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『ヴァーミリオン・サンズ』その他

 読書記録をずっと付けていて、基本情報としてタイトル、著者/編者名(翻訳書であれば訳者名も)、出版社名、出版年(改訂版であればその旨も。翻訳書であれば原著タイトル、原著出版年も)は必ず記録する。
 ノンフィクションの場合、その時々に取り組んでいる作品に必要な情報、あるいはすぐには必要なくても興味深い(いずれネタにできそうな)情報があればノートをとる。でなければ「使えない」「タイトルに偽りあり」「典拠を示さない引用と憶測と自分語りの集積」「○○○(出版社名)クオリティ」「時間の無駄だった」等、ノートを取らなかった理由を簡潔に記す。
 フィクションの場合、古典作品(20世紀前半以前)であれば作品の背景情報等も記録し、現代作品でも短い感想くらいは付ける。「おもしろかった」「クズSFかと思ったらエセSFだった」等、一言で済ますことも少なくないが、書くことがたくさんあって、かつ気が向けば清書してブログに上げることもある。

 というわけで、わりと久しぶりに書くことがたくさんあったのと、SF大会に行ってちょっと元気になったので、感想を上げます。

 今頃『ヴァーミリオン・サンズ』? と思われる方もおいでかと思うので、先にちょっと言い訳させてもらう。
 子供の頃からのSFファンだったとはいえ、児童書から早川や創元に本格的に移行したのは80年代半ばから、その数年後には「冬」が来てSFから離れてしまい、戻って来たのは10年余り後。つまり充分にSFを読んでいたとは到底言えないのである。
 以来、遅れを取り戻すべく乱読しているが、その間にも新刊はどんどん出る。まあこの調子で読み続けていけば、後数年でどうにか「遅れを取り戻した」「ブランクを埋めた」と言えるくらいにはなるでしょう。

 そうやって乱読していく中で、特に贔屓の作家も何人かできた。そういう作家が亡くなってしまってもう二度と新作が読めなくなる、というのは随分なショックである。何冊か残った未読本は、もったいなくてなかなか読めなくなる。
 というわけで(SFじゃないけど)ガルシア・マルケスの最後の未読の一冊、『わが悲しき娼婦たちの思い出』はいつまで経っても読むことができない。同様に、J・G・バラードも亡くなって以来、年1冊程度にペースが落ちた。
『ヴァーミリオン・サンズ』はもう何年も前に「コーラルDの雲の彫刻師」を何かのアンソロジーで読んで以来、ずっと読みたかった本である。今回ようやく手に取ったのは……まあ特に理由はない。

『ヴァーミリオン・サンズ』 J・G・バラード 浅倉久志ほか訳 早川書房 1980/1986(1971)
Vermilion sands
「コーラルDの雲の彫刻師」1967
「プリマ・ベラドンナ」1956
「スクリーン・ゲーム」1963
「歌う彫刻」1962
「希望の海、復讐の帆」1967
「ヴィーナスはほほえむ」1957/1967
「風にさよならをいおう」1970
「スターズのスタジオ5号」1961
「ステラヴィスタの千の夢」1962

 訳者は「歌う彫刻」が村上博基氏、「ステラヴィスタの千の夢」が永井淳氏で後は浅倉久志氏。各篇タイトルの後に付した数字は発表年。原題は割愛(中短編集の場合、タイトル、訳者名、原題、発表年を目次か巻末にでもまとめておいてくれるとありがたいんだが。記録を取るんじゃなくて単に参照するだけでも、そのほうがずっと便利だろう)。

 架空のリゾート「ヴァーミリオン・サンズ」を舞台にした連作である。バラード作品を端的に表現するなら「美と狂気と頽廃」だが、それを最も端的に表わしたバラード作品であると言えよう。以下、一応ネタバレ注意。

 浅倉久志氏も巻末に書いているし、バラード作品を幾つか読んだことのある人なら、このくらいネタバレでもなんでもないと思うが、収録された9篇の全部が全部「ファム・ファタルに男たちが振り回される」話である。すべて同じ展開を辿るというのにワンパターンだという印象がまったくないのは、各篇に横溢する情景とガジェットがあまりにも眩いているからだ。古典的な主題の異常にヴァリエーション豊富な変奏曲集とでも言ったところか。
 とは言え同じ展開がもう2、3篇も続けばさすがに飽きただろうと思うので、このどちらかと言えば薄めの文庫本は、分量的にちょうどいいということになる(しかし言い換えれば、あと1篇だけなら読みたかった)。

 バラードの精髄的な作品群であると同時に、バラードらしくない作品群である。どの辺がバラードらしくないのかと言うと、陰鬱さが(ほぼ)ないのである。9篇中およそ半数がスラップスティック的――もう少し気取った言い方をするなら狂躁的――だ。それらの中には悲劇的結末を迎えるものもあるが、「ヴィーナスはほほえむ」に至っては完全に喜劇である。バラード作品にはひねくれたユーモアが随所に見られるとはいえ、私が読み、かつ憶えている中で、ここまで明確なコメディはこれ一作だけである(まあ未読や忘れてる作品の中にはあるかもしれないが)。
 特筆すべきは、この「ヴィーナスはほほえむ」が、古今東西SFで何万回となく繰り返されてきたプロット「小さな災厄が指数関数的に増幅し、どうにかこうにか解決したと安堵したのも束の間、地球規模もしくは宇宙規模の災厄を予期させて終わる」を忠実になぞっていることである(いやほんと、古今東西このプロットのSFを数えたら5桁じゃ利かないんじゃなかろうか。数える人がいるとも思えんが)。
  SFの古典的プロットをバラードが忠実になぞっているというだけでも特筆に値するが、にもかかわらずバラード印そのものの作品に仕上がっている点もまた特筆に値する。まさに、バラード的じゃないのにバラード的。

 スラップスティック的ではない残りの作品も、沈鬱ではあるが陰鬱・暗鬱ではない。思うにそれは、どの作品にも溢れる眩く煌びやかなイメージのためだろう。ガラスや結晶の透明さ、金属のギラギラした輝き、花や鳥や昆虫の色鮮やかさ――ただし花は栽培され加工されたものだし、鳥は殺され剥製や羽根飾りにされたもの、昆虫だけはその辺にうようよしているが。
 舞台が閉鎖的なリゾート、ヴァーミリオン・サンズに限定されているにもかかわらず、他のバラード作品に共通する閉塞感が(ほぼ)ないことも、バラード的でない要因に挙げられる。増田まもる氏はかつて「バラード(およびバラード作品の主人公たち)にとっては収容所がユートピアで、そこから出ていくことは望んでいない」という主旨のこと(私の解釈なので、多少のずれがあるかもしれない。だとしたら申し訳ありません)を仰ったが、『ヴァーミリオン・サンズ』の登場人物たちの中にも、注意して読めば特定の場所に自ら好んで囚われている者もいる。が、そのことはそれほど印象には残らない。

 ガジェットが多いのも、バラードには珍しいかもしれない。歌う花、歌う彫刻、向心理性ハウス、感光性顔料によるキネティック・アート、バイオファブリック等々。最後の「生きている衣服」はリチャード・コールダーの『デッドガールズ』『デッドボーイズ』のシリーズ(原書はそれぞれ1992と1994、邦訳は1995と1997)にも登場した。
  もっともバラードのが植物性(品種改良されたオジギソウなど)なのに対し、こっちは動物性(培養細胞)というだけでなく、同じく「美と狂気と頽廃」を描こうとしていると思しきコールダーが、近未来のタイのエキゾティシズムが非常に魅力的なのを除けば「一生懸命、奇を衒いました」感がありありなのに対し、バラードはそうではない。もちろんバラードも奇を衒っているのは明らかなのだが、非常に伸び伸びと楽しそうで「頑張りました」感はない。どう違うんだと問われたら、説明できないことはないが、詰まるところは私の主観なので、「自分はそうは思わない」と言われたらそれまでなんだけど。
 それと、これも主観ですが、コールダーのいかにも90年代的な「とんがった感性」が今となっては気恥ずかしいのに対し、ヴァーミリオン・サンズはこれだけの時を経てもほんのわずか色がくすんだだけで、それさえも味わいを深めている。

 いや、そうは言ってもコールダーは好きですよ。翻訳が止まってしまっているのは残念だ。つくづく「冬の時代」の傷は大きく深い。

 ところで『ヴァーミリオン・サンズ』の次に読んだのが、偶々チャールズ・プラットの『フリーゾーン大混戦』(原書は1989、邦訳は94)だったんだが、これが「SFの主要テーマすべてを網羅!」という謳い文句が、まあとにかく嘘ではないという恐るべき闇鍋SFで、全28章中(各章は1頁から数十頁)第3章で「水没したマンション世界の胆汁団」(「マンション世界」には「モンド・コンド」とルビ)という章題と第一段落の「水没したマンション群の上を航行する錆びた貨物船」という情景に、「む、これは」と思って巻頭の謝辞を確認してみたら、案の定「本書は、H・G・ウエルズ、ロバート・A・ハインライン、C・M・コーンブルース、アルフレッド・ベスター、フィリップ・K・ディック、J・G・バラードなどの作家たちから盗んだアイデアを自由に使用している」とあったよ。ははははは。
 ただし全篇通して、バラード的な要素はこれだけなんだけど。後は「いかれたコミュニティ」と「悪夢としての中流生活」というモチーフがバラード的と言えなくもないかもしれんが、実際に書かれているのは特にバラード的でもないし、そもそもこれらのモチーフはバラードの専売特許というわけじゃないしな。

 そして巻末には主要なSFテーマ一覧が挙げられているのだが、71にも及ぶテーマの中でバラード的なものって「形而上学」に該当するのかなあ。しかし形而上学と言うならディックだってそうだし、だいたい『フリーゾーン』のどこに形而上学的要素が……こじつければそうだと言えんことのない箇所もあるので、謳い文句に偽りはないのだが、少なくともバラード的な意味で「形而上学」はない、と言い切れる。
 そうするとこの作品中、バラード的なのは第3章の「水没したマンション世界(モンド・コンド)の胆汁団」という章題と第一段落の「水没したマンション群の上を航行する錆びた貨物船」というわずか数行の情景描写だけで、たったこれだけで「バラード的」を醸し出すプラットの手腕は見事だと言わざるを得ない。
 しかしこの「バラード的」なるものを別の言葉で簡潔に言い換えることは、少なくとも私にはできない。「主要なSFテーマ」というのは「主要なSFサブジャンル」とも言い換えられるが、「バラード的」というのは一つのSFサブジャンルなのだなと再確認した次第。

 ところで1980年代末当時、すでにSFテーマ(もしくはサブジャンル)として確立していたのにこの「主要なSFテーマ一覧」に漏れているものに「スチーム・パンク」があるな。もっとも当時はまだ「マッド・ヴィクトリアン・ファンタジー」なる呼称も併用されていたから、著者の中ではファンタジーに分類されていたかもしらん。「ゾンビ」も今や立派にSFサブジャンルだが、当時はまだホラーの専売だったんかな。
「ジェンダー」も一覧にないが、本篇中にそういう要素がないこともないので、これは一覧中の「性的逸脱」に含まれていると見ていいのだろうか……

『ヴァーミリオン・サンズ』に話を戻すと、この連作で最も重点が置かれているのは鮮烈に視覚的な情景描写であり、ユニークなガジェットの数々はそれらの視覚的描写と相補的だ。
 作品(小説に限らず)を貶すつもりで「何が言いたいのか解らない」と言う人がいるが、何が言いたいのかはっきりしすぎているバラードの後期の作品より、目の前に展開される鮮やかな情景をただ眺めているだけでいいこの連作のほうが私は好きだ。

 ああ、それにしても読んじゃったよ、『ヴァーミリオン・サンズ』。未読のバラード作品が、また1冊減ってしまった。

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