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『無限の書』雑感その一

(10/6 引用部分を斜体にしていたのですが、編集画面だとそうでもないのに、実際にアップした画面だと妙に見づらいので変更しました)
G・ウィロー・ウィルソン著 鍛冶靖子・訳 東京創元社

 読んだのは数ヵ月前だが、ふと思い立って感想を書いたら長くなった。2回に分けます。一応ネタバレ注意。
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 著者はアメリカの白人女性で、カイロでジャーナリストの経験もあるイスラム改宗者。という履歴、中東の某専制国家が舞台で謎の古写本を巡るハッカー青年の冒険というプロット、加えてこの邦題と来るので、ウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック』の系譜を引くゴシック・オリエンタリズム小説(この場合の「オリエンタリズム」は単に「東洋趣味」の意と考えていただきたい)とサイバーパンクの融合かと期待すると、少々肩透かしを食らう。
 2012年当時の中東の現実をよく捉えてはいるが、物語そのものはやや軽く、どちらかというとヤングアダルト風だ。
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 が、原題はAlif the unseen「見えざる者アリフ」というヤングアダルト風、ヒーローもの風であり、看板に偽りありというわけではない。誤った印象を与える第一要因は明らかに邦題だ。
 海外小説、特に英語小説の邦訳本は、表紙に原題がでかでかと明記されていることが多いが、本書はものすごく小さな字で、判りにくい場所にこっそり記されている。
 確かに原題の直訳では、あまり日本の読者を惹き付けられそうにないが、この邦題に惹かれて手に取った読者が、そぐわない内容に肩透かしを食らって喜ぶとでも思ったんだろうか。
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 まあとにかく、著者に責任はない。そして、さすがに中東に詳しい。
 エドワード・サイードは中東専門家つまりオリエンタリストを称する欧米人について、伝統的には過去の中東を学べば現在の中東を学ぶことになると考え、現代の、特に米国においては過去だろうが現在だろうが中東について学ぶ必要はない(学ばなくても中東専門家になれる)と考えている、と批判する。
 しかし本書の著者は、現代の中東の情勢や文化にも、過去の中東の歴史や文化にも相当詳しい(本書の「アラブの春」はハッピーエンドに終わっているが、これを「情勢を読み違えた」と批判するのは当たらない。ジャーナリストがあまりに的外れな予測をするのは困りものだが、本書はフィクションである)。
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 主人公が受身で他力本願すぎる、という批判を幾つか見たが、おそらくこの主人公の造形すらも、中東の物語の伝統に則っている。
『千夜一夜』に登場する男性主人公は、だいたい3タイプに分類できる。①勇者、②日本や西洋など他の文化圏の民話にも多い、金も身分も腕力もない正直者かお調子者タイプ、③非力な美青年タイプ(父親はだいたい裕福な商人か王)。
 で、3タイプとも揃って他力本願で役立たずである。困った困ったと言っていると、だいたい周りが助けてくれる。特に③の美青年タイプが一番ひどい。時には①は腕力で、②は誠実さや機知で切り抜けることもあるが、③は常に我が身の不幸を嘆き、詩を口ずさんで衣を引き裂いては悲鳴を上げて失神していると、その間に周囲(身内、友人、主人公に一方的に惚れた美女、通りすがりの他人)が解決してくれるのである。
 まあこれが、『千夜一夜』の主な読者(あるいは聞き手。『千夜一夜』は本来、カフェなどの客を相手に朗読するものだった)の願望だったんだろう。「独立独歩」も「人間的成長」も知ったこっちゃない、他人に助けてもらって楽して生きたい、もちろん美貌にも恵まれたい。
 それに比べれば、本書のアリフは少なくとも自分でなんとかしようという努力はしているだけ、相当に現代的である。
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 とは言うものの、引っ掛かる部分がないわけではない。たとえば、吸血鬼ヴィクラムというキャラクター。中東には死体を食うグールはいても、吸血鬼はいない。ヴィクラムという名も中東風ではない。
 訳者あとがきによると、元ネタはインドの民話「吸血鬼とヴィクラム王」らしい。民話自体は本書の内容とは全然関係ないとのことだが、一応、本書の中でも「サンスクリットの伝説にある二千歳の吸血鬼」という設定だ。
 しかし、このキャラクターは吸血鬼でもないし、インドともまったく関係がない。一言で言えば、『千夜一夜』のジンの現代版である。
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 欧米人にとっての「オリエント(東洋)」とは「非西洋」、つまり西ヨーロッパとそこからの移民の文化圏以外のすべてだ。そして「オリエンタリズム」とは、非西洋は非西洋であって、その内部の区別を一切無視することである。
 要するに、オリエンタリスト(中東通)である著者もまた、インドとアラビアの区別がついていないんじゃないかと、嫌な予感を覚える。
 しかしとにもかくにも、この吸血鬼ヴィクラムは、ブラックマーケットを根城にするトリックスター的な、なかなか魅力的なキャラクターなので、嫌な予感は脇に置いて読み進める。
 すると、吸血鬼ヴィクラムの知り合いだというキャラクターが登場する。中東史研究者(オリエンタリスト)にしてイスラムへの改宗者であるアメリカ出身の白人女性だ。
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 さて、「オリエンタリズム」とは本来、「東洋学」のことであった。東洋に関することならなんでも対象となるので、「オリエンタリスト」とは「東洋学者」のみならず「東洋通」も含む。ただし、現在ではこの意味で使われることはあまりない。
 19世紀以降、オリエンタリズムは芸術分野における「東洋趣味」も指すようになった。現在(の日本)でも、単にこの意味で使われることもある。
 しかし現在、オリエンタリズムと言えば第一に、エドワード・サイードが発見した概念、すなわち「東洋蔑視」のことだ。
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 件のキャラクターは、「オリエンタリスト」の戯画化でもある。まず東洋の文化と歴史を研究する学生であり、中東に住んでいる「東洋通」(あくまで欧米人の基準)だ。イスラムに改宗するくらいだから、「東洋趣味/東洋への憧れ」の持ち主でもある。しかし中東の現地社会に溶け込もうとする努力はことごとく的外れで、勘違いした東洋趣味と相俟って滑稽でしかない。
 同時に東洋を見下してもいて、且つそんな自分を恥じている。
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 それなりに出番はあるのに「改宗者」としか呼ばれないこのキャラクターは、吸血鬼ヴィクラムに散々いじられる。ちなみにヴィクラムは、主人公アリフをはじめとする「現地民」の目には、ほぼ人間の外見だが膝関節が逆向きに曲がる異形として映る。しかし改宗者はその異形に気づかない。
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「この女はありのままのわたしを見ることができないんだよ」ヴィクラムが言った。「アメリカ人の奇妙な特性だねえ。半分中にいて、半分外にいる。精神性を重視するくせに、心の奧では見えざるものをどこかいかがわしいと感じている」
(中略)改宗者が英語で反論した。「その言い方はフェアではありません。わたしたちはそこまでひどくはありません」
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 こうした遣り取りは本筋にはほとんど絡んでおらず、明らかに脱線だが、それなりに興味深い。アリフが別れた恋人から託された謎の古写本『アルフ・イェオム』について、彼女は次のように述べる。
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「もしこれがほんものなら、百年にわたる『アルフ・イェオム』研究の中ではじめて世に出たアラビア語版だということになります」
「西洋における研究の中で、だよねえ」ヴィクラムが言葉を足した。
「失礼ですが、ほかにどこで研究しているのですか。一九二〇年代にサウジアラビアがメッカとメディナを吸収して以後、アラビア半島は(中略)知的ブラックホールになってしまいました。パレスチナは崩壊し、エルサレムの伝統的学問がまかり通っています。ベイルートとバグダッドも同様です。北アフリカは植民地時代からまだ回復しておらず――どこの大学も専制君主と西洋かぶれをした社会主義者たちのなすがままです。ペルシャは革命にどっぷりつかっています。『アルフ・イェオム』についての研究がおこなわれているとしても、わたしは聞いたことがありません」
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『アルフ・イェオム』(『千一日』)は18世紀初頭にフランス人が当時の『千一夜』ブームに便乗して、フランス語に「翻訳」した物語だが、実は「翻訳者」の創作であって、アラビア語原典は存在しない。しかしこの架空の作品を適当なイスラム古典に置き換えれば、いかにも欧米の研究者が言いそうな台詞である。
 このような傲慢さをヴィクラムに突っつかれ続けた結果、改宗者はついにこう嘆く。
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「わたしたちがどれほどの譲歩をしているか、あなたがたはまったく気にかけません――慎み深い服を着て、言葉を学んで、いつどのように誰に話すかといった正気とも思えない規則すべてを守っているのに。わたしはあなたがたの宗教まで受け入れました――自分は尊い正しいおこないをしているのだと考えて、自分の意志で選びとりました。なのにそれだけではまだ足りないのです。わたしの口から出るあらゆる考え、あらゆる言葉が批判されます。わたしがわたし自身のいまいましい母国について語るときでさえそうです。わたしはこれからもずっと異国人なのです」
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 さらに、こうも言う。
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「わからないのは、非西洋人たちがどうやってあんなにも簡単にふたつの文明の間を行き来できるかです。あのコツは西洋人には決して理解できないでしょう。わたしたちの文化的DNAには適応というものが含まれていないのです」
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 これは実に、驚くべき謙遜である。なぜなら西洋(オクシデント)は常に、非西洋すなわち東洋(オリエント)を観察し、研究し、理解し、表現し、我が物とし、自在に操作してきたが、その逆はあり得なかったからだ。
 実際、改宗者はその前の台詞では、「あなた方(東洋人)は自らの歴史や文化を研究することすらできないから、わたしたち(西洋人)が代わりに研究してあげているのだ」と述べている。
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 西洋人は東洋人を外面から観察し研究し、外面を表現できるだけではない。その内面をも理解し表現できる、つまり東洋人に成り代わって代弁することもできる。それが西洋人作家による「東洋」文学である。そこに描かれた「東洋」が、当の東洋人から見て、どれほど馬鹿げた勘違いであろうと問題はない。西洋人が「理解」し「表現」した東洋こそが真実だからだ。
 西洋人が東洋を表現する手段は、小説や随筆など文学だけに留まらない。演劇、映画、音楽、美術、建築、ファッション……繰り返すが、彼らの表現する「東洋」が、東洋人にとって正確かどうかは問題とされない。西洋人が表現した東洋は、必ず「東洋そのもの」なのだ。
 時には西洋人が東洋の特定の事物あるいは東洋そのものを、「理解不能」とすることもある。ただしそれすらも、やたらと祀り上げるか、理解に値しないと嘲弄するか、どちらにせよ珍奇な「見世物」として操作可能なのである。
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 また西洋人は、東洋を理解し表現できるだけではない。彼ら自身の心と肉体が、東洋に「溶け込み」、東洋人に「なりきる」ことすら可能だ。
 解りやすい例がアラビアのロレンスことT・E・ロレンスで、本人はどんなアラビア語の方言もそっくりに真似ることができ、どの部族のアラブ人にも成りすますことができると豪語していた。実際には、アラビア語能力について言えば、会話に不自由はなかったものの、発音や文法にはかなり難があり、すぐに外国人とばれるレベルだったという。
 外見だけでも成りすますことができたかどうかについても、怪しいものだ。ロレンス自身、著作の中で、自分の瞳の色が中東では珍しい青であることを強調している。
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 しかし大多数の西洋人はロレンスの主張を信じたし、彼ら自身もまた東洋人になりすます能力を持つと信じている。鬘とカラーコンタクトと衣装(西洋人が「東洋人の衣装」と考えるもの)を身に着け、肌を黄塗りにして吊り目メイクをすればモンゴロイド、茶塗りにして黒のアイラインを引けば中東人。「東洋人」とはすべての「非西洋人」を指すから、茶塗りは中南米系にも使えるし、黒塗りは黒人、赤塗りは北米先住民だ。
 もちろんこれは西洋人だけの能力であり、非西洋人が西洋人の文化を学んだり採用したりすることは、「近代化」か「猿真似」である。
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 ……といったオリエンタリズム批判が、『オリエンタリズム』刊行(1978年)以来行われてきた。ほぼ四半世紀後のオリエンタリスト(東洋通)である本書の作者は、この批判を真摯に受け止めているようである。彼女が創作したオリエンタリストのキャラクター、改宗者は、自らのオリエンタリズム(東洋蔑視)を認め、それを恥じ、自らが東洋に「溶け込んで」などいないことも認めている。
 改宗者は「非西洋(東洋)人は二つの文化の間を自在に行き来できるが、西洋人にはできない」という上記の台詞に続き、「偉大な西洋文学を著した東洋人作家」の例を挙げ、さらにこう言う。
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「ですが反対の事例は――偉大な東洋文学を著した西洋人作家は、ひとりも思いあたりません。そうですね、ロレンス・ダレルはその範疇にはいるでしょうか――『アレクサンドリア四重奏』は東洋文学に分類できるでしょうか」
「その判定なら簡単だよ」とヴィクラム。「その本は疲労と倦怠をかかえた連中がセックスをしている話なのかい」
「そうです」改宗者が驚いたように答える。
「だったらそれは西洋文学だねえ」
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『アレクサンドリア四重奏』は未読だが、確かにこれまで読んだ「西洋人作家による東洋を舞台にした文学作品」は、だいたいヴィクラムの定義に当てはまる。
 というわけで、この下りは笑える――直前の「偉大な西洋文学を著した東洋人作家」の例さえ適切だったなら。
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 中東在住の中東史研究者というキャラクターが挙げる「西洋人が著した偉大な東洋文学」の例として中東を舞台にした小説を挙げ、それに対比させる「偉大な西洋文学を著した東洋人作家」の例が、カズオイシグロなのである。
 ああ、やっぱり「西洋人」は、「東洋(非西洋)」は全部一絡げなんだ、区別なんてしないんだ……
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 改宗者というキャラクターのオリエンタリズム的言動の数々は批判的・風刺的に描かれているが、この例(カズオイシグロ)に限っては、明らかにそうした意図はない。そのため、すぐ後に続く「疲労と倦怠を抱えた連中がセックスしている話はすべて西洋文学」という作者入魂のギャグも不発に終わっている。
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「オリエンタリズム」というマイナーな専門用語に、サイードが新たに与えた「非西洋蔑視」という定義に、「西洋人」はどう反応したか。多くは反発し、「オリエンタリズム批判批判」が盛んに行われた。一方でまた、多くが自らのオリエンタリズムを認め、反省した。
 自らの過ちを認め、反省し自己批判するのは大いに結構なことである。が、この行為は優越感にも繋がり得る。間違いを認められる自分偉い、自己批判できる自分すごい、という優越感である。
 加害者であった(ある)ことを認めるというのは、強者であった(ある)ことを認めることでもあるし、他者を見下していた(いる)ことを認めるというのは、見下せる立場(優位)にいた(いる)ことを認めることでもあるわけだしね。
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 つまり、いくら反省・自己批判しようと、根底にあるのは「そんな自分偉い」の優越感なので、上っ面だけに過ぎない。
 だから、中東滞在という実体験に基づいた自分自身のオリエンタリズムを、登場人物の言動を借りて批判する、そのハイライトの最中に、無意識のオリエンタリズムを露呈するようなことになるのだ(だから、最初に彼女のオリエンタリズム批判を「謙遜」と呼んだのである。結局のところポーズに過ぎない)。
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 とは言え、上っ面に過ぎなかろうと、根っこにあるのは優越感だろうと、自分の過ちを認めて反省するほうが、しないよりは遥かにマシである。認めないどころか相手を加害者呼ばわりして被害者面するのと、どちらがプライドがありそうかと言えば、それはもちろん……
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