『山椒魚戦争』
カレル・チャペック著 栗栖継・訳 早川書房 1998(1936) Valka s mloky
早川の『世界SF全集⑨ エレンブルグ/チャペック』(1970)、「ハヤカワSFシリーズ」(1974)、岩波文庫(1978)、そして本書。訳者の栗栖氏は言及していないが『ハヤカワ文庫SF総解説』によると、その都度改訳してきたそうである。本書刊行時は御年88歳だというのに、訳文は読みやすく、古さを感じさせない。
なお、巻末訳注が20頁もあるのに恐れをなす人もいるかもしれないが、注の数自体は大したことはない。だから、しょっちゅう注を参照しなければならないのでスムーズに読み進められない、ということはない。
で、注の内容自体も、まあ参照しなくても差し障りはない。注が付されているのは主として実在のモデルがいるキャラクターや企業、新聞等であり、それらモデルの詳細な解説という大変な労作なので、読まないと申し訳ないのではありますが。
さて物語はというと、東南アジアで新種の山椒魚が発見され、知能が高く身体強健な彼らは労働力として利用されるが、やがて人間に対し宣戦布告する――
訳者解説によると、発表当時、山椒魚がナチの暗喩であることは自明とされていたそうで、ナチ自身もそう考えて1939年3月15日、チェコを侵略占領したその日のうちにチャペックを逮捕しようとしたが、幸いと言っていいのか、その3ヵ月ほど前に本人は病死していた。そこで『山椒魚戦争』を禁書にした。
以上のような予備知識を持って『山椒魚戦争』を読み始めると、少々戸惑うことになる。
というのは、件の山椒魚が全然ナチっぽくないのだ。まず人間に「発見」されるなり、搾取され虐げられる対象となる。しかも、まったく無抵抗で従順である。
やがて山椒魚の権利拡大を求めたり、山椒魚を偶像視/神聖視したりする人々も出てきて、さまざまな運動を展開する。それらの「ポジティブ」な働きかけに対しても、やはり山椒魚はひたすら受け身なまま、為すがままである。劣悪な環境で死ぬまで働くのと同様、祭壇に祀り上げられればおとなしく崇められ、教育を受けさせられれば高い教養と完璧な礼儀作法を身に付ける。
山椒魚はナチどころか、あたかもかつての「野蛮人」の如くである。「山椒魚に洗礼を施すことができるか」という問題を巡って、当の山椒魚の意見を一切求めることなく人間同士の大論争が繰り広げられる下りなど、まさにそのまんまだ。
ただし現実の「野蛮人」はやられっ放しではなく抵抗したが、山椒魚は抵抗どころか不満や要求を主張することすらない。ひたすら為すがままながら、繁殖だけはやめない。ひたすら増殖し続ける。
本編は400頁超と結構ボリュームがあるが、普通の小説、つまりキャラクターの言動や心理を記述するスタイルが取られるのは、全体の4分の1ほどである。残りは報告書、新聞記事、論文、議事録などのスタイルで構成される。
そして全体を通して、山椒魚は常に客体である。山椒魚を巡る人間たちの言動を、上記のような「事後の記録」のスタイルでひたすら追っていくだけだ。彼らの中には、山椒魚の実物を見たこともないまま、山椒魚を巡って行動 (搾取したり擁護したり崇拝したり) している者も少なくない。
中盤、唯一例外的に、「高等教育を受けた山椒魚」による「追想記」が引用のかたちで置かれている。「人間らしく」あろうとし山椒魚本来の習性を恥じている、といった内容は、やはり「文明世界で教育を受けた野蛮人」のまんまパロディである。
しかし前半で「引用」されている人語を覚えたての山椒魚と学者との対話が、無能な人工知能と人間の対話みたいに噛み合わなかったのを考えると(人工知能が概念すら存在しなかった時代に、チャペックはどこから着想を得たんだろう)、上記の「追想記」もどこまで山椒魚の「本心」なのか怪しい。高等教育を受けた山椒魚の内面はこうあるべきだ、という人間の思い込みを読み取っているだけだということではあるまいか。
以下、ネタバレ注意。
全体の3分の2まで進んだあたりで、山椒魚の「叛乱」が始まる。「チーフ・サラマンダー」なる指導者に率いられた山椒魚たちが、繁殖に必要な沿岸低地帯の割譲を求め、人類を攻撃し始めたのだ。
山椒魚=ナチの暗喩だというのは、明らかにここからの展開を指す。しかし上述のとおり、この展開は全体のたった3分の1ほどでしかない。
チーフ・サラマンダーから人類への要求が電波ジャックしたラジオを介した「があがあ声」の演説口調で行われる、という辺りは確かに露骨にヒトラーっぽく、最終章に至っては「作者」自らが、チーフ・サラマンダーは実は人間で、「本名はアンドレアス・シュルツといってね。第一次世界大戦当時は、曹長だったんだ」と「種明かし」している。
したがって、チーフ・サラマンダー=ヒトラーでいいんだろう。しかしだからと言って、山椒魚=ナチという図式に飛びつくのは拙速だ。全体の3分の2では山椒魚たちはまったくナチっぽくないし、ついに人間を攻撃するのもチーフ・サラマンダーという人間に煽動されたからであって、相変わらず主体性は皆無なのだ。
第2部第2章では、アメリカでの出来事として、解剖学的に不可能にもかかわらず、人間の娘(明言はされていないが明らかに白人)をレイプしたと見做された山椒魚がリンチされるエピソードが紹介される。黒人たちがこの所業に抗議して教会で祈りを捧げると、今度は黒人襲撃事件が多発する。
もちろん一切は、山椒魚たちの与り知るところではない。
第3部第4章で紹介されるのは、北海とバルト海に住み着いた山椒魚が、わずか数年で、ほかの海域の山椒魚とは違う肉体的特性を示すようになったという、ドイツ人学者の「発見」だ。
たとえば色がやや白く(山椒魚は本来黒い)、ほかの山椒魚より直立した姿勢で歩き、「頭蓋骨指数」はほかの山椒魚の頭より細長いことを示している、といった具合で、これを受けてドイツ人たちはこの変種が「ほかならぬドイツという環境の影響を受けて」、本来の山椒魚とは「別の高級な種族に進化した」「超山椒魚」だと言い出す。
「ドイツこそ、すべての近代山椒魚の源泉地」であり、いったんは他の海域に拡散したため、「退化するという代償を払うことになった」が、「生まれた祖国の土地に再び定住するやいなや、それは色白で直立し、頭が細長い、高貴な北方山椒魚」という「元の姿にかえったのである」……
と、これでもかとばかりにアーリア人至上主義を弄り倒しているが、ここでも騒いでいるのは人間であって山椒魚ではない。
ここまで見てくれば解るように、山椒魚とは人間の特定の思想集団のメタファーではなく、人間の妄念を映し出す鏡なのである。
だから彼らには主体性が一切なく、ただただ増殖し続けるのだ。そして最終的に、妄念は具体化して人間自身に跳ね返り、大災厄を引き起こす。
山椒魚=ナチス・ドイツだと見做した当時の読者も、つまりは自分たちの勝手な思い込みを山椒魚に反映していただけだ。
もちろん、チャペックがそういうつもりでこの作品を書いたのかどうかは知らん。それに「客体としての山椒魚」も最後の最後、つまり最終章で不徹底に終わってしまっている。主体性を一切与えないつもりなら、チーフ・サラマンダーを名乗る人間に率いられた「アトランティス山椒魚」を滅ぼす「レムリア山椒魚」もまた、人間に率いられていることにすべきだった。
もっとも、この最終章自体、紋切り型の大団円を期待する読者への皮肉として書かれているのではあるが。
第2部第2章には、各国の学者たちが山椒魚に行った生体実験(生きたまま脳や器官の一部を切除したり、熱や化学物質その他への耐性を調べる)の数々に関する報告がある。
生体実験に加えて、「有用な原料としての山椒魚の価値」についての実験と称して、試験的に山椒魚の皮を加工して牛皮の代用にしたり、山椒魚から多量のヨードと鱗を抽出したり、脂肪はいやな味がして食用にはならないが工業用潤滑油に適することが明らかにされたりしている。
本書の出版は1936年であり、上記の箇所は不気味な予言性を帯びている――しかも耐性実験と「有用な原料としての山椒魚の価値」実験を行ったのはドイツ人であり、山椒魚の中枢神経系の一部を切除する実験を行った研究者の1人は日本人だったりする。
だが、チャペックが特定の時代の特定の集団の特定の行為を予言/予測し、風刺しただけだと見做しては、本書を「用済み」のもはや歴史的価値しかない作品と見做すことになる。
人は、「異常な」思想や行為は、「異常な」人間だけのものだと思いたがる。
たとえば、ミルグラムの服従実験は、人は「権威」に命じられると、これまで決してやろうと考えもしなかったような残忍な行為も行ってしまいかねない、ということを証明したものだ。しかしたいていの人は、この実験について知ると、被験者たちは元から残忍性を秘めた「異常な」人間であり「自分たち」とは違う、と考える。
そういう人ほど、シチュエーションを巧いこと変えて気づかれないようにした服従実験の被験者になると、あっさりと権威に服従して「異常」で残忍な所業を行う。実験ではなく現実においてはどうかと言えば……言うまでもない。
『山椒魚戦争』が風刺するのは、「私たち」とは無関係な、遠い過去の、「異常な」社会や人々ではないのである。
チャペックによる付言や訳者解説から、『山椒魚戦争』は当時、「ユートピア小説」に分類されたことがわかる(ただしチャペック自身は、人に言われるまでそのように考えてはいなかったようだ)。
ブライアン・オールディスは『十億年の宴』(東京創元社)で、こんにちSFと総称されるジャンルが20世紀初めには、2つの極に分裂していたと述べ、それらを「幻想的フィクション」と「分析的フィクション」と呼んでいる。
前者はバローズやラヴクラフトに代表される。後者の作家として挙げられているのは、ウェルズ、ハクスリー、ステープルドン、そしてチャペック。前者はいわゆるパルプ・フィクションであり、後者は主流文学である。両者は長らく隔絶していたという。
前者は30年代にはすでに、「サイエンス・フィクション」という名称を得ていた。後者が主流文学の中でもどのようなサブジャンルとして分類されていたのか、オールディスは述べていない。
しかしチャペックは『山椒魚戦争』の中で、「ユートピア小説」の書き手としてウェルズやハクスリーを挙げている。どうやらオールディスの言う「分析的SF」は当時、「ユートピア小説」という括りだったらしい。
当時はまだアンチ・ユートピアとかディストピアという用語はなかったことを考慮しても、『山椒魚戦争』がユートピア小説だという分類には首を傾げざるを得ない。しかしユートピアを「理想郷」ではなく字義どおりの「どこにもない国」と解釈すれば、「架空の社会を舞台にした分析的(言い換えればスペキュレイティヴ)フィクション」をユートピア小説と呼んだのではないか、と考えられる。
ちなみに私が初めて読んだSFは、バローズの『火星のプリンセス』だった。そして、それからいくらも経たないうちに、同じシリーズに入っていたステープルドンの『オッド・ジョン』も読んでいる。岩崎書店の「SFこども図書館」の『火星の皇女』と『超人の島』で、1976年刊行である。
かくの如く、オールディスが呼ぶところの幻想的フィクションと分析フィクションという「2つの極」がSFの名の下に統合されて久しいが、SF=サイエンス・フィクションとするならば、『山椒魚戦争』の「サイエンス」度はどれくらいだろうか。
作中、それが最も高いのは、第2部の最後に置かれた「山椒魚の性生活について」であろう。架空生物の生殖形態を「科学的」に考察した作品としては、最も早いのではあるまいか。
いや、調べたことはないんだけど、パルプ誌系SF(「幻想的フィクション」)では性の問題(性交だけでなく生殖も)を真っ向から取り上げるのは長らくタブーで、ファーマーの『恋人たち』(1952年発表)でようやく破られたというのだから、きっとそうだ。
もっとも、「ユートピア文学」=「架空社会文学」だと定義すれば、トマス・モアどころかエデンの園やアマゾニア(単に架空の国であるだけでなく、ある意味、「女ばっかりの理想郷」だ)まで遡って、「性の問題」(婚姻形態)はほぼ必須のテーマである。チャペックも、ウェルズとハクスリーの名を挙げて、「ユートピア小説に性の問題は避けて通れない」というようなことを述べている。
まあ私が知る限り、古代以来の「ユートピア文学」で解説される婚姻形態は、そこの住民が人間にせよ人外にせよ、極端な禁欲(年に1度、決められた期間だけ性交を許されてるとか、そもそも性交の必要がないとか)かフリーセックスのどっちかなんだけど。
チャペックが「科学的」に解説する山椒魚の生殖形態は、そのどちらにも当てはまらない。
山椒魚の生殖行動で最も特徴的なのは雄の求愛ダンスで、これはやがて人間たちのニューエイジっぽい新興宗教(この辺も時代を先取りしている)に取り入れられ、保守的な人々の顰蹙を買うのだが、科学者が明らかにしたところによると、実は山椒魚の精子は繁殖になんの役割も果たしていないのであった。雄自体が用無しというわけではなく、精液に含まれるなんらかの化学物質が卵子を刺激することによって、発生が開始する。しかし受精はなされないので、要するに山椒魚は単為生殖だということになる。
設定や記述が「科学的」というだけでなく、この「発見」をなしたのが女性科学者であることや、山椒魚の「父性」についての真面目腐った考察など、明白にジェンダーSFの先駆けと言える。
チャペック作品でほかに読んだのは『R.U.R ロボット』だけで、しかもかなり以前のことだ。「ロボット」の元祖が無機物ではなく有機物だと、知っていたから読んだのである。
私にとってロボットの原点は手塚治虫作品だが、幼少期の私の目には(今でもそうだが)なぜか手塚治虫のSF作品に登場するロボットは生物に、生物はロボットに見えた(非SF作品であれば、そのような生物/無生物の曖昧さはない。いや、そもそもロボットが登場しないんだけど)。それがすごく怖くて気持ち悪いと同時に、どうしようもなく蠱惑的だった。
だからデビュー作『グアルディア』の重要ガジェットである「生体甲冑」と「亜人」は、「モビルスーツ」(ガンダムも好きなんで)と「ロボット」だが、どちらも無機物ではなく有機物でなくてはならなかったのである。
そしてデビュー後、『グアルディア』と同一舞台のシリーズを書いていくべく、ロボットものの元祖にして、しかも有機物である『ロボット』は是非読んでおかねばと思ったのだった。
で、実際読んだんだが、以下ネタバレ注意。
精神を制御されたロボットが制御を外されて叛乱を起こす、自己増殖能力の欠如により滅亡を運命づけられる、愛情の獲得等々、後続作品で繰り返されることになるテーマあるいはモチーフが提起されており、まさしく「ロボットもの」というジャンルの元祖に相応しい作品である。
古典というのは「典型」となるから古典なのであり、それにもかかわらず新鮮さの失われない作品もあれば、陳腐になってしまう作品もある。残念ながら私にとって、『ロボット』は後者だった。SF史上あるいは文学史上のみならず、科学史上においてもその歴史的価値は計り知れないのではあるが。
一方、『山椒魚戦争』は「歴史的価値」を抜きにして、おもしろかったのである。どうおもしろかったのかはすでに述べたが、それとはまた別に、主体性を欠く「人間の妄念を映し出す鏡」として描かれる山椒魚は、非常に興味深いものであった。
というのも、『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』はチャペックのロボットのような「生体人造人間」であるところの亜人をメインのガジェットにしているのだが、所収作品のいずれにおいても、亜人を『山椒魚戦争』の山椒魚の如く、「人間の妄念の投影」として描いているからだ。だから意図的に、亜人を視点キャラクターに据えることはなかった(最後の短篇だけ「名無し」の視点で語られるが、あの時点ではすでに亜人ではなくなっている)。
あの連作に取り掛かるだいぶ前にチャペックの『ロボット』を読んで、参考になるところはないと判断し、チャペックの他の作品も読む必要を感じなかったのだが、『山椒魚戦争』を読んでいたら、亜人の描き方に何かしら得るものがあったはずである。
いやまったく一作だけで作家を判断するものじゃないですね、という話でした。 とは言え、ほかのチャペック作品を読むのは、早くても数ヵ月は先だろう。期待がある分、外れだったら、すごくがっかりしてしまうし、当たりだったらそれはそれで、すでに亡くなっている作家である以上、読める作品が一つ減ってしまうことになるわけだから。
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