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バードマン

 アメコミの映画化の主役で一躍スターになった俳優が、そのイメージから抜け出せず、以後長い下り坂のキャリアが続く……というマイケル・キートンそのまんまのキャラクターを、マイケル・キートンが演じる。

 今回、『レスラー』のミッキー・ロークや『ブラック・スワン』のナタリー・ポートマンに対するような、「キャリアが行き詰った、かつてのスター」に対する興味は別になかったので、主人公の鬱屈がひたすら続く中盤までの展開には、あまり乗れなかった。
 しかし、いよいよ主人公の狂気が嵩じて「バードマン」が姿を現してからの祝祭的な空気の中、キートンの憑かれたような演技は素晴らしい。
 エドワード・ノートンは、これまで観た中で一番よかった。ナオミ・ワッツは、あまりにも老けてたんでびっくり。というか、私はナオミ・ワッツをナオミ・ワッツと認識できた試しがないんだが。誰だか気づかなかったり、予めナオミ・ワッツがどの役か知ってても、「あれ、こんな顔だったっけか」と思ってしまう。演技の印象が薄いわけじゃないんだけどなあ。

 ところで、この映画はコメディなんだそうである(実際、ゴールデン・グローブ賞ではコメディ部門で主演男優賞を獲っている)。コメディか、これ……?
 あらゆる面で非常にレベルが高い作品だが、コメディとして観た場合、いやあ……と言葉を濁さざるを得ない。
 脚本だけを思い返してみれば、確かに笑える要素はふんだんにある。役者の演技も、部分部分はおもしろい。でも、実際にはほとんど笑えなかった(少しは笑えたところもあったが)。同じ脚本、同じキャストで、違う監督だったら、笑いっ放しだった可能性だってあるくらいなのに。
 コメディとして何が悪かったんだろう。映像や演出がスタイリッシュ過ぎ、時として実験的ですらある、というのは、それほどネックにはならないだろう。そういう撮り方をしていても笑いのある作品は少なくない。
 やはり最大の原因は、間の取り方の悪さだろう。あくまでコメディ映画の監督としては、アレハンドロ・イニャリトゥ、才能ないんちゃう?

「スタイリッシュ」な(「すかしてる」とも言う)映像や演出も、かなり鼻に衝いたしな。現実と非現実(主人公の妄想)の境界の曖昧さは巧く表現されていたが、それ以外の部分。難解なようで、その実、解りやすすぎるというか露骨というか。
 例えば、主人公と「心の通っていない娘」を演じたエマ・ストーンはギョロ目なんだが、時々、それがひどく強調されている。どういう場面でかというと、父娘の冷え切った遣り取り、特に父親に向かって「ネット上で注目されていないパパは、現実に存在しないも同然」といった主旨の台詞を吐く場面なんか、クリーチャーじみてさえいる。
 主人公にとってとその世代が得体の知れない不安を掻き立てる、ということを象徴してるわけだが、解りやすさを通り越して子供騙しのレベルだ。
 あるいは終盤、主人公が鼻を負傷して、顔の上半分をガーゼで覆われるのが、ちょうど「バードマン」の仮面そっくりになるとか。まあだからって、ほかの場所を怪我すればよかったという問題でもないけど。

 何はともあれ、マイケル・キートンの努力が報われてよかったです。これまでの低迷を取り戻すべく、活躍してほしいものだ。

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レボリューショナリー・ロード

 公開時、『タイタニック』のカップルが10年の時を経て倦怠期の夫婦を、というのと、監督はケイト・ウィンストレットの旦那、という二つで話題になってた作品である。楽屋落ちもサム・メンデスの悪趣味も嫌いじゃないが、その二つが重なると、くどすぎて気疲れしそう、というわけで今まで避けていたのであった。

 実際観てみると、いや、予想以上に悪趣味。でも楽しかった。それにしても、この企画を最初に進めたのはケイト・ウィンストレットで、渋るサム・メンデスとディカプリオを数年がかりで説得したそうだが、悪趣味監督の嫁は旦那を超える悪趣味な上にサドか。そして結局はノリノリで撮ってる旦那はマゾか。

 郊外の一戸建てに住む結婚7年目の夫婦。子供は二人。夫は長時間の通勤とやり甲斐のない仕事にだいぶ鬱屈しているものの、どうにか日々を過ごしている。一方、妻は孤独と虚しさに追い詰められており、そこから抜け出すために、「パリへの移住」を提案する。夫も偶々その日、ついなんとなく秘書と寝てしまったので、その後ろめたさも手伝ってか承諾してしまう。
 あまりにも無計画で、失敗するのが目に見えている「計画」である。アメリカが約束し続けてきた「素晴らしい人生」「素晴らしい未来」。『アメリカン・ビューティー』でも本作でも、そんなものは幻だと認めようとしないのは妻のほうである。
 タイトルの「レボリューショナリー・ロード」は、夫婦の家がある街路の名前だ。逼塞した日常に「革命」を起こしたくて、だから行先はパリなんだろうけど、結局革命は起きない、レボリューショナリー・ロードから脱出できない、という話だ(最終的に「脱出」はできるが、彼らが望んだかたちではない)。  

 イギリス人であるサム・メンデス監督が再び「アメリカの崩壊」を描いた、と言えるわけだが、『アメリカン・ビューティー』が悪趣味の上に悪趣味を重ねた挙句、最後は一つの「美」へと昇華されているのに対し、本作がそうなってないのは、やっぱりその悪趣味が観客の下世話な興味を煽る方向に行ってるからなんだろう。『タイタニック』で主人公カップルの「味方」だったキャシー・ベイツにああいう役をあてがうとか、本当に悪意に満ちている。
 ケイト・ウィンスレットはともかく、ディカプリオの役は『タイタニック』のジャックのなれの果てのようでもあるし。画家志望とかいって、あの画力じゃあな(あのデッサンを実際に描いたのはキャメロン監督本人だそうだが)。
 
 とはいえ、映像は美しいし演出はきめ細かいし、役者たちの演技合戦は素晴らしい。ディカプリオは「大人になれない男」しか演じられないわけだが、これだけバリエーションが豊富なら、もはや強みと言えるかもしれん。

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40歳の童貞男

 タイトルから推測されるとおりの話(という説明で充分だろう)。

 誰が童貞だろうが童貞じゃなかろうが、どうでもいいじゃん、と観る前も観てる途中も、観終わってからも思うんだが。なんにせよアメリカ人は、何をするにも「……ねばならない」で窮屈そうだな。
 ところどころシーンの繋がりがおかしいのが気になるが、このテーマのコメディにしては下品に落ちず、全体として悪くない。一番おもしろかったのは、最後のミュージカル・シーン。

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イミテーション・ゲーム

 そうか、アラン・チューリングって世間一般的には全然有名じゃないのか……

 チューリングの生涯が、エニグマ暗号解読を中心に手際よくまとめられている。ベネディクト・カンバーバッチはチューリング本人とは全然似てないんだが、その異相(なんか地球外生物っぽい)はチューリングの異才を文字どおり体現している。

 しかし、暗号解読者の上にコンピュータの父というプロフィールから予想される専門用語や論理の解説は、ほぼ皆無であった。確かに解りやすくはあるが、チューリングの暗号解読機がどういう仕組みで暗号を解読するのかという説明すら一切ない。なんか知らんが、でかくてごちゃごちゃした機械ががしゃこんがしゃこん動くと答えが出てくるという。
 ブラックボックス過ぎるというか、昔のB級SF映画に登場する謎の巨大機械みたいだなあ、とか思いながら観ていると、最後の最後にテロップで、チューリングの計算機がコンピュータの原型となった、と説明が出てくる。

 えー? じゃあ、チューリングがコンピュータの発明者だって知らない人にとっては、映画の間中ずっと、あの機械はブラックボックスそのもの、謎の巨大機械そのものだったわけか? 
 うーん、あの解読機械が「コンピュータの原型」だという前提を抜きにすると、チューリングは「数学ができるだけの狂人」にしか見えないのではなかろうか。解読に成功して、実はすごい機械だとわかった後も、暗号解読のほかに使い道のない、平時には無用の長物に見えるんじゃなかろうか……いや、実際に同時代の9割9分の人にとってはそうだったに違いないから、それでいいのか……?
 
 チューリングの同僚で、一度は婚約もする女性数学者がキーラ・ナイトレイ。最近、『ラブ・アクチュアリー』を見たばかりだったので、顎を突き出す癖がこの10年でだいぶ直ってるのがわかる。
 チューリングの上司の中佐役チャールズ・ダンスは『ドラキュラZERO』のマスター・ヴァンパイアの人か。特殊メイクをしてないバージョンではダンディな御老人という感じだったが、今回はチューリングの才能を理解しない頑固一徹オヤジ。
 

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