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ニッポンの声の文化

 これも何ヵ月も前に読んだ本であるが、オングの『声の文化と文字の文化』(藤原書店)は実に興味深かった。
 文字(特に印刷された文字)の文化が浸透した社会の人間には、無文字の、あるいは文字があまり浸透していない文化を理解することが難しい、と同書は繰り返し強調している。まったくそのとおりで、解説されている無文字の、あるいは文字があまり浸透していない文化というものを、具体的に思い描くのは難しかった。
「文字の文化」も「声の文化」も共に「言葉の文化」ではあるが、前者が文字どおり「文字で表現できる言葉の文化」であるのに対し、後者は「文字で表現できない言葉の文化」と言い換えることができる。
 そのような声の文化(および社会、人々)が登場する物語を、これ以上ないくらいに文字の文化にどっぷり浸かった現代日本人が、文字を使って果たしてどこまで正確に描くことができるだろうか。

 それはさておき、『声の文化と文字の文化』について言えば、原文そのもの、および訳文の硬さも、理解を妨げる原因の一部ではあるだろう。たとえば、「闘技的」という言葉。原文(英語)ではどんな単語または語句が使われていたのか、私の英語力では察することもできないが、「声の文化やその影響を残している文化の、すべてではないにしてもその多くは、文字に慣れた人々の目から見ると異常に闘技的である」という訳文も、なんのことやらさっぱり解らない。

 読み進めていくと、「闘技的」というのはまず、「ことばが専ら声として(文字としてでなく、という意味)機能している社会では世界中どこでも」「交互に罵倒し合う」という「現象」が「標準的に見られる」ことを指しているらしい(なお、同書の訳者は頑なに「言葉」を「ことば」と平仮名に開き続ける)。
 この一文の直前には、「物語のなかで人物同士が出くわすシーンになると、決まって自分自身の勇ましさを自慢したり、相手をやり込めようとする場面があらわれる」とあるので、「闘技的」というのは、相手を侮辱することだけでなく、自分自身を賞賛することも含まれるようだ。
 具体例が挙げられていないので余計に解りづらいが、イスラム成立以前のアラビア半島における、部族同士の戦争はまず部族のお抱え詩人同士が詩で自分の部族を賞賛し相手の部族を侮辱するところから始まった、という伝統が該当すると思われる。
 他の文化圏でも、部族レベルや個人の戦闘はまず口頭での「勝負」から始まり、それによる「勝敗」も、物理的な戦闘の結果に加算されたようだ。日本の武士の「名乗り」もその一つだろう。

 こういった罵倒と自慢(どちらかだけのこともある)の応酬は、観客の存在を前提としたパフォーマンスであり、現代の例として挙げられているのは、「アメリカ合衆国やカリブ諸国などの」「声の文化がまだ支配的な地域で育っている黒人の男子は、ダズンズdozensとかジョウニングjoningとかサウンディングsoundingなどのさまざまな名で知られる遊びに参加する。そのなかでは、参加者の一方は他方の母親の悪口を言い、それによって互いを打ち負かそうとする」。

 映画『RIZE』はまさに「アメリカ合衆国の声の文化がまだ支配的な地域」(要するに教育レベルが低い貧困地区)が舞台で、クランプダンスとクラウンダンスという2つの派閥の公開ダンス対決が行われた際、その「前座」としてステージ上でダンサーたちが交互に罵倒の応酬をするという「ショー」をやってたなあ。女子も参加してたし、確か悪口のネタは母親限定じゃなかったが。

 しかし著者の言う「闘技的」とは、自慢と罵倒の応酬という「口喧嘩」だけを指すのではないらしい。
「彼ら(声の文化に生きる人々)が諺や謎々を用いるのは、単に知識を蓄えておくためだけではなく、相手の関心をことばによる知的な戦いに引き込むためでもある。つまり諺やなぞなぞの一つを口に出すことは、相手にそれ以上に気の利いた諺か謎々を出すようにという挑戦なのである」

「謎かけ勝負」は神話伝説や民話の形で数多く記録されており、異世界ファンタジーにも時々登場する。一番有名なのは『ホビットの冒険』だろう。
 しかし現代日本のような文字の文化にどっぷり浸かった社会では、謎々はせいぜい子供の遊びであり、「ことばによる知的な戦い」と言われても実感はまったくない。

 ……と思いながら読んでいたんだが、ふと、現代日本における「ことばによる知的な戦い」に該当するのは、「関西のボケツッコミ」じゃないかと思い至った。

 関西人同士の会話は、非関西人から見ると喧嘩のようだ、とはよく言われてきたことである。近年ますます関西芸人の「関東進出」は著しいので、そんな感想を抱く人はもはやいないんじゃないかと思われる方もおられるかもしれないが、台本のある漫才(トークショーだって大まかな流れは事前に決められているはずだ)とは違って、「本物」のボケツッコミは目の当たりにすると本当に凄まじい。
 ボケ役、ツッコミ役は固定されておらず、互いにどうやってボケてやろうか、どうやってツッコんでやろうかと、虎視眈々と狙いつつ、どうということのない日常の事柄から深刻な相談事、世界情勢まで話題は選ばない。傍で見ていると喧嘩を通り越して、まさに「ことばによる格闘」。丁々発止の真剣勝負である。言葉がぶつかり合う音まで聞こえてきそうだ。
 こういうのを、普通の学生や会社員が行うのである。

 もちろん彼らとて、年がら年中そんな会話をしているわけではない(そんなことをしたら神経をすり減らして早死にしてしまう)。
 普段の会話はもっと穏やかで、むしろ相手がボケやすいよう、ツッコミやすいよう、互いに配慮しながら続けられる。言葉のキャッチボールである。
 それが、こちらが投げた言葉にどう返せるか(どうボケられるか/どうツッコめるか)という「挑戦」になってしまうと、上記のような「勝負」と化すのである。

 関西の友人が、「関西人は相手の話を半分しか聞いていない。後の半分は、どうツッコんでやろうか、どうボケてやろうかと必死で考えている」という主旨のことを言っていた(奈良の人なので奈良の言葉で)。
 これは語弊のある言い方で、もちろん彼らは相手の話を「聞いていない」わけではない。ただ、自分の発言の「意味」を相手に伝える、相手の発言の「意味」を理解する、というだけでなく、互いにどう「反応」するかにもかなりの比重を置いているのである。
 また、自分がどう反応するかだけを重視し、互いの言葉の「意味」を疎かにする人間が一部にいることも事実である。当然ながら、そういう人間は見当外れなボケツッコミばかりし、まともな会話は成立しない。

 上記の「言葉の真剣勝負」であれ、「言葉のキャッチボール」であれ、また話題に関係なく、時にこれ以上なくきれいにボケツッコミが決まることがある。傍目にもそれと判るが、本人たちは感動の余り絶句する。沈黙の中、しばし2人で見詰め合い、ややあって、
「……今の、よかったな」
「……ああ」
 と余韻に浸る。
 関西に住んでいた十数年の間に、友人知人や通りすがりの他人のものも含め、こういう光景を5回は目撃したことがある(5回しか、という言い方もできる。滅多に起きることではないのである)。

 さて、なぜ関西にはこのような「声の文化」が存続しているのだろうか。
 言うまでもなく関西は、「声の文化がまだ支配的な地域」などではない。文字の導入以来、永きにわたって日本の「文字の文化」の中心地で在り続けたのは周知の事実である。

 一言で言えば、良くも悪くもローカル番組のお蔭であろう。
 お笑いに興味があるわけではないので、私自身はそれらの番組をちゃんと観たことはないが、友人たちがしばしばおもしろおかしく語って聞かせてくれたものである(親しい人から語って聞かせてもらうのは好きだったが、知らない人が出ているTV番組をわざわざ観る気は起きなかった、とも言える)。
 台本や予め決められた進行のある漫才やトークショーも「お手本」にはなるし、聞いた限りでは、即興性の高い番組も多かったようだ。

 たとえば「枚方と高槻の市民(ずぶの素人)同士の公開討論:『どちらが都会か』」。
 と聞いただけで私が笑ったのは、当時すでに関西に何年も住んでいたからだが、自分たちのほうが都会だとする根拠の例が、枚方市は「ひらかたパークがあるから」で、高槻市は「松下(現パナソニック)の工場があるから」だった、と言えば、関西圏外の方々にもこの微妙さが多少は伝わるのではないかと。
 地元の誇りを賭けた公開討論(という名の自慢と罵倒の応酬)。これはまさにトライバル・ウォーの序盤における「口頭による勝負」の現代版である。

「良くも悪くも」と述べたが、「良くも」というのはもちろん、記録も保存も困難なため文字の文化に駆逐されやすい声の文化がこうして存続しているのは良いことだからだ。
 上述のように、声の文化とは「文字で表現できない言葉の文化」である。漫才でも落語でも、文字で書き留めてもおもしろさはせいぜい半分しか伝わらない。書き留めることのできなかった残り半分以上のおもしろさは、そのまま切り捨てられることになる。しかも文字で書き留めたものは、「文字の文化」となってしまう。録画や録音でも、臨場感は記録できない。

「悪くも」というのは、関西の友人たちが異口同音に言っていたことだが、TVによる「言葉の均質化」である。
 関西の人々は、自分たちが「関西弁」を喋っているとは思っていない。それぞれ大阪弁なり京都弁なりを喋っているのである(実際には、さらに地域別に細かく分かれる)。非関西人でも、少し慣れれば違いはかなり大きいことがわかる。
 それが、TVでいわゆる「関西芸人」たちの喋る言葉の影響で、地域差が失われつつある、というのだ。いわば、「関西の標準語」としての「関西弁」の成立である。

 今述べているのは10年以上前の状況であり、この「関西弁化」は進行することはあっても後退(地域差が復活)することはあるまい。
 また関西の人たちが「関西人」と自称するのは、外部(非関西圏)の人間に対してのとりあえずの括りであって、実際には大阪、京都、兵庫よりもさらに細かい地域ごとの人間だと自認しており、それらの地域を超えた「関西人」という1つのアイデンティティを持っているわけではない。
 したがって、「関西人」同士、連帯感や同胞意識なども抱いていない。ある時、大阪の人が「京都の人間はいかに陰険か」を表現力の限りを尽くして述べ立てていた(その場に京都人はいなかった)。後で生粋の京都人(先祖が室町時代まで遡れるそうである)に、「大阪をどう思う?」と尋ねたところ、「下品」と一言で斬り捨てたので、そっちのほうがよっぽど怖かったものだ。
 こういう地域ごとのアイデンティティも、言葉の均質化とともに失われ、「関西人」としてのアイデンティティが成立する(もしかすると成立しつつある)のだろうか。

 さらに、新しい文字の文化であるSNSも、関西の「声の文化」に着実に影響を与えつつあるだろう。どうなってるのか知りたくはあるんだけど、関西の友人知人とはみんな縁が切れちゃってるんだよねー。

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