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るろうに剣心 伝説の最期篇

 二部作の後篇。一応ネタばれ注意。

 原作の志々雄真実は時代背景を巧みに取り込んだキャラクターだけど、展開のほうは雑魚の群れから始まって、だんだん強くなる敵を一人ずつ倒していく、という、よく言えば少年漫画の王道で、そのまんま映画にしたら、ま、あんまおもんなかっただろうな。志々雄のキャラクターを活かしつつ、よく練られた脚本でした。
 お蔭で十本刀のほとんどが、見せ場どころかクローズアップすら碌にないという有様でしたが。比較的出番のあった面子も、致し方ないとはいえ、バックグラウンドについては各々一言ずつ説明されたきり。
 方治くらいは、もう少し性格描写があってもよかったんではないかと。あれじゃ参謀じゃなくて、ただの腰巾着だ。

 剣心、左之助、斎藤、蒼紫の四人がかりのラスボス戦は、「それでも倒せないほどの志々雄の強さ」がちゃんと表現されてるのがすごい。同じようなことをやって、弱いものいじめにしか見えないとか、主人公とその仲間が急に弱くなったようにしか見えないという失敗例が多々あるだけに。
 由美と志々雄の最期は原作どおり。原作を知っている人なら誰でも、あれを原作どおりにするのは当然、変えたら無能だよと思われるかもしれないが、原作(漫画に限らず)付きの映画って、なぜそこを「改悪」する? それじゃ台無しだろうが、と問い詰めたくなるようなのが本当に多いんだよな。
 原作への敬意という点も含めて、よい映画でした。

 前篇で操役の子のアクションに非常に感心させられたので、今回はアクションがなくて残念。
 比古清十郎は……アクションは悪くなかったものの、福山雅治は福山雅治にしか見えないなあ……ミスキャストとか以前の問題だ。
 神戸から出張で東京に来ていたアメリカ人の友人(高校時代にるろ剣のファンだった)と一緒に鑑賞したんだが、日本の芸能人をほとんど知らん彼女は、「比古清十郎かっこいい、原作どおり!」と大喜びでした。ちょっと羨ましかったり。

前篇『京都大火篇』感想

第一作感想

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リトル・ランボーズ

 1980年代のイギリス。聖書原理主義の家庭に育ったウィルは、「世俗の娯楽」をことごとく禁止され、映画もTVも観たことがない。ある日、隣のクラスの問題児リー・カーターと偶々関わり合いになってその家に行き、リー・カーターが盗撮した『ランボー』のビデオを見てしまう。たった一本のアクション映画でこれまでの厳しい躾は吹き飛び、リー・カーターと意気投合したウィルは、『ランボーの息子』という映画の制作に取り掛かるのであった。
 
 ……考えてみると、シルヴェスター・スタローン出演作って、『デス・レース2000』しか観たことない(それも今年の頭だ)。幼少のみぎりに何かであの筋肉を見かけ、ハムの塊みたいで気持ち悪いと思って以来、観る気になれんのよ。それ以来、マッチョ全般も嫌いだし。

 何はともあれ、『ランボー』を観たことがない人でもシルヴェスター・スタローンを嫌いな人でも、問題なく鑑賞できる良作です。

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日本近代文学会in広島大学

 岡和田晃氏に、出てみませんか、と誘われて、偶には畑違いのところに顔を出すのもいいだろうと引き受けたんですが、いざ発表原稿を作成する段階になったら……自分がいかに文学の話をするのが苦手か思い知らされました。

 書きあぐねた結果、開き直って、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』がユートピア/ディストピアものなのにこじつけて、ユートピアと現実との相関というテーマでアリストパネスの『女の平和』から始まって、プレスター・ジョンやら千年王国運動やらマーガレット・ミードやら、どこが「日本近代文学」だ、という話を緊張のあまり噛みまくりながら捲くし立てるという体たらく。

 一緒にパネルに参加した方々は、文学からずれた話だからこそおもしろかった、と仰ってくださいましたが、本音では可哀想な奴だと思っておられるのではないかと。

 まあ、好きなことを好きなように喋れたのは楽しかったですし、企画自体も楽しかったので、よしとします。

 

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ライアンの娘

 デヴィッド・リーン監督作。第一次大戦中、アイルランドのど田舎の娘が、外の世界への憧れを村の唯一のインテリである小学校教師に投影し、恋だと勘違いして結婚するのだが、待っていたのは相変わらずの村の平凡な日常なので、大いに幻滅する。やがて、新たに幻想を投影する相手が見つかるのだが、それが村に駐留する英国軍の将校だったため、たいへんに面倒なことになる。

 デヴィッド・リーンだけに、たかが不倫ものを複雑な政治情勢と巧く絡めて壮大な叙事詩にしているというか、デヴィッド・リーンだけに、たかが不倫ものでも壮大な叙事詩にならざるを得ないというか。
 アイルランドの雄大な自然(南アフリカ・ロケも一部交じっているそうだが)も、登場人物たちの心理や時代背景を象徴的に表現するのに効果的に使われ、作品のスケールを大きくするのに一役買っている。
 ただし、ヒロインと英国将校の情事の場面、1970年当時の規制で直接描写を避ける必要もあったんだろうけど、寄り添うように風にそよぐ二本の蜘蛛の糸、寄り添うように風にそよぐ二本のタンポポの綿帽子と来て、最後にダメ押しのように、寄り添うように風にそよぐ二本の早蕨と来た時にはさすがに、もうええがな、とツッコミを入れてしまった。
 これに先立つ初夜の場面の身も蓋もなさは、むしろ当時としては斬新な表現ではなかったかと。

 私は暗い画面(心理的にではなく、物理的な明度の問題)を長時間観ていると気が滅入ってしまうので、ビデオ時代は古い映画を観るのがしんどかった。DVDになって、古いフィルムの傷を修正するついでに色調も明るく補正してくれるのは、たいへんありがたいことである。が、悲しいことに、いい加減な仕事がかなり多い。
 この『ライアンの娘』は、それが特にひどかった。ナイトシーンを明るくしすぎているのはよくあることだが、それに加えて、場面によっては人物が背景から浮き上がって見える。海や空の青、木々の緑などが鮮やかすぎて、安っぽくすら見えるのも、色補正の失敗だろう。
 きっと作品への思い入れも何もない、やっつけ仕事なんだろうな(思い入れがあってこの出来だったら、それはそれで悲しいが)。

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日本近代文学会パネル発表

 広島大学にて開催される日本近代文学会秋季大会にて、パネル発表「世界内戦と現代文学―創作と批評の交錯」に参加させていただくことになりました。

 私はユートピア文学について喋る予定です。広島まで足を伸ばせる方は、ぜひご来場ください。

詳細はこちら。

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ユナイテッド93

 9.11にハイジャックされた4機の旅客機のうち、1機だけは目的地に到達せずに墜落したのだが、乗客たちが機内に掛けた電話などから、彼らがハイジャック犯たちを阻止しようと行動したことが判っている。それらの記録や、乗客たちに関する遺族の証言などに基づく再現ドラマ。
 
 情報は皆無ではないとはいえ、ほんの少ししかないのだから、実際には再現ドラマの体裁を取った「見てきたような嘘」にならざるを得ない。それを承知で敢えて映画化したのは、この極めて断片的な情報から、乗客たちが抵抗したことが判っているからだ。犠牲者たちが死の前に、ほんの少しでも「何か意義のあること」ができたという事実は、犠牲者の遺族や親しかった人々だけでなく、9.11に大きなショックを受けた人すべてに、現実を把握しなおす文脈を与えることができるからだ。
 人間がどう解釈しようと、世界は少しも変わらないんだが、人間にとって解釈のできない世界で生きていくことは非常に困難だ。
 身も蓋もない言い方をすればそういうことで、娯楽性を極力排除した作りになっているのが救い。

 機内の状況はともかく、並行して描かれる地上の状況は本当に再現ドラマで、航空会社や軍の何人かは本人が演じている。こちらに関しては、まるきり『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』(ジェームズ・R・チャイルズ 草思社)を地で行っていた。
 つまり、完璧に機能していたシステムが、「想定外」の出来事によって、次から次へと不備が明らかになり、崩壊していくという。で、その「想定外」というのも、実はそれほど想定外でもないことがほとんどなのである。
 ハイジャックした旅客機で自爆テロ、などという事態は確かに想定外以外の何ものでもなく、後手に回ったのは仕方がないが、ハイジャックだけだったら充分想定のうちだからな。つくづく遣り切れない。

 ところで、乗客の人物造型には遺族らの協力(情報の提供)を得ているそうだが、ほんのちょっぴりしか登場しない「その他大勢」になっている乗客は、人物造型の手掛かりになる情報が得られなかったんだろうか。それだけならまだいいが、終盤、乗客たちの決起計画をハイジャック犯に知らせようとする乗客がいるんだが、あれも遺族の「協力」の結果なのか?

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