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レイン

 タイ語を勉強中なので、 タイ映画鑑賞。まあ映画が語学の足しになるかどうかは、長年にわたって観続けてきた英語映画の量と現在の英語力を鑑みればこの上もなく明白なんだが、耳を慣らすというだけでも意義はある。ということにしておこう。

 監督が香港の人(双子のオキサイド・パンとダニー・パン)なので、舞台がタイでキャストもタイ人だが、スタイルも話もまるっきり香港ノワール。脚本から映像から役者の演技に至るまで、素晴らしくよくできているんだが、でも舞台と役者をタイに置き換えただけの香港ノワール。二挺拳銃も出るしな。
 
 射撃場で働く聾唖の青年コンは、時々自分も銃を撃っていたが、銃声に目を瞑ってしまうことがないため、その狙いは非常に正確だった。ある日、その腕が殺し屋のジョーの目に止まり、裏世界に引き入れられることになる。
 やがてジョーは仕事の失敗で利き手を負傷し、プロとしての技量も自信も喪失して自堕落になっていく。そんなジョーを気遣いつつ、仕事を淡々とこなしていくコンだったが、薬局で働く純真な少女フォンと出会う。

 予想どおり、カタストロフまっしぐらの悲劇なわけだが、先の読める展開というのは決して悪いことではない。人間は「予想の的中」に快感を覚えるものだからだ。無論あまりにも予想どおりだと退屈してしまうから「予想外」の展開も快感をもたらすが、あまりにも不合理な展開では不快にしかならない。何をもって不合理とするかは個人差があるとはいえ、つまりは「予想外」であっても「不合理でない」=「合理的」なものが求められるということであり、結局は「広い意味での予想の範囲内」でしかない。
 紋切り型も極めれば様式美となるのであり、本作はその域に達している。特に、すべてのピースが収まるべき場所に次々と収まりながら悲劇的結末に向かって突き進んでいく後半、この疾走感は美しい。
 
 タイに置き換えただけの香港ノワール、と上で書いたが、香港にはないタイの暑熱と湿度はきちんとスクリーン上に表現されており、それがそのままストーリーやキャラクターの(香港ノワールとは異なる)暑熱と湿度となっている。
 だからこれは紛れもなくタイ映画ではあるのだけれど、スタイルはあくまで香港のものである。
 1999年の本作と、タイ人監督による2003年の『マッハ!』(「!」省略)から08年の『チョコレート・ファイター』までを比較すると、技術の格差は歴然としている。技術というのはもちろん機材やソフトウェアのことではなく、人が持つ技巧・技能のことである。
 03年の佳作『ビューティフル・ボーイ』の監督はタイ人だが、長くシンガポールで活動していた人だし、やはりタイ映画は文化として発展途上と言わざるを得ないだろう。

 前にも書いた気がするが、「独自性」と「単なる稚拙」は別ものだし、私は後者を喜ぶ(おもしろがったり、「素朴な味わい」などとありがたがったりする)感性は持ち合わせていない。特に、せっかく俳優が身体を張った無茶なアクションをしているのに、脚本・撮影・演出すべてがそれを活かすどころか殺いでしまっているというのは、もったいないのを通り越して、痛ましい事態である。
 まあそれでも『マッハ!』から『チョコレート・ファイター』の間には、明らかな進歩が見られるので、きっと現在はさらなる進歩を遂げていることでしょう。

 タイ語学習的には、知ってる単語はかなり聞き取れました。いや、そもそも私のタイ語のボキャブラリーは非常に貧困ではあるのですが。で、チンピラ役の人たちの台詞に限ってほとんど聞き取れなかったんだけど、これはスラングのせいなんだろうか。

ブログに感想を上げてあるタイ映画(後の2つはタイ語学習の開始前に観たものですが)
『ブンミおじさんの森』
『トム・ヤム・クン!』
『チョコレート・ファイター』

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