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屍者の帝国

 映画化第一弾。原作そのままの部分が、たとえばフライデーが髪に花を飾られるといった些細なカットでさえ奇妙に印象に残ったのだが、中でも特筆すべきはクラソートキンの台詞である。

「人間には物語が必要なのです。血沸き、肉躍る物語がね。大体、そんな理屈(*引用者註:屍兵を実際に戦わさずとも机上の計算だけで済むだろう、というバーナビーの意見)は大半の者には理解できない。理解できないものは存在しない。手で触れ、見ることのできる物以外はね。物語はわたしたちの愚かしさから生まれ、痴愚を肯定し続ける」
 
 これは原作(単行本版)96頁からの引用だが、映画の中の台詞もおおむねこのとおりだったはずだ。
 原作をスクリーン上に移し替える上での数多の改変には、一つ一つそれ相応の理由があり、また賛否両論があるだろうが、それらすべてを原作のままのこの台詞が要約している。

 屍者の動きとチャールズ・バベッジをはじめとする解析機関のデザインは、見事の一言に尽きる。特に前者は、アニメだからこそ可能な表現だろう。

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マッド・マックス 怒りのデスロード

 夏バテで思考力が低下してて見逃した! 痛恨! と思ってたら近所で当別上映してた!

  このシリーズは1作目を遠い昔(確か中学の時)にTVで一度観たきりで、『北斗の拳』みたいだったということしか憶えていない。いや、こっちが元祖だというのは当時から知ってましたが。

 そんなわけで、ほとんどまっさらな状態で鑑賞。始まってすぐに、おお、『北斗の拳』だ。
 何が、というと、単に核戦争後の荒廃した世界で世紀末で悪役が独裁者で、というだけではなくて、デザインが、である。『北斗の拳』に限らず、というか、それも含めて、実に1970年代末から80年代前半っぽいデザイン。
 それはヘヴィメタだったりギーガーだったり『AKIRA』だったり『ブレードランナー』だったり『デューン』(映画版)だったり『スターウォーズ』(特に『新たなる希望』と『帝国の逆襲』)だったり、とにかく「そういうテイスト」が、全編隈なく行き渡っている。  

 この懐かしくも一周回ってむしろ新鮮なデザインを、21世紀の新技術が下支えし、さらにその背景にオーストラリアの凄まじく荒涼とした自然が広がることで、誰も見たことのない光景が創り上げられている。その光景がそのまま作品の世界観となっていて、余計な説明は何も要らない。
 物語も余計な説明が挟まれることなしに、過激なアクションに次ぐアクションで、どんどん転がっていくのである。

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アタック・ザ・ブロック

 
 この映画について初めて知ったのは、英国の低所得層向け団地(ブロック)が治安の悪さで問題になっているというニュースを読んだ、わりとすぐ後だったと記憶している。というわけで、ただでさえ治安の悪いブロックに、凶暴なエイリアンが大挙して押しかけてくるという低予算SFホラー。

 低予算とはいえ脚本はしっかりしてるし、英国社会への風刺も効いているし、何より「なぜブロックなんかにエイリアンが」という疑問への答えがきちんと用意されている。これはSFとして非常に大事である。
 エイリアンもシンプルなデザインながら凶悪で、「子供と犬」も容赦なく殺す。この辺、英国映画だなあ。

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「神の御名は黙して唱えよ」

「かみのみなはもだしてとなえよ」。『書き下ろし日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』(大森望・編 河出書房新社)収録。
 作品解説というか作品の背景の解説ですが、とりあえず「お知らせ」カテゴリーに入れておきます。

 まず時代ですが、クリミア戦争に英仏が参戦してから数ヵ月後の1854年秋、ロシア帝国はウラル山脈南麓です。
『屍者の帝国』の時代(1878年)では、すでにロシアは南のカフカス山岳地帯と東のカザフ草原の反乱を平定し、ブハラやヒヴァといった中央アジアのオアシス諸国も征服し、そこから英領インドを狙っていますが、拙作の1854年では、オアシス諸国は独立を保ち、カフカスとカザフは一応ロシア領になっているものの反乱が続き……という状況です。

 ウラル山脈南麓は、当時のロシア帝国の中央アジア方面への橋頭保でした。ロシア人がオレンブルク要塞を拠点に軍事作戦を展開する一方で、ロシア帝国内のタタール人(モンゴル帝国の遺民の末裔)は要塞近郊の町カルガルを拠点に、東西交易に従事しました。
 カザフ草原の遊牧民やオアシス農耕民たちは、ロシア人は信用しませんでしたが、同じロシア臣民でもムスリムのタタール人は信用したので、交易が成り立ったのです。
 
 拙作の舞台「ウラル南麓の小さな町」は架空のものですが、このカルガルをモデルにしているので、登場人物の一人、導師カルガリーにその名を留めています。
 アラビア語では地名の語尾に「y(イー)」を付けると「○○に縁がある人」という意味になります。たとえば日本は「ヤーバーン」(「ジャパン」のアラビア語的発音)なので、日本人は「ヤーバーニー」。「y」を付ける地名は、国名に限りません。
 で、この「地名+y」は姓としても使われます(アラビア語圏だけでなく、ペルシア語圏やトルコ語圏でも)。だから「カルガリー」師はカルガル出身者、またはカルガルに住んでいる/住んでいた人、ということになります。
 
 どのキャラクターにも特にモデルはいませんが、東洋学者のデムスキー教授は、エドワード・サイードが言うところの「オリエンタリスト」をモデルにしたというか、戯画化したキャラクターです。つまり東洋について非常に造詣が深いが、基本的に東洋を蔑視していて、その知識でもって国家の帝国主義に進んで奉仕する、という(実際の19世紀の東洋学者がどうだったかはともかくとして)。
 作中、「東洋学者」「東洋学」に繰り返し「オリエンタリスト」「オリエンタリズム」とルビを振っているのは、そのことの強調、というかデムスキー教授が実はそういうキャラなんだよ、という伏線だったのでした。
 
 物語の鍵となるのは、イスラム神秘主義です。登場する教団は架空のものですが、実在の教団をモデルにしています。
 イスラム神秘主義にもいろんな教団があって、弱小なものやすでに消えてしまったものも含めて無数にありますが、どの教団も目的はただ一つ、「神との一体化」です。
 これはつまり、「意識」を神と一つにする、ということですが、もちろん神は人間より遥かに偉大な存在なので、信者の意識はその中に溶け込んでしまう、消えてしまう、ということで、その状態を「ファナー」と呼びます。アラビア語で「消滅」という意味です。
 この「神の大いなる存在の中に己が溶け込んで消えてしまう」感覚は素晴らしいものだそうで、多くの宗教に共通する宗教的恍惚状態、いわゆる「法悦」ですね。

 イスラム神秘主義については、『ミカイールの階梯』を書いた時にかなり調べたのですが、その後、さらに詳しく調べる機会があって、「我という意識は地獄」だから、その消滅を願うのだ、というルーミーの言葉を知ったのは、その時です。
 そのことについて、伊藤計劃さんと話したかった……というより、「今度会ったら話そう」とつい思ってしまって、ああ、「今度」なんかないんだ、と……

 この企画に参加させていただくにあたって、その時の気持ちを形にしよう、というつもりはまったくなくて、ただ「ムスリムにとって屍者はどんな存在だったか」という興味を追求したら、「神の御名は黙して唱えよ」になっただけですが、脱稿目前のある日、不意に、そうか、この小説はあの時のあの気持ちを形にしたものだったのか、と気が付いた次第です。
 なんと言うか、小説家ってこんなこともできるんだなあ、と十年余りも小説家をやっていて初めて知ったのでした。

 上記のルーミーは、「旋舞教団」として有名なメヴレヴィー教団の開祖です。音楽に合わせて旋回することで恍惚となり、「ファナー」へ至るわけです。
 歌舞音曲をファナーへ至る手段とする神秘主義教団は、数多くあります。しかしまた、多くの教団が歌舞音曲は「邪道」だとして禁じています。これは神秘主義者に限らず、ムスリム全般に歌舞音曲はイスラムの教えに背くと見做されているからです。
 酒と違ってクルアーンで禁じられてはいないのに、なぜそういうことになっているかは不明です。初期イスラム時代、歌舞音曲は「卑しい芸人」の生業とされていたことが原因のようです。歌やダンスで熱狂した状態が、酒に酔った状態と似ていることも一因なのかもしれません。
 ほかの手段としては、クルアーンや神秘主義詩人の詩を朗誦する、というものもありますが、これもまた教団によっては邪道とされています。朗誦が歌うことに似ているからでしょう。

 神の名を繰り返し唱える「ズィクル」も、多くの教団で行われている手段です。神の名とされるのは「アッラー」すなわち「The God」、およびクルアーンの中で使われている「慈悲深き者(アル・ラフマン)」、「慈愛多き者(アル・ラヒーム)」といった98の呼び名(計99)です。
 このズィクルもまた、声に出して唱えるのは邪道で、念じるだけにせよ、という教団が少なくありません。

 以上の、歌舞音曲、朗誦、声に出すズィクルを認めるか認めないかは、一つの教団内でも立場が分かれて対立することが珍しくなく、過去には抗争まで起きたケースもあるそうです。
 ズィクルの有声派と無声派があり、かつ己を死者だと想像することで煩悩を捨てるという修行法でファナーに至ろうとする実在の教団が、ナクシュバンディー教団です。中国から旧ソ連イスラム圏、インド、中東に至る広大な地域に信者を有する大教団で、イスラム神秘主義そのものが俗世に関わらないことを大原則とする中で、歴史上しばしば政治に関わってきた例外的存在です。最近でもイラクの分派が「イスラム国」に加わったりしています。

 ナクシュバンディー教団から、この政治権力志向を除いたのが、拙作の架空の教団のモデルです。
 ほかにナクシュバンディー教団と違うのは、ズィクルで99の神名すべてを唱えるところです。ナクシュバンディーに限らず、実在するどんな教団も、ズィクルで唱えるのは「アッラー」だけか、99のうちせいぜい数個だけで、99全部を唱える教団というのは存在しないようです(前述のように、イスラム神秘主義教団は無数にありますから、断言はできませんが)。
 99全部を唱えるという設定にしたのは、そのほうが印象的だからですが、クラークの「九十億の神の御名」へのオマージュだったりするからでもあります(あれはチベット密教か何かでしたが)。神のすべての名を正しい発音で唱えると、何かが起こるという。
 
 90億に対し、たったの99なので、起こることの規模もそれなりです。

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『屍者たちの帝国』

 というわけで刊行されました、『書き下ろし日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』。収録作品は以下のとおりです。

「従卒トム」藤井太洋
「小ねずみと童貞と復活した女」高野史緒
「神の御名は黙して唱えよ」仁木稔
「屍者狩り大佐」北原尚彦
「エリス、聞こえるか?」津原泰水
「石に漱ぎて滅びなば」山田正紀
「ジャングルの物語、その他の物語」坂永雄一
「海神の裔」宮部みゆき

 私は3番目ですね。ロシア帝国が舞台の高野氏の次に、ロシア帝国でもだいぶ東のウラル山脈南麓を舞台にした私が来て、その次がインドが舞台の北原氏、という配置です。

 編集後記で大森望氏が、『屍者の帝国』の序章を「おもちゃ箱をひっくり返したような」と形容しておられますが、それはそのまま『屍者たちの帝国』にも当てはまります。
 まさに奇想と超絶技巧の饗宴ですが、その中で私だけなんか地味かも……まあこれも多彩さの一部ということで。
 仁木稔にしては珍しく暴力もグロもない(少なくとも直接描写は)ので、そういうのが苦手な方にもお勧めできる、安心安全な仕様です。

 暴力なしグロなし、というのは意図したわけではなく、偶々そういう要素が入らなかっただけですが、今回の執筆にあたって一つ自分に課したのは、「史実に忠実な時代背景に、原典である『屍者の帝国』の屍者の設定だけを嵌め込む」ことがどこまで可能かを追求する、という縛りでした。いや、なんとなく、やったらどうなるかなあと思って。

 そしたら、ほぼ史実どおりで行けました(「ほぼ」というのは、「幕末の漂流民からロシア帝国政府に即身成仏の情報が伝わってた」というような与太が混じってたりするからですが)。舞台となる町や物語の中心となる神秘主義教団も、架空のものとはいえ、どちらも実在の町と教団をモデルにしています。 
 これはそのまま、『屍者の帝国』の設定が緻密に作り込まれていることの証左になるわけですね。実作による文字どおりの実感。
 

 というわけで、イスラムやその神秘主義全般について作中で述べていることも現実のものに即しています。言及されてる伝説も、実際にあるものです。
 自分が死者であると想像する、というのも実在の神秘主義教団の修行法の一つですが、これといい上述の即身成仏といい、かつては死体というのは現代(特に先進国)ほど忌避されていなかったのだろうと思います。
 死体崇拝は祖先崇拝として先史時代にまで遡り、そこから「力のある人物の死体」崇拝へも発展するわけですが、現代のように死体を忌避し、隔離しようとする社会では、到底起こり得ない状況ですよね。
 死が身近だったから、死体も当然身近だったということですが、それは先進国であってもそんなに昔のことではなく、『屍者たちの帝国』でも山田正紀氏が「石に漱ぎて滅びなば」でも活写されておられるように、20世紀初頭のロンドンでさえ、貧民街では行き倒れが珍しくなかった。
 現代人の感覚だと、いくら労働力や兵力になるからって動く死体なんて……と思わずにはいられませんが、死体が身近な時代には、「動く死体」への忌避感も少なかったのでは、というようなことを思ったのでした。

 暴力もグロもないという点では仁木稔らしくないけど、ロシア帝国でイスラム神秘主義なのは仁木稔らしいというか。ほかの方々の7編とともにお楽しみいただければ幸いです。

91jrqmsfkl 『屍者たちの帝国』

 電子版も出た『伊藤計劃トリビュート』も、よろしくお願いいたします。

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