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屍者たちの帝国

 10月3日土曜日、河出書房新社から『日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』(編者:大森望)が刊行されます。
 前日(2日)の映画『屍者の帝国』公開に合わせ、『屍者の帝国』の世界をいわばシェアワールドとして書き下ろしたアンソロジーになります。
 執筆陣は私のほかに北原尚彦氏、坂永雄一氏、高野史生氏、津原泰水氏、藤井太洋氏、宮部みゆき氏、山田正紀氏の七名。
 藤井さんと私のほかは『伊藤計劃トリビュート』とはがらりと違う顔触れで、伊藤計劃氏の作品の幅広さ、奥行きがよく示されていると思います。  

 私の収録作のタイトルは「神の御名は黙して唱えよ」。「御名」は「みな」、「黙して」は「もだして」と読みます(本の中ではルビが振ってあります)。

71oi19zwl 『屍者たちの帝国』 

 Amazonでは各収録作の簡単な紹介もされていて、「神の御名は黙して唱えよ」は「屍者とイスラム神秘主義」。
 この企画のお話をいただいた時に、真っ先に浮かんだのが「ムスリムは屍者をどのように捉えるのだろうか」という疑問で、ムスリムにもいろんな立場がありますが、そこから選んだのが神秘主義というわけです。

 物語の時代は、『屍者の帝国』本編の約四半世紀前、クリミア戦争の英仏参戦から数ヵ月後の1854年秋、場所はクリミア半島、ではなく遠く離れたウラル山脈南麓の小さな町です。
『屍者の帝国』第一部Ⅸ、ハードカバー版152頁で、クラソートキンは「生者の屍者化実験」がロシア(および各国)でずっと以前から密かに行われてきたと述べていますが、拙作ではそれを背景としています。
 ロシア帝国の試行錯誤の一環にイスラム神秘主義がどう絡んでくるのか、お楽しみに。私もほかの方々の収録作が楽しみにしております。

 あと、頁数は「50枚を目安に、長くなっても短くなってもいい」とのことでしたので、少し長くして70枚弱です。
 ……なーんかな、やっぱり私は枚数を規定してもらえばそのとおりに書けるんだよな。自分で枚数を規定しても、全然守れない(際限なく長くなる)んだが。

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ヴィンセントが教えてくれたこと

 一応、本作および『グラン・トリノ』にネタバレ(?)注意。

 前評は「『グラン・トリノ』のダメ親父版」で、確かに冒頭からビル・マーレイのダメ親父ぶりが、これでもかとばかりに描かれる。
 しかし隣家に越してきた10歳の少年の面倒を見るようになってからは、確かに時給11ドルのシッター代目当てだし、競馬場やバーに連れ歩くが、それ以上のことはしないので、ダメと言ってもお子様も鑑賞できるレベル(売春婦との関係も、どうにか誤魔化し切るしな)。
 少年のお蔭で競馬で万馬券を当てた時も、一部をお祝い(それも大したものじゃない)に使っただけで残額はすべて少年の名義で開設した口座に預金する。
 
 

 これじゃただのいい人じゃん、まあやりすぎて「ダメ」を通り越して「クズ」になってしまうよりはマシかなあ、とか思いつつ観ていたが、後半、アルツハイマーの妻のために金が必要になると、少年に断りを入れることなく、その金を全額下ろしてしまう。そこまでならまだいいが、その金を競馬で全額すってしまう。
 ああ、うん。このくらいやらなきゃ、「ダメ親父」とは呼べんわな。と、ちょっと感心する。
 そこからはダメ親父にも少年にも不幸が次々と押し寄せ、「このままでは『グラン・トリノ』みたいに主人公の死で終わるのでは……」という不安すら抱かせる。  

 結論を言うと、その結末にならなかったのはいいんだが、金銭の問題はそのまま有耶無耶にされてしまうので、「ハートウォーミング」な結末が、取ってつけたようにしか見えなかったのであった。おもしろい要素はたくさんあったが、作品全体の評価はどうかと問われると微妙。
 ハッピーエンドって、バッドエンドより難しいんだよねー。  

『グラン・トリノ』感想

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情報受容体

「にんげんのくに」の主人公である異人は、己の五感を通じて収集した情報を「ある存在」に提供する「情報受容体」である。異人自身がそのことを知ったのは、10歳の時、幻覚剤を吸引させられたことがきっかけだった。
 異人は己が情報を提供する相手を「彼ら」と呼ぶが、それは「彼ら」の正体も情報収集の目的も一切不明だからである。情報受容体の脳が受容した情報はすべて、周囲の環境からのものも受容体自身の体内からのものも含めて、「彼ら」の許に送信されるが、その仕組みについても異人自身が知ることはできない。

 情報受容体から常時、「彼ら」に情報が送信されるだけでなく、情報受容が支障なく行われるよう、「彼ら」からも常時、受容体の感情・思考・行動を制限または補助する指令が送信されている。ただし受容体に常時張り付いているのは「彼ら」自身ではなく、コンピュータ・プログラムである。
 いずれにせよ、受容体とプログラムの間に最初から双方向の情報の遣り取りがあったため、強力な幻覚剤の作用によって新たな回路が開き、本来なら受容体には送信されない(もしくは、送信されても受容体自身には認識できない)情報までもが漏出するようになったのである。

 この「事故」はすでに、同じく情報受容体であった異人の母にも起きていた。二度と同じ事故が起きないようプログラムを修正し、受容体の記憶も書き換えることは「彼ら」にとって容易だと思われる。それをしていないということは、経過を観察するつもりなのであろう。
 幻覚剤を一度しか吸引しなかった母よりも、常習することになる異人のほうが遥かに大量の情報を随意に引き出せるようになっていくのだが、その彼でも、得られる情報は空間的にも時間的にも自分の周囲のことに限定され、それ以上のことはおぼろげにしか知ることはできない。特に、「彼ら」に関する情報は完全に遮断されている。
 そのことに異人が不満を抱かないのは、プログラムによって感情・思考を制限されているからである。制限されていると知ってなお不満を抱かないのも、制限のうちだ。

「にんげんのくに」の舞台はブラジル北部、ベネスエラとの国境地帯辺りである(作中、明記はしていないが間接的な記述はある)。ちなみに「人間」族のモデルであるヤノマミ族が居住するのもこの辺り。
 異人が知ることができた森の歴史と、これまでのHISTORIAシリーズで語られたことを突き合わせると、次のようになる。

 アマゾンの熱帯雨林は一見豊かなようでいて実は非常に脆弱で、いったん大規模に伐採すると不毛の地と化してしまうのだが、「森の外からやってきた人々」による森林破壊が時代とともに加速度的に拡大していったことは、現実の歴史と同じ。20世紀末からのオルタナティブ・ヒストリーにおいては、環境保護政策によって森林破壊が終結するだけでなく、改造微生物によって土壌の生産性が高められる。森は速やかに回復しただけでなく、かつてとは異なり、見た目どおりの豊穣の地となる。
 しかし22世紀末、世界各地で生物の変異による災害が始まる。アマゾンは最初に災害が発生した地域の一つで、それは植物の強毒化と異常繁殖という形で始まった。
 やがて原因は土壌微生物の変異であることが判明するが、かつての森林再生プロジェクトとの関係が解明されることはなかった。その頃にはもはや深刻なパンデミックが多発し、世界は混沌に陥っていたからである。

『グアルディア』の時代(2640年代)、災厄はすでに何世代も前から小康状態に入っていたにもかかわらず、南米北部の人々にとってアマゾンは未だに、猛毒植物だらけで疫病の温床というだけでなく、怪物と化した生き物(人間のなれの果てを含む)の巣窟であり、いつ異常繁殖を再開して自分たちの町や村を飲み込むかわからない魔境のままである。

「にんげんのくに」では時代設定の手掛かりは、災厄が何世代も前から小康状態にある、という以上のことは明かされず、これだけでは『グアルディア』の以前なのか以後なのかも不明である。
 明らかなのは、災厄の時代、アマゾンに住んでいた人々の大半は死ぬか逃げるかしたが、わずかな人々は生き延び、子孫を残したということである。それが「人間」族をはじめとする各部族であり、異人が知る限りでは、どの部族も新石器時代レベルにまで退行してしまっている。
 無脊椎動物から人間を含む脊椎動まで、森の外の人々が恐れるような怪物にはならなかったものの、変異は確実に起きており、最も顕著なのは植物毒に対する耐性である。森の外の住民にとって、森の植物の大半は未だに猛毒のままで、それが森と外界とを隔てる障壁の一つとなっている(最大の障壁は、外部の人々の森への恐怖であろう)。
 また植物毒(主にアルカロイド)の影響は、特に人間のニューロン・ネットワーク形成にも及んでおり、それは主に幻覚という形で表れている。

 なお本作は、いわゆる心霊現象も神秘体験もすべて「脳の誤作動による幻覚」というスタンスを取っている。ヒトの脳は生得的にこの誤作動が組み込まれているが、変異した森に住む人々は、向精神性のある植物毒を生涯摂取し続けるため、先天的にも後天的にもこの誤作動が非常に起きやすくなっている、という設定である。
 異人と彼の母が、情報受容体としての自覚を持ったのは幻覚剤の吸引によるが、おそらくこれは単なるきっかけ、もしくは最後の一押しに過ぎず、すでにそれ以前から脳の器質的な変異は形成されていたと思われる。

 異人の情報受容体としての機能は母から受け継いだものであり、母はその母から受け継いでいる。「彼ら」によって最初の情報受容体とされたのは、異人の祖母(母の母)である。
 彼女が生まれたのは、ギアナ高地のサバナ地帯にある小さな村の一つである。生後数日で「彼ら」によって情報受容体に改造されたのだが、その手段は今のところ不明である。  
 アマゾン低地のほとりに位置するこれらの村々でも、一握りの交易商人を例外として、森に入る者はいない。交易商人たちにしても、移動はカヌーに限り、交易相手も川沿いの部族だけ、携行食料以外は口にしないので、滞在もせいぜい数日に限られる。
 森の住民が森から出てくることもないが、これは開けた場所を恐れているからだと思われる。

 異人の祖母は幻覚剤を使用する機会が生涯なく、己の正体を知ることも生涯なかった。10歳で故郷を出て森に入ったのは好奇心のためだと信じ、森で一人で生き延びられたことに疑問を抱くこともなかった。
 彼女が危険を避けることができ、毒に中ることもなかったのは、プログラムによる干渉のお蔭だが、後者に関しては、森のほとりの住民であったために多少の耐性ができていたためでもある。サバナ地帯の植物にも、強毒化はいくらか及んでいたのである。

「彼ら」が情報受容体をアマゾンに送り込んだのは、「彼ら」の力をもってしても、アマゾンの詳細な情報を入手する手段がほかにないからだ、と異人は理解している。 「彼ら」が異人の祖母のほかにも情報受容体を造ったのか否か、異人は知ることができない。森の外がどうなっているのかもまた、知ることができない。

 情報受容体は、すでにHISTORIAシリーズに登場している。『ミカイールの階梯』のハーフェズである。「ハーフェズ」はアラビア語「ハーフィズ」のペルシア語訛りで、「保管者」。転じて「保護者/守護者」、さらには「記憶(を保つ)者」を意味する。
 現実のイスラム世界においては、ハーフィズ/ハーフェズはクルアーンを丸暗記した者に与えられる称号である。

『ミカイールの階梯』(2440年代)におけるハーフェズは、アポカリプス以前の文明「絶対平和」の知識と技術を保有するミカイリー一族の間に生まれてくる、ある遺伝子(「ハーフェズ遺伝子」と呼ばれる)の持ち主である。
 特殊な遺伝子といっても、それは表立った形質は何一つ現さない。ハーフェズ遺伝子はX染色体上にあるが、一族の伝承によればハーフェズ遺伝子を二つ持つ者(普通はハーフェズを両親に持つ娘)は、一度だけ知性機械ミカイールにアクセスすることができるとされ、「階梯(メァラージュ)」と呼ばれる(階梯一人につき一度ではなく、一度でもアクセスしてしまえばお終いである)。  もう一つ、ハーフェズたちの脳が受容する情報は「管理者たち」へ送信されている、という伝承もあるのだが、どうやって送信されているのか、そもそも本当に送信されているのか、ハーフェズ自身を含めて誰も知らない。
 そのため一族は後者の言い伝えを重視せず、また前者の伝承についても試しにアクセスしてみるわけにもいかないので、ハーフェズを失われた文明の象徴とのみ見做してきた。    

 ミカイリー一族は、「絶対平和」体制が崩壊を始めた22世紀末、密かにハーフェズを開発・製造した科学者たちの末裔である。自ら生み出した遺伝子改造体を、自らの血統に組み込むことで継代してきたのだ。
 彼らにハーフェズを開発させたのは、「遺伝子管理局」の「管理者たち」である。絶対平和を支配する組織とそのトップだが、絶対平和当時には実在しないとされていた。絶対平和体制を運営するのは、12基のスーパーコンピューター知性機械に補佐された各国の協議だったからだ。

 そもそも遺伝子管理局や管理者たちの存在を最初に唱えたのは、21世紀初頭の旧体制派の陰謀論者たちだった。絶対平和確立後は、冗談の種として見做されていなかった。
  しかし遺伝子管理局は妄想だったが、12基の知性機械を支配する管理者たちは存在した。絶対平和が揺るぎなかった間の活動は一切知られていないが、22世紀末、ウイルス禍とそれによる社会不安が広がり始めると、絶対平和崩壊を見越した活動を密かに開始している。それが「ハーフェズ」、そして「生体端末」の開発である。

『グアルディア』と『ラ・イストリア』に登場する生体端末は、中南米地域を管轄する知性機械サンティアゴの、文字どおり生きた端末である。中央アジア・西アジアの知性機械ミカイールの階梯と違い、何度でもアクセスでき、ある程度ならサンティアゴを操作することすらできる。
 サンティアゴに生体端末が造られたのに、ミカイールには造られなかった理由は、それぞれのCPUの特性の違いによる。サンティアゴにあってミカイールにないこの特性は、残りの10基にも存在しないため、生体端末が造られた知性機械はサンティアゴ1基だけ、ということになる。

 生体端末にしてもハーフェズ/階梯にしても、その存在意義は「文明の遺産の守り手」たることだと考えられてきた。
 また管理者たちは、2239年に「封じ込めプログラム」を発動させて以後、完全に消息を絶っており、2440年代の中央アジア(『ミカイールの階梯』)でも2640年代の中南米(『グアルディア』)でも、彼らがなんらかの形で存在し続けていることを示す手掛かりは一切ない。  

 しかし「にんげんのくに」で明らかになったのは、管理者たちは永く沈黙してきただけだったということである。さらに、生体端末やハーフェズ/階梯が「文明の遺産の守り手」だという解釈は誤りもしくは事実の一部でしかなく、管理者たちの真の目的は、災厄によって変容する世界を観察することだった、ということだ(生体端末の脳も、ハーフェズや情報受容体と同じく情報は双方向である)。
 このことから、残りの10の地域でも、ハーフェズに相当する遺伝子改造体が造られたのではないか、という推測が成り立つ。

 以下、ハーフェズや生体端末と「にんげんのくに」の情報受容体との違いは何か、そもそも中南米地域には生体端末があるのに新たに情報受容体を投入したのは何か、「にんげんのくに」のサブタイトル(Le Milieu Humain)の意味は何か、といった問題については、『グアルディア』のネタバレや、まだ作中で語られていない設定に関することになるので、それでもいいという方はどうぞ。

関連記事: 「にんげんのくに」  「遺伝子管理局」  「大災厄」 

設定集INDEX

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アクロス・ザ・ユニバース

 ジュリー・テイモア監督作でこれ以前に観たのは『タイタス』と『フリーダ』。ミュージカルはこれが初めてだが、これが一番よい。

『タイタス』は素晴らしい開幕で期待させておいて、いざ物語が始まるとひたすらうんざりさせられ、『フリーダ』はところどころよかったものの、全体としては伝記映画にありがちな散漫な印象。
 両者に共通なのは「奇を衒ってる」感で、この監督が演出した舞台は観たことないが、その援用という感じで、映画という表現様式の中で部分的にはプラスに働いているが、全体としてはチグハグというかギクシャクというか。
 舞台の様式美を芸もなくそのまま映画に持ち込んでいるというわけでもないんだが、どっちみちしっくり来てないという。

 今回、上記のような違和感がなかったのは、ミュージカルだったからだろう。舞台上のミュージカルの様式美は、映画のミュージカルにも馴染みやすいからな。加えて前の2作よりも遥かに脚本の完成度が高い。
 まあ、1960年代の田舎(リヴァプール)から都会(ニューヨーク)に出てきた若者が、ラブ&ピースに翻弄され、やがて幻滅し、という紋切り型ではあるんだが、これも一つの様式美だとも言え、その様式美の中でビートルズの名曲の数々がたいへん効果的に使われている。
 ミュージカル好きだから余計にそう思うんだろうけど、もともとミュージカルの人なんだから、前の2作ももっとミュージカル要素を入れればよかったのに。
 
 あまり評価していなかった俳優や監督の新たな一面を見つけると、それだけで評価が上がってしまうのだが、その分を差し引いても良作。

『フリーダ』感想

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にんげんのくに

『伊藤計劃トリビュート』所収。
「セカイ、蛮族、ぼく」へのオマージュである。というのは嘘だが、『トリビュート』企画が影も形もなかった2012年の執筆時点で、「現代的な自意識を持ってるのに蛮族として生きなきゃいけない主人公って、『セカイ、蛮族、ぼく』みたいだな」と思っていたのは事実だ。

 蛮族も蛮族、「にんげんのくに」に登場する「人間」族(作中では「人間」に傍点を振るが、ブログでそれをやると煩わしいので「」で代用)のモデルは、「世界で最も凶暴な部族」とまで言われた北部アマゾンのヤノマミ族をモデルとしている。ちなみに「ヤノマミ」(方言によっては「ヤノマモ」、「ヤノアマ」など)は彼らの言葉で「人間」の意だ。
 ただし「にんげんのくに」後記で述べたように、ヤノマミ族が「凶暴」だったのは、すでに過去の話である。今でも文化人類学や進化論等のテキストで「原始的(「伝統的」と表現されることが多いが、要は同じだ)な暴力」の例として彼らはしばしば取り上げられるが、挙げられている事例はほぼエレナ・ヴァレロとナポレオン・シャグノンの報告に基づいている。

 エレナ・ヴァレロは11歳頃にヤノマミ族に捕らわれたブラジル人女性で、1956年に白人社会に逃げ戻るまでおよそ20年間(正確な年数は不明)、彼らの許で暮らしていた。
 1960年代にヤノマミ族を調査したシャグノンの報告も殺伐とした暴力に満ちているが、彼はあくまで外部からの観察者であり、対象を冷静に分析している。しかし曲がりなりにもヤノマミ族の一員として生きたヴァレロの証言は、主観的である分、凄まじく生々しい。

 上述したように、この「暴力の文化」は文化人類学や進化論の観点から詳細に分析されており、そこから見えてくるのは、「暴力の文化」それ自体がほとんど自律的・自動的に稼働し、主体者であるはずのヤノマミたちを暴力に駆り立てている構図である。
 それはそれで慄然とさせられるのではあるが、エレナ・ヴァレロが解釈も分析もなく、文字どおり見たままに語る「ヤノマミ=人間」の暴力は、完全に不条理の域にまで達しており、読んでいて頭がくらくらする。
 なお、エレナ・ヴァレロはヤノマミ族の間では「ナパニュマ」と呼ばれていた。「ナパ」(方言によっては「ナブ」とも)は「ヤノマミ=人間」以外のものである禽獣、精霊、他所者の総称で「人外/異人」、「ニュマ」は「女」、すなわち「異人女」である。

 60年代末から調査を始めたジャック・リゾーや70年代にヤノマミ族の村に立ち寄った日本の探検隊の報告などからは、彼らの「暴力の文化」が急速に失われつつあったことが伺われる。
 この変化は外部からの圧力によるもので、自主的なものではない。これに関しては、「伝統文化の破壊」の是非をめぐる論争が成立しそうで成立しない。彼らの「伝統」文化とされるものは、19世紀後半に極めて短期間に形成されたものだからだ。
 したがって、ヤノマミ族の暴力が「原始的」「伝統的」であるという定義には問題があるのだが、少なくとも「文明」が介在しない「人間の根源的な暴力の一形態」であるのは確かだろう。文明は介在しなくても「文化」は介在する。それが「人間の暴力」である。

 そんな「文明から切り離された暴力」を「現代文明の暴力とその延長」と対比させる、というのが、連作〈The Show Must Go On〉の当初の構想だった。そして「文明から切り離された暴力」は、退行した南米アマゾンを旅する少年の物語になる予定だった。つまり、「旅の終わり」までを書き切る予定だったのである。
 が、まずは少年が旅立つまでのエピソードとして「人間」族の物語を書き始めてみると、それだけで中篇一本になることが判明した。

 この「にんげんのくに」だけでも、「現代文明の暴力とその延長」との対比は成立する。『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』に収録されることになる四篇+エピローグでは、人間が「亜人」という「人より一段劣った存在」を造り出すことによって全人類の平和と平等を実現するが、「人間」族と「異人」との関係がそれに対比されていることは言うまでもない。
  しかし、「にんげんのくに」が連作の中でカラーが違いすぎるのは確かで、それにやはり「旅の終わり」まで書き切りたく、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の収録は見送ったのであった。
 各章ごとの独立性が比較的高い、連作風の長編になる予定だが、「にんげんのくに」が単独で読めるのに対し、後続の章はHISTORIAシリーズ全体の物語に大きく関わっていく予定である。

 この設定集では原則として、発表された作品についてのみ解説し、「今後の構想」等には言及しないのですが、「にんげんのくに」の続き発表できたらいいなあ、という希望を籠めて、以下、興味のある方だけどうぞ。
 

設定集INDEX

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エド・ウッドだったらどうしよう

 座談会(『SFマガジン」10月号』)でちょっと触れたことだが、私は自分の作品の良し悪しが判断できない。なぜかと言うと、執筆中の私の意識の一部、超自我だかイドだか知らんが、それが常に囁くのである。「エド・ウッドだったらどうしよう」

 この場合、エド・ウッドは最低監督本人ではなく、ティム・バートンが『エド・ウッド』で描いたところのキャラクターである。というのも、私はエド・ウッド作品を一作たりとも観たことがない。仮にもクリエイターに言及するのに作品を観たことがないというのは褒められた態度ではないと承知はしているが、何しろ実際に観た人(しかもB級C級ホラーマニア)が色を失った顔で「拷問だった」と言うのを聞けば、危うきに近寄る気も起きないというものである。

 ともあれ、『エド・ウッド』のエド・ウッドである。
 作中、彼はどれだけグダグダの撮影現場だろうと、「素晴らしい!」「完璧だ!」を連発していた。どうやら目の前の光景ではなく、自分の脳内にしか存在しない光景を見ていたと思われる。

 私は小説を書くのが好きである。自分の脳内にしかない形のないものを、文章で表現するのが大好きだ。とりわけ、筆が乗ってフロー状態に達した時の高揚は、何ものにも代えがたい。
 しかしそんな時でさえ、意識の一部が囁くのである。「エド・ウッドだったらどうしよう」  つまり、『エド・ウッド』のエド・ウッドと同じく、脳内にしか存在しないものを形にするにあたって、実際に自分が拵えたものではなく、あくまで脳内にしか存在しないものしか見えていないのではないか、と。

 もちろんこれは、今まで発表してきた作品がエド・ウッド並みにひどいなどと思っているという意味ではない。だって発表できるかどうかを判断しているのは、私じゃなくてプロの編集者の方々ですから(ブログに置いてあるお蔵出し「鴉の右目の物語」も、佐藤亜紀先生がおもしろいと仰ってくださったものですよ)。
「発表できる価値がある」と保障してもらったら、そこで「エド・ウッドだったらどうしよう」はお終いである。読んでくださった方が、気に入ってくだされば私も嬉しい。そうでなければ、残念だが仕方ない。  

 で、次の作品に取り掛かって同じことを繰り返す。対処法は「無視」しかないのだが、調子の悪い時はこれが難しい。筆の進みが遅くても、フロー状態に向けて調子が上がりつつあるなら、苦しいが耐えられる。
 では調子が上がるどころか下がる一方だとどうなるか。「エド・ウッドだったらどうしよう」の囁きは大きく、強くなり、やがて「エド・ウッドかもしれない」に変わる。 この段階はまだいい。頭の中にあるものを、どうにか文章化できている感覚はあるのだ。できていないかもしれない、というのは、あくまで疑念だ。

 しかしそのまま調子が下がっていくと、ついには自分の脳内の光景やプロットを文章で表現できているという感覚が一切なくなる。「エド・ウッドだったらどうしよう」「エド・ウッドかもしれない」どころではない。闇の中、石ころだらけの地べたを這いずるような精神状態は体調にも如実に反映して、ますます不調になる。
 それでも、書き続けるしかない。書いていれば、いずれは調子が戻ってくる。すでに数百枚書いたものを全部反故にして最初から書き直し、ということもあるが、とにかく書き続ける。調子が戻ってくると「エド・ウッドだったらどうしよう」も戻ってくるが、ひたすら無視して書き続ける。

 毎回そうやって書いてるわけだが、短篇だと今のところそれはない。一気に書き上げてしまえるからだろう。中篇になると、もうダメだ。
 例外は、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』所収の中篇「Show Must Go On, and…」。あれを書いたのは『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の刊行が無期延期になった直後で、そのストレスかアトピーが超悪化して、塗り薬も飲み薬もまったく効かなくなり、痒みで夜眠れない。 幸い日中は痒みがマシで、夜も起きて活動していれば耐えられるのが判ったので、昼夜を逆転させることで執筆は続けることができた。
 しかし本来は完全な朝型なので、睡眠時間は足りていても、起きている間中、頭の中で「ぐわああああああん、ぐわああああああん」と割れ鐘が鳴り響いている状態。運動もできないから、体力は落ちる一方。

  そんな有様なのに、なぜか執筆は非常に捗った。余計なことを一切考えられなくなったせいというか、お蔭だろう。「エド・ウッドだったらどうしよう」どころか「本が出なかったらどうしよう」とすら考えなかった。最悪な体調も妨げにならなかった。ただただ書き続けた。
 最低限の日常生活を維持するほかは、小説を書くためだけに機能していたあの2ヵ月間、本当に幸せだった。あんな幸せは二度と要らんがな。

 というわけでこれからも、「エド・ウッドだったらどうしよう」を繰り返すんだろう。

 

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アイアンクラッド

 マグナカルタというと、世界史の授業で習うのは、1215年、貴族が結託してジョン王に署名させる、というところまでだ。
  しかし、そもそもマグナカルタに署名させられるような王が、素直にマグナカルタを守るはずもなく、貴族たちが兵を引くと早速、反撃に出る。という史実が題材。
 ジョン王はリチャード獅子心王の弟なので、時系列でいくと『キング・オブ・ヘブン』『ロビン・フッド』の次に位置する。この二作に比べるとだいぶ低予算なんだが、その分、血みどろで如何にも暗黒の中世である。

  ジョン王を演じるのがポール・ジアマッティ。マグナカルタを支持する貴族たちを、ジョン王がデンマークの傭兵部隊を使って次々潰していくので、ロチェスター城に立て籠もって戦う貴族がブライアン・コックス。
 ブライアン・コックスに城を占拠され、否応なしに反乱軍の一員とされるロチェスター城主がデレク・ジャコビ。ブライアン・コックスの配下の一人がジェイソン・フレミング。貴族側につく大司教がチャールズ・ダンス。
 主役のテンプル騎士のジェームズ・ピュアフォイは『ロックユー!』でエドワード黒太子だったくらいしか印象がなく、今回もぱっとしないとまでは言わんが、ほかの役者でも構わないような程度でしかなかったのに対し、脇役が妙に渋い役者揃い。特にジョン王のジアマッティはこれまでコミカルな印象が強かったが、今回は無能な上に悪逆な「英国史上最低の王」を堂々と演じている。

 開幕して直ちに主人公とジョン王に因縁が生じ、反乱軍がロチェスター城を乗っ取るまで、とっとと話が進み、ジョン王とデンマークの傭兵部隊による攻城戦が始まる。
 王の軍は投石機で石や焼夷弾をガンガン撃ち込み、梯子をかけて城壁を乗り越えようとすると、反乱軍は煮えたぎった油を注いで対抗する。そこで攻城塔が持ち出されると、防御側も投石機を作って対抗する。

 いや、やっぱり攻城兵器っていいですね。 投石機の飛距離が誇張されてるとか(実際の最大飛距離は400メートルもなかったのに、明らかに500メートル以上飛んでる)、焼夷弾が着弾と同時に爆発炎上するとか、投石機の建造には相当な知識と技能が必要なのに反乱側は簡単に作ってしまうとか(王の軍にはちゃんと技師がいる)、移動してくる攻城塔に城壁の内側から目視もせんと弾を撃ってどうやって命中させたんだとか(籠城側の投石機は普通、城壁や塔の上に据えられえる)、そういう映画の嘘はあるが、時代考証無視の嘘兵器は出てこない。いや、スチームパンクだったら嘘兵器は大歓迎なんだが、考証をある程度重視した史劇でそれはやってほしくないからね。

 欲を言えば、『キングダム・オブ・ヘブン』みたいに攻城兵器をもっと間近でじっくり撮ってもらいたかったが、その代わり低予算の特権とばかりに飛んできた石弾が兵士の頭を直撃したりする(ご丁寧に死体も映す)。
 そして上から落とされる石や油にも負けずに城壁を乗り越えてきた傭兵たちは、何しろデンマーク人なのでまるっきりバイキングである。彼らは異教徒の貴族とその配下で、異教徒なので教皇に領地や財産を取り上げられそうになっていて、ジョン王から教皇に取り成してもらう代わりにこき使われているという、実はかなり気の毒な人々なのだった。でも異教徒でデンマーク人なので、まるっきり蛮族で、青いペインティングをして巨大な斧を振り回して闘うのであった。

 しかし中盤を過ぎ、籠城戦になると途端に話がだれる。糧食が尽きて飢餓状態だというのに、全然そうは見えないというのも問題だが(痩せ衰えろとまでは言わんが、せめて少しくらい脂肪を落としてくれ)、籠城中だって、外部と連絡を取ろうとするとか、いろいろできることはあるだろう。しょうもないロマンスでお茶を濁すな。  

 前半後半と2日に分けて観たせいで余計に中だるみの印象が強かったかもしれん。まあそこを過ぎると、坑道を掘って塔の基部を崩したりと、滅多にお目に掛かれないような映像を見せてくれる。

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