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「神の御名は黙して唱えよ」

「かみのみなはもだしてとなえよ」。『書き下ろし日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』(大森望・編 河出書房新社)収録。
 作品解説というか作品の背景の解説ですが、とりあえず「お知らせ」カテゴリーに入れておきます。

 まず時代ですが、クリミア戦争に英仏が参戦してから数ヵ月後の1854年秋、ロシア帝国はウラル山脈南麓です。
『屍者の帝国』の時代(1878年)では、すでにロシアは南のカフカス山岳地帯と東のカザフ草原の反乱を平定し、ブハラやヒヴァといった中央アジアのオアシス諸国も征服し、そこから英領インドを狙っていますが、拙作の1854年では、オアシス諸国は独立を保ち、カフカスとカザフは一応ロシア領になっているものの反乱が続き……という状況です。

 ウラル山脈南麓は、当時のロシア帝国の中央アジア方面への橋頭保でした。ロシア人がオレンブルク要塞を拠点に軍事作戦を展開する一方で、ロシア帝国内のタタール人(モンゴル帝国の遺民の末裔)は要塞近郊の町カルガルを拠点に、東西交易に従事しました。
 カザフ草原の遊牧民やオアシス農耕民たちは、ロシア人は信用しませんでしたが、同じロシア臣民でもムスリムのタタール人は信用したので、交易が成り立ったのです。
 
 拙作の舞台「ウラル南麓の小さな町」は架空のものですが、このカルガルをモデルにしているので、登場人物の一人、導師カルガリーにその名を留めています。
 アラビア語では地名の語尾に「y(イー)」を付けると「○○に縁がある人」という意味になります。たとえば日本は「ヤーバーン」(「ジャパン」のアラビア語的発音)なので、日本人は「ヤーバーニー」。「y」を付ける地名は、国名に限りません。
 で、この「地名+y」は姓としても使われます(アラビア語圏だけでなく、ペルシア語圏やトルコ語圏でも)。だから「カルガリー」師はカルガル出身者、またはカルガルに住んでいる/住んでいた人、ということになります。
 
 どのキャラクターにも特にモデルはいませんが、東洋学者のデムスキー教授は、エドワード・サイードが言うところの「オリエンタリスト」をモデルにしたというか、戯画化したキャラクターです。つまり東洋について非常に造詣が深いが、基本的に東洋を蔑視していて、その知識でもって国家の帝国主義に進んで奉仕する、という(実際の19世紀の東洋学者がどうだったかはともかくとして)。
 作中、「東洋学者」「東洋学」に繰り返し「オリエンタリスト」「オリエンタリズム」とルビを振っているのは、そのことの強調、というかデムスキー教授が実はそういうキャラなんだよ、という伏線だったのでした。
 
 物語の鍵となるのは、イスラム神秘主義です。登場する教団は架空のものですが、実在の教団をモデルにしています。
 イスラム神秘主義にもいろんな教団があって、弱小なものやすでに消えてしまったものも含めて無数にありますが、どの教団も目的はただ一つ、「神との一体化」です。
 これはつまり、「意識」を神と一つにする、ということですが、もちろん神は人間より遥かに偉大な存在なので、信者の意識はその中に溶け込んでしまう、消えてしまう、ということで、その状態を「ファナー」と呼びます。アラビア語で「消滅」という意味です。
 この「神の大いなる存在の中に己が溶け込んで消えてしまう」感覚は素晴らしいものだそうで、多くの宗教に共通する宗教的恍惚状態、いわゆる「法悦」ですね。

 イスラム神秘主義については、『ミカイールの階梯』を書いた時にかなり調べたのですが、その後、さらに詳しく調べる機会があって、「我という意識は地獄」だから、その消滅を願うのだ、というルーミーの言葉を知ったのは、その時です。
 そのことについて、伊藤計劃さんと話したかった……というより、「今度会ったら話そう」とつい思ってしまって、ああ、「今度」なんかないんだ、と……

 この企画に参加させていただくにあたって、その時の気持ちを形にしよう、というつもりはまったくなくて、ただ「ムスリムにとって屍者はどんな存在だったか」という興味を追求したら、「神の御名は黙して唱えよ」になっただけですが、脱稿目前のある日、不意に、そうか、この小説はあの時のあの気持ちを形にしたものだったのか、と気が付いた次第です。
 なんと言うか、小説家ってこんなこともできるんだなあ、と十年余りも小説家をやっていて初めて知ったのでした。

 上記のルーミーは、「旋舞教団」として有名なメヴレヴィー教団の開祖です。音楽に合わせて旋回することで恍惚となり、「ファナー」へ至るわけです。
 歌舞音曲をファナーへ至る手段とする神秘主義教団は、数多くあります。しかしまた、多くの教団が歌舞音曲は「邪道」だとして禁じています。これは神秘主義者に限らず、ムスリム全般に歌舞音曲はイスラムの教えに背くと見做されているからです。
 酒と違ってクルアーンで禁じられてはいないのに、なぜそういうことになっているかは不明です。初期イスラム時代、歌舞音曲は「卑しい芸人」の生業とされていたことが原因のようです。歌やダンスで熱狂した状態が、酒に酔った状態と似ていることも一因なのかもしれません。
 ほかの手段としては、クルアーンや神秘主義詩人の詩を朗誦する、というものもありますが、これもまた教団によっては邪道とされています。朗誦が歌うことに似ているからでしょう。

 神の名を繰り返し唱える「ズィクル」も、多くの教団で行われている手段です。神の名とされるのは「アッラー」すなわち「The God」、およびクルアーンの中で使われている「慈悲深き者(アル・ラフマン)」、「慈愛多き者(アル・ラヒーム)」といった98の呼び名(計99)です。
 このズィクルもまた、声に出して唱えるのは邪道で、念じるだけにせよ、という教団が少なくありません。

 以上の、歌舞音曲、朗誦、声に出すズィクルを認めるか認めないかは、一つの教団内でも立場が分かれて対立することが珍しくなく、過去には抗争まで起きたケースもあるそうです。
 ズィクルの有声派と無声派があり、かつ己を死者だと想像することで煩悩を捨てるという修行法でファナーに至ろうとする実在の教団が、ナクシュバンディー教団です。中国から旧ソ連イスラム圏、インド、中東に至る広大な地域に信者を有する大教団で、イスラム神秘主義そのものが俗世に関わらないことを大原則とする中で、歴史上しばしば政治に関わってきた例外的存在です。最近でもイラクの分派が「イスラム国」に加わったりしています。

 ナクシュバンディー教団から、この政治権力志向を除いたのが、拙作の架空の教団のモデルです。
 ほかにナクシュバンディー教団と違うのは、ズィクルで99の神名すべてを唱えるところです。ナクシュバンディーに限らず、実在するどんな教団も、ズィクルで唱えるのは「アッラー」だけか、99のうちせいぜい数個だけで、99全部を唱える教団というのは存在しないようです(前述のように、イスラム神秘主義教団は無数にありますから、断言はできませんが)。
 99全部を唱えるという設定にしたのは、そのほうが印象的だからですが、クラークの「九十億の神の御名」へのオマージュだったりするからでもあります(あれはチベット密教か何かでしたが)。神のすべての名を正しい発音で唱えると、何かが起こるという。
 
 90億に対し、たったの99なので、起こることの規模もそれなりです。

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