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ヤズィーディーの信仰について Ⅱ

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『TH』№76の拙稿では、ヤズィーディーが信仰の中心に据える「マラク・ターウース(アラビア語で「孔雀天使」)」について、「ヤズィーディーたちの本来の主神が、イスラムの堕天使イブリースに習合されたものではないか」という推測を述べた。
「なぜ孔雀なのか」という問題には、これといった仮説も出ていないようだが、孔雀そのものはアジアやアフリカの各地で神聖視されてきた歴史を持ち、イスラムにおいても悪いイメージはない。
『失われた宗教を生きる人々』では、中東全般で孔雀に悪いイメージが持たれている例として「レバノンのドゥルーズ派」と「イランのゾロアスター教徒の一部」を挙げているが、これらは少数派のさらに一部であり、まったくの例外である。孔雀を悪魔に結び付ける西方キリスト教圏のバイアスだ。
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 ヤズィーディー元来の信仰を改革したとされるアディー・イブン・ムサーフィルは、12世紀に実在したスーフィー(イスラム神秘主義者)である。スーフィズムは異教を取り込んでイスラム化するのに長けている。インドでもイスラムとヒンドゥー(「ヒンドゥー教」という呼び方は適切でない)が共存している地域では、スーフィー聖者の祭をヒンドゥーの人々も一緒になって祝っていたりする。
 さて、ここで私が「ヤズィーディーの信仰」と表現しているものについて、日本語では「ヤズィード派」と「ヤズィーディー教」という2種類の表記がある。イスラムの分派とするなら「ヤズィード派」、独立した宗教とするなら「ヤズィード教」が適切である。
 そしてヤズィーディー自身は明らかに、自分たちの信仰がイスラム(および他の宗教)とは違うもの、と認識しているので、「ヤズィード教」が適切だということになる。
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 しかしイブン・ムサーフィルによる改革の時点では、「ヤズィード派」であったはずである。というのは、幾つかのテキストによれば、イブン・ムサーフィルによる改革より後の13世紀になるとヤズィーディーの信仰がクルド人の間で大いに広まり、数百年(諸説ある)にわたって盛行したからである。
 12世紀に活躍したサラーフッディーン(サラディン)がクルド人であることからも明らかなように、この時代までにクルド人の大多数はムスリムだったはずである。
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 少なくとも近代以前のムスリムは、イスラムこそが世界で唯一の「正しい宗教」だと信じていたわけで、ムスリムが多数派を占める社会で、イスラムから異教への改宗は考え難いことである。ヤズィーディーの信仰が広まった13世紀にはモンゴル軍の侵略があったが、征服者たるモンゴル人たちも早々にイスラムに改宗しているくらいだ。またスーフィーは異教に寛容な者が多いが、それでもわざわざイスラムを棄てて新たな宗教を興すというのも、ありそうにない。
 特定の人物を神と同一視したり、ムハンマドを最後の預言者とするイスラムの教義を無視して後世の人物を「最後の預言者」と呼んだりする「異端」宗派がイスラムから出た例は幾つもある。「正統派」イスラムから見れば、そのような逸脱は「もはやイスラムではない」ということになるが、逸脱した人々自身はあくまでも自らをムスリムと見做してきた。
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 また信条とは別に、法律上の問題もある。クルアーンには「多神教・偶像崇拝はシャイターンの業」とあり、原理主義者が「多神教徒・偶像崇拝者」と見做した相手の扱いを「強制改宗・奴隷化・殺害」の3択に限るのはこれを根拠としている。
 しかし分別のある支配者ならば、そんな3択は百害あって一利なしと承知しているので、インドのような多神教徒が圧倒的多数を占める社会では、少数派であるムスリム支配層はおおむね寛容政策を取ってきた。
 一方、ムスリムが多数を占める社会では、彼らの手前もあるので、支配者層は多神教の「一神教化」を図る。イスラムではなくてもユダヤ教やキリスト教などと同じ一神教ということにすれば、法律上で差別を設けるだけで済むからである。
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 そうして例えばゾロアスター教は、ゾロアスター教徒およびムスリム知識人双方の努力の結果、アフラマズダーは唯一神(アッラー)の別名であり、ゾロアスターは預言者アブラハムと同一人物、教典『アヴェスター』は預言者ゾロアスター/アブラハムが唯一神から授かった啓示を記した「啓典」、アフラマズダーの従属神たちは天使(フェレシュテ)等々、と一神教化を果たし、ユダヤ教、キリスト教、イスラムと並ぶ「第四の啓典の宗教」と認められるに至った。
(ただしこれは法律上の都合に過ぎず、一般のムスリムにとっては20世紀に至っても、ゾロアスター教徒は「異教徒」「不信仰者」の代名詞のままだったし、現代の一部の偏狭なムスリムにとっては未だにそうである)
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 現在のトルコ南東部にあった都市ハッラーンの住民は、7世紀にイスラムの支配下に入った後も古代以来の多神教徒のままで、8世紀にウマイヤ朝の首都が置かれた際にも、彼らは放っておかれた。9世紀になってようやく時のカリフから改宗を迫られると、一神教徒を偽装することで切り抜けた。ムスリム側も偽装であることは承知していたが、要は建前が肝心だったのである。
 しかしハッラーンの多神教徒は改宗によって次第に数を減らし、11世紀には最後の神殿が閉鎖されたという。最終的に13世紀半ば、ハッラーンはモンゴル軍の襲来によって都市そのものが完全に破壊される。この時、すでに多神教の伝統は完全に途絶えていたと思われる。
 難民となったムスリム住民の一人が、イブン・タイミーヤだった。彼はこの災厄はムスリムの堕落に対する「神罰」であると考え、「イスラムの純化」を図った。彼の思想は、後のワッハーブ派など、イスラム原理主義に繋がる。
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 まあつまり、建前だけでも一神教徒であることを要求されたイスラム世界の、しかも13世紀以降の不寛容と排他性が増大する中で、「異教」が盛えたなんてあり得ないということだ。だからヤズィーディーは、その当時はあくまでも「イスラムのヤズィード派」だったはずである。
「異教徒」であった彼らが、スーフィーのイブン・ムサーフィルによって「改宗」し、その後、再び異教を名乗るようになったのではないか、という推測は『失われた宗教を生きる人々』でもなされている。では、なぜ彼らは「棄教」したのか。
 ヤズィーディーの本拠地クルディスタンは16世紀以降、サファヴィー朝ペルシアとオスマン朝トルコという二つの帝国に挟まれることになる。この二帝国の対立はシーア派とスンニ派という宗教対立でもあったから、そのどちらでもないヤズィーディーは双方から弾圧された結果、衰退していったらしい。
 彼らの「非イスラム」という自己認識は、こうした弾圧の中で獲得することになったアイデンティティなのではあるまいか。
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 さて、上記のハッラーンの多神教は、古代メソポタミア以来の天体崇拝だった。11世紀に閉鎖された神殿は、月神シンのものだったという。
『失われた宗教を生きる人々』も含めて、一部のテキストはヤズィーディーの信仰の起源もしくは影響源を、このハッラーンの天体崇拝に求めている。しかし前回の記事で述べたように、ヤズィーディーが太陽以外の天体も信仰していることを明記したテキストは見当たらない。
 とはいえ私も、ハッラーンからの影響をまったく否定するわけではない。
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 ハッラーンで保存されてきたのは、古代メソポタミアの神々だけではなかった。6世紀前半、ビザンツ帝国が領内の異教徒を迫害し、アテネのアカデメイアを閉鎖すると、新プラトン主義の哲学者たちは改宗を拒んでサーサーン朝ペルシアへと亡命した。そしてハッラーンに学園を設立し、以後、ヘレニズムの思想や学問はこの地をはじめとするサーサーン朝領内で命脈を保つこととなった。
 9世紀以降、バグダードのカリフの下で、古代ギリシアの学術書が次々とアラビア語に翻訳されたが、これはかつてサーサーン朝下に亡命したギリシア人多神教徒やネストリウス派キリスト教徒がシリア語に訳したものを、その子孫たちがアラビア語へと訳したのである。こうしたギリシアの思想・学問の伝達者たちの中には、もちろんハッラーン出身者も含まれていた。
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 ハッラーン出身の学者が自分たちの思想について書いたものもあったが、現在までに失われてしまったようである。しかしイスラム知識人たちが残した記録だけでも、かなりの量がある。
 それらによると、ハッラーン人の信仰は古代メソポタミアの天体崇拝とヘレニズム思想が融合したもので、たとえばヘルメスは水星の神としても偉大な錬金術師としても、またハッラーン人の始祖としても崇拝されていた。
 こうした思想の影響でムスリムもヘルメスを偉大な錬金術師/魔術師だと見做すようになり、さらにはクルアーンで言及される預言者イドリース(旧約聖書の預言者エノクと同一視される)と同一視さえした。
 ちなみにアラビア語にはe音が無いので、ヘルメスは「ヒルミス」となる。
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 ハッラーンからヤズィーディーへの影響として考えられるのは、ピュタゴラス主義の輪廻転生思想である。
 イスラム知識人の記録によると、ピュタゴラス(アラビア語にはp音が無いので「フィタゴラス」となる)はハッラーン出身の偉大な賢者であり、ハッラーンの異教徒たちは彼を自分たちの預言者の一人に数えていたという。
 ハッラーン人は輪廻転生を信じていたと伝えられる。古代メソポタミアの宗教に輪廻転生思想は見当たらないので、当然、ギリシアからの影響だろう。
 イスラムにおいてはすべての死者は「最後の審判」まで復活しないことになっているので、輪廻転生が受け入れられる余地はない。8世紀のソグディアナ(現在のウズベキスタン辺り)では、イスラムと土着の宗教が融合したホッラム教なる宗派がたびたび叛乱を起こしたが、その指導者の1人は、預言者ムハンマドの生まれ変わりを自称していた。ソグディアナにはインドの文化も流入しているので、その影響だろう。
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 またイスラムの「異端」であるドゥルーズ派とアラウィー派は、人間全般が輪廻転生すると信じる。
 ドゥルーズ派は、シーア派の分派イスマーイール派のさらなる分派である。シーア派は預言者ムハンマドの従弟で娘婿のアリーを特別視することで、イスラム「主流」派(スンニ派)から外れた分派である。「シーア」とは「(分)派」を意味するので、「シーア派」(つまり「派派」)という日本語はどうかと思うんだが、とりあえず慣行に従う。
 シーア派は原則として、アリーの子孫のみを「イマーム」(スンニ派では単に「指導者」の意味だが、シーア派では「預言者ムハンマドの後継者たる最高指導者」の称号)と仰ぐ。早くから、誰をイマームと認めるかで分裂を繰り返してきた。
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 イスマイール派は、第6代イマームの息子で早死にしたためイマームになれなかったイスマイール(765年頃没)を第7代イマームと仰ぐ。シーア派主流はイスマイールの弟を第7代イマームとしたが、9世紀末にイスマイールの子孫を名乗る人物が北アフリカでカリフ(より正確な表記は「ハリーファ」。ムハンマドもしくは神の「代理人」の意)を称した。これがファーティマ朝である。
 ドゥルーズ派は、このファーティマ朝の第9代カリフで11世紀初めに謎の失踪を遂げたハーキムを、終末の日に再臨する救世主と仰ぐ分派である。このハーキムは生前から神を自称し、熱狂的な信奉者がついていた。
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 シーア派の別の分派であるアラウィー派については『失われた宗教を生きる人々』で「ヤズィーディーと似た信仰を持つ(と著者が見做す)宗派」として紹介されているが、その起源は不明な点が多く、諸説ある。彼らはアリーを神格化し(「アラウィー」とは「アリーの徒」の意)、その教義はイスマイール派的要素が濃いとされる。
 ドゥルーズ派とアラウィー派が輪廻転生思想を採り入れた経緯は不明だが、イスマイール派はピュタゴラス主義の数秘術を教義の基盤としている。10世紀にはイスマイール派の秘密結社「清純なる同胞と忠実なる兄弟たち」(「清純同胞団」とか「純粋兄弟団」などと通称される)が、霊魂の救済を目的として数学・音楽・天文学から魔術まで多様多種な内容を扱った百科全書的文書「ラサーイル(書簡集)」を作成・流布した。51通の書簡の形式を取るこの文書は、スンニ派・シーア派を問わず、当時の知識人に大いに影響を与えたという。
 この文書の中で、「同胞団」はピュタゴラスを「ハッラーンの賢者」と呼び、自らをその後継者としている。
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 イスマイール派は輪廻転生思想を採用していないし、「清純同胞団」も輪廻転生には言及していない。しかしピュタゴラス主義をイスラム世界に広めたイスマイール派と関わりのあるドゥルーズ派、およびアラウィー派もピュタゴラス主義の影響を受け、そこから輪廻転生思想を採用したと考えられる。
 ドゥルーズ派はエジプト発祥、アラウィー派は起源ははっきりしないものの、10世紀にはシリアを拠点としていた。両派の輪廻転生思想をインド起源とする見解もあるようだが、これらの地域へのインド文化の影響の少なさ(「インド数字」と筆算、天文学・占星術、幾つかの説話くらいしかない)からすれば、12世紀以前のイスラム世界で大いに栄えたピュタゴラス主義からだと考えたほうがよほど自然だ。
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 しかしヤズィーディーの輪廻転生思想の起源は、さらなる難問である。基層となるイラン・アーリア文化には存在しないから、外部から持ち込まれたものであることはほぼ確実である。インドからも、前述のソグディアナからも遠すぎることから、インド起源だとはまず考えられない。
 となるとイスラムのピュタゴラス主義から、ということになるが、これは「清純同胞団」の「書簡集」に代表されるように、都市のインテリの思想である。しかしヤズィーディーは無文字の山岳民族だった。伝播経路は人から直接、ということになる。
 結論を言うと、クルディスタンの東端は、ハッラーンに比較的近いのである。ムスリム知識人の「高尚な」ピュタゴラス主義経由よりも、より直接にハッラーン住民の信仰からというほうが、あり得る話だ。
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 ハッラーン人の輪廻転生思想は、この都市にギリシア思想が持ち込まれた6世紀以降のものである。それがいつ、どのようにヤズィーディーたちの間に持ち込まれたのか。
 ヤズィーディーの信仰が「改革」されたのは12世紀、スーフィーのアディー・イブン・ムサーフィルによってだが、持ち込んだのは彼ではないだろう。当時すでに、ハッラーンの多神教は消滅していた可能性が高い。
 イブン・ムサーフィルは1075年頃、レバノンで生まれた。『失われた宗教を生きる人々』によると、当時まだ彼の生まれ故郷の近くにはハッラーンの多神教徒のコミュニティがあったそうだが、これも考慮に入れる必要はないだろう。スーフィーが異教をイスラム化する際、輪廻転生のような非イスラム的要素をそのまま保存することはあっても、わざわざ外部から持ち込むとは思えない。なんのメリットもない。
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 要するに、ハッラーンに輪廻転生思想が定着して以降、イブン・ムサーフィルの「改革」以前のいつか、という以上のことは判らない、としか言えないんですが。
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 最後に、ヤズィーディーの信仰の、教義を秘匿するという「秘教」的側面について。
『失われた宗教を生きる人々』は、ミトラ教、アラウィー派、ヤズィーディーの信仰の三者の共通点として、「秘教であること」を挙げる。
 しかし秘教は世界中、歴史上、無数に存在したし、それらの多くは互いにまったく関連がない。「秘密の儀礼」と、それを経て初めて授けられる「秘密の知識」の組み合わせは、いわゆる部族社会の大半が有する。こうした「秘儀」は、成員同士の結束を強めることを目的としている。ミトラ教やピュタゴラス教団のような秘教・秘密結社の秘儀は、その真似事である。
 一方、アラウィー派やヤズィーディーが教義を秘匿するのは、明らかに迫害に対する反応である。元から秘教的側面を持っていた可能性もあるが、迫害によって強められたのは間違いない。
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 以上、ⅠとⅡのゾロアスター教についての記述は、主に青木健氏の著作に拠った。氏は『失われた宗教を生きる人々』の各章冒頭に置かれた解説を担当している。
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