『無限の書』雑感その二
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ところで、前回は敢えて言及を避けたのだが、改宗者というキャラクターは明らかに著者の投影である。そう考えるなというほうが無理なくらいだが、私はあんまりそう考えたくない。
私自身は作品において「無」でいたいのだが、作家によってはキャラクターに自己投影し、読者にもそう読んでほしい人もいるようである。しかし一読者としての私は極力、キャラクターの背後に作者を見たくはない。たとえば、以下のようなことがあるからだ(改めて、ネタバレ注意)。
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作者が投影されていようといまいと、改宗者の出番は決して多くはない。前半、吸血鬼ヴィクラムが彼女にやたらと絡むのは露骨にツンデレだが、これはむしろ微笑ましいと言える。
が、彼女とヴィクラムが早々に途中退場し、後半(作中時間で数ヵ月後)にいきなり、ヴィクラムはすでに死んでいて、彼女は彼の子を身籠っていることが明かされる。ちなみに彼らは正式に(何をもって「正式」とするかは知らんが)結婚もしている。
で、彼女の口からヴィクラムとの「ロマンス」が長々と語られるのだ。
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. 中東が舞台で、「西洋人女性」がヒロインのロマンス(恋愛小説)の定番は「シークもの」だが、これはシークすなわちアラブの大富豪による「拉致監禁もの」なので、改宗者とヴィクラムの「ロマンス」には当てはまらない。人間のヒロインと人外(人間より優れた)だから、パラノーマル・ロマンスだな。
この「ロマンス」は、前半のツンデレを除けば改宗者から語られるだけであり(といっても、2段組みで数頁にも及ぶが)、『無限の書』の中で完全に浮いている。ヴィクラムは重要なキャラクターだし、改宗者も鍵となる写本の解析という役割だけでなく、彼女が体現するオリエンタリズムは、作品世界を読者である「西洋人」(およびその価値観に染まった非西洋人)と結びつける上で重要だ。
が、この2人のロマンス(の成就)は、「異物」とさえ言える。これがなくても、物語の展開にはまったく支障がない。
この竹に木を継いだかのような異物感に、もともと別の作品として構想があったんじゃないかとも思えてくる。作者を投影した(としか思えない)ヒロインと異形(膝関節が逆)だが美形(あまり強調はされないものの、「ハンサム」だという記述あり)で魅力的なトリックスター的人外ヒーローとの、中東を舞台にしたパラノーマル・ロマンスだ。
そのパラノーマル・ロマンスを、なんらかの事情で(どんな事情だろうと、どうでもいいが)独立した作品として形にすることができなかったので、同じく中東を舞台とした別の作品に無理やり押し込んだのだろうか。『無限の書』はあくまでもハッカー青年アリフの冒険の物語なので、その主題をぼやけさせないために、改宗者が主人公の「ロマンス」は、挿話的に彼女の口から語らせるだけに留めたのだろうか。
だったら、最初からこんな「割り込み」などせず、ヴィクラムの微笑ましいツンデレだけで留めておけば、この「異物感」は生じずに済んだだろう。実際、人間とジンという種族を越えた一大ロマンスが「ヒロイン」による説明だけで片づけられるというのは、かなり異様で、作者にも多少は自覚があるのか、キャラクターの一人に「いや、細かいことは話してくれなくていいから」とツッコミを入れさせている。
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異物感はさておくとしても、「東洋」において常に疎外感を抱いてきた「西洋人」改宗者は、「東洋人」ヴィクラム(人外だが)と結婚し、妊娠することで、初めて「東洋」に受け入れられる。
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アリフは目の前にすわるふっくらとした青白い女をしげしげとながめ、はじめて会ったときから彼女の中にはこのように深い感情がひそんでいたのだろうかといぶかしんだ。うまれてこのかた出会った数人のアメリカ人は、自由であるがゆえに強い感情を求めることがなく、そのためそうした感情をもつことができなくなってしまったみたいに、みな薄っぺらに見えた。改宗者も同じく、正確できびきびした意見を述べ、練習したような微笑を浮かべ、観客に見せるためにまとめたアイデンティティを示し、いつもその役割を演じているようだった。自負心を保とうとしながら失敗し、ありのままの姿になったいまの彼女は魅力的ですらある。(中略)
彼女は視線を落とし、ふくらんだ腹の上でガウンのしわをのばした。奇妙ではあるが、この豊穣の姿は彼女によく似合っていた。その顔に浮かぶ微笑は悲しみを秘めながらもどこか崇高で、(アリフが)中等学校のころ旧市街にあるささやかなキリスト教地区を訪れたときにギリシャ正教会で見たイコンを思い出させる。
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出たよ、「西洋に癒しや活力を与える東洋」像。
もちろん、西洋人が東洋に癒しやら何やらを見出すのは自由である。それを拒絶するのは狭量というものだ。しかし「東洋は西洋に癒しその他を与えるためだけに存在する」、「西洋はそれらを得るために東洋を利用し、消費し、搾取し、収奪し、蹂躙する権利を持つ」となれば話は別である。本書の場合はどちらだろう。
しかもオリエンタリズムとは無関係だが、これもまた「伝統的」な「女は結婚して子供を産んで初めて社会的に認められる」価値観まで肩を並べてるぞ。
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それにしても、なぜヴィクラムは死ななければならなかったのか。
ロマンスが男女どちらかの死で終わるのは、まず第一に読者にカタルシスを与えるためである。しかし改宗者とヴィクラムのロマンスは、そもそも別の物語に強引に挿入されている上に、まずヴィクラムの死が明らかにされてから、改宗者とのロマンスが(比較的)手短に語られるだけなので、カタルシスなど生じようがない。
ヴィクラムの死が持つ第一の機能は、人間を超越した魔力を持ち、数千年を生きてきたが、どうやら恋多き人生を送ってきたわけでもないらしい「ヒーロー」が、中東在住の西洋人という以外にこれといった特徴のない「ヒロイン」と、単に恋に落ちるだけでなく、わざわざ正式に結婚して子供を産ませることにした動機である。死期が近いことを悟って、というわけだ。
それだけなら、特に問題はない。
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ジンの中でも高い地位にあるヴィクラムは、遺産としてその権力の一部を妻となった改宗者に譲渡する。これによって彼女はジンたちに庇護されるだけでなく、かしずかれさえすることになる。
そして彼女はこの権力を使って、ここぞという時にアリフを助ける。つまり、絶体絶命の窮地に陥った主人公を華々しく救うという役割は、本来はヴィクラムのものだったのだ。
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ヴィクラムが死ななければならなかったのは、まずロマンスの定番である平凡なヒロイン(本人いわく「美人ではないし、かわいくもないし、口説きやすいわけでもない」)を、超常能力を持つ数千歳の魔神(しかも美形)が愛し、結婚と子供を欲することを読者に納得させるためである。
そしてヴィクラムは彼女に愛を与え、癒しを与え、アイデンティティを与え、社会的地位を与え、権力までも与える。彼が死ななければならなかったのは、もはや用済みになっただけでなく、負債の問題を手っ取り早く片付けるためだ。
これほどの献身に対する改宗者の支払いは、彼を愛したことだけである。子供も産んでやることになるが、その子は今後、異界および現実の中東における彼女の「適応」を保証するものである。しかも子育てはもちろん妊娠中から、ジンたちが大いに手伝ってくれる。
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伝統的な西洋の価値観なら、東洋人への西洋人の愛は、それだけの価値を持つものだった。しかし今日日、西洋人の愛もだいぶ値下がりしつつある。だから支払いを要求されないよう、さっさとヴィクラムを殺したのだ。それに彼が生きていたら、主人公の窮地を救う役は改宗者のものにはならない。
21世紀の女性オリエンタリストが書いた物語の中で、「東洋」のヒーローは、作者自身を投影した「西洋」のヒロインのために、利用され、搾取され、収奪され、殺される。
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いや、本当に著者がこのキャラクターに自己投影してるかどうかという問題はね、彼女の夫がエジプト人男性だとか、上記のように改宗者に「わたしは美人ではないし、かわいくもない」と言わせている一方で、「アリフはふいに、しかめ面をしていないときの彼女がなかなかの美人であることに気づいた」などと書いてることとかも併せて考えると、どうにもモヤモヤしてくるので考えたくないのである。
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