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なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅰ

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2018年10月30日発売

 拙稿「イスラムの堕天使たち」で述べたように、イスラム圏では悪魔の概念が漠然としている。ジンと悪魔の区別が判然としないし、ジンにも唯一神に帰依したジンとしていないジンがいることになっているが、『千夜一夜』などを読む限りでは、善いジンと悪いジンの区別もはっきりしない。
 なお、悪魔の総称は「シャイターン」(ヘブライ語の「サタン」に相当)、「イブリース」はアーダム(アダム)に跪拝せよとの神の命を拒んで追放され、後にシャイターンたちの父にして長になった堕天使の名、というのが一応の通念だが、「イブリース」が漠然と悪魔全般を指すこともある。
. クルアーンには、イブリース/シャイターンが人間やジンを誘惑するのは唯一神の認可の下である、とはっきり述べられている箇所と、神と(ほぼ)互角の敵対者であるかのように述べられている箇所とがある。
 しかしいずれにせよ、西方キリスト教世界と違ってイスラム世界では体系立った悪魔学は発達しなかった。だから教会組織に対抗する悪魔崇拝組織というものが妄想されることもなかった。まあそもそも、イスラムには教会に該当する組織も存在しないんだが。

『千夜一夜』のような説話、文学作品、旅行記・驚異譚(フィクションを多分に含むが、ノンフィクションだと信じられた)、聖者などの伝記、随筆や論考などで見る限り、「不信仰者」すなわち「異教徒」の人間(およびジン)は、唯一神以外のもの(火や偶像)を信仰しているとされ、悪魔を信仰しているとは見做されていない。
 悪魔は人間(およびジン)を誘惑して、唯一神以外のものを信仰させるのであって、悪魔自身を信仰させようとしているのではない。また、「唯一神のほかに神はなし」なので、「異教の”神”」という概念も存在しない。異教徒=不信仰者(唯一神を信仰しない者)が拝むのは、火や偶像という「モノ自体」なのである。
 そのためか、西洋のように異教の神を悪魔と見做すこともない。

 前回の記事で述べた、ハッラージュやハマダーニーのようにイブリースを肯定的に捉える者は異端視されたが、彼らが「悪魔崇拝者」と呼ばれることはなかった(私が知る限りだが)。ルーミーに至っては、広く愛され尊敬されている。
 では、なぜヤズィーディーはISをはじめとする原理主義者たちから、「悪魔崇拝者」として迫害されるのか。

 イスラム圏における異教徒や分派といった「異分子」の歴史は、迫害と共存の繰り返しと言ってよい。ヤズィーディーの場合も例外ではなく、近年に限ってもIS侵攻以前は原理主義勢力からの迫害が散発的にあった一方、そうでないムスリムの隣人たちとは穏やかに共存していたことが、川又正智氏や林典子氏の報告から窺える。
 しかし隣人のムスリムたちが、いくら非暴力的で寛容だとしても、「悪魔崇拝者」と見做した相手と同じ職場で働いたり、休日には一緒にピクニックに行ったりするものだろうか。ISが侵攻してきた時、彼ら隣人たちの中には迫害に荷担した者もいたが、危険を冒してヤズィーディたちを助けた人々もいたという。
. ここで注目すべきは、『失われた宗教を生きる人々』の著者自身の体験である。彼はヤズィーディーが多く住むクルディスタンのシンジャルへ取材に行くため、イラクのクルド人自治区の首府アルビールでムスリムの運転手を雇った。その運転手はこう言ったという。
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「俺はヤズィード教徒の食べ物は食べません。昔はムスリムも彼らの食べ物を食べていたそうですがね。今は違います。だって、彼らの崇拝するマラク・ターウースは悪魔ですから」

 この発言からは、ヤズィーディーが悪魔崇拝者だという偏見は、「比較的近年に」「外部からもたらされた」ものであるかのような印象を受ける。
「ヤズィーディーの信仰について」で述べたが、ヤズィーディーの信仰は13世紀以降、クルド人の間で大いに盛行したが、16世紀以降のオスマン帝国(スンナ派)とサファヴィー朝ペルシア(シーア派)の宗派対立の巻き添えで、双方から弾圧されて衰退した(らしい)。しかしその時代に彼らが「悪魔崇拝者として」弾圧されていたのかは定かではない。

なぜヤズィーディーは悪魔崇拝者と見做されるようになったのか」という疑問は、「いつヤズィーディーは悪魔崇拝者と見做されるようになったのか」という疑問と直結している。
「なぜ」「いつ」という疑問は、イスラム圏においての話であり、西洋人(もちろん北米白人も含む)たちは最初から、ヤズィーディーを悪魔崇拝者と見做してきた。

『失われた宗教を生きる人々』によれば、1840年にイラク北部に赴いた考古学者オースティン・ヘンリー・レイヤードがヤズィーディーを悪魔崇拝者として報告している。調べのついた限りでは、どうやら彼が「悪魔崇拝者ヤズィーディーの発見者」のようである。
 同書はほかに、「19世紀のイギリス人宣教師パーシー・バッジャー」の報告を引用している。これは1852年のものらしい。

 ラヴクラフトの「レッドフックの恐怖」(1927年 東京創元社『ラヴクラフト全集5』所収)は、ヤズィーディーを取り上げた初期のフィクションの一つである。
 かつて大学の先輩から、ラヴクラフトを読んで感想を述べることを強要されたことがある。当時、私はどんな小説も読めなく(読んでもおもしろいと思えなく)なっており、かつ小学校時代以来、感想を述べるという行為が大嫌いだった。感想を述べること自体も、それを前提とした読書も苦痛でしかなく、挙句に先輩からは「ラヴクラフトを素晴らしいと思えないとは、なんて感性の鈍い奴」と言わんばかりの露骨な侮蔑を向けられたのであった。
 ラヴクラフトはSFへの影響が多大なので、その後、アンソロジーなどで何篇か読んではいるが、最初の印象を払拭するには至っていない。

 その上での感想だが(ちなみにこのブログで映画レビューの修行を積んだ結果、今では小説レビューもそれほど苦手ではなくなりました)、まあラヴクラフトのゼノフォビアを佃煮にしたみたいな話ですね。佃煮と同じで、具は何種類かあるんだけど、全部醤油味になってるという。
 ヤズィディズムは単に「異人種=悪」の象徴として採用されただけで、「東洋の邪教」だったらなんでもよかったんだろうと思われる。

 巻末解説で訳者の大瀧啓裕氏は、「なお、ディ・キャンプ(ラヴクラフトの評伝を書いたL・スプレイグ・ディ・キャンプのことと思われる)によれば、クルド人は古代メディア人の血をひく白色人種であり、イェジディ派(=ヤズィーディー)は極端な信仰をもっているものの、温厚で振る舞いもおとなしいらしい」と述べている。
 後述する「魂を屠る者」と『悪魔の花嫁』でヤズィーディーを「イェーズィーディー」と表記した配慮と同様、大瀧氏は日本の読者が現実のヤズィーディーに偏見を持たないよう、ディ・キャンプを引用したのだろう。『ラヴクラフト全集5』の刊行は1987年で、ヤズィーディーの受難は日本ではほとんど知られていなかったはずだし、ポリティカル・コレクトネスの意識も低かった時代に、なかなかできることではない。

 しかしこの引用の前半、ディ・キャンプが言いたかったのは、「だから”東洋人”っていうのはラヴクラフトの勘違いなんだよ」ということなんだろうか。それ以前の問題なんだが。

 オリエンタリズムを「東洋蔑視」と定義すれば、その基盤は言うまでもなくゼノフォビアである。西洋人にとっては「オリエント」は「非西洋」すべてを指すのだから、なおさらだ。ラヴクラフトも、その点は同様である。
 しかしオリエンタリズムには、「東洋趣味」という側面もある。これにはさらに、「東洋への憧憬」と「東洋をおもしろおかしく見世物化」という二つの要素がある。
「憧憬」と「蔑視」は対極にあるが、間に「おもしろおかしく見世物化」があって地続きであり、線引きは不可能である。
「レッドフックの恐怖」には、東洋趣味の要素はほぼない。せいぜいが、「悪魔崇拝者イェジディ派」を持ってきたのは、おどろおどろしい効果を出すためだと思われるだけである。言うまでもなく、「憧憬」は皆無だ。

 上述の「魂を屠る者」は、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を取り上げたフィクションとして、「レッドフックの恐怖」に先行する(ロバート・W・チェイムバーズ 1920年 東京創元社『黄衣の王』所収)。同書収録の連作「黄衣の王」は1895年の初期作品で、そこそこ趣のある幻想小説だが、訳者の大瀧啓裕氏によると、チェイムバーズはその後、大衆小説に路線変更した。
 晩年(1933年没)に久々に書かれた怪奇小説である長篇「魂を屠る者」には、「趣」など薬にしたくもない。

 いや、オリエンタリズムについて知りたくて、東洋的主題の欧米作品は結構な数を読んでます。すべて翻訳ですが、それでもかなりの数です。それらの中で、最もオリエンタリズムが露骨な作品でしたよ。
 オリエンタリズムのような現象は、ハイカルチャーよりもマスカルチャーにこそ如実に現れるはずなので、こういう作品が邦訳されるのは、本当にありがたいですね。E・サイードに「二流作家」呼ばわりされているロティでさえ、「大衆作家」とは言い難いですから。
 以下、ネタバレ注意。

 ヒロインは幼い頃、中国の義和団事件で両親を惨殺されたアメリカ人女性。事件の黒幕はなぜか「悪魔崇拝者」ヤズィーディーで、それと言うのも、東洋すなわち非西洋の邪教や秘密結社は実はたった一つの組織なのである。だからヤズィーディーは黒幕と言っても、イスマーイール派(アサシン教団)、モンゴルやチベットの密教、ヒンドゥー等々と全部一絡げで区別されていない。
 ヒロインは邪教徒たちの気紛れで、教団の巫女として養育され、強大な魔力を身に着ける。その力を使って教団から逃れるが、母国アメリカに帰った途端、路頭に迷い、かくなる上は売春しか道はないと思いつめたところを、CIAのエージェントである若い紳士に拾われる。
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 彼女の話から、エージェントは「アメリカの敵」すなわち「世界の敵」の正体を知る。近年、世を騒がせていた「共産主義」も、その正体は悪魔崇拝者ヤズィーディーなのであった。
 ……ああそうか、ロシアやドイツを含む「東」欧も、「東」洋になるわけか。偶々、先祖にモンゴル人やフン族もいるしな。
「敵」は一見、多種多様だが実は単一の組織である――典型的な陰謀論だ。

 というわけでエージェントはヒロインを仲間に引き込んで「アメリカの敵」との闘いを開始するのだが、共に闘うCIAエージェントが、たった2名しか登場しないのである。しかもヒロインを拾って恋仲になるエージェントその1も含めて全員、拳銃も効かない妖術師たちを相手に右往左往するだけで、実質闘うのはヒロインただ1人である。

「おもしろおかしい見世物」としての東洋趣味はがっつり盛り込まれており、ラヴクラフトがヤズィーディーについて、百科事典の当該項目あたりを読む以上の下調べをした形跡がないのに対し、チェイムバーズが大量のテキストを読み漁ったのは明らかである。
 ただし同じくらい明らかなのは、ただただキャッチーな名詞やモチーフを拾うのが目的の濫読であって、およそ知識と呼べるものは何一つ身についていない。
 たとえば序盤、ヒロインが敵の妖術師に向かって「アブー、オマール、オットマン、アリーにかけて」と言う。
 これは、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーのことかと思われる。預言者ムハンマドの直接の後継者(カリフ)であり、スンナ派ムスリムから深く尊敬されている。

「アブー」というのは「~の父」という意味で、「アブー・バクル(バクルの父)」のように個人名とセットで使うものであり、単独で「父」という時は「アブ」だ。チェイムバーズはそのことを知らず、「アブー」がファーストネームだとでも思ったんだろう。
 イスマーイール派ならアリー以外は正統なカリフとして認めないから、ほかの3人の名も一緒に唱えるはずがないし、ヤズィーディーをはじめとする非ムスリムが、この4人にかけて誓ったところでなんの意味もない。
 言うまでもなくそんなことは、チェイムバーズにとってどうでもいいことである。
「東洋の官能」も忘れられてはいない。若くて美しい白人女性が食うに困って身売りを考える、という当時のモラルでは到底受け入れられそうもないヒロイン像も、東洋人に育てられたから、ということで許容されたのであろう。だったら少々モラルが歪んでも仕方ないよね可哀想に、というわけだ。
 エージェントその1は、「きみを守るには同居するしかない。しかし未婚の男女が同居することはできない。だから結婚するしかない」という理屈で、まんまと結婚に持ち込む。いや、全然守ってないじゃん。なんの役にも立ってないじゃん。
 そしてヒロインは、この役立たずの夫に献身的に尽くすのであった。

 とはいえ彼女は白人なので、露骨なお色気シーンはない。その代わり、エロ要員の東洋女性はちゃんと用意されている。しかも2人も。
 彼女たちはヒロインと一緒に育った教団の巫女で、少しの躊躇もなしに教団を裏切ってヒロインをテレパシーで援助し、さらには役立たずのエージェントその2、その3にそれぞれ惚れて、テレパシーで押しかけセックスをする。大団円にはもちろん彼らの結婚も含まれる。

 ノーマン・スピンラッドの『鉄の夢』(1972年)は、ナチズム風刺にかこつけてヒロイックファンタジーや同趣向のSFに蔓延してきた御都合主義、ザル設定、そして何より差別主義を虚仮にしまくった怪作だ。そのあまりのひどさ(誉めてます)には笑わせてもらったが、「魂を屠る者」はそれすらおとなしく思えるほどのひどさ(誉めてません)であった。
 ただし『鉄の夢』の、御都合主義や差別主義よりさらに顕著なホモソーシャル(何しろ女性キャラが1人もいない上に、最終的には「混血」を防ぐ究極の手段として男だけのクローン軍団が誕生する)は特に目につかない。
 これはチェイムバーズが長年にわたり、デパート店員など「働く女性」を主要読者としたロマンス小説を書き続けてきたことと関係していると思われる。フェミニズム運動に関わっていたことも、当時は珍しかったであろう「闘うヒロイン」に反映されているかもしれない。

 というか、敵も味方も巨大な組織(東欧までも含む「東洋」全土を網羅する邪教組織vsUSA=世界の守護者CIA)の割りには妙にこじんまりしてて、闘うのは実質ヒロイン1人、彼女の恋人という立場にある男性キャラクターは、己の無力を嘆いて自己憐憫に浸るだけ(しかし、ちゃっかり美味しい思いはする)って、セカイ系だなあ。

「魂を屠る者」(1920年)、「レッドフックの恐怖」(1927年)に続き、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱った1932年の作品も、大瀧啓裕氏の訳で東京創元社から出ている。シーベリイ・クインの『悪魔の花嫁』だ。そういうタイトルの少女漫画があったが(というか、まだ完結していないらしい)、原題がThe Devil's Brideなので仕方ない。
 以下、一応ネタバレ注意。

. 大瀧氏の解説によると、かの『ウィアード・テイルズ』誌で最大の人気を誇った「ジュール・ド・グランダン」シリーズ(1925~50年の間に93篇が掲載)の唯一の長篇。同名の探偵が主人公で、怪異を扱ってはいるがほぼすべてに「科学的」な説明が与えられており、当時多かった怪奇ものとは一線を画していたとのこと。
 確かに『悪魔の花嫁』でも、「結婚式の最中、大勢の参列者の眼前で花嫁が消失!」という怪現象も、タネは「アフリカの未知の幻覚剤」であった。

 こんな御都合主義の「科学」なら、御都合主義の超常現象のほうが100倍マシだ。

 なお、この便利な幻覚剤は、作中で何度も使われる。
.「魂を屠る者」の露骨なパクリで、世界中の「邪教」、共産主義、民族運動はすべて根っこで繋がっている、ということになっているが、こちらは太古からそうだったというのではなく、近年、信徒が減って弱体化しつつある世界中の邪教集団が、巻き返しを図って合併・統合したのだそう。
 ……なんというか、たいへん「現代的」でありますが、情緒に欠けるというか、しょぼいというか、景気が悪い話だなあ。そんな船頭多くして船山に登りそうな烏合の衆、いかにも恐るるに足らないし、実際、老いた探偵ほぼ1人によって蹴散らされてしまうのである。
. レイシズムの醜悪さは「魂を屠る者」に匹敵するが、あちらがあまりの箍の外れ具合に一周回ってレイシズムの風刺にしか見えなくなっているのに対し、こちらはレイシズムという非合理の極みに「合理性」の箍を嵌めようとしたために、ひたすら醜悪なだけである。
 わずか12年の経過でエログロは随分露骨になっており、これにもうんざりさせられた。

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 この表紙イラストは邦訳のための描き下ろしだが、作中の場面を忠実に描いたものだ。この女性(上述の「消えた花嫁」)が着けているコルセット状のものはヤズィーディーが古来、サタニズムの儀式に使ってきた銀の帯なんだそうである(もちろんそんな事実はない)。

 ヤズィーディーは有象無象の邪教の一つでしかないが、多少特別扱いされている。「花嫁」の何代か前の先祖が、ヤズィーディーに捕らえられて生贄にされそうになったところを、悪魔の司祭の美しい娘が例によって例の如くその青年に惚れて、なんの躊躇もなくキリスト教に改宗して2人で逃げる。その際、帯を持ち逃げする(「特別扱い」と言っても、これだけ)。
 上で散々腐しておいてなんだが、「魂を屠る者」の、膨大な文献から抜き書きされた東洋の珍奇な語句の羅列からは、「誰も見たことのないものを創り上げてやろう」という熱意が伝わってきた。そうして出来上がった、無秩序で俗悪でキッチュでグロテスクでごてごてしてけばけばしく毒々しい外連味溢れた巨大なゲテモノ趣味のパビリオンは、確かに目を奪うものがあった。
『悪魔の花嫁』からは、そのような並外れた熱意は感じられない。「エキセントリックなフランス人の探偵」という主人公の造形からして、何もかもが何かの亜流でしかない。

 こういった大衆小説のほうが、限られたエリートしか読まない「芸術性の高い文学」などより、社会に及ぼした影響は遥かに大きいはずであり、内容はさておき資料性は非常に高い。英語が苦手な人間にとって、邦訳の刊行は本当にありがたいことです(読めないとまでは言いませんが、辞書引きながらだから時間がかかるんですよ、ものすごく)。
「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱った初期の小説は、今では英語圏でも上記3点のほかはほとんど知られていないようですね。未確認ですが、邦訳のあるロバート・E・ハワードの「墓はいらない」(1937年 『暗黒神話体系 クトゥルー 5』大瀧啓裕・訳 青心社』収録)に孔雀天使が登場するようです。

. というわけで、本題は次回

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