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ハーモニー 

 映画化第二弾。描き込みから動きの細かさまで、アニメーション(動く絵)としての密度が非常に高い。『屍者の帝国』も全体としては密度が高いのだが、ところどころ、たとえば遠景で川船が揺れているカットに次にその船上でのカットになると、揺れが消えているという些細な綻びが気になったのだが、本作ではそうした隙が目につくことはなかった。

 その細密な画によって、「優しさ」に支配された未来の管理社会の不自然さ、息苦しさが、見事に表現されている。ただ、それと対照を成すもの、たとえば混沌、残酷さ、あるいはそこまで極端でなくても、猥雑さや不潔さ、活気や熱気といったものが決定的に欠けている。映画の中では、混沌と残酷が「暴力」として表現されているだけで、それ以外のものが見当たらない。トゥアレグ族やバグダッド旧市街も、妙に小奇麗だ。
 しかし最も対置すべきは、画一的な日本人の身体(の群れ)とトァンの身体だろう。日焼けしているとか痩せすぎているとか、記号的でいいから差異を出すべきだった。「清潔な街の清潔な人々」の中に在っても、彼女は少しも異分子に見えない。
 トァンの「身体性」の欠如については、回想シーンでも同様で、餓死寸前で救出された彼女が、到底そうは見えない。これでは「むごいもの、醜いもの」を見えないものとする、作中で批判される社会そのものだ。
「身体性の欠如した人々」に対置されるべき「身体性」が、映画のどこにも存在しないのだ。

 もっとも、「女子中学生の身体」が現実離れしてきれい(美しいという意味でも清潔という意味でも)なのは原作も一緒なのだが。知らない人や忘れている人もいるだろうが、現実の女子中学生なんて、皮脂の分泌は多くなる、体臭は強くなる、にきびはできる、あちこちに脂肪が付く。さらには程度の問題とはいえ、声が低くなったり毛深くなったりさえする。
 それまで意識したことすらなかった自分の身体を、いやでも意識せざるを得なくなる。単なる習慣で風呂に入ったり歯を磨いたりしていれば、清潔を保つという意識もなく清潔を保てていた身体が、意識してケアし続けていなければ、勝手に汚く臭くなっていく。それも内側から。
 身体が勝手に内側から、汚く臭く不恰好になっていく。それはある意味、身体が内側からじわじわと死んでいくということだ。
 思春期のままならなさとは、精神だけでなく肉体もコントロール不能であることからくるものだ。それを前提としたならば、少女たちのやがて身体を管理され支配されることへの絶望は、非常にリアルで切迫したものになっただろう。

 とは言うものの、『ハーモニー』はそういう話ではない。女子中学生以上に劇的な身体の変化を遂げる(だけでなく、女子中学生以上に汚く臭くなる)男子中学生が、コントロール不能な自らの身体に、同じような苛立ちや絶望を抱えるのかどうか私は知らない。まあ皆無ではないとは思うけれど、そういう人の比率が少なかったり、苛立ちも絶望もすぐ忘れる程度のものだとしたら、上記の「リアル」は、自分が美しくも清潔でもなかったことを憶えている元・女子中学生にとってのリアルでしかない。
 それに、そんな元・女子中学生でも、クリーンでビューティフルな女子中学生というファンタジーは共有できるものなのである。自分がそうでなかったことを憶えているからこそだ。だからそれはいいんだけどね。

 ほかに気になったのは、多くの人が指摘していることだが、台詞の多さだ。声優陣の演技が巧かったので聴きごたえがあったが、それを差し引いても多すぎる。原作を尊重するのはよいが、アニメならではの表現ができないのなら、なんのためのアニメ化か。

 ところで、これを観終わった後、カプレーゼを食べた人はどれくらいいたのだろうか。

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