ハッラージュとヤズィーディー Ⅰ
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「イスラムの堕天使たち」ではヤズィーディーに続いて、10世紀のイスラム神秘主義者(スーフィー)ハッラージュを取り上げた。
『失われた宗教を生きる人々』ではハッラージュの思想を、ヤズィーディーの信仰の最も確実な「影響源」候補だとしている。ただし各章冒頭の解説を担当している青木健氏には、あっさり否定されているが。
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857年に生まれ、922年(925年説もある)にバグダードで処刑されたホセイン・マンスール・ハッラージュは、非イスラム圏では最も知られたスーフィーの1人だ。彼を有名にしているのは、「我は真理なり」という言葉である。
「イスラムの堕天使たち」でも述べたが、「真理(アル・ハック)」とは唯一神の99の美称の1つなので、「我は神なり」と宣言したことになる。
欧米人や日本人が書いたテキストは、専門書からもっと一般向けの概説書まで、ほとんどすべてにおいて、ハッラージュはこの発言のために処刑されたとしている。
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しかしわずかながら例外もあり、たとえばR・A・ニコルソン『イスラーム神秘主義におけるペルソナの概念』(1922年、邦訳は1981年)は、「我は真理なり」宣言はハッラージュが告発された4つの罪状の1つでしかなく、しかも死刑を決定付けたのはこの発言ではなく、「病気や貧困などでメッカ巡礼ができない者は、しなくても罪にならない」(つまり大事なのは行動ではなく信仰そのものである)という発言が冒瀆と見做されたことと、当時盛んに騒擾を起こしていた異端のカルマト派だと疑われたことだった、とする。
著者のニコルソンはスーフィズム研究の大家で、邦訳ではほかに『イスラムの神秘主義――スーフィズム入門』がある。
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いったい、どちらが正しいのだろうか(なお、ジョナサン・バーキー『イスラームの形成』(2003年、邦訳は2013年)は、ハッラージュの敵は「我は真理なり」宣言ゆえに処刑を望んだが、それは罪ではないと見做す者も多かったので、カルマト派だとの濡れ衣を着せたのだ、とする)。
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幸い、ハッラージュと近い時代の史料が邦訳されている。『イスラム帝国夜話』上下巻(岩波書店 2016、2017)で、著者タヌーヒーはハッラージュ処刑の十数年後の938年生まれ、アッバース朝の宰相に仕えた、つまり体制派の知識人だった。
変な邦題がついているが、『座談の粋』(原題)は、そのタイトルどおり、宮廷人や知識人同士の歓談でタヌーヒーが耳にした逸話の数々を書き留めたものである。その中に、ハッラージュに関する逸話が数多く含まれているのだ。
そうした場で披露される逸話は、作り話ではなく実話であることが大原則だった。つまり『座談の粋』に収められたハッラージュの逸話はいずれも、タヌーヒーが一つ上の世代の人々から直接あるいは間接的に、「実話」として伝え聞いたものなのである。
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それらによると、当時の体制寄りの人々は、ハッラージュを異端者ではなく詐欺師と見做していた。ハッラージュが信徒を獲得するためのペテンの数々が紹介されているが、一つ例を挙げると、
ハッラージュの住居は不毛の山中に建つ館だった。ある人がそこを訪ねると、「何か欲しいものはあるか」と訊かれた。「魚が欲しい」と答えると、ハッラージュは部屋を出て、しばらくすると生きた魚を持ってきた。客人はこの「奇蹟」にすっかり感嘆してしまった。
しかし実は館には隠し扉があって、大きな屋敷と庭園に通じている。そこには草木や花が生い茂り、生きた魚でもなんでも揃っている。ハッラージュは訪問者から求められた物をそこから持って来て、奇蹟で出現させたと言うのであった。
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費用対効果を考えるまでもなく、馬鹿げたでっち上げである。しかし少なくとも当時、ハッラージュが世間からどう見られていたかをよく示している。
近代以前のイスラム圏では、情報の真偽や是非について、その内容自体ではなく、情報の伝達者が世間からどんな評価を受けているかで判断する傾向があった。著者タヌーヒーも例外ではなく、彼が好んで付き合っていた、地位も世評も高い人々から聞いた話だということで、まったく無批判に鵜呑みにし、記録している。
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そのため、ハッラージュについての逸話も、ほとんどは上の例や、彼の大小便が信徒たちの間で薬として用いられているといった類の誹謗中傷なのだが、それらと矛盾するような逸話も幾つかある。たとえば、ハッラージュの「奇蹟」譚は信奉者らが勝手にでっち上げて言い触らしたもので、本人は迷惑がっていた、とか、または投獄されたハッラージュが、厳重な監視にもかかわらず、会いたい人物をいつでも好きなように呼び出すことができたという「本物」の奇蹟譚などである。
また、彼がメッカ巡礼を否定したとの嫌疑についても、そうではなく貧窮や病気のためにできない者はしなくていいとしたのだ、ということをきちんと記している。
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特筆すべきは、例の言葉「我は真理なり」について一切触れていないことである。つまりハッラージュと同時代人で、著者タヌーヒーに逸話を語って聞かせたバグダードの人士ら(処刑を目撃した人もいただろう)にとって、この発言はまったく印象に残らないものだったということである。
いくらか近いものとしては、「信徒からハッラージュへの書簡が押収され、その中で信徒たちから神と呼ばれていることについて追及されたハッラージュは、そんな書簡は知らない、誰かが自分を陥れるために捏造したのだろうと答えた」という逸話があるだけだ。
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『座談の粋』(『イスラム帝国夜話』)の訳者、森本公誠氏の解説によれば、ハッラージュの死刑執行を推し進めたのは宰相のハーミド・ブン・アルアッバースで、それというのもハーミドは元は徴税請負人で、ハッラージュがその職業を非難したことを根に持っていた、らしい(この人の解説や註は、ところどころ解りにくい)。
ともあれ、『座談の粋』本文にも、ハッラージュがカリフの侍従と母后.の庇護によって処刑を免れていたのを、宰相が躍起になって処刑に持ち込んだことが記されている。おそらく、宮廷内の権力闘争も関係していたのだろう。
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また上述のカルマト派についても、宗教思想的に異端というだけでなくアッバース朝転覆を目論んでおり、ハッラージュ処刑の数年後にはメッカを襲撃してカアバ神殿の聖なる石を強奪するという暴挙に及び、タヌーヒーの時代にはまだかなりの勢力を保っていた。
それにもかかわらずタヌーヒーは、ハッラージュとカルマト派との関わりには一言も言及していない(というか、カルマト派に限らず当時、世を騒がせていた分派についてほとんど言及していない)。
いずれにせよ、カルマト派か否かということは信仰上の問題にとどまらず、政治的な問題だった。
以上のことを踏まえて、『TH』拙稿ではハッラージュ処刑を決定付けたのは「主として政治的な嫌疑」といたしました。
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というわけで「我は真理なり」宣言は、どうやら処刑の第一要因ではないようだが、ハッラージュの発言であることに間違いはない。彼の著作にも記されている。
彼の著作や思想が残ったのは、弟子たちが伝えたからである。タヌーヒーも、彼の時代にもハッラージュの「信徒」がまだおり、彼らは「処刑されたのは実はハッラージュではなく、奇蹟の力で変身させられた駄馬であり、本人は近いうち復活する」と信じている、と記している。
体制派知識人たちがどれほど軽蔑しようと、「信徒」たちの活動は実を結び、ハッラージュの評価は上がっていった。タヌーヒーの晩年の945年、アッバース朝は地方政権だったブワイフ朝に乗っ取られたが、その100年後にはブワイフ朝の宰相が、ハッラージュの「名誉回復」を宣言している。
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ハッラージュの評価がどう変化したかは、ペルシアの神秘主義詩人アッタール(1221年?没)の『イスラーム神秘主義聖者列伝』に見ることができる。抄訳だが日本語訳が出ており、ハッラージュ伝も含まれる。
アッタールは手放しでハッラージュを賞賛しており、彼を「我は真理なり」宣言ゆえに頭の固い「公教的教学者」(正統派の神学者のことを指すと思われる)たちによって陥れられた殉教者としている。
キリスト教の殉教者伝の如く、拷問や処刑の詳細が述べられ、斬首後さらに四肢が切り落とされたが、その手足一本一本から「我は真理なり」の声が聞こえた、という奇蹟が語られる。
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また次のような奇蹟譚も語られる。
ハッラージュは生前、自分の骸が焼かれ、灰がティグリス河に捨てられることを予言し、そうなれば河が氾濫してバグダードが水没する恐れがあるので、この衣を河岸に置くように、と召使いに自らの衣を渡していた。処刑後、実際に灰がティグリスに捨てられると、水位が異常に上がった。召使いがハッラージュの衣を河まで持っていくと、水は鎮まった。
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『座談の粋』(『イスラム帝国夜話』)にも、ハッラージュの灰がティグリスに撒かれた後、河の水位が(偶々)異常に上がったことが記されている。水害には至らなかったらしいが、ハッラージュの信徒たちは、これは彼の力によるものだと主張したという。
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かくして、ハッラージュは神秘主義者(スーフィー)の鑑としての地位を獲得した。
欧米や日本におけるハッラージュ像は、こうした後世のスーフィーたちのそれを無批判に継承したものだと言える。
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スーフィズムに関するテキストは、日本語のものだけでも相当な量になる。スーフィズムだけを扱った書籍なら、古典文学やスピリチュアル系(欧米作品の翻訳にはこれが結構ある)を含めても30冊はいかないだろうが、書籍の中の1章を割いたもの、論文集の1篇、書籍に入っていないものなら大量にあって、とても把握しきれない。
それらのテキストの多くがハッラージュを取り上げており、そのうち幾つかは「我は真理なり」だけではなく、もう一つの過激な発言にも言及している。
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それが拙稿「イスラムの堕天使たち」でも述べた「イブリースは我が友にして師」であり、『失われた宗教を生きる人々』が、ヤズィーディーのイブリース崇拝の「影響源」として挙げるものだ。.
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というわけで、ヤズィーディーに続いてハッラージュについて、ようやく本題。いや、まず欧米人(および日本人)のハッラージュ評は割り引いて考える必要があることを述べたかったんで。
しかし本題に入る前に、少々弁明させていただきたいことがあるので、いったん切ります。
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