の中学校に進学できるとか。

 上述のように高校入学時に三級以上に昇る義務が(たぶん)あるが、それ以上の昇級は義務ではないので、その気があれば一生三級以下でいることも可能。
 ただし、過度の禁欲も貪欲と同じく「廃絶すべき旧人類的気質」と見倣される。子供を持つには村またはバンドでの生活が必須だが、前提条件として一度は五級以上を体験しておく必要がある。

 未成年の就業については設定を決めていないが、年齢や等級による制限があるのは間違いない。アルバイトは十五歳以上、三級以上、とか。

.

等級四
 この等級から村に住めなくなる。つまり、子供を持ちたければ三級以下に降りるしかない。
 
 脳へ知識を「刷り込み(インプリンティング)」する技術により、この時代の学校教育は刷り込みした知識を実技と討論によって磨き上げることを旨とする。運動技能(非陳述記憶)は実際に身体を動かさないと身につかないので、刷り込みは補助程度にしか役立たないし、知識(陳述記憶)も長期記憶化するには情動と結びつけることが重要だが、人間の辺縁系を直接刺激することは禁じられている(それは亜人に隷属を刻み込む技術である)ので、実技と討論は絶対不可欠である。
 このように教育方法が簡略されたのに、全日制の学校制度が残されているのは、これもまた「伝統文化の保護」である。
 たぶん四級くらいから、毎日学校に行かなくてもよくなるとか、そういうことなんだろう。

.

等級五
 十四、五歳から。 十八歳未満はそれ以上の昇級は禁止。成人も未成年も、町および都市の旧市街に住める。

 この等級から、本格的な遺伝子改造が可能になってくる。能力増強などは外見から判別できないため、それを行っていることを示すための「装飾改造(デコレーション)」も派手なものとなってくる。
 未成年でも、闘技場への入場が許可されるようになる(後ろの席しか取れないとかなんだなろうな)。

.

等級六
 十七、八歳から。都市旧市街に居住可。町に居住可かどうかは不明。
「低等級(ローグレード)」はこの等級まで。いろいろサービスは受けたいけど高等級にはなりたくない、という理由で五級や六級に留まる者は少なくない。

 戦争のライブ映像の視聴は、たぶんこの等級から許可。ライブ映像といっても、戦闘の撮影は多数の「蠅カメラ」によって行われるので、どんな場面が配信されるかは、あらかじめ等級別に編集プログラムが組まれてるとか、そういう感じ。

.

等級七
 この等級から「高等級(ハイグレード)」となる。未成年が高等級になれるかは不明だが、なれるとしてもこの等級までだろう。
 旧市街も新市街も居住可。町はたぶん不可。サイボーグ化が許可されるのはこの等級から。

 サイボーグ化の定義は「異物(非自己)から成る機器の神経系との接続」。異物にアレルギー反応を起こさないよう、あらかじめその素材に対する免疫寛容を作り出しておくことが必要。
 神経系との接続が不具合を起こすリスクに加えて、免疫寛容処置が免疫系を攪乱してしまうリスクがあるため、サイボーグ化は高等級にしか許されていない。前者のリスクの高さがどの程度かは不明だが、後者の例は一度もなかった(22世紀末になるまでは)。
 しかしサイボーグ化がアレルギーを引き起こし、時として重篤な症状となることは、亜人の例から明らかだった。つまり、亜人にはいちいち免疫寛容を作る処置を行わないのが普通なのである。でも高価な特注品には、きちんと処置をするんだろう。
 また闘奴(闘技専門の戦闘種亜人)の中にはサイボーグ化される者もいるが、これも免疫寛容の処置が行われるのは人気のある個体だけだと思われる。
 
 サイボーグ化は埋め込み(インプラント)から器官交換まであるが、七級と八級に可能なのは末端神経系への埋め込みのみ。七級では感覚器官への埋め込みも不可だろう。
 
 七級が就く職業で多いのは、戦争業界のほかは自然保護監視官(レンジャー)など。高山や極地、海洋など過酷な環境に特化した身体改造を行うのである。

.

等級八
 都市にのみ居住可。サイボーグ化については等級七を参照。
 八級以上が自然保護監視官や研究者として人里離れた場所で生活することが許可されているかは不明。たとえ許可されているとしても、そのような環境ではせっかく高等級に許されているサービスの多くが利用できないし、概して等級が高いほど都市生活を好む傾向がある。
 なお、上述の特別な職種以外で村/バンド、町、都市以外で生活することは、等級にかかわらず禁止。

「The Show Must Go On!」の主人公アキラがこの等級(後に九級に昇る)。彼の改造は額の「第二の両眼」である。額にバイザーを装着しているのは、脳を保護するため(第二の両眼も脳に神経接続されている。つまり新たな眼窩の部分は脳を保護する骨がないのである)。
 バイザーをコンピュータ画面とし、第二の両眼をその情報の読み取りに特化させているのは、あくまで後付けの機能である。たぶん、あからさまなプロテクターを装着するのはかっこ悪いというような価値観があるんだろう。

.

等級九
 都市にのみ居住可(旧市街にも住める)。中枢神経系への機器埋込みや、臓器や手足などを部分的にサイボーグ化することも可能。
 高等級は半ば自嘲的に半ば誇らしげに「廃人(ハイジン)」と称することがあるが、自他ともに真にそう称することができるのは九級以上だけ、という暗黙の了解がある。
 戦争の勝敗は全成人の投票によって決められるが、兵士の運命は九級と十級の視聴者による人気投票で決められる。闘技でも人気投票はあるが、等級によって投票権に制限があるかどうかは不明。

 八級と九級は戦争業界に集中している。そのため業界外とは逆に、業界内では低等級がかえって珍しいという事態になっている。
 村や町の住民が高等級を目にする機会は 都市「体験学習」(事実上の観光)の際か、自然「体験学習」で行った先に偶々高等級のレンジャーがいたとか、あるいは高等級が村や町に「体験学習」に訪れるとか、その程度しかない。等級が高いほど数も少ないので、九級が体験学習などで村を訪れたりすると、大人はともかく子供たちは大騒ぎをする。

.

等級十
 廃人中の廃人。新市街にしか住めない。概して人付き合いを嫌うため、就業している者はほとんどいない。ただしアマチュア創作者すなわち「同人作家」は多い。彼らは戦争業界の周辺部に位置しており、業界人すなわち戦争屋と多かれ少なかれコネクションを持つのだが、それでも直接顔を合わせることは滅多にない。

 村/バンドの生活が理想とされているため、町や都市の住民も三年に一度は村/バンドでの「体験学習」を行うことが義務付けられている。十級がこの義務に従う時は、面倒を避けるため一時的に九級に降りていくのではないかと思われる。この場合の面倒とは、好奇の目に晒されるとか、十級は下の等級より村/バンドで受けられるサービスが限定されているとか。
 そういうわけで、十級を一度でも目にしたことのある者は、十級それ自体と同じくらい少ないかもしれない。

関連記事: 「絶対平和 Ⅱ」 「絶対平和の社会」

     「等級制―概念」 「連作〈The Show Must Go On〉」

設定集コンテンツ

|

GODZILA

『ゴジラ』の原体験と呼べるものは、映画のどれかではなく、80年代のいつか(84年の映画公開時だったかもしれない)に放映された特集番組だった。
『ゴジラ』の原点は、人間による環境破壊に警鐘を鳴らした硬派な社会派ドラマである、という切り口の特集で(したがって『ゴジラ』と銘打ってはいても、子供向け要素や娯楽色の強い作品は邪道であると断じていた)、白黒のため何やらとても恐ろしげに見える初代ゴジラの映像とともに、ゴジラとはそういうものである、という刷り込みが子供心にくっきりと為されたのであった。

 その後、90年代にゴジラは何本か付き合いで観たんだが、付き合いで観たという以上のものではなく、あの特集番組のインパクトには遥かに及ばない。
 そんなわけで、今回の『ゴジラ』は造形や動きといい、その見せ方といい、環境破壊問題と絡めた脚本といい、おお、これこそまさにゴジラだ。つまり、結局現在に至るまで観ていない第一作を含めた実在の『ゴジラ』作品ではなく、例の特番によって形成されたゴジラのイメージである。ザバザバと海へ入っていく後ろ姿なんか、もうそのまんまだ。

 エメリッヒ版の『GODZILA』は(予告を観る限りでは)やたらと動きが速いが、『ジュラシックパーク』のティラノサウルスも高速だし、『トランスフォーマー』に至っては目が付いていけないほどだから、アメリカ人は「強い=速い」と思っているのかもしれない(そして当然、アメリカ人だから「強い=大きい」)。
 確かに実際には、同じサイズとパワーだったら遅いより速いほうが脅威だが、映像としては、小さなものはともかく巨大なものは動きが遅いほうが力強く威圧的に見える。そして『ゴジラ』は映画である。
 
 本作のゴジラは動きが緩慢なだけではなく、なかなかその全貌を顕わにしない。前半は背びれや尻尾だけしか画面に映らない。ようやく観客の前に姿を現すと、今度はカメラは舐めるように下や横から頭部へとゆっくりと移動する。煙と粉塵が立ち込める中、斜め後ろ姿の構図など、ゴヤの(作とされていた)「巨人」のようだ。
 ゴジラと対峙する怪獣MUTOも、登場の仕方はものすごく勿体を付けているし、オスのMUTOがメスのMUTOに口移しで核ミサイルを与える場面は動物の求愛行動のようで、この監督、ほんとに怪獣が好きなんだなあ。

 以下、ネタバレ注意。

 害獣は滅び、家族は再会し、ゴジラは海へ去っていくハッピーエンドだが、で、放射能汚染は?
 せっかくゴジラが悪い怪獣をやっつけてくれたのに、人間は余計なことをして太平洋を死の海にしてしまいました、というオチではまったくないのは明らかである。サンフランシスコの数キロ沖でメガトン級の核が爆発したら、怪獣たちによる破壊(ゴジラが吐いた放射能も含めて)どころじゃない被害だ。ハリウッドでは放射能汚染に無頓着じゃなきゃいけないという規則でもあるのかね。

 話の展開からしても、核を爆発させる必然性もまったくないしな。主人公が爆発を阻止できなかった理由が、ケースの蓋が開かなかっただけ、というのもなんかしょぼいし。いくらマッチョになっても、『キックアス』だから仕方ないのか。

|

ヤング≒アダルト

 シャーリーズ・セロンが、「学園の女王」だった過去にしがみ付く痛い女を演じる。ネタバレ注意。

 何一つ問題は解決せずに終わるのだが、後味は悪くない。ヒロインの価値観が徹底して歪んでいて、いっそ清々しいほどだからだ。
 高校時代の元彼からメール(「子供が生まれました」)が届いた段階では、彼女は「田舎で平凡で退屈な人生」を送る人々を軽蔑している。だがしばらくして、どうも現在の自分の生活は虚しいのではないかと感じ、「輝いていた頃の自分」を取り戻すべく、故郷に向かう。具体的には、元彼とよりを戻して(彼を離婚させて)結婚しようという魂胆である。

 この試みが失敗に終わり、彼女は己が不幸であると認識する。しかし己を省みて何が原因なのか気づき、成長するという結末にはならない。
 かと言って、元彼とその妻の幸せな家庭を「絶対善」とする説教臭い結末でもない。プライドがズタボロになったヒロインは、彼女に憧れていたオタクの元同級生に慰められる。しかし、「実は身近にあったささやかな幸せ」を手に入れる、という結末にもならない。一夜開けると、気の迷いだったと言わんばかりに、眠っている彼を置いて無言で立ち去る。
 結局彼女は、オタクの元同級生の妹に、「あなたは特別な人。この町の馬鹿で退屈な人たちとは比べ物にならない」と言われて立ち直る。つまり、振り出しに戻る。

 ただ、シャーリーズ・セロン以外の女優が演じてたら、多かれ少なかれもっとコミカルになってたんじゃないかと。いや、下手だという意味ではなくて、例えば『ブラック・スワン』以前のナタリー・ポートマンみたいに熱演しすぎて空回り、というのでもないし、レニー・ゼルウィガーみたいに「こんな嫌な女の役もできるのよ、ほんとのわたしは違うんだけどね」臭が芬々というのでもない。
 笑えるところは笑えるんだけど(間の取り方は決して悪くない)、全体としてコメディと呼ぶには何かが足りない。あるいは何かが過剰。うーん、なんだろう。「いつまでも女王様気取りの痛い女」役にハマりすぎってことかもしれない。
 もっとも、コメディ色が強かったら、その分リアリティが薄まっただろうから、一長一短てとこだな。

|

『早稲田文学』秋号

51djwcd6ujl__sl500_aa300_

Amazon

 現在発売中の『早稲田文学』秋号の特集「若い作家が読むガルシア=マルケス」で、『コレラの時代の愛』について書きました。
「“リアリズム”の巨匠による非現実の愛」と銘打ったわけですが、「巨匠」という呼び方は、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』からですよ。って、言わなきゃ誰もわからへんがな。
 私の分は原稿用紙四枚ほどですが、大勢の作家さんがいろんなガルシア=マルケス作品について書いておられますので、是非御購読ください。樺山三英氏も「ママ・グランデの葬儀」について書かれていますよ。

 ちなみに、もうひとつの特集「新世代の幻想文学」では、岡和田晃氏が東雅夫氏と高原英理氏と対談をされています。

 話は変わりますが、今年二月に予定されていて、「四十年ぶりの大雪」で中止となった筑波大学でのパネルディスカッションの顛末について。
 単独の企画ではなく大学主催のシンポジウムの一環だったので、中止ではなく延期、というお話もあったんですが、それも結局……

 まあ何はともあれ、延期ということになれば新しいレジュメを用意するつもりだったので、二月に用意していた分の一部は、五月のSFセミナーのパネルに使いました。レジュメの全内容を基に書いた本ブログの「HISTORIAシリーズ設定集」の記事が、以下の三本です(SFセミナーでの発言は、最初の二つに含まれています)。

「絶対平和 Ⅱ」 「絶対平和の社会」 「等級制――概念」

 筑波大学のパネルでは、これらの内容を、仁木稔作品を読んでいないのはもちろん、SFおよびサブカルチャー全般について馴染みのない人たち向けに解りやすく、かつ簡潔に喋るつもりでした。

|

等級制――概念

『アドルフの画集』という映画がある。ナチという組織や第三帝国は、アーティスト・ヒトラーの「作品」だった、という観点で描かれていて、これに限らずヴィジュアル面でのナチの魅力についての指摘はすでに多くなされている。
 しかし、ナチという組織そのものが、多くの人を惹きつけた要因の一つであったのではないか。軍隊や警察だけでなく、一般国民に対してもヒトラー・ユーゲント等もろもろの組織が作られ、多くの人が嬉々として参加し、制服を着用した。

 実在のものに限らず、軍隊や警察、それに準ずる組織に多くの人が惹きつけられるのは、階級制や制服が大きな要因である。だからそういう組織が登場するフィクションの多くでも、ストーリーに直接関係ないのに制服や階級の設定がきっちり用意されている。
「絶対平和」では、20世紀末から21世紀初頭の日本のポップカルチャーが、政治に利用されている。亜人の外見を魅力的にデザインするだけでなく、人間を等級づけるという概念に、ゲームのシステムを利用して抵抗感を失わせている。グレードが高いほど人間離れした外見にして、見ただけで区別がつくようにするのだが、そのデザインもかっこいいものだとして、みんな喜んで受け入れている。

 文化というもの、芸術というものは政治に利用される危険があるんだ、ということを言うのに、わざわざ現代日本のポップカルチャーを引き合いにしているのは、それだけ魅力があって説得力があるからであって、現実にそれが政治的に利用されるという「今ここにある危機」があるわけではない……はずだったのだが(「The Show Must Go On!」の執筆は2012年、雑誌掲載は翌年)、憲法改正にナチのやり方を見習おう、という御時世である。今に大衆操作もナチに倣って文化を活用しよう、ということになるかもしれない。
 もっとも「クールジャパン」を見る限りでは、たとえそんなディストピアな事態になったとしても、ことごとく的を外して冷笑を買うだけのような気もするが。

 ちなみに私自身は、どんなデザインだろうと制服に興味はありませんよ。

 亜人の存在によって人々は欲望のままに前進することがなくなり、世界には平和と安定が訪れた。しかし欲望が抑制されたのは、あくまで心理レベルであり、多少の振幅はどうしてもある。その振幅を最小限にするには、さらなる抑制が必要である。

『フィエスタ 中米の祭りと芸能』(黒田悦子・著、平凡社)は、ユカタン半島の先住民マヤ族のとある村におけるフィールドワークである。
 その住民たちは老いも若きも伝統的な生活(キリスト教化はしているが)を忠実に守り、村を出て行く者は少ないという。彼らは皆、生活をよりよくするために現状を変えることよりも、現状のままでいることを望む。欲望を満たすために他人を押しのけるようなことはしない。
 その理由は、彼らは「皆(同じ村の住民)と違うこと、目立つことをするのはみっともない」という価値観を共有しており、そのようなことをした者は笑いものになる。守るべき規範は日常生活において繰り返し示され、また祝祭(フィエスタ)の際に行われる教訓劇によっても示される。

『グアルディア』執筆の際に、参考になるかもしれないと手当たり次第に読んだ中南米関連資料の中の一冊である。『グアルディア』に直接反映されたのは、オペラ『ラ・トラヴィアータ』(「道を踏み外した女」)が文明崩壊後の中米の僻村で『あばずれ女』という教訓劇に変貌している、というエピソードくらいなものであるが、「等級制」を設定する上で、かなり参考になった。
 マヤ族の農民たちは、恥の観念によって「足るを知れ」という抑制を叩き込まれている。これが可能なのは、全員が互いをよく知る小さな共同体の住民だからである。
 遥かに巨大な社会で相互監視を可能にするシステムとして考え出されたのが、「等級制」である。

「絶対平和」では亜人が奴隷としてほぼすべての労働を担うため、必然的に従来の経済は根底から崩壊し、亜人による直接あるいは間接の「サービス(奉仕)」が各人の必要に応じて支給されるというシステムに替わった。人間が消費するものはすべて、目に見えないかたちではあっても亜人の奉仕によって支えられているのである。
 人間はすべて零~十までの等級(グレード)に分けられ、等級によって受けられるサービスの内容が異なる。サービスは、貨幣の代替物であるクレジット(信用貨)に換算される。すべての人間はクレジットを支給されるが、その額は等級ごとに異なる。
 等級が高い(ハイグレード)ほど支給額は大きい。つまりそれだけ多くのサービスを利用できるが、しかしクレジットさえあればどんなサービスも利用可能というわけではない。たとえば住む場所も等級ごとに決められており、どれほどクレジットを積んでも(当然ながら蓄財にも限度額が設けられているであろうが)、居住を許可されない場所に住むことはもちろん、長期滞在することもできない。
 受けられるサービス内容を変えたかったら等級を変えるしかないが、これは成人であれば完全に自由であり、手続きもかなり容易である。

 サービスに換算されるクレジット額は、エネルギー消費量に概ね対応している。亜人のお蔭で利他的になった人類は、もちろん環境保護を重視するのだ。
 つまり高等級ほど物欲が強く、刺激に飢え、環境に負担を掛ける「旧人類的」な者、ということになる。
 本来は数字が小さいほど等級が「高い」(一級は二級より高位といったように)にもかかわらず、絶対平和の等級制においては数字が大きいほど等級が「高い」とされる(零~六級は「低等級」、七~十級は「高等級」)のは、等級が高いほど貪欲で愚かで「旧人類的」、等級が低いほど穏やかで賢く「新人類的」だが、だからといって前者を差別してはいけませんよ、という「建前」ゆえである。

 すべての人間は出生時に個人番号を割り振られ、それは額の皮下組織に印字(細胞に発色遺伝子を組み込むというかたちで)されている。その番号を読み取れば、現在の等級や所持するクレジット額も含めた個人情報を知ることができる。
 クレジットの支払いは、この個人番号の読み取り(認証)によって行われる。

 そして各人の等級は、外見から一目で判るようになっている。それは額に描かれたスティグマ(認証印)と、それ以外の肉体の改変で示される。
 零級は、出生以来、肉体改造(刺青やピアスから遺伝子改造、サイボーグ化に至るまで)を一切受けていない「自然のまま」の者である。「自然のまま」と言っても、配偶子段階で「良い」遺伝子の選別と「悪い」遺伝子の修正がなされているのだが、少なくとも積極的な能力増強や美容目的の遺伝子改造は行われていない。
 額には何も描かれておらず、それゆえ零級 は無印(ムジルシ)と通称される。

 美容目的も含めて肉体改造をしたければ等級を上げなければならないが、これは等級を上げたければ肉体改造をしなければならない、ということでもある。等級が高い、すなわちエネルギー消費量が多いということを、一目瞭然にするためである。
 したがって能力増強など、見た目だけでは判別できない改造をした場合は、それに付随して装飾的な改造(装飾改造:デコレーション)を行わなければならない。結果として、等級が高いほど能力も外見も「人間離れ」していくことになる。四級くらいまでは見た目で判る改造もそうでない改造も、軽微なレベルである。
 なお、出生後の遺伝子改造は体細胞のみに限られ、一代限りのものである。

 額のスティグマは、一級で中央に描かれた縦長の種の形、二級以降はその種から左右対称に蔓草模様が展開していくデザインで、等級が上がる(数字が大きくなる)ほど複雑化していく。
 四級くらいまではスティグマのデザインは比較的単純なため、等級間の違いも簡単に見分けられる。しかしそれ以上になるとデザインが複雑になりすぎ、たとえば九級と十級の違いなど、訓練でもしない限り一目で見分けるのは不可能になる。
 装飾改造は、スティグマだけでは不充分な等級の区別も目的としている。防寒服や防護服が必要な環境でない限り、額のスティグマや装飾改造を隠すのは違法である。

 このように等級が一目で判るようになっているため、当人の性向も一目で判る、という仕組みである。高等級(七級以上)に三年以上留まる者が非常に少なく(22世紀末時点で全成人の2%)、十級となるとさらにその1%にしかならないのは、実際に人間が欲望を持たなくなってきているということもあるのだが、それ以上に、貪欲な「旧人類的」人物と見られたり、人間離れした姿になることが恥ずかしい、という抑制が働いていることが大きい。
 等級が上がるほど能力増強もできるし、装飾改造のデザインも専門のデザイナー(設計者)によって行われる「かっこいい」ものではあるのだが、あまりに人間離れした外見となると、躊躇する者は多いのである。

 絶対平和において、人は他人(あくまで人間)を傷つけるのは絶対に許されないが、自らを傷つけるのもまた同様である。いくら遺伝子工学が発達し、安全性が高められているとはいえ、遺伝子改造のリスクはゼロではない。高度な遺伝子改造が高等級にしか許されないのは、そのためでもある。
 ちなみに高脂質・高カロリーといった健康上のリスクが高い食品も、低等級には禁止されている。
 向精神性薬物、アルコール、煙草などは、所属する文化と等級次第で使用可。ただし、依存症因子の除去や治療法の発展、教育の徹底、そして何よりも亜人のお蔭で充足した精神はこれらの物質を必要としないことから、依存症は事実上存在しない。ギャンブル等、特定の行動の依存症も同様である。

 なお、額の蔓草模様の名称「スティグマ」と「認証印」であるが、前者はそれが大きく目立つ(すなわち等級が高い)ほど罪深い「旧人類的」人物であるという「烙印」を意味することから。後者は、クレジット支払いなどサービスを受ける際に額に「読み取り機」をかざして「認証」を行うことからである。実際に読み取られているのは皮下の個人番号であって蔓草模様ではないので「認証印」という名称は不正確なのだが、まあ名称なんてそんなものである。
 また亜人は、どの人間にどのレベルのサービスを行うべきか判断するのに、いちいち読み取り機を使うわけにはいかないので、スティグマを見て判断しているはずである。人間は基本的に図形の細かな違いなどを見分けるのは苦手だが、人間以外の哺乳類(類人猿など)や鳥類にはむしろそのような能力のほうが高い種が少なくない。亜人の認知能力はさまざまな制御が掛けてあるが、その分、図形の識別能力は高められていると思われる。

 ちなみに作中の表記が「サーヴィス」ではなく「サービス」なのは、主人公らが日常的に使用する言語が日本語経由の英語句や和製英語が多用される「日本語をベースとした混成語」だからである。

関連記事: 「絶対平和の社会」 「亜人」 「等級性‐‐概念」 

       「連作〈The Show Must Go on〉」 (『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』)

設定集コンテンツ

|

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »