なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅱ
2018年10月30日発売
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欧米のキリスト教徒は、神の存在だけでなく悪魔の存在も信じている。そこまでならいいんだが、「悪魔が存在するのだから、悪魔崇拝者も存在する」「キリスト教徒の組織(教会)が古来、存在するのだから、悪魔崇拝者の組織(カルト)も古来、存在する」となると、完全に妄想である。
神学的な問題に立ち入るつもりはないので大雑把な説明に留めるが、一神教における悪魔は神の認可の下に人間を誘惑する神のしもべであり、そんなものを崇拝しても意味はない。悪魔が神から独立した、神の対抗存在だとすると二元論になり、一神教ではなくなってしまう。また悪魔をそのような存在だとするゾロアスター教やマニ教でも、最終的には善神が勝利することになっている。
異教の神(悪神であれ善神であれ)を悪魔と見做す場合でも、その信徒たちからすれば、彼らが崇拝してるのは彼らの神であって悪魔ではない。そして一神教の論理でも、それらもまた唯一神の被造物、しもべに過ぎず、人々を「惑わす」のも唯一神の意志に従っているだけということになる。
「悪魔崇拝カルト」の妄想がどれほど根強いのかは、1980年代以降のアメリカで、「催眠による記憶回復療法」によって「悪魔崇拝カルトに性的虐待を受けた記憶が回復した」と称する「被害者」たちが次々と訴訟を起こしたことからも明らかである。催眠が掘り起こしたのは、「潜在意識に埋もれていた記憶」ではなく、「潜在意識に埋もれていた妄想」だったのだ。
. この妄想は、人々の恐怖だけではなく願望の現れでもある。「自分(たち)が不幸なのは○○○のせい」と、たった一つの何かに責めを負わせることほど楽な解決法はない。
その何かが自分(たち)にとって目障りな存在であれば、なおさらだ。欧米には「悪魔崇拝者」の汚名の下に、無数の無実の人々が排除されてきた長い歴史がある(言うまでもなく「魔女」も「悪魔崇拝者」だ)。
「悪魔崇拝者の親から性的虐待を受けた」ことを子供たちが「思い出した」のは、催眠療法士による誘導が少なからず影響しているはずだが(賠償金を掠め取ろうと目論む輩もいたそうだ)、その根底には親への密かな憎しみ、とまではいかなくても疎ましく思う気持ちもあったのではあるまいか。
「yazidi」と「satanist」あるいは「devil worshiper」を組み合わせて検索すると、文字どおり無数の記事がヒットする。上位数十件をざっと見た限りでは、大多数が「悪魔崇拝者だと誤解されている」という主旨だが、幾つかは悪魔崇拝者だと断言している。
誤解だとする記事の多さも、この偏見/妄想の根強さを示している。
前回の記事で述べたように、『失われた宗教を生きる人々』の著者ラッセルは、19世紀の西洋人(学者や宣教師)によってヤズィーディーが「悪魔崇拝者」と報告されたことを記している。
しかしその後の欧米のオカルティズムやホラー小説における、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の「人気」については、まったく言及していない。
それどころか、同書が刊行された2014年の時点で、多数の欧米人が未だに「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を信じていることすら知らない。エピローグでは、CNNのリポーターがヤズィーディーの信仰について「世界で最も恐ろしい宗教です」と述べていた、というヤズィーディーの訴えを、「耳を疑った」の一言で済ませている。
いや、あなたと同じ英国人のトム・ノックスが2009年に出した小説『ジェネシス・シークレット』は、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱ってる上に、国内のみならず世界的なベストセラーになったんですが。
武田ランダムハウスジャパンから出てる邦訳(2010年)の訳者あとがきによると、25ヵ国で刊行が決まっているそうだ。これはその時点での予定なので、「イスラムの堕天使たち」の文献案内では、Wiki英語版のヤズィーディーの頁にあった「23ヵ国」を採った。
ただし、同書が「2006年に国際的なベストセラーになった」とか書かれていて、さすがWiki、データがいい加減、というわけで拙稿には23ヵ国語に「訳された。」ではなくて「訳されたとのこと。」としたのでした。
まあとにかく、『ジェネシス・シークレット』の内容はというと、超古代史をはじめとするオカルト俗説の闇鍋だ。フィクション、ノンフィクションを問わず、この手の本をまともに読むのは子供の頃以来だが、予想を超えたひどさだな(「SF作家なのに?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、SFというのはこういうネタをおちょくるジャンルであって、真に受けるジャンルではありません)。
「魂を屠る者」(1920年)や『悪魔の花嫁』(1932年)が碌に調べもせず嘘八百をでっち上げていたのに対し、21世紀の『ジェネシス・シークレット』は、あらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果を利用してはいる。ただしそれらとオカルトネタ、俗説、謬説の区別をまったくつけていない。
作者ノックスは前書きで、次のように宣言している。
本作はフィクションである。ただし、宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている。
(中略)南トルコや北イラクで暮らすクルド人の中には、天使のカルトと呼ばれる古代宗教を信仰する人たちがいる。そのようなカルト信者の中には、マラク・ターウースと呼ばれる神を崇める者がいる。
この「天使のカルト」なるものは本編中、考古学の権威という設定のキャラクターによって次のように説明される(P261)。
「アレヴィー派や、ヤズィード派。総称して、天使のカルトと呼ばれている。五千年か、それ以上前に生まれたものではないかとされているんだけど。世界でもあの地方(クルディスタン)に特有のものなの」
……何を言っているのか、さっぱり理解できないんだが。
この2つの引用からすると、「天使のカルト」には何種類もの宗派があるかのようだが、全篇を通して挙げられているのはヤズィード派(ヤズィーディー)とアレヴィー派の2つだけだ。しかもヤズィーディーがいかに特異な宗教かということは作中、何度も語られるが、アレヴィー派についての説明は一切ない。そのため、「天使のカルト」全体に共通する特徴がなんなのかもわからない。
アレヴィー派はトルコ人とクルド人に多くの信者を持つ宗派で、「アリーの徒」というその名が示すとおり、預言者ムハンマドの従弟で娘婿のアリーを崇敬するシーア派の分派である。『失われた宗教を生きる人々』が「ヤズィーディーと似た宗派」の一つとして挙げるシリアのアラウィー派とは、同名だが直接の繋がりはない。
アラウィー派と同様、成立の時期は不明だが、イスラムの分派である以上、イスラムより古いわけがない。イスラムより古い宗教の要素を強く残しているという説もあるが、それがトルコ人のものにせよ、クルド人のものにせよ、どちらもクルディスタンに来たのは「五千年か、それ以上前」より何千年も後である。
ヤズィーディーも「ヤズィーディーの信仰について」で述べたとおり、「ヤズィーディー派」もしくは「ヤズィーディー教」として成立したのは12世紀以降であり、その「原型」がなんだったにせよ、「五千年か、それ以上前」にクルディスタンで生まれたものではない。
後述するように、この小説にはあらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果、オカルトネタ、俗説、謬説のどれでもない「独自設定」が多々見受けられる。
そのこと自体はフィクションなんだから問題ないが(出来の良し悪しはこの際、問わない)、前書きの大見得「宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている」は嘘とは言わないでも誇大宣伝であり、読者に対してもネタにされた人々や文化に対しても不誠実である。
以下、ネタバレ注意。
物語は最終的に、超古代文明ネタに行き着く。まあ本書では「文明」とまでは風呂敷を広げず、「高度な文化」とするに留めてはいるが、ともあれその担い手は、ホモ・サピエンスとは別系統の人類で、当時(旧石器時代)の現生人類の先祖より知力体力ともに格段に優れていたんだそうである。フォン・デニケンとかの最新ヴァージョンだな。
彼らは知力体力ともに劣る現生人類の祖先を奴隷化してこき使ったが、優れた文化も伝えた。日本の縄文土器はその一つだそうですよ。
物語の主な舞台であるクルディスタン東部に、ギョベクリ・テペという遺跡がある。旧石器時代に建てられた巨大な石造神殿という、考古学の常識を覆すものである。今年、世界遺産に登録された。これもスーパー亜人類の遺跡なんだそうである。
やがて彼らは滅びたが、現生人類の先祖たちは奴隷とされていたのを恥じ、ギョベクリ・テペの神殿を隠蔽した(神殿が何者かによって埋められていたのは事実)。
で、「ヤズィード派やアレヴィー派」といった「クルドのカルト信者」は神殿と奴隷であった過去を隠蔽した人々の子孫で、その秘密を守り続けてきたんだそうである。
それだけならまだしも、件のスーパー亜人類は、鳥と人間を掛け合わせたような容貌だった。つまり、ヤズィーディーが崇める孔雀天使(マラク・ターウース)の正体は、かつての邪悪で恐ろしい主人なのである……って、そいつらの存在を隠蔽したいんだったら、なんでわざわざ「神」として崇めるんだ。
アレヴィー派が何を崇めているのかは、結局触れられないままである。
現実のヤズィーディーが信仰する孔雀天使と同一視されるイブリースは悪魔ではなく、悔悛して赦され、元の地位に復帰した天使長である、という事実は無視され、作中の孔雀天使は悪魔そのものだということになっている。
しかも、マラク・ターウースの「マラク」がアラビア語の「天使」だということも伏せられ、「モレク」の別名だとされている。旧約聖書には子供の生贄を要求する異教の神とされるが、この名はヘブライ語で「王」を意味し、本当にこのような名の神を崇拝する宗派があったのかどうかはわからない(なお、アラビア語で「王」は「マリク」といい、「マラク」と発音が似てはいる)。ユダヤ教・キリスト教における邪神の代名詞の一つだ。
「魂を屠る者」(1920年)、「レッドフックの恐怖」(1927年)、『悪魔の花嫁』(1932年)となんら変わるところのない歪曲と捏造である。
「魂を屠る者」(『黄衣の王』所収)と『悪魔の花嫁』と、本書『ジェネシス・シークレット』の邦訳が同じ2010年に出されたのは単なる偶然だが、「魂を屠る者」と『悪魔の花嫁』では訳者の大瀧氏が、現実のヤズィーディーへの偏見が強まるのを危惧して、従来の日本語表記である「ヤジディ」や「イェジディ」ではなく「イェーズィーディー」という表記にしているのに対し、『ジェネシス・シークレット』の訳者、山本雅子氏はそのような配慮が必要だとは考えなかったらしい。訳者あとがきには、次のように述べられている。
「どこまで事実なのかとよく聞かれるが、ほとんど事実だ」と著者も自らのホームページで断言しているが、たとえば、事件解決の手がかりとなるインターネット上や書籍の中の情報は、現実の世界のネット上や書籍の中にもすべて存在する。ジャーナリストでもある著者は、本書の舞台となるほぼすべての場所に足を運び、じゅうぶんな調査を行ったうえでこの作品を書いている。
作者のノックスは、中東での取材経験も何度かあるそうである。本書刊行の2009年までに、すでに散発的とはいえイスラム原理主義者によるヤズィーディーへの迫害が顕著になってきており、ノックスもそのことは当然知っていて、作中で言及している。
だから彼は、ヤズィーディーを邪悪な存在としては描かない。「善良で穏やかな悪魔崇拝者」として描く。「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」である。意味不明だ。
だったら、そもそも悪魔崇拝者の濡れ衣を着せるのをやめろよ。
前述のとおり、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の妄想は、欧米のキリスト教徒にとって恐怖だけでなく、願望の現れである。すべての不幸や不都合の責任を押し付けることができるからだ。
そしてヤズィーディーは、「孔雀天使はイブリースだが、悔悛して赦されている」と「彼らの本来の主神(おそらく孔雀の神)とイブリースが同一視されたのは12世紀になってから」の2点さえ無視すれば、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の条件にぴったり当て嵌まる。
だから彼らが迫害されているという事実を前にしても、彼らには是が非でも悪魔崇拝者であってほしい。だから「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」という意味不明なヤズィーディー像をでっち上げる。
「善良で穏やかな悪魔崇拝者」という形容矛盾をひねり出してまで、ヤズィーディーが悪魔崇拝者であってほしいという願望のさらに裏に、「善良で穏やかな悪魔崇拝者が実在するのだから、邪悪で凶暴な悪魔崇拝者も存在するはず」という期待や、「善良で穏やかなのは見せかけで、実は邪悪で凶暴なはず」という期待を読み取るのはやめておこう。
上述したように、『ジェネシス・シークレット』は英語版Wikiのヤズィーディーの頁で紹介されているが、この頁の執筆者は「悪魔崇拝者だというのは誤解」としながら、本書のヤズィーディー像については批判どころか、「重要な役割を演じている」などと評価している。
「ヤズィーディー=悪魔崇拝者」とする英語のネット記事の中にも、少なくとも一つ、「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者ヤズィーディー」があった。しかもニュース記事である。
あるいはまた、「神への叛逆ってかっこいい」「欲望を否定しないってかっこいい」という中二病的な憧憬から、「教会組織に対抗する悪魔崇拝カルト」があってほしいと願う輩もいるだろう。近世以降の悪魔崇拝を標榜する秘密結社の類は、この手合いである。二元論を否定する以上、キリスト教の悪魔が神に叛逆するのも、人間の欲望を煽るのも、すべては神の御心のままなんだが。
この「悪魔賛美」も結構根強くて、近年でもジョー・ヒルの『ホーンズ 角』(原書は2010年)なんかがある。
ヤズィーディーが悪魔崇拝者だというのは誤解、とする大量の記事の執筆者たちも、わざわざそう書くのは、内心では「実は悪魔崇拝者だったらいい」と願っているからではないか、と思うのは邪推が過ぎるだろうか。
では、本題である。イスラム原理主義者たちは、なぜ、いつからヤズィーディーが悪魔崇拝者だと信じるようになったのか。
- 「悪魔崇拝カルト」という妄想は、イスラムの伝統には存在してこなかった。
- ヤズィーディーが悪魔崇拝者だという偏見は、隣人のムスリムたちの間に「比較的近年」に、「外部から持ち込まれた」ように見受けられる。
- よく知られているように、ISをはじめとするイスラム原理主義者の多くは、イスラムの伝統から切り離されて育ち、むしろ欧米文化にどっぷり浸かって、その中でアイデンティティを見失った若者たちである
無論、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を「討伐」したイスラム原理主義者たちに、「欧米人の受け売りだろう」などと指摘しようものなら、「事実無根の侮辱」に激怒するに違いない。だが、そう遠くない過去に、「ヤズィーディーは悪魔崇拝者だ」と最初に言い出した、1人もしくは少数の原理主義者がいたはずなのだ。
おそらく、見当外れの憶測でしかないだろう。そうであってほしいものだ。19世紀半ば以来、欧米人たちがでっち上げてきた「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を、「純粋な」イスラム原理主義者が真に受けて、「正義の軍隊」として「悪魔崇拝者狩り」をやらかし、それを欧米人が「これだから狂信者は」と一斉に非難し、ナディア・ムラードさんにノーベル平和賞を授与して自らの「正義」に悦に入り、しかして内心では「でもほんとは悪魔崇拝者だったらいいな」などと願っている、という構図は、あまりにもおぞましい。
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