闇の列車、光の旅
ホンジュラスの少女の許に、アメリカに不法滞在していた父が強制送還されて戻ってくる。再び密入国を試みる父に、少女は叔父と共に同行する。徒歩でメキシコ南部まで至り、そこからほかの密入国志願者たちと共に、列車の屋根に無賃乗車することになる。
一方、少女の故郷と同じくらい貧しくて行き詰っているそのメキシコの町では、ギャングに所属する一人の少年が、縄張りの見張りをさぼって恋人と逢瀬を重ねていた。それが露見して、少年は制裁を受け、恋人はギャングのリーダーによって殺される。
リーダーは少年を連れて列車に乗り込み、屋根上の無賃乗客から金目のものを強奪する。ホンジュラスから来た少女に襲い掛かったリーダーを、少年は衝動的に殺してしまう。そのまま走り続ける列車に乗って逃亡する彼を、ギャングたちが報復のために追う。
以下、ネタバレ注意。
ネタバレも何も、結末は予想どおりの悲劇である。非合法の暴力組織に属する少年(あるいはもっと年齢が上でも)と他所者の無垢な少女との悲恋という、背景となる設定をちょっと変えれば、ほぼ世界中のどこででも成り立ちそうな古典的なプロットだ。
ありていに言えば陳腐で手垢のついた物語を目新しくしているのは、中米という舞台のエキゾティシズムである。しかしそもそもこのプロット自体、「非合法の暴力組織」のエキゾティシズムに寄り掛かったものなわけで、鑑賞者にとって比較的身近な舞台(日本人だったら国内とかアメリカとか中国とか)ではすでにやり尽くされて陳腐になってしまったものを、「馴染みのない」場所に置けばまた新味が出る、というだけの話だよな。
目新しい場所というだけだったら、たとえば北欧でもいいわけだが(『ミレニアム』とか)、「第三世界」であれば、より過激な暴力が望める上に、「貧困」のエキゾティシズムも加わる。
と言っても、これは別に批判ではない。エキゾティシズムというのは(たとえそこに差別意識が存在するとしても)、魅力的であることが必須なわけで、魅力的でなければエキゾティックにはなり得ない。暴力はまだしも貧困をエキゾティックに撮るにはそれなりの手腕が必要だ。
その点、本作はこの条件を充分に満たしている。中米の緑豊かな自然も、がらくたと落書きで覆われたスラムも、同じように絵画的な光景に仕上げられている。
暴力や貧困という現実の問題を「見世物」とすることの是非については、クラインマンの議論(『他者の苦しみへの責任』所収「苦しむ人々・衝撃的な映像――現代における苦しみの文化的流用」)をここでも繰り返すことになる。
つまり、暴力や貧困を告発するという高尚な意志で制作されたニュースやドキュメンタリーだって結局は「見世物」である、ということだ。そして、「見世物」への好奇心であっても、無視や無関心よりははるかにマシである。
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