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にんげんのくに

『伊藤計劃トリビュート』所収。
「セカイ、蛮族、ぼく」へのオマージュである。というのは嘘だが、『トリビュート』企画が影も形もなかった2012年の執筆時点で、「現代的な自意識を持ってるのに蛮族として生きなきゃいけない主人公って、『セカイ、蛮族、ぼく』みたいだな」と思っていたのは事実だ。

 蛮族も蛮族、「にんげんのくに」に登場する「人間」族(作中では「人間」に傍点を振るが、ブログでそれをやると煩わしいので「」で代用)のモデルは、「世界で最も凶暴な部族」とまで言われた北部アマゾンのヤノマミ族をモデルとしている。ちなみに「ヤノマミ」(方言によっては「ヤノマモ」、「ヤノアマ」など)は彼らの言葉で「人間」の意だ。
 ただし「にんげんのくに」後記で述べたように、ヤノマミ族が「凶暴」だったのは、すでに過去の話である。今でも文化人類学や進化論等のテキストで「原始的(「伝統的」と表現されることが多いが、要は同じだ)な暴力」の例として彼らはしばしば取り上げられるが、挙げられている事例はほぼエレナ・ヴァレロとナポレオン・シャグノンの報告に基づいている。

 エレナ・ヴァレロは11歳頃にヤノマミ族に捕らわれたブラジル人女性で、1956年に白人社会に逃げ戻るまでおよそ20年間(正確な年数は不明)、彼らの許で暮らしていた。
 1960年代にヤノマミ族を調査したシャグノンの報告も殺伐とした暴力に満ちているが、彼はあくまで外部からの観察者であり、対象を冷静に分析している。しかし曲がりなりにもヤノマミ族の一員として生きたヴァレロの証言は、主観的である分、凄まじく生々しい。

 上述したように、この「暴力の文化」は文化人類学や進化論の観点から詳細に分析されており、そこから見えてくるのは、「暴力の文化」それ自体がほとんど自律的・自動的に稼働し、主体者であるはずのヤノマミたちを暴力に駆り立てている構図である。
 それはそれで慄然とさせられるのではあるが、エレナ・ヴァレロが解釈も分析もなく、文字どおり見たままに語る「ヤノマミ=人間」の暴力は、完全に不条理の域にまで達しており、読んでいて頭がくらくらする。
 なお、エレナ・ヴァレロはヤノマミ族の間では「ナパニュマ」と呼ばれていた。「ナパ」(方言によっては「ナブ」とも)は「ヤノマミ=人間」以外のものである禽獣、精霊、他所者の総称で「人外/異人」、「ニュマ」は「女」、すなわち「異人女」である。

 60年代末から調査を始めたジャック・リゾーや70年代にヤノマミ族の村に立ち寄った日本の探検隊の報告などからは、彼らの「暴力の文化」が急速に失われつつあったことが伺われる。
 この変化は外部からの圧力によるもので、自主的なものではない。これに関しては、「伝統文化の破壊」の是非をめぐる論争が成立しそうで成立しない。彼らの「伝統」文化とされるものは、19世紀後半に極めて短期間に形成されたものだからだ。
 したがって、ヤノマミ族の暴力が「原始的」「伝統的」であるという定義には問題があるのだが、少なくとも「文明」が介在しない「人間の根源的な暴力の一形態」であるのは確かだろう。文明は介在しなくても「文化」は介在する。それが「人間の暴力」である。

 そんな「文明から切り離された暴力」を「現代文明の暴力とその延長」と対比させる、というのが、連作〈The Show Must Go On〉の当初の構想だった。そして「文明から切り離された暴力」は、退行した南米アマゾンを旅する少年の物語になる予定だった。つまり、「旅の終わり」までを書き切る予定だったのである。
 が、まずは少年が旅立つまでのエピソードとして「人間」族の物語を書き始めてみると、それだけで中篇一本になることが判明した。

 この「にんげんのくに」だけでも、「現代文明の暴力とその延長」との対比は成立する。『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』に収録されることになる四篇+エピローグでは、人間が「亜人」という「人より一段劣った存在」を造り出すことによって全人類の平和と平等を実現するが、「人間」族と「異人」との関係がそれに対比されていることは言うまでもない。
  しかし、「にんげんのくに」が連作の中でカラーが違いすぎるのは確かで、それにやはり「旅の終わり」まで書き切りたく、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の収録は見送ったのであった。
 各章ごとの独立性が比較的高い、連作風の長編になる予定だが、「にんげんのくに」が単独で読めるのに対し、後続の章はHISTORIAシリーズ全体の物語に大きく関わっていく予定である。

 この設定集では原則として、発表された作品についてのみ解説し、「今後の構想」等には言及しないのですが、「にんげんのくに」の続き発表できたらいいなあ、という希望を籠めて、以下、興味のある方だけどうぞ。
 

設定集INDEX

 HISTORIAシリーズには、デビュー以前からあるプロットやらネタやらが取り込まれていて、「にんげんのくに」も高校時代まで遡ることができる。といっても当時は小説を書けなかったので、漠然としたイメージやプロットを弄んでいただけなんだが。
 文明崩壊後の変異した密林に生きる退行した部族、その一人である少女が、自分にだけ聞こえる「声」に導かれて密林の奥深くへと向かい、木々に埋もれた太古の遺跡で半ば生物、半ば機械の「狂気の神」と邂逅する――というイメージがあっただけで、それ以上設定を詰めることもなく長年放置していた(つまり「構想○○年」などという大層なものではない)。  

 このうち「遺跡に閉じ込められた、半ば生物、半ば機械の狂気の神」のモチーフは、十年余りを経て『グアルディア』に組み込んだ。
 さらに『グアルディア』の結末で、ギアナ高地のサバンナを南北に続く高架道路(パンアメリカン・ハイウェイ)の遺跡、という光景を描いた時、「この高架道路の上に独自の生態系ができていて、人が住んでたりしたらおもしろいな」と思ったのであった。

 パンアメリカン・ハイウェイの遺跡を高架道路としたのは、崩壊前の文明(「絶対平和」)は「環境に優しい」という設定がすでにあったからだ。とはいえ、普通の環境では高架道路の高さは十数メートルもあれば充分だ。その程度では「隔絶した環境」とは到底言えず、「独自の生態系」が形成されるには無理がある。
 しかしギアナ高地をそのまま南へ行くと、アマゾンの密林に入る。密林の生態系に影響を及ぼさないようにするなら、高架道路は林冠部より高くする必要がある。それなら立派に「隔絶された環境」だ。  

 この思い付きと、放置したままだった「変異した密林を旅する少女」のプロットを組み合わせたところで、思い出したのが中井紀夫氏の「見果てぬ風」である。『SFマガジン』で読んで、強い感銘を受けた作品だ。
 長大な壁が聳える世界。なぜ、なんのためにあるのか知る者は誰もいなかったが、ある日、一人の少年が壁に沿って歩き出す。歩き続ける彼が、最後に辿り着いた場所は……
「見果てぬ風」が掲載されたのが『SFマガジン』87年3月号だから、私は中二だ。「密林を旅する少女」のプロットを思いついたのはそれより後だが、その際、「見果てぬ風」を意識していたかどうかは思い出せない。
 いずれにせよ、それから十数年後、「なぜそこにあるのか誰も知らない巨大な構築物」である「高架道路の遺跡」を組み込んだことで、「見果てぬ風」の「壁」が思い出されたのだろう。  
 密林の奥深くへ向かう少女の「旅」は、そう長いものではなく、せいぜい数週間か数か月を漠然と想定していたのだが、「見果てぬ風」のように、一生とは言わないものの少なくとも数年がかりの旅にしよう、その途中でさまざまな人々に出会う旅にしよう、主人公も少年にしよう、と決めた。  

 ……その時点でも、まだ短篇に収まると思ってたんですよ。だって「見果てぬ風」が100枚だし。読みの甘さは毎度のことですが、いつか治るものなんだろうか。

 というわけで、「にんげんのくに」で「人間」族の許から旅立った異人は、アマゾンの大樹海を遍歴し、最終的にアマゾンの深奥部で「狂気の神」と邂逅する予定です。「狂気の神」が「半ば生物、半ば機械で、遺跡に閉じ込められている」という設定は『グアルディア』で使ってしまったので、また別ものになりますが。
 しかしとりあえず次回は、高架道路の遺跡です。一昨年くらいから吹聴してた、「食人族」ものですよ。やはりジャングルが舞台ですから、水曜スペシャルとかモンド映画とかそういう感じで。  

 異人の使命や副題(Le Milieu Humain)についての解説は、また今度。

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