なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅱ

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2018年10月30日発売
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 欧米のキリスト教徒は、神の存在だけでなく悪魔の存在も信じている。そこまでならいいんだが、「悪魔が存在するのだから、悪魔崇拝者も存在する」「キリスト教徒の組織(教会)が古来、存在するのだから、悪魔崇拝者の組織(カルト)も古来、存在する」となると、完全に妄想である。
 神学的な問題に立ち入るつもりはないので大雑把な説明に留めるが、一神教における悪魔は神の認可の下に人間を誘惑する神のしもべであり、そんなものを崇拝しても意味はない。悪魔が神から独立した、神の対抗存在だとすると二元論になり、一神教ではなくなってしまう。また悪魔をそのような存在だとするゾロアスター教やマニ教でも、最終的には善神が勝利することになっている。
 異教の神(悪神であれ善神であれ)を悪魔と見做す場合でも、その信徒たちからすれば、彼らが崇拝してるのは彼らの神であって悪魔ではない。そして一神教の論理でも、それらもまた唯一神の被造物、しもべに過ぎず、人々を「惑わす」のも唯一神の意志に従っているだけということになる。
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「悪魔崇拝カルト」の妄想がどれほど根強いのかは、1980年代以降のアメリカで、「催眠による記憶回復療法」によって「悪魔崇拝カルトに性的虐待を受けた記憶が回復した」と称する「被害者」たちが次々と訴訟を起こしたことからも明らかである。催眠が掘り起こしたのは、「潜在意識に埋もれていた記憶」ではなく、「潜在意識に埋もれていた妄想」だったのだ。
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 この妄想は、人々の恐怖だけではなく願望の現れでもある。「自分(たち)が不幸なのは○○○のせい」と、たった一つの何かに責めを負わせることほど楽な解決法はない。
 その何かが自分(たち)にとって目障りな存在であれば、なおさらだ。欧米には「悪魔崇拝者」の汚名の下に、無数の無実の人々が排除されてきた長い歴史がある(言うまでもなく「魔女」も「悪魔崇拝者」だ)。
「悪魔崇拝者の親から性的虐待を受けた」ことを子供たちが「思い出した」のは、催眠療法士による誘導が少なからず影響しているはずだが(賠償金を掠め取ろうと目論む輩もいたそうだ)、その根底には親への密かな憎しみ、とまではいかなくても疎ましく思う気持ちもあったのではあるまいか。
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「yazidi」と「satanist」あるいは「devil worshiper」を組み合わせて検索すると、文字どおり無数の記事がヒットする。上位数十件をざっと見た限りでは、大多数が「悪魔崇拝者だと誤解されている」という主旨だが、幾つかは悪魔崇拝者だと断言している。
 誤解だとする記事の多さも、この偏見/妄想の根強さを示している。
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 前回の記事で述べたように、『失われた宗教を生きる人々』の著者ラッセルは、19世紀の西洋人(学者や宣教師)によってヤズィーディーが「悪魔崇拝者」と報告されたことを記している。
しかしその後の欧米のオカルティズムやホラー小説における、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の「人気」については、まったく言及していない。
 それどころか、同書が刊行された2014年の時点で、多数の欧米人が未だに「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を信じていることすら知らない。エピローグでは、CNNのリポーターがヤズィーディーの信仰について「世界で最も恐ろしい宗教です」と述べていた、というヤズィーディーの訴えを、「耳を疑った」の一言で済ませている。
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 いや、あなたと同じ英国人のトム・ノックスが2009年に出した小説『ジェネシス・シークレット』は、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱ってる上に、国内のみならず世界的なベストセラーになったんですが。
 武田ランダムハウスジャパンから出てる邦訳(2010年)の訳者あとがきによると、25ヵ国で刊行が決まっているそうだ。これはその時点での予定なので、「イスラムの堕天使たち」の文献案内では、Wiki英語版のヤズィーディーの頁にあった「23ヵ国」を採った。
 ただし、同書が「2006年に国際的なベストセラーになった」とか書かれていて、さすがWiki、データがいい加減、というわけで拙稿には23ヵ国語に「訳された。」ではなくて「訳されたとのこと。」としたのでした。
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 まあとにかく、『ジェネシス・シークレット』の内容はというと、超古代史をはじめとするオカルト俗説の闇鍋だ。フィクション、ノンフィクションを問わず、この手の本をまともに読むのは子供の頃以来だが、予想を超えたひどさだな(「SF作家なのに?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、SFというのはこういうネタをおちょくるジャンルであって、真に受けるジャンルではありません)。
「魂を屠る者」(1920年)や『悪魔の花嫁』(1932年)が碌に調べもせず嘘八百をでっち上げていたのに対し、21世紀の『ジェネシス・シークレット』は、あらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果を利用してはいる。ただしそれらとオカルトネタ、俗説、謬説の区別をまったくつけていない。
 作者ノックスは前書きで、次のように宣言している。
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 本作はフィクションである。ただし、宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている。
(中略)南トルコや北イラクで暮らすクルド人の中には、天使のカルトと呼ばれる古代宗教を信仰する人たちがいる。そのようなカルト信者の中には、マラク・ターウースと呼ばれる神を崇める者がいる。
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 この「天使のカルト」なるものは本編中、考古学の権威という設定のキャラクターによって次のように説明される(P261)。
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「アレヴィー派や、ヤズィード派。総称して、天使のカルトと呼ばれている。五千年か、それ以上前に生まれたものではないかとされているんだけど。世界でもあの地方(クルディスタン)に特有のものなの」
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 ……何を言っているのか、さっぱり理解できないんだが。
 この2つの引用からすると、「天使のカルト」には何種類もの宗派があるかのようだが、全篇を通して挙げられているのはヤズィード派(ヤズィーディー)とアレヴィー派の2つだけだ。しかもヤズィーディーがいかに特異な宗教かということは作中、何度も語られるが、アレヴィー派についての説明は一切ない。そのため、「天使のカルト」全体に共通する特徴がなんなのかもわからない。
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 アレヴィー派はトルコ人とクルド人に多くの信者を持つ宗派で、「アリーの徒」というその名が示すとおり、預言者ムハンマドの従弟で娘婿のアリーを崇敬するシーア派の分派である。『失われた宗教を生きる人々』が「ヤズィーディーと似た宗派」の一つとして挙げるシリアのアラウィー派とは、同名だが直接の繋がりはない。
 アラウィー派と同様、成立の時期は不明だが、イスラムの分派である以上、イスラムより古いわけがない。イスラムより古い宗教の要素を強く残しているという説もあるが、それがトルコ人のものにせよ、クルド人のものにせよ、どちらもクルディスタンに来たのは「五千年か、それ以上前」より何千年も後である。
 ヤズィーディーも「ヤズィーディーの信仰について」で述べたとおり、「ヤズィーディー派」もしくは「ヤズィーディー教」として成立したのは12世紀以降であり、その「原型」がなんだったにせよ、「五千年か、それ以上前」にクルディスタンで生まれたものではない。
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 後述するように、この小説にはあらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果、オカルトネタ、俗説、謬説のどれでもない「独自設定」が多々見受けられる。
 そのこと自体はフィクションなんだから問題ないが(出来の良し悪しはこの際、問わない)、前書きの大見得「宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている」は嘘とは言わないでも誇大宣伝であり、読者に対してもネタにされた人々や文化に対しても不誠実である。
 以下、ネタバレ注意。
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 物語は最終的に、超古代文明ネタに行き着く。まあ本書では「文明」とまでは風呂敷を広げず、「高度な文化」とするに留めてはいるが、ともあれその担い手は、ホモ・サピエンスとは別系統の人類で、当時(旧石器時代)の現生人類の先祖より知力体力ともに格段に優れていたんだそうである。フォン・デニケンとかの最新ヴァージョンだな。
 彼らは知力体力ともに劣る現生人類の祖先を奴隷化してこき使ったが、優れた文化も伝えた。日本の縄文土器はその一つだそうですよ。
 物語の主な舞台であるクルディスタン東部に、ギョベクリ・テペという遺跡がある。旧石器時代に建てられた巨大な石造神殿という、考古学の常識を覆すものである。今年、世界遺産に登録された。これもスーパー亜人類の遺跡なんだそうである。
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 やがて彼らは滅びたが、現生人類の先祖たちは奴隷とされていたのを恥じ、ギョベクリ・テペの神殿を隠蔽した(神殿が何者かによって埋められていたのは事実)。
 で、「ヤズィード派やアレヴィー派」といった「クルドのカルト信者」は神殿と奴隷であった過去を隠蔽した人々の子孫で、その秘密を守り続けてきたんだそうである。
 それだけならまだしも、件のスーパー亜人類は、鳥と人間を掛け合わせたような容貌だった。つまり、ヤズィーディーが崇める孔雀天使(マラク・ターウース)の正体は、かつての邪悪で恐ろしい主人なのである……って、そいつらの存在を隠蔽したいんだったら、なんでわざわざ「神」として崇めるんだ。
 アレヴィー派が何を崇めているのかは、結局触れられないままである。
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 現実のヤズィーディーが信仰する孔雀天使と同一視されるイブリースは悪魔ではなく、悔悛して赦され、元の地位に復帰した天使長である、という事実は無視され、作中の孔雀天使は悪魔そのものだということになっている。
 しかも、マラク・ターウースの「マラク」がアラビア語の「天使」だということも伏せられ、「モレク」の別名だとされている。旧約聖書には子供の生贄を要求する異教の神とされるが、この名はヘブライ語で「王」を意味し、本当にこのような名の神を崇拝する宗派があったのかどうかはわからない(なお、アラビア語で「王」は「マリク」といい、「マラク」と発音が似てはいる)。ユダヤ教・キリスト教における邪神の代名詞の一つだ。
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「魂を屠る者」(1920年)、「レッドフックの恐怖」(1927年)、『悪魔の花嫁』(1932年)となんら変わるところのない歪曲と捏造である。
「魂を屠る者」(『黄衣の王』所収)と『悪魔の花嫁』と、本書『ジェネシス・シークレット』の邦訳が同じ2010年に出されたのは単なる偶然だが、「魂を屠る者」と『悪魔の花嫁』では訳者の大瀧氏が、現実のヤズィーディーへの偏見が強まるのを危惧して、従来の日本語表記である「ヤジディ」や「イェジディ」ではなく「イェーズィーディー」という表記にしているのに対し、『ジェネシス・シークレット』の訳者、山本雅子氏はそのような配慮が必要だとは考えなかったらしい。訳者あとがきには、次のように述べられている。
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「どこまで事実なのかとよく聞かれるが、ほとんど事実だ」と著者も自らのホームページで断言しているが、たとえば、事件解決の手がかりとなるインターネット上や書籍の中の情報は、現実の世界のネット上や書籍の中にもすべて存在する。ジャーナリストでもある著者は、本書の舞台となるほぼすべての場所に足を運び、じゅうぶんな調査を行ったうえでこの作品を書いている。
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 作者のノックスは、中東での取材経験も何度かあるそうである。本書刊行の2009年までに、すでに散発的とはいえイスラム原理主義者によるヤズィーディーへの迫害が顕著になってきており、ノックスもそのことは当然知っていて、作中で言及している。
 だから彼は、ヤズィーディーを邪悪な存在としては描かない。「善良で穏やかな悪魔崇拝者」として描く。「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」である。意味不明だ。
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 だったら、そもそも悪魔崇拝者の濡れ衣を着せるのをやめろよ。
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 前述のとおり、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の妄想は、欧米のキリスト教徒にとって恐怖だけでなく、願望の現れである。すべての不幸や不都合の責任を押し付けることができるからだ。
 そしてヤズィーディーは、「孔雀天使はイブリースだが、悔悛して赦されている」と「彼らの本来の主神(おそらく孔雀の神)とイブリースが同一視されたのは12世紀になってから」の2点さえ無視すれば、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の条件にぴったり当て嵌まる。
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 だから彼らが迫害されているという事実を前にしても、彼らには是が非でも悪魔崇拝者であってほしい。だから「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」という意味不明なヤズィーディー像をでっち上げる。
「善良で穏やかな悪魔崇拝者」という形容矛盾をひねり出してまで、ヤズィーディーが悪魔崇拝者であってほしいという願望のさらに裏に、「善良で穏やかな悪魔崇拝者が実在するのだから、邪悪で凶暴な悪魔崇拝者も存在するはず」という期待や、「善良で穏やかなのは見せかけで、実は邪悪で凶暴なはず」という期待を読み取るのはやめておこう。
 上述したように、『ジェネシス・シークレット』は英語版Wikiのヤズィーディーの頁で紹介されているが、この頁の執筆者は「悪魔崇拝者だというのは誤解」としながら、本書のヤズィーディー像については批判どころか、「重要な役割を演じている」などと評価している。
「ヤズィーディー=悪魔崇拝者」とする英語のネット記事の中にも、少なくとも一つ、「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者ヤズィーディー」があった。しかもニュース記事である。
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 あるいはまた、「神への叛逆ってかっこいい」「欲望を否定しないってかっこいい」という中二病的な憧憬から、「教会組織に対抗する悪魔崇拝カルト」があってほしいと願う輩もいるだろう。近世以降の悪魔崇拝を標榜する秘密結社の類は、この手合いである。二元論を否定する以上、キリスト教の悪魔が神に叛逆するのも、人間の欲望を煽るのも、すべては神の御心のままなんだが。
 この「悪魔賛美」も結構根強くて、近年でもジョー・ヒルの『ホーンズ 角』(原書は2010年)なんかがある。 
 ヤズィーディーが悪魔崇拝者だというのは誤解、とする大量の記事の執筆者たちも、わざわざそう書くのは、内心では「実は悪魔崇拝者だったらいい」と願っているからではないか、と思うのは邪推が過ぎるだろうか。
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 では、本題である。イスラム原理主義者たちは、なぜいつからヤズィーディーが悪魔崇拝者だと信じるようになったのか。
  • 「悪魔崇拝カルト」という妄想は、イスラムの伝統には存在してこなかった。
  • ヤズィーディーが悪魔崇拝者だという偏見は、隣人のムスリムたちの間に「比較的近年」に、「外部から持ち込まれた」ように見受けられる。
  • よく知られているように、ISをはじめとするイスラム原理主義者の多くは、イスラムの伝統から切り離されて育ち、むしろ欧米文化にどっぷり浸かって、その中でアイデンティティを見失った若者たちである。
 無論、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を「討伐」したイスラム原理主義者たちに、「欧米人の受け売りだろう」などと指摘しようものなら、「事実無根の侮辱」に激怒するに違いない。だが、そう遠くない過去に、「ヤズィーディーは悪魔崇拝者だ」と最初に言い出した、1人もしくは少数の原理主義者がいたはずなのだ。
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 おそらく、見当外れの憶測でしかないだろう。そうであってほしいものだ。19世紀半ば以来、欧米人たちがでっち上げてきた「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を、「純粋な」イスラム原理主義者が真に受けて、「正義の軍隊」として「悪魔崇拝者狩り」をやらかし、それを欧米人が「これだから狂信者は」と一斉に非難し、ナディア・ムラードさんにノーベル平和賞を授与して自らの「正義」に悦に入り、しかして内心では「でもほんとは悪魔崇拝者だったらいいな」などと願っている、という構図は、あまりにもおぞましい。

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なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅰ

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2018年10月30日発売
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 拙稿「イスラムの堕天使たち」で述べたように、イスラム圏では悪魔の概念が漠然としている。ジンと悪魔の区別が判然としないし、ジンにも唯一神に帰依したジンとしていないジンがいることになっているが、『千夜一夜』などを読む限りでは、善いジンと悪いジンの区別もはっきりしない。
 なお、悪魔の総称は「シャイターン」(ヘブライ語の「サタン」に相当)、「イブリース」はアーダム(アダム)に跪拝せよとの神の命を拒んで追放され、後にシャイターンたちの父にして長になった堕天使の名、というのが一応の通念だが、「イブリース」が漠然と悪魔全般を指すこともある。
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 クルアーンには、イブリース/シャイターンが人間やジンを誘惑するのは唯一神の認可の下である、とはっきり述べられている箇所と、神と(ほぼ)互角の敵対者であるかのように述べられている箇所とがある。
 しかしいずれにせよ、西方キリスト教世界と違ってイスラム世界では体系立った悪魔学は発達しなかった。だから教会組織に対抗する悪魔崇拝組織というものが妄想されることもなかった。まあそもそも、イスラムには教会に該当する組織も存在しないんだが。
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『千夜一夜』のような説話、文学作品、旅行記・驚異譚(フィクションを多分に含むが、ノンフィクションだと信じられた)、聖者などの伝記、随筆や論考などで見る限り、「不信仰者」すなわち「異教徒」の人間(およびジン)は、唯一神以外のもの(火や偶像)を信仰しているとされ、悪魔を信仰しているとは見做されていない。
 悪魔は人間(およびジン)を誘惑して、唯一神以外のものを信仰させるのであって、悪魔自身を信仰させようとしているのではない。また、「唯一神のほかに神はなし」なので、「異教の”神”」という概念も存在しない。異教徒=不信仰者(唯一神を信仰しない者)が拝むのは、火や偶像という「モノ自体」なのである。
 そのためか、西洋のように異教の神を悪魔と見做すこともない。
 前回の記事で述べた、ハッラージュやハマダーニーのようにイブリースを肯定的に捉える者は異端視されたが、彼らが「悪魔崇拝者」と呼ばれることはなかった(私が知る限りだが)。ルーミーに至っては、広く愛され尊敬されている。
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 では、なぜヤズィーディーはISをはじめとする原理主義者たちから、「悪魔崇拝者」として迫害されるのか。
 イスラム圏における異教徒や分派といった「異分子」の歴史は、迫害と共存の繰り返しと言ってよい。ヤズィーディーの場合も例外ではなく、近年に限ってもIS侵攻以前は原理主義勢力からの迫害が散発的にあった一方、そうでないムスリムの隣人たちとは穏やかに共存していたことが、川又正智氏や林典子氏の報告から窺える。
 しかし隣人のムスリムたちが、いくら非暴力的で寛容だとしても、「悪魔崇拝者」と見做した相手と同じ職場で働いたり、休日には一緒にピクニックに行ったりするものだろうか。ISが侵攻してきた時、彼ら隣人たちの中には迫害に荷担した者もいたが、危険を冒してヤズィーディーたちを助けた人々もいたという。
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 ここで注目すべきは、『失われた宗教を生きる人々』の著者自身の体験である。彼はヤズィーディーが多く住むクルディスタンのシンジャルへ取材に行くため、イラクのクルド人自治区の首府アルビールでムスリムの運転手を雇った。その運転手はこう言ったという。
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「俺はヤズィード教徒の食べ物は食べません。昔はムスリムも彼らの食べ物を食べていたそうですがね。今は違います。だって、彼らの崇拝するマラク・ターウースは悪魔ですから」
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 この発言からは、ヤズィーディーが悪魔崇拝者だという偏見は、「比較的近年に」「外部からもたらされた」ものであるかのような印象を受ける。
「ヤズィーディーの信仰について」で述べたが、ヤズィーディーの信仰は13世紀以降、クルド人の間で大いに盛行したが、16世紀以降のオスマン帝国(スンナ派)とサファヴィー朝ペルシア(シーア派)の宗派対立の巻き添えで、双方から弾圧されて衰退した(らしい)。しかしその時代に彼らが「悪魔崇拝者として」弾圧されていたのかは定かではない。
なぜヤズィーディーは悪魔崇拝者と見做されるようになったのか」という疑問は、「いつヤズィーディーは悪魔崇拝者と見做されるようになったのか」という疑問と直結している。
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「なぜ」「いつ」という疑問は、イスラム圏においての話であり、西洋人(もちろん北米白人も含む)たちは最初から、ヤズィーディーを悪魔崇拝者と見做してきた。
『失われた宗教を生きる人々』によれば、1840年にイラク北部に赴いた考古学者オースティン・ヘンリー・レイヤードがヤズィーディーを悪魔崇拝者として報告している。調べのついた限りでは、どうやら彼が「悪魔崇拝者ヤズィーディーの発見者」のようである。
 同書はほかに、「19世紀のイギリス人宣教師パーシー・バッジャー」の報告を引用している。これは1852年のものらしい。
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 ラヴクラフトの「レッドフックの恐怖」(1827年 東京創元社『ラヴクラフト全集5』所収)は、ヤズィーディーを取り上げた初期のフィクションの一つである。
 かつて大学の先輩から、ラヴクラフトを読んで感想を述べることを強要されたことがある。当時、私はどんな小説も読めなく(読んでもおもしろいと思えなく)なっており、かつ小学校時代以来、感想を述べるという行為が大嫌いだった。感想を述べること自体も、それを前提とした読書も苦痛でしかなく、挙句に先輩からは「ラヴクラフトを素晴らしいと思えないとは、なんて感性の鈍い奴」と言わんばかりの露骨な侮蔑を向けられたのであった。
 ラヴクラフトはSFへの影響が多大なので、その後、アンソロジーなどで何篇か読んではいるが、最初の印象を払拭するには至っていない。
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 その上での感想だが(ちなみにこのブログで映画レビューの修行を積んだ結果、今では小説レビューもそれほど苦手ではなくなりました)、まあラヴクラフトのゼノフォビアを佃煮にしたみたいな話ですね。佃煮と同じで、具は何種類かあるんだけど、全部醤油味になってるという。
 ヤズィディズムは単に「異人種=悪」の象徴として採用されただけで、「東洋の邪教」だったらなんでもよかったんだろうと思われる。
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 巻末解説で訳者の大瀧啓裕氏は、「なお、ディ・キャンプ(ラヴクラフトの評伝を書いたL・スプレイグ・ディ・キャンプのことと思われる)によれば、クルド人は古代メディア人の血をひく白色人種であり、イェジディ派(=ヤズィーディー)は極端な信仰をもっているものの、温厚で振る舞いもおとなしいらしい」と述べている。
 後述する「魂を屠る者」と『悪魔の花嫁』でヤズィーディーを「イェーズィーディー」と表記した配慮と同様、大瀧氏は日本の読者が現実のヤズィーディーに偏見を持たないよう、ディ・キャンプを引用したのだろう。『ラヴクラフト全集5』の刊行は1987年で、ヤズィーディーの受難は日本ではほとんど知られていなかったはずだし、ポリティカル・コレクトネスの意識も低かった時代に、なかなかできることではない。
 しかしこの引用の前半、ディ・キャンプが言いたかったのは、「だから”東洋人”っていうのはラヴクラフトの勘違いなんだよ」ということなんだろうか。それ以前の問題なんだが。
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 オリエンタリズムを「東洋蔑視」と定義すれば、その基盤は言うまでもなくゼノフォビアである。西洋人にとっては「オリエント」は「非西洋」すべてを指すのだから、なおさらだ。ラヴクラフトも、その点は同様である。
 しかしオリエンタリズムには、「東洋趣味」という側面もある。これにはさらに、「東洋への憧憬」と「東洋をおもしろおかしく見世物化」という二つの要素がある。
「憧憬」と「蔑視」は対極にあるが、間に「おもしろおかしく見世物化」があって地続きであり、線引きは不可能である。
「レッドフックの恐怖」には、東洋趣味の要素はほぼない。せいぜいが、「悪魔崇拝者イェジディ派」を持ってきたのは、おどろおどろしい効果を出すためだと思われるだけである。言うまでもなく、「憧憬」は皆無だ。
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 上述の「魂を屠る者」は、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を取り上げたフィクションとして、「レッドフックの恐怖」に先行する(ロバート・W・チェイムバーズ 1920年 東京創元社『黄衣の王』所収)。同書収録の連作「黄衣の王」は1895年の初期作品で、そこそこ趣のある幻想小説だが、訳者の大瀧啓裕氏によると、チェイムバーズはその後、大衆小説に路線変更した。
 晩年(1933年没)に久々に書かれた怪奇小説である長篇「魂を屠る者」には、「趣」など薬にしたくもない。
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 いや、オリエンタリズムについて知りたくて、東洋的主題の欧米作品は結構な数を読んでます。すべて翻訳ですが、それでもかなりの数です。それらの中で、最もオリエンタリズムが露骨な作品でしたよ。
 オリエンタリズムのような現象は、ハイカルチャーよりもマスカルチャーにこそ如実に現れるはずなので、こういう作品が邦訳されるのは、本当にありがたいですね。E・サイードに「二流作家」呼ばわりされているロティでさえ、「大衆作家」とは言い難いですから。
 以下、ネタバレ注意。
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 ヒロインは幼い頃、中国の義和団事件で両親を惨殺されたアメリカ人女性。事件の黒幕はなぜか「悪魔崇拝者」ヤズィーディーで、それと言うのも、東洋すなわち非西洋の邪教や秘密結社は実はたった一つの組織なのである。だからヤズィーディーは黒幕と言っても、イスマーイール派(アサシン教団)、モンゴルやチベットの密教、ヒンドゥー等々と全部一絡げで区別されていない。
 ヒロインは邪教徒たちの気紛れで、教団の巫女として養育され、強大な魔力を身に着ける。その力を使って教団から逃れるが、母国アメリカに帰った途端、路頭に迷い、かくなる上は売春しか道はないと思いつめたところを、CIAのエージェントである若い紳士に拾われる。
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 彼女の話から、エージェントは「アメリカの敵」すなわち「世界の敵」の正体を知る。近年、世を騒がせていた「共産主義」も、その正体は悪魔崇拝者ヤズィーディーなのであった。
 ……ああそうか、ロシアやドイツを含む「東」欧も、「東」洋になるわけか。偶々、先祖にモンゴル人やフン族もいるしな。
「敵」は一見、多種多様だが実は単一の組織である――典型的な陰謀論だ。
 というわけでエージェントはヒロインを仲間に引き込んで「アメリカの敵」との闘いを開始するのだが、共に闘うCIAエージェントが、たった2名しか登場しないのである。しかもヒロインを拾って恋仲になるエージェントその1も含めて全員、拳銃も効かない妖術師たちを相手に右往左往するだけで、実質闘うのはヒロインただ1人である。
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「おもしろおかしい見世物」としての東洋趣味はがっつり盛り込まれており、ラヴクラフトがヤズィーディーについて、百科事典の当該項目あたりを読む以上の下調べをした形跡がないのに対し、チェイムバーズが大量のテキストを読み漁ったのは明らかである。
 ただし同じくらい明らかなのは、ただただキャッチーな名詞やモチーフを拾うのが目的の濫読であって、およそ知識と呼べるものは何一つ身についていない。
 たとえば序盤、ヒロインが敵の妖術師に向かって「アブー、オマール、オットマン、アリーにかけて」と言う。
 これは、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーのことかと思われる。預言者ムハンマドの直接の後継者(カリフ)であり、スンナ派ムスリムから深く尊敬されている。
「アブー」というのは「~の父」という意味で、「アブー・バクル(バクルの父)」のように個人名とセットで使うものであり、単独で「父」という時は「アブ」だ。チェイムバーズはそのことを知らず、「アブー」がファーストネームだとでも思ったんだろう。
 イスマーイール派ならアリー以外は正統なカリフとして認めないから、ほかの3人の名も一緒に唱えるはずがないし、ヤズィーディーをはじめとする非ムスリムが、この4人にかけて誓ったところでなんの意味もない。
 言うまでもなくそんなことは、チェイムバーズにとってどうでもいいことである。
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「東洋の官能」も忘れられてはいない。若くて美しい白人女性が食うに困って身売りを考える、という当時のモラルでは到底受け入れられそうもないヒロイン像も、東洋人に育てられたから、ということで許容されたのであろう。だったら少々モラルが歪んでも仕方ないよね可哀想に、というわけだ。
 エージェントその1は、「きみを守るには同居するしかない。しかし未婚の男女が同居することはできない。だから結婚するしかない」という理屈で、まんまと結婚に持ち込む。いや、全然守ってないじゃん。なんの役にも立ってないじゃん。
 そしてヒロインは、この役立たずの夫に献身的に尽くすのであった。
 とはいえ彼女は白人なので、露骨なお色気シーンはない。その代わり、エロ要員の東洋女性はちゃんと用意されている。しかも2人も。
 彼女たちはヒロインと一緒に育った教団の巫女で、少しの躊躇もなしに教団を裏切ってヒロインをテレパシーで援助し、さらには役立たずのエージェントその2、その3にそれぞれ惚れて、テレパシーで押しかけセックスをする。大団円にはもちろん彼らの結婚も含まれる。
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 ノーマン・スピンラッドの『鉄の夢』(1972年)は、ナチズム風刺にかこつけてヒロイックファンタジーや同趣向のSFに蔓延してきた御都合主義、ザル設定、そして何より差別主義を虚仮にしまくった怪作だ。そのあまりのひどさ(誉めてます)には笑わせてもらったが、「魂を屠る者」はそれすらおとなしく思えるほどのひどさ(誉めてません)であった。
 ただし『鉄の夢』の、御都合主義や差別主義よりさらに顕著なホモソーシャル(何しろ女性キャラが1人もいない上に、最終的には「混血」を防ぐ究極の手段として男だけのクローン軍団が誕生する)は特に目につかない。
 これはチェイムバーズが長年にわたり、デパート店員など「働く女性」を主要読者としたロマンス小説を書き続けてきたことと関係していると思われる。フェミニズム運動に関わっていたことも、当時は珍しかったであろう「闘うヒロイン」に反映されているかもしれない。
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 というか、敵も味方も巨大な組織(東欧までも含む「東洋」全土を網羅する邪教組織vsUSA=世界の守護者CIA)の割りには妙にこじんまりしてて、闘うのは実質ヒロイン1人、彼女の恋人という立場にある男性キャラクターは、己の無力を嘆いて自己憐憫に浸るだけ(しかし、ちゃっかり美味しい思いはする)って、セカイ系だなあ。
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「魂を屠る者」(1920年)、「レッドフックの恐怖」(1927年)に続き、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱った1932年の作品も、大瀧啓裕氏の訳で東京創元社から出ている。シーベリイ・クインの『悪魔の花嫁』だ。そういうタイトルの少女漫画があったが(というか、まだ完結していないらしい)、原題がThe Devil's Brideなので仕方ない。
 以下、一応ネタバレ注意。
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 大瀧氏の解説によると、かの『ウィアード・テイルズ』誌で最大の人気を誇った「ジュール・ド・グランダン」シリーズ(1925~50年の間に93篇が掲載)の唯一の長篇。同名の探偵が主人公で、怪異を扱ってはいるがほぼすべてに「科学的」な説明が与えられており、当時多かった怪奇ものとは一線を画していたとのこと。
 確かに『悪魔の花嫁』でも、「結婚式の最中、大勢の参列者の眼前で花嫁が消失!」という怪現象も、タネは「アフリカの未知の幻覚剤」であった。
 こんな御都合主義の「科学」なら、御都合主義の超常現象のほうが100倍マシだ。
 なお、この便利な幻覚剤は、作中で何度も使われる。
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「魂を屠る者」の露骨なパクリで、世界中の「邪教」、共産主義、民族運動はすべて根っこで繋がっている、ということになっているが、こちらは太古からそうだったというのではなく、近年、信徒が減って弱体化しつつある世界中の邪教集団が、巻き返しを図って合併・統合したのだそう。
 ……なんというか、たいへん「現代的」でありますが、情緒に欠けるというか、しょぼいというか、景気が悪い話だなあ。そんな船頭多くして船山に登りそうな烏合の衆、いかにも恐るるに足らないし、実際、老いた探偵ほぼ1人によって蹴散らされてしまうのである。
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 レイシズムの醜悪さは「魂を屠る者」に匹敵するが、あちらがあまりの箍の外れ具合に一周回ってレイシズムの風刺にしか見えなくなっているのに対し、こちらはレイシズムという非合理の極みに「合理性」の箍を嵌めようとしたために、ひたすら醜悪なだけである。
 わずか12年の経過でエログロは随分露骨になっており、これにもうんざりさせられた。

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 この表紙イラストは邦訳のための描き下ろしだが、作中の場面を忠実に描いたものだ。この女性(上述の「消えた花嫁」)が着けているコルセット状のものはヤズィーディーが古来、サタニズムの儀式に使ってきた銀の帯なんだそうである(もちろんそんな事実はない)。
 ヤズィーディーは有象無象の邪教の一つでしかないが、多少特別扱いされている。「花嫁」の何代か前の先祖が、ヤズィーディーに捕らえられて生贄にされそうになったところを、悪魔の司祭の美しい娘が例によって例の如くその青年に惚れて、なんの躊躇もなくキリスト教に改宗して2人で逃げる。その際、帯を持ち逃げする(「特別扱い」と言っても、これだけ)。
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 上で散々腐しておいてなんだが、「魂を屠る者」の、膨大な文献から抜き書きされた東洋の珍奇な語句の羅列からは、「誰も見たことのないものを創り上げてやろう」という熱意が伝わってきた。そうして出来上がった、無秩序で俗悪でキッチュでグロテスクでごてごてしてけばけばしく毒々しい外連味溢れた巨大なゲテモノ趣味のパビリオンは、確かに目を奪うものがあった。
『悪魔の花嫁』からは、そのような並外れた熱意は感じられない。「エキセントリックなフランス人の探偵」という主人公の造形からして、何もかもが何かの亜流でしかない。
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 こういった大衆小説のほうが、限られたエリートしか読まない「芸術性の高い文学」などより、社会に及ぼした影響は遥かに大きいはずであり、内容はさておき資料性は非常に高い。英語が苦手な人間にとって、邦訳の刊行は本当にありがたいことです(読めないとまでは言いませんが、辞書引きながらだから時間がかかるんですよ、ものすごく)。
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「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱った初期の小説は、今では英語圏でも上記3点のほかはほとんど知られていないようですね。未確認ですが、邦訳のあるロバート・E・ハワードの「墓はいらない」(1937年 『暗黒神話体系 クトゥルー 5』大瀧啓裕・訳 青心社』収録)に孔雀天使が登場するようです。
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 というわけで、本題は次回

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『無限の書』雑感その二

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 ところで、前回は敢えて言及を避けたのだが、改宗者というキャラクターは明らかに著者の投影である。そう考えるなというほうが無理なくらいだが、私はあんまりそう考えたくない。
 私自身は作品において「無」でいたいのだが、作家によってはキャラクターに自己投影し、読者にもそう読んでほしい人もいるようである。しかし一読者としての私は極力、キャラクターの背後に作者を見たくはない。たとえば、以下のようなことがあるからだ(改めて、ネタバレ注意)。
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 作者が投影されていようといまいと、改宗者の出番は決して多くはない。前半、吸血鬼ヴィクラムが彼女にやたらと絡むのは露骨にツンデレだが、これはむしろ微笑ましいと言える。
 が、彼女とヴィクラムが早々に途中退場し、後半(作中時間で数ヵ月後)にいきなり、ヴィクラムはすでに死んでいて、彼女は彼の子を身籠っていることが明かされる。ちなみに彼らは正式に(何をもって「正式」とするかは知らんが)結婚もしている。
 で、彼女の口からヴィクラムとの「ロマンス」が長々と語られるのだ。
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. 中東が舞台で、「西洋人女性」がヒロインのロマンス(恋愛小説)の定番は「シークもの」だが、これはシークすなわちアラブの大富豪による「拉致監禁もの」なので、改宗者とヴィクラムの「ロマンス」には当てはまらない。人間のヒロインと人外(人間より優れた)だから、パラノーマル・ロマンスだな。
 この「ロマンス」は、前半のツンデレを除けば改宗者から語られるだけであり(といっても、2段組みで数頁にも及ぶが)、『無限の書』の中で完全に浮いている。ヴィクラムは重要なキャラクターだし、改宗者も鍵となる写本の解析という役割だけでなく、彼女が体現するオリエンタリズムは、作品世界を読者である「西洋人」(およびその価値観に染まった非西洋人)と結びつける上で重要だ。
 が、この2人のロマンス(の成就)は、「異物」とさえ言える。これがなくても、物語の展開にはまったく支障がない。
 この竹に木を継いだかのような異物感に、もともと別の作品として構想があったんじゃないかとも思えてくる。作者を投影した(としか思えない)ヒロインと異形(膝関節が逆)だが美形(あまり強調はされないものの、「ハンサム」だという記述あり)で魅力的なトリックスター的人外ヒーローとの、中東を舞台にしたパラノーマル・ロマンスだ。
 
 そのパラノーマル・ロマンスを、なんらかの事情で(どんな事情だろうと、どうでもいいが)独立した作品として形にすることができなかったので、同じく中東を舞台とした別の作品に無理やり押し込んだのだろうか。『無限の書』はあくまでもハッカー青年アリフの冒険の物語なので、その主題をぼやけさせないために、改宗者が主人公の「ロマンス」は、挿話的に彼女の口から語らせるだけに留めたのだろうか。
 だったら、最初からこんな「割り込み」などせず、ヴィクラムの微笑ましいツンデレだけで留めておけば、この「異物感」は生じずに済んだだろう。実際、人間とジンという種族を越えた一大ロマンスが「ヒロイン」による説明だけで片づけられるというのは、かなり異様で、作者にも多少は自覚があるのか、キャラクターの一人に「いや、細かいことは話してくれなくていいから」とツッコミを入れさせている。
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 異物感はさておくとしても、「東洋」において常に疎外感を抱いてきた「西洋人」改宗者は、「東洋人」ヴィクラム(人外だが)と結婚し、妊娠することで、初めて「東洋」に受け入れられる。
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 アリフは目の前にすわるふっくらとした青白い女をしげしげとながめ、はじめて会ったときから彼女の中にはこのように深い感情がひそんでいたのだろうかといぶかしんだ。うまれてこのかた出会った数人のアメリカ人は、自由であるがゆえに強い感情を求めることがなく、そのためそうした感情をもつことができなくなってしまったみたいに、みな薄っぺらに見えた。改宗者も同じく、正確できびきびした意見を述べ、練習したような微笑を浮かべ、観客に見せるためにまとめたアイデンティティを示し、いつもその役割を演じているようだった。自負心を保とうとしながら失敗し、ありのままの姿になったいまの彼女は魅力的ですらある。(中略)
 彼女は視線を落とし、ふくらんだ腹の上でガウンのしわをのばした。奇妙ではあるが、この豊穣の姿は彼女によく似合っていた。その顔に浮かぶ微笑は悲しみを秘めながらもどこか崇高で、(アリフが)中等学校のころ旧市街にあるささやかなキリスト教地区を訪れたときにギリシャ正教会で見たイコンを思い出させる。
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 出たよ、「西洋に癒しや活力を与える東洋」像。
 もちろん、西洋人が東洋に癒しやら何やらを見出すのは自由である。それを拒絶するのは狭量というものだ。しかし「東洋は西洋に癒しその他を与えるためだけに存在する」、「西洋はそれらを得るために東洋を利用し、消費し、搾取し、収奪し、蹂躙する権利を持つ」となれば話は別である。本書の場合はどちらだろう。
 しかもオリエンタリズムとは無関係だが、これもまた「伝統的」な「女は結婚して子供を産んで初めて社会的に認められる」価値観まで肩を並べてるぞ。
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 それにしても、なぜヴィクラムは死ななければならなかったのか。
 ロマンスが男女どちらかの死で終わるのは、まず第一に読者にカタルシスを与えるためである。しかし改宗者とヴィクラムのロマンスは、そもそも別の物語に強引に挿入されている上に、まずヴィクラムの死が明らかにされてから、改宗者とのロマンスが(比較的)手短に語られるだけなので、カタルシスなど生じようがない。
 ヴィクラムの死が持つ第一の機能は、人間を超越した魔力を持ち、数千年を生きてきたが、どうやら恋多き人生を送ってきたわけでもないらしい「ヒーロー」が、中東在住の西洋人という以外にこれといった特徴のない「ヒロイン」と、単に恋に落ちるだけでなく、わざわざ正式に結婚して子供を産ませることにした動機である。死期が近いことを悟って、というわけだ。
 それだけなら、特に問題はない。
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 ジンの中でも高い地位にあるヴィクラムは、遺産としてその権力の一部を妻となった改宗者に譲渡する。これによって彼女はジンたちに庇護されるだけでなく、かしずかれさえすることになる。
 そして彼女はこの権力を使って、ここぞという時にアリフを助ける。つまり、絶体絶命の窮地に陥った主人公を華々しく救うという役割は、本来はヴィクラムのものだったのだ。
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 ヴィクラムが死ななければならなかったのは、まずロマンスの定番である平凡なヒロイン(本人いわく「美人ではないし、かわいくもないし、口説きやすいわけでもない」)を、超常能力を持つ数千歳の魔神(しかも美形)が愛し、結婚と子供を欲することを読者に納得させるためである。
 そしてヴィクラムは彼女に愛を与え、癒しを与え、アイデンティティを与え、社会的地位を与え、権力までも与える。彼が死ななければならなかったのは、もはや用済みになっただけでなく、負債の問題を手っ取り早く片付けるためだ。
 これほどの献身に対する改宗者の支払いは、彼を愛したことだけである。子供も産んでやることになるが、その子は今後、異界および現実の中東における彼女の「適応」を保証するものである。しかも子育てはもちろん妊娠中から、ジンたちが大いに手伝ってくれる。
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 伝統的な西洋の価値観なら、東洋人への西洋人の愛は、それだけの価値を持つものだった。しかし今日日、西洋人の愛もだいぶ値下がりしつつある。だから支払いを要求されないよう、さっさとヴィクラムを殺したのだ。それに彼が生きていたら、主人公の窮地を救う役は改宗者のものにはならない。
 21世紀の女性オリエンタリストが書いた物語の中で、「東洋」のヒーローは、作者自身を投影した「西洋」のヒロインのために、利用され、搾取され、収奪され、殺される。
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 いや、本当に著者がこのキャラクターに自己投影してるかどうかという問題はね、彼女の夫がエジプト人男性だとか、上記のように改宗者に「わたしは美人ではないし、かわいくもない」と言わせている一方で、「アリフはふいに、しかめ面をしていないときの彼女がなかなかの美人であることに気づいた」などと書いてることとかも併せて考えると、どうにもモヤモヤしてくるので考えたくないのである。

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『無限の書』雑感その一

(10/6 引用部分を斜体にしていたのですが、編集画面だとそうでもないのに、実際にアップした画面だと妙に見づらいので変更しました)
G・ウィロー・ウィルソン著 鍛冶靖子・訳 東京創元社

 読んだのは数ヵ月前だが、ふと思い立って感想を書いたら長くなった。2回に分けます。一応ネタバレ注意。
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 著者はアメリカの白人女性で、カイロでジャーナリストの経験もあるイスラム改宗者。という履歴、中東の某専制国家が舞台で謎の古写本を巡るハッカー青年の冒険というプロット、加えてこの邦題と来るので、ウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック』の系譜を引くゴシック・オリエンタリズム小説(この場合の「オリエンタリズム」は単に「東洋趣味」の意と考えていただきたい)とサイバーパンクの融合かと期待すると、少々肩透かしを食らう。
 2012年当時の中東の現実をよく捉えてはいるが、物語そのものはやや軽く、どちらかというとヤングアダルト風だ。
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 が、原題はAlif the unseen「見えざる者アリフ」というヤングアダルト風、ヒーローもの風であり、看板に偽りありというわけではない。誤った印象を与える第一要因は明らかに邦題だ。
 海外小説、特に英語小説の邦訳本は、表紙に原題がでかでかと明記されていることが多いが、本書はものすごく小さな字で、判りにくい場所にこっそり記されている。
 確かに原題の直訳では、あまり日本の読者を惹き付けられそうにないが、この邦題に惹かれて手に取った読者が、そぐわない内容に肩透かしを食らって喜ぶとでも思ったんだろうか。
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 まあとにかく、著者に責任はない。そして、さすがに中東に詳しい。
 エドワード・サイードは中東専門家つまりオリエンタリストを称する欧米人について、伝統的には過去の中東を学べば現在の中東を学ぶことになると考え、現代の、特に米国においては過去だろうが現在だろうが中東について学ぶ必要はない(学ばなくても中東専門家になれる)と考えている、と批判する。
 しかし本書の著者は、現代の中東の情勢や文化にも、過去の中東の歴史や文化にも相当詳しい(本書の「アラブの春」はハッピーエンドに終わっているが、これを「情勢を読み違えた」と批判するのは当たらない。ジャーナリストがあまりに的外れな予測をするのは困りものだが、本書はフィクションである)。
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 主人公が受身で他力本願すぎる、という批判を幾つか見たが、おそらくこの主人公の造形すらも、中東の物語の伝統に則っている。
『千夜一夜』に登場する男性主人公は、だいたい3タイプに分類できる。①勇者、②日本や西洋など他の文化圏の民話にも多い、金も身分も腕力もない正直者かお調子者タイプ、③非力な美青年タイプ(父親はだいたい裕福な商人か王)。
 で、3タイプとも揃って他力本願で役立たずである。困った困ったと言っていると、だいたい周りが助けてくれる。特に③の美青年タイプが一番ひどい。時には①は腕力で、②は誠実さや機知で切り抜けることもあるが、③は常に我が身の不幸を嘆き、詩を口ずさんで衣を引き裂いては悲鳴を上げて失神していると、その間に周囲(身内、友人、主人公に一方的に惚れた美女、通りすがりの他人)が解決してくれるのである。
 まあこれが、『千夜一夜』の主な読者(あるいは聞き手。『千夜一夜』は本来、カフェなどの客を相手に朗読するものだった)の願望だったんだろう。「独立独歩」も「人間的成長」も知ったこっちゃない、他人に助けてもらって楽して生きたい、もちろん美貌にも恵まれたい。
 それに比べれば、本書のアリフは少なくとも自分でなんとかしようという努力はしているだけ、相当に現代的である。
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 とは言うものの、引っ掛かる部分がないわけではない。たとえば、吸血鬼ヴィクラムというキャラクター。中東には死体を食うグールはいても、吸血鬼はいない。ヴィクラムという名も中東風ではない。
 訳者あとがきによると、元ネタはインドの民話「吸血鬼とヴィクラム王」らしい。民話自体は本書の内容とは全然関係ないとのことだが、一応、本書の中でも「サンスクリットの伝説にある二千歳の吸血鬼」という設定だ。
 しかし、このキャラクターは吸血鬼でもないし、インドともまったく関係がない。一言で言えば、『千夜一夜』のジンの現代版である。
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 欧米人にとっての「オリエント(東洋)」とは「非西洋」、つまり西ヨーロッパとそこからの移民の文化圏以外のすべてだ。そして「オリエンタリズム」とは、非西洋は非西洋であって、その内部の区別を一切無視することである。
 要するに、オリエンタリスト(中東通)である著者もまた、インドとアラビアの区別がついていないんじゃないかと、嫌な予感を覚える。
 しかしとにもかくにも、この吸血鬼ヴィクラムは、ブラックマーケットを根城にするトリックスター的な、なかなか魅力的なキャラクターなので、嫌な予感は脇に置いて読み進める。
 すると、吸血鬼ヴィクラムの知り合いだというキャラクターが登場する。中東史研究者(オリエンタリスト)にしてイスラムへの改宗者であるアメリカ出身の白人女性だ。
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 さて、「オリエンタリズム」とは本来、「東洋学」のことであった。東洋に関することならなんでも対象となるので、「オリエンタリスト」とは「東洋学者」のみならず「東洋通」も含む。ただし、現在ではこの意味で使われることはあまりない。
 19世紀以降、オリエンタリズムは芸術分野における「東洋趣味」も指すようになった。現在(の日本)でも、単にこの意味で使われることもある。
 しかし現在、オリエンタリズムと言えば第一に、エドワード・サイードが発見した概念、すなわち「東洋蔑視」のことだ。
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 件のキャラクターは、「オリエンタリスト」の戯画化でもある。まず東洋の文化と歴史を研究する学生であり、中東に住んでいる「東洋通」(あくまで欧米人の基準)だ。イスラムに改宗するくらいだから、「東洋趣味/東洋への憧れ」の持ち主でもある。しかし中東の現地社会に溶け込もうとする努力はことごとく的外れで、勘違いした東洋趣味と相俟って滑稽でしかない。
 同時に東洋を見下してもいて、且つそんな自分を恥じている。
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 それなりに出番はあるのに「改宗者」としか呼ばれないこのキャラクターは、吸血鬼ヴィクラムに散々いじられる。ちなみにヴィクラムは、主人公アリフをはじめとする「現地民」の目には、ほぼ人間の外見だが膝関節が逆向きに曲がる異形として映る。しかし改宗者はその異形に気づかない。
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「この女はありのままのわたしを見ることができないんだよ」ヴィクラムが言った。「アメリカ人の奇妙な特性だねえ。半分中にいて、半分外にいる。精神性を重視するくせに、心の奧では見えざるものをどこかいかがわしいと感じている」
(中略)改宗者が英語で反論した。「その言い方はフェアではありません。わたしたちはそこまでひどくはありません」
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 こうした遣り取りは本筋にはほとんど絡んでおらず、明らかに脱線だが、それなりに興味深い。アリフが別れた恋人から託された謎の古写本『アルフ・イェオム』について、彼女は次のように述べる。
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「もしこれがほんものなら、百年にわたる『アルフ・イェオム』研究の中ではじめて世に出たアラビア語版だということになります」
「西洋における研究の中で、だよねえ」ヴィクラムが言葉を足した。
「失礼ですが、ほかにどこで研究しているのですか。一九二〇年代にサウジアラビアがメッカとメディナを吸収して以後、アラビア半島は(中略)知的ブラックホールになってしまいました。パレスチナは崩壊し、エルサレムの伝統的学問がまかり通っています。ベイルートとバグダッドも同様です。北アフリカは植民地時代からまだ回復しておらず――どこの大学も専制君主と西洋かぶれをした社会主義者たちのなすがままです。ペルシャは革命にどっぷりつかっています。『アルフ・イェオム』についての研究がおこなわれているとしても、わたしは聞いたことがありません」
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『アルフ・イェオム』(『千一日』)は18世紀初頭にフランス人が当時の『千一夜』ブームに便乗して、フランス語に「翻訳」した物語だが、実は「翻訳者」の創作であって、アラビア語原典は存在しない。しかしこの架空の作品を適当なイスラム古典に置き換えれば、いかにも欧米の研究者が言いそうな台詞である。
 このような傲慢さをヴィクラムに突っつかれ続けた結果、改宗者はついにこう嘆く。
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「わたしたちがどれほどの譲歩をしているか、あなたがたはまったく気にかけません――慎み深い服を着て、言葉を学んで、いつどのように誰に話すかといった正気とも思えない規則すべてを守っているのに。わたしはあなたがたの宗教まで受け入れました――自分は尊い正しいおこないをしているのだと考えて、自分の意志で選びとりました。なのにそれだけではまだ足りないのです。わたしの口から出るあらゆる考え、あらゆる言葉が批判されます。わたしがわたし自身のいまいましい母国について語るときでさえそうです。わたしはこれからもずっと異国人なのです」
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 さらに、こうも言う。
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「わからないのは、非西洋人たちがどうやってあんなにも簡単にふたつの文明の間を行き来できるかです。あのコツは西洋人には決して理解できないでしょう。わたしたちの文化的DNAには適応というものが含まれていないのです」
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 これは実に、驚くべき謙遜である。なぜなら西洋(オクシデント)は常に、非西洋すなわち東洋(オリエント)を観察し、研究し、理解し、表現し、我が物とし、自在に操作してきたが、その逆はあり得なかったからだ。
 実際、改宗者はその前の台詞では、「あなた方(東洋人)は自らの歴史や文化を研究することすらできないから、わたしたち(西洋人)が代わりに研究してあげているのだ」と述べている。
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 西洋人は東洋人を外面から観察し研究し、外面を表現できるだけではない。その内面をも理解し表現できる、つまり東洋人に成り代わって代弁することもできる。それが西洋人作家による「東洋」文学である。そこに描かれた「東洋」が、当の東洋人から見て、どれほど馬鹿げた勘違いであろうと問題はない。西洋人が「理解」し「表現」した東洋こそが真実だからだ。
 西洋人が東洋を表現する手段は、小説や随筆など文学だけに留まらない。演劇、映画、音楽、美術、建築、ファッション……繰り返すが、彼らの表現する「東洋」が、東洋人にとって正確かどうかは問題とされない。西洋人が表現した東洋は、必ず「東洋そのもの」なのだ。
 時には西洋人が東洋の特定の事物あるいは東洋そのものを、「理解不能」とすることもある。ただしそれすらも、やたらと祀り上げるか、理解に値しないと嘲弄するか、どちらにせよ珍奇な「見世物」として操作可能なのである。
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 また西洋人は、東洋を理解し表現できるだけではない。彼ら自身の心と肉体が、東洋に「溶け込み」、東洋人に「なりきる」ことすら可能だ。
 解りやすい例がアラビアのロレンスことT・E・ロレンスで、本人はどんなアラビア語の方言もそっくりに真似ることができ、どの部族のアラブ人にも成りすますことができると豪語していた。実際には、アラビア語能力について言えば、会話に不自由はなかったものの、発音や文法にはかなり難があり、すぐに外国人とばれるレベルだったという。
 外見だけでも成りすますことができたかどうかについても、怪しいものだ。ロレンス自身、著作の中で、自分の瞳の色が中東では珍しい青であることを強調している。
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 しかし大多数の西洋人はロレンスの主張を信じたし、彼ら自身もまた東洋人になりすます能力を持つと信じている。鬘とカラーコンタクトと衣装(西洋人が「東洋人の衣装」と考えるもの)を身に着け、肌を黄塗りにして吊り目メイクをすればモンゴロイド、茶塗りにして黒のアイラインを引けば中東人。「東洋人」とはすべての「非西洋人」を指すから、茶塗りは中南米系にも使えるし、黒塗りは黒人、赤塗りは北米先住民だ。
 もちろんこれは西洋人だけの能力であり、非西洋人が西洋人の文化を学んだり採用したりすることは、「近代化」か「猿真似」である。
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 ……といったオリエンタリズム批判が、『オリエンタリズム』刊行(1978年)以来行われてきた。ほぼ四半世紀後のオリエンタリスト(東洋通)である本書の作者は、この批判を真摯に受け止めているようである。彼女が創作したオリエンタリストのキャラクター、改宗者は、自らのオリエンタリズム(東洋蔑視)を認め、それを恥じ、自らが東洋に「溶け込んで」などいないことも認めている。
 改宗者は「非西洋(東洋)人は二つの文化の間を自在に行き来できるが、西洋人にはできない」という上記の台詞に続き、「偉大な西洋文学を著した東洋人作家」の例を挙げ、さらにこう言う。
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「ですが反対の事例は――偉大な東洋文学を著した西洋人作家は、ひとりも思いあたりません。そうですね、ロレンス・ダレルはその範疇にはいるでしょうか――『アレクサンドリア四重奏』は東洋文学に分類できるでしょうか」
「その判定なら簡単だよ」とヴィクラム。「その本は疲労と倦怠をかかえた連中がセックスをしている話なのかい」
「そうです」改宗者が驚いたように答える。
「だったらそれは西洋文学だねえ」
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『アレクサンドリア四重奏』は未読だが、確かにこれまで読んだ「西洋人作家による東洋を舞台にした文学作品」は、だいたいヴィクラムの定義に当てはまる。
 というわけで、この下りは笑える――直前の「偉大な西洋文学を著した東洋人作家」の例さえ適切だったなら。
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 中東在住の中東史研究者というキャラクターが挙げる「西洋人が著した偉大な東洋文学」の例として中東を舞台にした小説を挙げ、それに対比させる「偉大な西洋文学を著した東洋人作家」の例が、カズオイシグロなのである。
 ああ、やっぱり「西洋人」は、「東洋(非西洋)」は全部一絡げなんだ、区別なんてしないんだ……
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 改宗者というキャラクターのオリエンタリズム的言動の数々は批判的・風刺的に描かれているが、この例(カズオイシグロ)に限っては、明らかにそうした意図はない。そのため、すぐ後に続く「疲労と倦怠を抱えた連中がセックスしている話はすべて西洋文学」という作者入魂のギャグも不発に終わっている。
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「オリエンタリズム」というマイナーな専門用語に、サイードが新たに与えた「非西洋蔑視」という定義に、「西洋人」はどう反応したか。多くは反発し、「オリエンタリズム批判批判」が盛んに行われた。一方でまた、多くが自らのオリエンタリズムを認め、反省した。
 自らの過ちを認め、反省し自己批判するのは大いに結構なことである。が、この行為は優越感にも繋がり得る。間違いを認められる自分偉い、自己批判できる自分すごい、という優越感である。
 加害者であった(ある)ことを認めるというのは、強者であった(ある)ことを認めることでもあるし、他者を見下していた(いる)ことを認めるというのは、見下せる立場(優位)にいた(いる)ことを認めることでもあるわけだしね。
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 つまり、いくら反省・自己批判しようと、根底にあるのは「そんな自分偉い」の優越感なので、上っ面だけに過ぎない。
 だから、中東滞在という実体験に基づいた自分自身のオリエンタリズムを、登場人物の言動を借りて批判する、そのハイライトの最中に、無意識のオリエンタリズムを露呈するようなことになるのだ(だから、最初に彼女のオリエンタリズム批判を「謙遜」と呼んだのである。結局のところポーズに過ぎない)。
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 とは言え、上っ面に過ぎなかろうと、根っこにあるのは優越感だろうと、自分の過ちを認めて反省するほうが、しないよりは遥かにマシである。認めないどころか相手を加害者呼ばわりして被害者面するのと、どちらがプライドがありそうかと言えば、それはもちろん……
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