ブンミおじさんの森

 開始から数分間は、まったくと言っていいほど台詞がない(農民が一言、牛の名を呼ぶだけ)。ようやく台詞のある場面に入ると、まったくと言っていいほどタイ語が聞き取れない。DVDを止めてググってみたら、タイ語はタイ語でも東北地方の方言なので、タイで上映する際にも標準語の字幕を付けなければならなかったという。
 そうと知ってたら観なかった、とまでは言わんけどな。最後の街の場面では、(知ってる単語は)聞き取れたし。

 カンヌ受賞とか、ティム・バートン絶賛とか、期待もするというものである。死期の近い初老の男ブンミの許に、死んだ妻が幽霊となって、行方不明の息子が精霊となって現れる。ブンミや義妹(妻の妹)らは、最初こそ驚きはするものの、ごく自然に彼らを受け入れる……というプロットもおもしろそうだ。
 しかし観始めてからしばらくして、芬々と立ち上ってくる「“第三世界”の“単に稚拙な”作品を、欧米人が“独創的”だの“斬新”だのと持て囃す」臭……それは話が進むにつれて弱まるどころか、ますます強くなっていくのであった。

 ヨーロッパのスタジオの協力があるわりには、しょぼい特殊効果や特殊メイク(宇○猿○ゴ○……)は言わずもがな。俳優たちの演技もやたらぎこちないと思ったら、皆、演技経験ゼロか、この監督の映画にしか出たことのない人ばかりであった。やれやれ。
 いや、単に私の感性が鈍いという可能性もあるけどね。これで鈍いというんだったら、鈍いままでいいや、と思う。

 というわけで、タイ映画を集中的に観るつもりだったんだが、後はホラーと格闘技ものしか残ってないよ。ホラーはどこの産だろうと嫌いだし、格闘技ものは食傷気味……観たはいいが、誉めるところが一つもなく、かと言って腹が立つとか、呆れ果てるとか、辟易する(今回)といった負の感情を強く掻き立てられたわけでもなく、どうでもよくて感想を上げてない格闘技ものが幾つかあります。タイトルは伏せる。
 まあ今回はタイ語の初歩を齧っただけで、またしばらくしたら(1、2年後?)もう少しちゃんと勉強するつもりなので、その頃までにはより良質なタイ映画が作られて、日本にも紹介されてるといいですね。もしかしたら私自身、ホラー嫌いを克服してるかもしれないし。

 多言語は純然たる趣味ですが、生来の怠け者なので、実益というモチベーションがなければわざわざ勉強はしません。これまで作品に使ったのは『グアルディア』でスペイン語、イタリア語、フランス語、『ミカイールの階梯』でロシア語とペルシア語だけですが、それ以外の言語(今のところ8ヵ国語。英語除く)も、いずれ使いたいと思っています。いや、使う作品を書けたらいいなあ、くらいの気持ちですが。
 実際に作品に使用する言語ははそれなりに腰を据えて勉強しますが、そうでない場合は何ヵ月か齧ったら別の言語に移る、ということを続けています。飽きっぽいので。で、時々は以前やった言語をまた勉強したりもする。次はイタリア語の予定です。
 
 タイを舞台にした話は構想だけはあるので、先に予定してる仕事を幾つか片付けて、まあ三年後くらいに……目標を高く持つのはいいことだ。
 
『レイン』感想

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ハーモニー 

 映画化第二弾。描き込みから動きの細かさまで、アニメーション(動く絵)としての密度が非常に高い。『屍者の帝国』も全体としては密度が高いのだが、ところどころ、たとえば遠景で川船が揺れているカットに次にその船上でのカットになると、揺れが消えているという些細な綻びが気になったのだが、本作ではそうした隙が目につくことはなかった。

 その細密な画によって、「優しさ」に支配された未来の管理社会の不自然さ、息苦しさが、見事に表現されている。ただ、それと対照を成すもの、たとえば混沌、残酷さ、あるいはそこまで極端でなくても、猥雑さや不潔さ、活気や熱気といったものが決定的に欠けている。映画の中では、混沌と残酷が「暴力」として表現されているだけで、それ以外のものが見当たらない。トゥアレグ族やバグダッド旧市街も、妙に小奇麗だ。
 しかし最も対置すべきは、画一的な日本人の身体(の群れ)とトァンの身体だろう。日焼けしているとか痩せすぎているとか、記号的でいいから差異を出すべきだった。「清潔な街の清潔な人々」の中に在っても、彼女は少しも異分子に見えない。
 トァンの「身体性」の欠如については、回想シーンでも同様で、餓死寸前で救出された彼女が、到底そうは見えない。これでは「むごいもの、醜いもの」を見えないものとする、作中で批判される社会そのものだ。
「身体性の欠如した人々」に対置されるべき「身体性」が、映画のどこにも存在しないのだ。

 もっとも、「女子中学生の身体」が現実離れしてきれい(美しいという意味でも清潔という意味でも)なのは原作も一緒なのだが。知らない人や忘れている人もいるだろうが、現実の女子中学生なんて、皮脂の分泌は多くなる、体臭は強くなる、にきびはできる、あちこちに脂肪が付く。さらには程度の問題とはいえ、声が低くなったり毛深くなったりさえする。
 それまで意識したことすらなかった自分の身体を、いやでも意識せざるを得なくなる。単なる習慣で風呂に入ったり歯を磨いたりしていれば、清潔を保つという意識もなく清潔を保てていた身体が、意識してケアし続けていなければ、勝手に汚く臭くなっていく。それも内側から。
 身体が勝手に内側から、汚く臭く不恰好になっていく。それはある意味、身体が内側からじわじわと死んでいくということだ。
 思春期のままならなさとは、精神だけでなく肉体もコントロール不能であることからくるものだ。それを前提としたならば、少女たちのやがて身体を管理され支配されることへの絶望は、非常にリアルで切迫したものになっただろう。

 とは言うものの、『ハーモニー』はそういう話ではない。女子中学生以上に劇的な身体の変化を遂げる(だけでなく、女子中学生以上に汚く臭くなる)男子中学生が、コントロール不能な自らの身体に、同じような苛立ちや絶望を抱えるのかどうか私は知らない。まあ皆無ではないとは思うけれど、そういう人の比率が少なかったり、苛立ちも絶望もすぐ忘れる程度のものだとしたら、上記の「リアル」は、自分が美しくも清潔でもなかったことを憶えている元・女子中学生にとってのリアルでしかない。
 それに、そんな元・女子中学生でも、クリーンでビューティフルな女子中学生というファンタジーは共有できるものなのである。自分がそうでなかったことを憶えているからこそだ。だからそれはいいんだけどね。

 ほかに気になったのは、多くの人が指摘していることだが、台詞の多さだ。声優陣の演技が巧かったので聴きごたえがあったが、それを差し引いても多すぎる。原作を尊重するのはよいが、アニメならではの表現ができないのなら、なんのためのアニメ化か。

 ところで、これを観終わった後、カプレーゼを食べた人はどれくらいいたのだろうか。

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レイン

 タイ語を勉強中なので、 タイ映画鑑賞。まあ映画が語学の足しになるかどうかは、長年にわたって観続けてきた英語映画の量と現在の英語力を鑑みればこの上もなく明白なんだが、耳を慣らすというだけでも意義はある。ということにしておこう。

 監督が香港の人(双子のオキサイド・パンとダニー・パン)なので、舞台がタイでキャストもタイ人だが、スタイルも話もまるっきり香港ノワール。脚本から映像から役者の演技に至るまで、素晴らしくよくできているんだが、でも舞台と役者をタイに置き換えただけの香港ノワール。二挺拳銃も出るしな。
 
 射撃場で働く聾唖の青年コンは、時々自分も銃を撃っていたが、銃声に目を瞑ってしまうことがないため、その狙いは非常に正確だった。ある日、その腕が殺し屋のジョーの目に止まり、裏世界に引き入れられることになる。
 やがてジョーは仕事の失敗で利き手を負傷し、プロとしての技量も自信も喪失して自堕落になっていく。そんなジョーを気遣いつつ、仕事を淡々とこなしていくコンだったが、薬局で働く純真な少女フォンと出会う。

 予想どおり、カタストロフまっしぐらの悲劇なわけだが、先の読める展開というのは決して悪いことではない。人間は「予想の的中」に快感を覚えるものだからだ。無論あまりにも予想どおりだと退屈してしまうから「予想外」の展開も快感をもたらすが、あまりにも不合理な展開では不快にしかならない。何をもって不合理とするかは個人差があるとはいえ、つまりは「予想外」であっても「不合理でない」=「合理的」なものが求められるということであり、結局は「広い意味での予想の範囲内」でしかない。
 紋切り型も極めれば様式美となるのであり、本作はその域に達している。特に、すべてのピースが収まるべき場所に次々と収まりながら悲劇的結末に向かって突き進んでいく後半、この疾走感は美しい。
 
 タイに置き換えただけの香港ノワール、と上で書いたが、香港にはないタイの暑熱と湿度はきちんとスクリーン上に表現されており、それがそのままストーリーやキャラクターの(香港ノワールとは異なる)暑熱と湿度となっている。
 だからこれは紛れもなくタイ映画ではあるのだけれど、スタイルはあくまで香港のものである。
 1999年の本作と、タイ人監督による2003年の『マッハ!』(「!」省略)から08年の『チョコレート・ファイター』までを比較すると、技術の格差は歴然としている。技術というのはもちろん機材やソフトウェアのことではなく、人が持つ技巧・技能のことである。
 03年の佳作『ビューティフル・ボーイ』の監督はタイ人だが、長くシンガポールで活動していた人だし、やはりタイ映画は文化として発展途上と言わざるを得ないだろう。

 前にも書いた気がするが、「独自性」と「単なる稚拙」は別ものだし、私は後者を喜ぶ(おもしろがったり、「素朴な味わい」などとありがたがったりする)感性は持ち合わせていない。特に、せっかく俳優が身体を張った無茶なアクションをしているのに、脚本・撮影・演出すべてがそれを活かすどころか殺いでしまっているというのは、もったいないのを通り越して、痛ましい事態である。
 まあそれでも『マッハ!』から『チョコレート・ファイター』の間には、明らかな進歩が見られるので、きっと現在はさらなる進歩を遂げていることでしょう。

 タイ語学習的には、知ってる単語はかなり聞き取れました。いや、そもそも私のタイ語のボキャブラリーは非常に貧困ではあるのですが。で、チンピラ役の人たちの台詞に限ってほとんど聞き取れなかったんだけど、これはスラングのせいなんだろうか。

ブログに感想を上げてあるタイ映画(後の2つはタイ語学習の開始前に観たものですが)
『ブンミおじさんの森』
『トム・ヤム・クン!』
『チョコレート・ファイター』

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スカイフォール

 ダニエル・クレイグの007三作目。
 前作と前々作は時間的に一続きだったが、今回は前作から何年も経っているらしく、前作までは「若造」扱いだったクレイグ・ボンドが、「そろそろ引退を考えるべき」中年扱いである。
 まあ実年齢を考えたら、そのほうが妥当なんだけど。しかしダニエル・クレイグは、ここ数年で急激に老け込んでないか?

 前回の悪役はマチュー・アマルリックだったので、ダニエル・クレイグと対峙すると「いじめられっ子」にしか見えなかったんだが(形勢逆転される前の絶対的優位に在る時からそうなのである)、今回はハビエル・バデムである。これがまた『ノーカントリー』以来の、そしてまたあれとは違ったキモさで、さすがスペインが生んだ怪物。ゴヤの「黒い絵」みたいなキャラである。いや、このシルバというキャラじゃなくて、バデム自身が。

 そのバデムが付け狙うのが、ジュディ・デンチのM。今回のボンドガールは、謎の混血美女(演じるベレニス・マーロウはフランスと中国とカンボジアの血を引いているそうである)と新登場のマニーペニー(ナオミ・ハリス)だが、二人とも出番はあまりなく、中盤からはMが出ずっぱりとなる。というわけでボンドガールはM。

 新作『スペクター』は映画館に観に行きます。

『カジノロワイヤル』感想

『慰めの報酬』感想

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PAN

『ピーターパン』の前日譚ということになんだが、ピーターは「大人になるのが嫌で家出した子供」ではなく、捨て子だということになっている。
 この時点で、原作のシニカルさは雲散している。まあ原作のピーターは、相当やな奴だからね。その欠点は一言で言えば「幼児性」だが、本物の子供の幼児性というより、「大人になりたくない大人」(おそらく作者であるバリー自身)の幼児性だからなあ。
 
 とはいえ原作の毒気は抜かれているわけではなく、海賊黒ひげに集約されている。ネバーランドの侵略者で、現実世界の孤児を買い取っては採掘場で死ぬまで働かせるのである。
 演じるのはヒュー・ジャックマン。ハゲ+ヅラ+白塗りという、事前に知っていなければ誰だか気づけそうもないメイクで、すごく楽しそうである。登場シーンには、元孤児の鉱夫たちがニルヴァーナを合唱する(本人も歌う)。
 
 ピーターを利用して採掘場から脱走する若い鉱夫が、フック船長の前身。『トロイ』のパトロクロスか。その後の出演作も幾つか観てるはずだが憶えてないな。今回は結構キャラが立っている(以下ネタバレ注意)。
 しかしそれだけにこの後、黒ひげが消えてすっかり毒気が抜かれたネバーランドで、ピーターやタイガー・リリーと互いに命を狙い合う敵になるのは、ちょっと展開に無理があるんじゃなかろうか。

 タイガー・リリーはルーニー・マラー。そう言えば、原作でも彼女の部族が北米先住民だとは一言も言ってないんだよな。というわけで、映画の中での彼らは欧米人が考えるところの世界中の「エキゾチック」を寄せ集めた上でカーニヴァル仕立てにしたようなデザインと民族構成である。
 痩せて小柄な彼女がそういうデザインの衣装を着けて「闘うプリンセス」を演じると、なんか『もののけ姫』みたいだ。

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ジョン・ウィック

 今年に入ってアトピーがずいぶん改善して、春からは皮膚科通いもしなくて済み、例年症状が悪化する夏も乗り切れたんですが、暑さが去ったと思ったら数年ぶりに蕁麻疹が出ました。
 発疹が出ないタイプだったので蕁麻疹だと気づくのが遅れ、ようやく気づいて医者に行き、痒み止め(飲み薬と塗り薬)を処方してもらったのが先月末。どちらもアトピー用と同じですが、飲み薬のほうは半年ぶりで身体が合わなくなってたのか、意識が朦朧となって寝込みました。飲み薬が原因だと確認したわけではないのですが、2日飲んで2日寝込んだので、たぶんそうでしょう。
 ともあれ症状のほうはその2日でだいぶ改善したので、後は塗り薬だけでほぼ完治、というところまで漕ぎ着けたら、今度はノートパソコンが壊れました。1ヵ月半前に買ったばかりのくせに、CD、DVDの類の読み取りを断乎拒否しやがるようになりました。オーディオの再生ができないだけならまだしも、ファイルの保存もできないのでは仕事ができん。
 部品交換だけで済んだので4日で復旧しましたが、個々の災難としては小さくても、続けざまだとダメージ溜まるなあ。  

 そういうわけでその4日間は、PCなしでできる下調べのほか、カオス状態になっていたクローゼットの大整理を敢行したり、『ジョン・ウィック』を観に行ったりしていたのでした。いや、近場でやってる中で、観たいのがこれしかなかったんで。

「キアヌ完全復活!」の煽りに思わず納得してしまうのだが、あれ、でも『47 RONIN』はわりと最近だよね? 未見なんだが、やっぱ「なかったこと」にされてんの?
 まあとにかく、キアヌ・リーヴスという役者は「特徴がないのが特徴」で、しかも同じく特徴のない役者でもクリスチャン・ベールが「演技派」と呼ばれるのに対し、キアヌがそう呼ばれることはまずない。下手と言うんではないが、別にほかの役者でもいいじゃん、というレベル。
『スキャナー・ダークリー』はその「特徴のなさ」が役に嵌まっていた稀有な例だが、今回は車と犬だけが生き甲斐の孤独な男という、キアヌの私生活を彷彿とさせる、また別の意味での嵌まり役であった。
 以下、あるかなきかの如きのプロットについては『映画秘宝』で何か月も前から散々述べられているから、ネタバレ注意は要らんよな。  

 低迷しているかつてのスター俳優が、自らを髣髴とさせる役を演じて称賛される例は少なくないが、本作はそれらとは一線を画する。孤独で侘しく暮らすキアヌ(が演じるジョン・ウィック)は、実は引退した凄腕の殺し屋だった。そして「生き甲斐」の車と犬を奪われた時、復讐に燃えて「完全復活」するのである。
『スピード』と『マトリックス』を忘れられないファンにとっては、もちろんこちらの展開のほうが嬉しいに決まっている(私はファンでこそないが、『スピード』と『マトリックス』はもちろん忘れていない)。
 ちなみに脚本は当て書きでこそないが、キアヌが自分で見つけて気に入って監督のとこに持ち込んだものだそうである。

 この極めてシンプルかつ強力なプロットに乗って、後はどう殺していくか、である。一言で言うと格闘技+拳銃で、なんかガン・カタっぽいが、格闘技はカンフーや空手じゃなくて柔道やシステマのような関節技系。で、抑え込んでおいて至近距離から拳銃でとどめ。
 いや、確かに拳銃は中距離武器としても抑止力低いよな(にもかかわらず、それなりに抑止できているのは、撃たれた側が映画等の影響で「撃たれた! もう駄目だ!」と思い込んでしまうからだそうである)。御丁寧に急所に2発以上ぶち込んでるのもあって、なんかすごく「説得力」があるのであった。離れた場所(せいぜい数メートルだが)の敵を撃っても、後でわざわざとどめを加えに行くし。  

 つまり、敵を一人ひとり、関節技で抑え込んでは至近距離で銃弾をぶち込む、ということを延々繰り返し、その間にキアヌも殴られたり撃たれたりしてどんどんボロボロになって行く、という極めて泥臭いアクションなのだが、それにもかかわらずスタイリッシュに観せている。
 説得力があるが泥臭く、しかしスピーディーでスタイリッシュ、というとジェイソン・ボーンっぽいが、それとはまた違ったタイプである。とにかく楽しい1時間50分であった。

 そう言えば、ガン・カタはクリスチャン・ベールなんだよな。あの時は、決して「巧いんだけど、なぜか埋没している」なんてことはなく、ちゃんとキャラが立ってたのにな。「演技派」なんてやめて、こっちに戻ってきたほうがよくないか?   

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アーティスト

『雨に唄えば』はサイレントからトーキーへの移行期のハリウッドを描いたミュージカルだが、同じ題材を「サイレント」に仕立てたのが本作である。

 サイレントのスター俳優ヴァレンティン(名前からしてルドルフ・ヴァレンティノを思わせる)は、声が悪いとか訛りが強いといった理由ではなく、「芸術的見地」(もしくは単に好きになれない)から、トーキー化から取り残され、凋落する。
 同じ理由でサイレントにこだわり続けたのがチャップリンで、こちらはヴァレンティンと違ってしばらくはサイレント映画を撮り続けることができたのだが、トーキー化からほんの数年で俳優たちがパントマイムの演技を忘れてしまった、というようなことが彼の自伝に確か書かれていた。

 というわけで、1920年代末から30年代初めの映画の演技を、2010年代に再現するのは結構大変だったろうと思われる。しかもこれはフランス映画なので、「作り込み」はさらに念が入っているわけだ(主役2人以外の主なキャストはハリウッド俳優だが)。
 フランス人による「古き良きハリウッド」への郷愁、と単純に見ていいんだろうか。史実では当時のフランスは、国を挙げてハリウッド映画を締め出そうと四苦八苦していたんだが。

 ヴァレンティンの忠実な運転手役がジェームズ・クロムウェル。家父長的なキャラじゃないジジェームズ・クロムウェルって初めて観たが、結構可愛いじゃないか。

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屍者の帝国

 映画化第一弾。原作そのままの部分が、たとえばフライデーが髪に花を飾られるといった些細なカットでさえ奇妙に印象に残ったのだが、中でも特筆すべきはクラソートキンの台詞である。

「人間には物語が必要なのです。血沸き、肉躍る物語がね。大体、そんな理屈(*引用者註:屍兵を実際に戦わさずとも机上の計算だけで済むだろう、というバーナビーの意見)は大半の者には理解できない。理解できないものは存在しない。手で触れ、見ることのできる物以外はね。物語はわたしたちの愚かしさから生まれ、痴愚を肯定し続ける」
 
 これは原作(単行本版)96頁からの引用だが、映画の中の台詞もおおむねこのとおりだったはずだ。
 原作をスクリーン上に移し替える上での数多の改変には、一つ一つそれ相応の理由があり、また賛否両論があるだろうが、それらすべてを原作のままのこの台詞が要約している。

 屍者の動きとチャールズ・バベッジをはじめとする解析機関のデザインは、見事の一言に尽きる。特に前者は、アニメだからこそ可能な表現だろう。

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マッド・マックス 怒りのデスロード

 夏バテで思考力が低下してて見逃した! 痛恨! と思ってたら近所で当別上映してた!

  このシリーズは1作目を遠い昔(確か中学の時)にTVで一度観たきりで、『北斗の拳』みたいだったということしか憶えていない。いや、こっちが元祖だというのは当時から知ってましたが。

 そんなわけで、ほとんどまっさらな状態で鑑賞。始まってすぐに、おお、『北斗の拳』だ。
 何が、というと、単に核戦争後の荒廃した世界で世紀末で悪役が独裁者で、というだけではなくて、デザインが、である。『北斗の拳』に限らず、というか、それも含めて、実に1970年代末から80年代前半っぽいデザイン。
 それはヘヴィメタだったりギーガーだったり『AKIRA』だったり『ブレードランナー』だったり『デューン』(映画版)だったり『スターウォーズ』(特に『新たなる希望』と『帝国の逆襲』)だったり、とにかく「そういうテイスト」が、全編隈なく行き渡っている。  

 この懐かしくも一周回ってむしろ新鮮なデザインを、21世紀の新技術が下支えし、さらにその背景にオーストラリアの凄まじく荒涼とした自然が広がることで、誰も見たことのない光景が創り上げられている。その光景がそのまま作品の世界観となっていて、余計な説明は何も要らない。
 物語も余計な説明が挟まれることなしに、過激なアクションに次ぐアクションで、どんどん転がっていくのである。

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アタック・ザ・ブロック

 
 この映画について初めて知ったのは、英国の低所得層向け団地(ブロック)が治安の悪さで問題になっているというニュースを読んだ、わりとすぐ後だったと記憶している。というわけで、ただでさえ治安の悪いブロックに、凶暴なエイリアンが大挙して押しかけてくるという低予算SFホラー。

 低予算とはいえ脚本はしっかりしてるし、英国社会への風刺も効いているし、何より「なぜブロックなんかにエイリアンが」という疑問への答えがきちんと用意されている。これはSFとして非常に大事である。
 エイリアンもシンプルなデザインながら凶悪で、「子供と犬」も容赦なく殺す。この辺、英国映画だなあ。

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