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草の上の月

 ここのところつらつら綴っている「男性を教化する女性」像で思い出した、昔観た映画。
 レニー・ゼルウィガー、ヴィンセント・ドノフリオ主演、1996年。

 何度か当ブログの映画レビュー(「鑑賞記」カテゴリー)で書いているが、ゼルウィガーは私が嫌いな数少ない女優の1人である(ほかはメリル・ストリープくらい)。
 何が嫌いなのかというと、「わたしってこんな馬鹿な女を演じられるのよ、ほんとは違うんだけどね」的な演技である。「馬鹿な」の部分は作品によって「がさつな」「無教養で下層階級の」等に置き換えられたりもするが、とにかく「ほんとは違うんだけどね」がありありと見て取れる(少なくとも私には)のが、ものすごくイラッとさせられるのだ。

 で、この嫌悪の次には「昔はあんなに可愛かったのに……」という嘆きが来る。「昔」というのは『ザ・エージェント』(1996)と『ライアー』(1997)のことである。野暮ったい初々しさというか、垢抜けないんだけど可愛いんだ、すごく。
『草の上の月』はこの2作と『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)の間に撮られたと思ってたんだが、この記事を書くために確認したら、『ザ・エージェント』の1つ前じゃん。えー……
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 ああ、思い返してみれば確かに、『草の上の月』の無神経なヒロインには「ほんとは違うんだけどね」感がない。無神経な女だとは思わずに演じてるっぽい。素で無神経なんだ……ということはつまり、『ザ・エージェント』と『ライアー』が例外だっただけか……
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 原作は、先日の記事で触れた「蛮人コナン」の生みの親ロバート・E・ハワードの恋人だったノーヴェリン・プライスの回想録である。
 1930年代、小説家志望の小学校教師ノーヴェリン(ゼルウィガー)は、地元の小説家(ドノフリオ)と、彼がどんな作品を書くのかも知らないまま、小説家だというだけでお近づきになる。その後初めて、彼が「低俗なパルプ作家」と周囲から見下されていること、彼自身も相当な変人であることを知るが、それでも交際を始める。
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 交際を始めてしばらくしてから、ようやくノーヴェリンはハワードの作品を読み、その「野蛮さ」に強いショックを受ける。
 そこでハワードにこう訴えるわけだ。「世の中には美しいものがたくさんあるのに、どうしてそれについて書かないの?」「人間の精神を高めるような作品を書くべきよ」――十数年前の鑑賞なのでうろ覚えだが、だいたいこんな感じのことを言い募る。
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 それに対しハワードは曖昧に流して済ませるが、ノーヴェリンはその後も「母親離れすべきだ」「もっと大人になるべきだ」等々苦言を呈し続け、ハワードも反発を強めていく。
 やがてノーヴェリンは自らの才能に見切りをつけ(つまりハワードに書かせようとしていた「清く正しく美しい小説」を書く才能が自分にもないことを悟り)、教師としての道をまっとうすることにする。それとともに、ハワードにも「見切りをつける」。
 一方ハワードは、以下ネタバレというかネタバレも何も「コナン」の読者なら誰でも知っている悲劇に向かって、まっしぐらに進んでいくのであった。
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 私は美少女がばっさばっさと人を殺しまくる野蛮なSF(パルプ雑誌によって育てられたジャンルである)を書く女で、幸いにして「世の中には美しいものがたくさんあるのに、どうしてそれについて書かないのか」「人間の精神を高めるような作品を書くべきだ」などと言われたことは一度もないが、仮にそんなことを言われたら、相手が男だろうと女だろうと、とりあえずまあ埋めてやろうかくらいは思いそうである。
 つまり本質的にはジェンダー無関係なわけだが、ノーヴェリンの場合、ハワードにあれこれ説教したのは、ヴィクトリア朝の「家庭の天使」に代表される「男性を精神的・道徳的に導く女性」像(同時代の米国では「真の女性」と呼んだそうだ)に従ってのことだったように思われる。
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 ハワードの死から半世紀後に出されたノーヴェリンの回想録は未読なので(私の英語力では本1冊読むのに時間がかかりすぎる。そこまで時間をかけるほどこの問題に興味があるわけではない)、当時および半世紀後のノーヴェリンの心情は知らないが、「男を教化する」「真の女性」の観点からすれば、彼女はハワードの「教化」に失敗したのであるが、悪いのは「教化」の試み自体ではなく、受け入れなかったハワードだということになる。
『草の上の月』のノーヴェリンには、ハワードへの態度を悔いている様子がまったく窺えず、彼女から見たハワードは、「せっかく導いてあげようとしたのに、受け入れずに自滅した憐れで愚かな人」として描かれているように思われる。
 これが、演じるゼルウィガーの滲み出る無神経さゆえか、それともノーヴェリン本人が、当時も半世紀後も、ハワードをそのように見做していたためなのかはわからない。
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 一方で、ノーヴェリンの視点を離れたところでは、ハワードは「世間の無理解に追い詰められた孤独な天才」として描かれている。こちらの視点では、ノーヴェリンは「世間の無理解」の一部もしくは代表であり、「男を教化(しようと)して、男の野性やら才能やらを矯める女」である。
 あくまで推測だが、この齟齬の原因は、原作であるノーヴェリンの回想録におけるハワード像が「せっかく導いてあげようとしたのに、受け入れずに自滅した憐れで愚かな人」であるのに対し、映画制作者側のハワード像が「世間の無理解に追い詰められた孤独な天才」であり、それでいてノーヴェリンのハワード像をそのままにしていることにあるのではないだろうか。
 監督、制作、脚本が全員男性なのと関係があるのかどうかは、敢えて論じない。
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 もちろん、一つの作品内に複数の視点・観点があるのは悪いことではない。しかしこの作品の場合、「Aという見方もあるが、Bという見方もある」ではなく、「原作者ノーヴェリンから見たハワード」と「映画制作サイドから見たハワード」を不器用に継ぎはぎしたかのような噛み合わなさなのだ。
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 何が原因だったにせよ、どうにもちぐはぐで変な映画でありましたよ。
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「自然」と「文明」の性別は 「男性を教化する女性」像について。「蛮人コナン」にも言及。
アパルーサの決闘 レニー・ゼルウィガー評の一例。

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『TH』№77

 1月30日発売予定の『TH(トーキングヘッズ叢書))』№77「夢魔~闇の世界からの呼び声」に、エッセイを寄稿させていただきました。

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アトリエサードさんの公式ページ

 私のエッセイは「ノイズから物語を紡ぐ~脳科学の見地から夢を解く」です。副題のとおり、脳科学系中心の話で、他の執筆者の方々のタイトルを見る限り、今回はさすがに浮きそうな気が……
 でもまあアトリエサードさんには事前に、「かくかくしかじかの内容ですが、よろしければ書かせてください」と確認してOKをいただき、書き上がった原稿もそのまま通していただけましたから!

 今年は早々に活動報告ができて、幸先のよいことです。この調子で頑張りますので、よろしくお願いいたします。

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「自然」と「文明」の性別は

 いちおう前の記事からの続きですが、読んでなくてもいいですよ。

 帝国主義的なジェンダー観としてしばしば槍玉に挙げられるのが、「男は文明/文化、女は自然/野性」という二元論である。文明が自然/野性を征服するように、女は男に征服され、開拓されなくてはならない、という理屈だ。

 てゆうか、この二元論は未だに時々聞く。言ってる人は女性賛美のつもりらしいが(この価値観の「逆転」については後述)。まあとにかく本来の意味では、男は文明/文化が自然/野性より優れていると思っているから、自らを文明/文化としたのである。
 しかし現在まで生き残っている、これとは真逆の二元論がある。すなわち「男は自然/野性、女は文明/文化」である。

 中世~近世のヨーロッパにおいて、文化的であること(洗練されていること)のバロメーターは礼儀作法(エチケット、マナー)だった。騎士道の貴婦人崇拝は、騎士が貴婦人に相応しい存在になるべく己を高める、というのが基本だが、「高める」というのは単に武勲を上げることではなかった。信心に励み、高潔に振る舞い、彼女を讃える詩を大量に詠み、礼儀作法を磨く。
 こうした研鑽は騎士が自力で行うもので、貴婦人は一切手出し口出しすることなく、結果だけを評価するのだが、これも「男性を精神的・道徳的に導く女性」像の一つである。

 貴婦人崇拝という観念が成立したのは、中世後期(12、13世紀)である。実態がどんなものだったかはともかくとして、その観念は文学によって後世に伝えられ、永く影響力を保った。
 それにより、礼儀作法とは「貴婦人の前で恥ずかしくない振る舞い」とほぼ同義となり、また貴婦人は詩や音楽など芸術の審判者となった。
 貴婦人を中心とするこのような「洗練された文化」が逸早く成立したのがフランスで、17世紀初頭には、貴婦人によって「サロン」が主催されるようになる。同時期に書かれた『信仰生活への手引き』という書物では、社交生活において粗暴な男性に洗練された趣味を教えることは女性の義務でありキリスト教の理念にも合致する、と述べられているという。 .

 こうした女性主導の「サロン文化」は「洗練された文化」そのものとして、他のヨーロッパ諸国の憧れの的となった。各国の上流階級はこぞってサロン文化を採り入れた。彼らはサロン文化を「女性的文化」と見做したが、そこに否定的な意味はまったくなかった。「女性的文化」=「洗練された文化」だったのである。
 ところが本場フランスでは、早くも17世紀半ばから、サロンで活動する「プレシューズ」(才女)たちを批判・風刺する男たちが現れた。モリエールはその一人で、「滑稽なプレシューズたち」(邦訳タイトルは「才女気取り」など)という戯曲を書いて揶揄した。

 1世紀後には、「女性的文化亡国論」が盛んに唱えられるようになる。筆頭はモンテスキューで、『法の精神』(1748年)では女性的文化の特徴は奢侈、虚栄、優柔などであり文明を衰退させると述べる。
 これに対し、文明を発展させることになるのはもちろん「男性的文化」ということになるのだが、具体的にどのような文化が想定されていたのか、私が参照した論考では触れられていなかった。まあ「洗練されていない文化」「質実剛健な文化」なのは確かである。

「男は自然/野性、女は文明/文化」という二元論はまだ確立されていないが、文明(都市はその象徴)を悪、自然(農村などの「田舎」も含む)を善とする思想は古代ギリシア・ローマ、旧約・新約聖書にも見られる。
 中世を経てヨーロッパ各地で都市が発達してくると、自然への憧れも復活してくる。モンテーニュは『エセー』(16世紀末)でこの思想をはっきりと打ち出したが、彼はまた「高貴な野蛮人」という概念も生み出した。自然や未開人、田舎といったものへの賛美は、フランス国内で受け継がれ発展し、ルソー(1712-1778)によって完成された。この「先進思想」はもちろん他のヨーロッパ諸国や北米にも伝播した。

 この段階では「野性」は平和と寛容の象徴だったが、やがてロマン主義の時代に入ると、前時代までの理性至上主義への反動から、「野性」の中でもそれまで否定されてきた「蛮性」「獣性」への憧憬も生じる。
 革命とか国民国家とかの熱狂と血生臭さはロマン主義と強く結びついているわけだが、とりあえず芸術分野に話を絞ると、最も端的なのが異教時代のヨーロッパの「復権」だろう。「野蛮な異教徒」として否定してきた古代ヨーロッパ人を、「先祖」として再認識し、誇りを抱くようになったのだ。

 この時代に流行したオリエンタリズム(東洋趣味)の絵画にはオダリスク(後宮の女奴隷)を主題にしたものが多い。オリエンタリズム(東洋蔑視)の図式としてよく引き合いに出されるのが、「西洋=文明、東洋(非西洋)=野蛮」だが、オダリスクたちが象徴するのは、明らかに「野蛮」ではなく「退廃した文明/文化」である。

 自然/野蛮の価値が上がると、シーソーで文明/文化の価値が下がる。とはいえ「男による女の征服」=「文明による野蛮/自然の征服」のメタファーは、帝国主義と非常に相性がいい。そんな中、「男は自然/野蛮、女は文明/文化」という図式はなかなか表に出てこないだろう。

 しかし帝国主義の下、西洋の男たちが「文明による野蛮/自然の征服」と称して非西洋の土地や民族を征服している間、西洋の女たちに負わされた役割は「家庭の天使」として男たちを「精神的・道徳的に導く」ことだった。この「道徳」には礼儀作法、すなわち中世以来の「文化のバロメーター」も含まれる。
 ペリーが日本に向けて出航する準備をしていた1852年、欧米で高まっていた日本への関心を受けて、英国の学者チャールズ・マクファーレンが、当時知られていた日本に関する情報を掻き集めて1冊の本を出した(『日本1852』のタイトルで邦訳あり)。
 マクファーレンは日本女性を優雅で魅力的だと称賛していて、ジャポニズムの走りともなっているが、その前置きとして「一国の女性の品性は、その文明の高さをはかる究極の、そして最も容易な評価基準」と述べているそうである。それが当時の通念だったのだろう。

 自らを文明、征服対象を野蛮と見做す以上、野蛮を賛美するのは矛盾しているが、社会ダーウィニズム(「弱肉強食」やら「生存闘争」やら)のお蔭で、獣性や蛮性の正当化は容易になった。
 また露骨な暴力表現への禁忌も、蛮性の賛美の支障になったと思われるが、この禁忌も時代が下がるにつれて緩和された。「蛮人コナン」の誕生は、1932年である。

 このシリーズにおける「野蛮>文明/文化」の図式は、非常に明快である。しかもコナンは「北方」の民であり、すなわち非西洋人ではなく西洋人の輝かしい祖先であることが暗示される。非西洋的な蛮族は、退廃した文明国と同じく、コナンの征服の対象である。
 蛮人コナンが真の男であるのに対し、文明国の男たちは軟弱だったり邪悪だったりするが、「文明=女」という単純な図式は見いだせない。出てくる美女のほとんどが文明世界に属し、そんな彼女らをコナンはモノにしたり袖にしたりと思うがままなのだが、これを「男=野蛮による女=文明の征服」と解釈するのは、こじつけが過ぎる(そんなつまらん話だったら、ヒロイック・ファンタジーの元祖にして金字塔たりえてないよね)。

 古代ゲルマン賛美といえばナチズムで、自分たちの蛮行も古代ゲルマン人の蛮行になぞらえて正当化したわけだが、一方で近代的な文化、「洗練された文化」はユダヤ人の所産として排除した。で、ユダヤ人は「女性的な人種」と見做されていて、つまり「女性的文化亡国論」ナチズム版なわけだ。
 ちなみにユダヤ人と女性の同一視を確立したオットー・ヴァイニンガー(1880-1903)は、改宗ユダヤ人なんだよな。なんという屈折。

 しかし征服活動を文明の利器に頼っている限りは、「男=文明」の図式を完全に否定することはできない。その点、米国の反知性主義は文明の完全否定が可能だ。文化的なことはすべて、礼儀作法も教養も芸術も「男らしくない」と切り捨てる。
 反知性主義だから、細かい理屈とか考えなくていいし(というか考えてはいけない)、言行に矛盾が出ても気にしなーい。

 とりとめがなくなってきたな。
 戦闘、征服、殺人のメタファーに強姦を持ってくるのは、古今東西ほぼ共通である。そこに文化的・文明的なのは自分たちだけで、異民族はすべて野蛮だとするイデオロギーが加われば、「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は完成する。
 それを露骨に表現したのが古代ギリシアで、彼らの美術や文学には「異民族の征服」の表徴として、「ケンタウロスの征服」と「アマゾネスの征服」という二つの主題がセットで描かれた。
 半人半獣のケンタウロスは、もちろん「野蛮=獣性」の象徴である。これに対しアマゾネスの征服は、単なる強姦の暗喩ではない。アマゾネスは女だけの戦闘民族であり、「男によって支配される秩序正しい社会」への叛逆の象徴であり、忌むべき「野蛮」そのものにほかならない。

 ヨーロッパ帝国主義の「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は、古代ギリシアのものを受け継いだと見ていいだろう。私の知識じゃ、その軌跡を跡付けることはできないんだが。
「我々」以外はみな野蛮、という思想がヨーロッパの専売特許じゃないのは言うまでもないが、たとえば中国にしてもイスラム世界にしても、「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は、ヨーロッパほど明確には現れていない。
 しかし中国、インド、イスラム世界でも、この二元論は共有されていた(それ以外の文明圏ではどうだったのかは知らない)。それを象徴するのが、犬人国と女人国である。

 犬頭人身の怪物もアマゾネスも、古代ギリシアでは辺境に住む蛮族とされたが、これが3、4世紀の「アレクサンドロス大王伝説」以降、しばしば隣接する民族同士、あるいは一方が西の果て、他方が東の果てに住む、というようにセットにされるようになった。
 半人半獣の犬人は、ケンタウロスと同じく野蛮人の獣性の象徴であり、しばしば食人族だとされた。
 イスラム世界の博物誌・地理誌はヘレニズムのものをそのまま踏襲しているが、インドと中国の犬人国・女人国伝説が、独自のものなのか他の文明圏から影響を受けているのかどうかは不明である。しかし意味するものは同じであろう。

 女=自然というメタファーは、古代の地母神信仰ともちろん関係あるが、信仰は消えてメタファーだけ残ったと見るべきだな。

 一方、「男=野蛮/自然、女=文化/文明」について。
 ユダヤ教だと、バビロニアやペルシア、エジプトといった先進文明に対して、自らを沙漠や荒野に投影する傾向があったし、士師の時代まではほとんどの異民族はユダヤより進んだ文化を持っていたから、「異民族(異教徒)=悪=文化/文明」という図式が成り立った。
 さらにサムソンを誘惑して陥れるデリラやソロモンの異教徒の妻たちには、こうした異教の先進文化の「悪」と女を結び付ける思考が窺える。
 新約の『ヨハネ黙示録』ではより明確で、「大淫婦バビロン」はバビロン(イスラエルの民を迫害した邪悪な文明)を邪悪な女になぞらえたものであり、ローマ帝国の寓意だとされる。

 アテネはまさに文化を掌る女神だ。ただし知恵(学問)、芸術・工芸、機織り・糸紡ぎのうち、女性の領分は機織り・糸紡ぎだけで、しかも機織りはまだしも糸紡ぎは芸術性が入る余地のない単純労働である。
 彼女はまた、「男の領分」の真髄と言える「戦争」の女神でもあるが、もう一柱の軍神アレスが狂乱や破壊など戦争の負の側面を掌るのに対し、栄光や戦略など正の側面を掌る。
 アテネはギリシア最強国アテナイの守護神であり、神話の中でも扱いがよいが(後述)、アレスは粗野で残忍な神として嫌われており、それも悪役というよりは、アフロディテとの不倫現場を押さえられて笑いものになるなど、不名誉な扱いである。
 アレスはケンタウロスと同じく、男の獣性や蛮性を象徴しており、ケンタウロスのように征服されたりはしないまでも、理性的なアテネの風下に置かれるべき存在なのだ。
 制御不能の自然の象徴である荒ぶる海神ポセイドンも、アテネとの知恵比べに負けている。

 アテナイの支配層は、ケンタウロスに象徴される「男の野性/獣性」を恐れていた。それは文化/文明を破壊するからだ。だからアテネという「女」を、文化(および理知)の象徴に据えた。
 そうして祀り上げるからには、アテネは並みの女、並みの女神であってはならない。彼女はアテナイ人の「母」である。鍛冶の神ヘパイストス(製鉄は当時の科学の粋)との間に、性交も妊娠も出産もなしでアテナイ人の始祖をもうけた。彼女自身、母の産道からではなく、父ゼウスの頭から生まれている。
 つまり処女にして母であるばかりか出産という「女の穢れ」から完全に切り離されている、聖母マリアの上を行く「超」女なのだ。

 アテネは、男たちを「尻に敷」いたり、その野性/獣性を矯めすぎて「去勢」してしまうことは決してない。彼女は英雄たちを励まし、助言を与え、物理的な援助も行うが、あくまで脇役に徹し、彼らのお株を奪ったりはしない。アイスキュロスは彼女についてこう述べる。
「よろずにつけて男に味方し」「心底から父親側」
 だから彼女は、女が突出することを赦さない。美貌を誇ったメドゥーサを怪物に変え、機織りの才(絵を織り出すので、単なる技術ではなく芸術の才)を誇ったアラクネは打擲し恥辱を与えて自殺に追い込んだ。

「男=野蛮/自然、女=文化/文明」の最も初期の例は、間違いなく『ギルガメシュ叙事詩』である。
 獣人エンキドゥは聖娼シャムハトと7日間性交し、獣としての力を失う代わりに人間の知性を得た。シャムハトはさらにエンキドゥに人間についての知識を与えた。
 エンキドゥとギルガメシュは、森を守護する怪物や聖なる牛を殺す。神々は2人のうち一方を殺すことにし、エンキドゥを選ぶ。死が迫ったエンキドゥは、自分を人間にしたシャムハトを呪う(人間にならなければ、神罰を受けることもなかった)。しかし太陽神シャマシュに、「シャムハトのお蔭で人間になれたから、ギルガメシュと親友になることもできたのだ」と諭され、彼女を赦して死を迎える。

 すでに4000年以上昔、「男を教化し、成長させてくれる女」への希求と、「男を教化し、その野性やら才能やらを矯めてしまう女」への恐怖が、エンキドゥとシャムハトという一組の男女に凝縮されているのである。
 それにしてもエンキドゥは、ずいぶんと人間ができてるなあ。

すばらしきウィルフ(前々回の記事)
名言だそうですよ。(前回の記事)

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名言だそうですよ。

 ゾラの「スルディス夫人」(『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』所収)とゴードン・R・ディクスンの『こちら異星人対策局』の「ウィルフ」のエピソードで、欧米文化には「小市民的道徳を押し付けて男を矮小化する女」というステレオタイプがあるんじゃないかと思い至ったのが、たぶん1年くらい前。
 そこから折りを見てちょっとずつ調べているうちに行き当たったのが、ロマン・ロラン(1866-1944)の「名言」とされる次の言葉である。

 女性の愛情は、天才を飼い慣らし、平準化し、枝を切り、削り、香りをつけることに専念する。そして、ついには天才を自分の感受性、小さな虚栄心、平凡さ、それに自分たちの社交界の平凡さと同程度の者にしてしまう。

 ……いや、名言か、これ?
 という疑問はさておき、「ロマン・ロラン 名言」でググると、多くのサイトで見つかる言葉である。ロマン・ロランの「名言」を10以上紹介しているサイトなら、まず載っている。出典は『ジャン・クリストフ』(1903-1912)だそうだが、大長編なので確認してない。
 原文(仏語)もチェックしたかったんだが、併記してあるところは一つも見つけられなかった。英語サイトなら、と「romain rolland quotes」でググったが(仏語サイトをチェックできるだけの語学力はない)、この「名言」自体、発見できませんでした。ロマン・ロランの名言を紹介している英語サイトもたくさんあって、30も40も50も紹介しているところも少なくなかったんだが。

 うん、ポリティカル・コレクトネス的には、どう考えたって「名言」じゃないよね、日本ではなんの疑問もなく「名言」扱いなのって……いや、お蔭で知ることができたしね。現代の価値観にそぐわないからって「なかったこと」にするのはよくありませんね、いや、掲載した方々は「名言」だという認識なわけですが。
 ロマン・ロランはこの「名言」と表裏をなす「名言」も残している。

  男性は作品を創る。しかし女性は男性を創る。

 これも『ジャン・クリストフ』からだそうだ。これもまた英語でググっても見つけられないが、日本人なら「女性賛美の名言」だと認識しそうですね、てゆうか明らかにそういう認識で紹介してるサイトは一つならずあったし。てゆうか、一つ目の「名言」より掲載サイトが少ないのはそのせいか?
 とにもかくにも、この二つ目の「名言」が「男性を精神的・道徳的に導く女性」像を表現しているのに対し、一つ目の「名言」はその裏面である「男性に小市民的道徳を押し付けて矮小化する女性」像を表現しているのは明らかだ。フランス語で「天才」(genie アクセント記号は省略しました)って男性名詞だし。

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すばらしきウィルフ

『ハヤカワ文庫SF総解説2000』の刊行(2015年)以来、未読のSFの山脈から、おもしろそうなものをチェックしては片っ端から読んでいる。
 80年代半ばにジュヴナイルSFを卒業して、早川や東京創元に「進学」したものの、数年で「冬の時代」が来てSFから離れてしまい、ブランクは10年に及ぶ。SF作家のくせにSFを充分読んでいるとは言えなかった私だが、お蔭でようやくそのブランクを埋めつつある。.

 古典的傑作として名前だけは知っていたが読んでいなかった作品、名前も知らなかった埋もれた傑作、そこまで行かずとも、忘れられているのが惜しい佳作・良作にたくさん出会うことができた(まだリストは長いので、今後も出会えるであろう)。
 明らかな外れには、一度も当たっていない。執筆者諸氏が限られた字数で、的確に解説をされておられることの証左であろう(私が担当した4本もそうだといいんだが)。客観的な出来の良し悪しだけでなく、単に好みじゃなかった、ということも今のところない。
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 とはいえ、「ここをこうすれば、もっとおもしろくなっただろうに」という、残念な作品にはそれなりに当たっている。「ここをこうすれば」というのが解りやすいものばかりなので、それはそれで勉強になるから、「残念な読書」だったということにはならない。
. そういう作品の一つが、ゴードン・R・ディクスンの『こちら異星人対策局』(1998年 原書THE MAGNIFICENT WILFは1995)である。もう1年くらい前になるかな。大好きな『地球人のお荷物』(解説を担当させていただいた)の作者の片割れだし、ファンタジーの『ドラゴンになった青年』も結構おもしろかったので、読んでみた。
 中村融氏の解説に「職人技の娯楽作といったところか」とあるとおり、ベテランが力を抜いて書いた感じの軽いコメディである。残念ながら「軽妙洒脱」の域にまで達していないのは、おもしろくなりそうなアイデアを幾つも出しながら活かしきれていないのが主因であろう。
 以下、ネタバレ注意。
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 各章は短く、番号が振ってあるだけでタイトルはない。しかし幾つかの章がまとまって1つのショートストーリー(事件とその解決)をなしており、長篇というよりは連作短篇の体だ。
 その「第1話」では、主人公の若い夫婦の飼い犬が送信型のテレパシスト(自分の思考を相手に伝えることはできるが、相手の思考は読めない)になってしまう。「第1話」ではたいへんなドタバタを引き起こすのだが、「第2話」以降、この設定はまったく活かされない。第1話でこの犬が可愛いだけに残念である。
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 こういった「おもしろくなりそうなのに活かされていないアイデア」の一つが、「ウィルフ」である。なお本記事タイトルは、上述した原題THE MAGNIFICENT WILFに拠る。
 ある事件で主人公のトムは、異星人の暗殺者に無理やり弟子にされる。その暗殺者が、トムの妻ルーシーを、「ウィルフ」と勘違いする。トムはその勘違いを利用して、命じられた暗殺をせずに済ませる。ルーシーは「ウィルフ」がなんなのか知らないが(トムは知っている)、話を合わせる。
 一件落着後、ルーシーはトムに、ウィルフとは何かを尋ねる。
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 トムの口調は鈍くなった。「ウィルフは地球人の女性に似た姿をしてる。ともかく、異星人にはそう見えるらしい。でも、地球人とは全然ちがう種族だ。性別もない。宇宙のあちこちで、ほかの種族を慕ってつきまとう。いったん親しくなった相手には、とことんまで尽くす」
(中略)
「ウィルフ人は非常に道徳観が強い。その上、正義感も強い。ほかの生き物の性格を変えて、自分たちと同じ道徳観を持たせることに大きな喜びをおぼえる。当然、ほかのウィルフ仲間の性格を変えるのは難しい――みんな、もともと道徳観が強いからね。だから、ほかの異星人に近づいて、非常に知的なやりかたで絆を結ぶんだろう」
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 この「ウィルフ」の定義、「家庭の天使」に代表される、西洋近代の女性像に当てはまる。「家庭の天使」とは、ヴィクトリア朝の中・上流階級における主婦の理想像であり、彼女たちの役割は夫と息子に自己犠牲的に献身し、また次世代の「家庭の天使」(娘)を再生産することだ。
 といっても、こうした階級の主婦は家事も子育ても子供の教育もすべて他人任せにするのが理想とされたから、夫と息子への献身とは彼らに慰安を与えること、そして「道徳的・精神的に導く」ことである(後者は「家庭の天使の再生産」にも適用される)。
「道徳的・精神的に導く」とは具体的には、家庭内のモラルを監督することだったらしいが、女性にそれが可能とされたのは、「女には性欲がないから、男より道徳的に優れている」というものだった。
「家庭の天使」という名称は英国のものだが、他のヨーロッパ諸国や米国でも、似たり寄ったりの理想の女性像が形成されていた。
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 さて、「ウィルフ」とは「ばか、まぬけ」を意味する俗語である。このことが如実に示すように、ウィルフとは上記のような女性像のパロディである。
(なお、wilfは手持ちの英和辞典に載っていない上に、ググってもこの意味でのヒット件数は少ない。この作品が出た1990年代の米国でも、あまり使われない語だったかもしれない) 
 トムの「押しかけ師匠」は、ルーシーをウィルフだと誤認すると、こう叫ぶ。
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「おまえ、そのウィルフに苦しんでいるのか!(中略)わしが救ってやる」
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 要するにウィルフ(ルーシー)を排除してやろうというのだ。しかしトムは次のように主張する。
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「昔のぼくなら標的を前にすれば、ためらわないで分解器(暗殺者の武器のこと)を使ったでしょう。きっと、大いに楽しんだと思います。でも、ウィルフの感化でぼくは変わりました。今のぼくのほうが……そのう……昔のぼくよりも、はるかにましです」
(中略)
「ぼくが標的に狙いをつければ、ウィルフは当然、ぼくの分解器の前へ身を投げだすはずです」
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 最後の台詞は、トムに罪を犯させないために、ウィルフが我が身を犠牲にするはずだ、という意味である。師匠はトムの不甲斐なさに憤懣やるかたなくも、諦めるしかない。
 トムに上述のウィルフの定義を教えてもらったルーシーは、憤然として述べる。
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「あたしは道徳観も正義感も弱い女よ。でも、あなたはそれでもいいんでしょう? “そうだ”と答えたほうが身のためよ」
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 西洋文化における「男性を道徳的・精神的に導く女性」像には、幾つかのタイプがある。「家庭の天使」のような「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」の原型は、中世後期(12、13世紀)の貴婦人崇拝、『神曲』(14世紀初頭)のベアトリーチェ、『デカメロン』(14世紀半ば)のグリゼルダ辺りか。
 このうちグリゼルダは貴族の奥方とはいえ、元は貧しい村娘で、ひたすらの敬虔と貞節と自己犠牲によって横暴な夫を改心させる。
 時代はずっと下って1740年、リチャードソンの『パミラ』は女中のヒロインがその高潔さによって、不道徳な主人を改心させ、最後に2人は結ばれる。彼女のモラルはキリスト教的というよりは市民的である。
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 まあなんにせよ、「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」像は、それが逍遥されたのと同じ時代にすでに揶揄・パロディの対象となっていた。「小市民的道徳によって男の野性を矯めて殺してしまう女」である。
 言い換えれば「尻に敷く」タイプなわけだが、クサンティッペを典型とする「男の才能を理解せず、瑣末な俗事(=食っていくための仕事など)に縛りつけようとする」悪妻とか、中世のフォークロアにあるような、小言ばかりか暴力にまで訴えて夫を虐待する悪妻とはまた違う。
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 子供の頃から翻訳ものばかり読んできたが、児童文学を含め欧米の小説には、この「男に小市民的道徳を押し付ける女」が少なからず登場するように思う。男に「お行儀よくしなさい」と言う女だ。
 児童文学に多いのは、「少年の母親代わりのオールドミス」である。『トム・ソーヤーの冒険』(1876)のポリー伯母さんが典型だろう。主人公の少年に勉強と礼儀作法と家の手伝いと信心を押し付け、「冒険」を邪魔立てする存在だ。『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)でハックの養母となったオールドミスもこのタイプである。
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 このタイプの「オールドミス」(念のために言うと、敢えてこの語を使っているのである)が登場するのは、児童文学だけではない。このタイプを繰り返し作品に登場させたサキ(1870-1916)は彼自身、母親を早く亡くしてこのタイプの叔母に育てられた(そして深く根に持っていた)そうなので、未婚女性が多かったヴィクトリア朝(および老いた彼女たちが生き残っていた20世紀前半)には、このタイプのオールドミスが実際にいたのは確かだが、サキと同じような身の上でもない作家たちまでがこうした役柄を、それを本来果たすべき母親ではなく未婚の年配女性に押し付けたのは、一言で言えば都合がよかったからだろう。  
 つまり、少年の「冒険」を邪魔立てする小うるさい女、という役柄を実の母親に与えてしまうと、「家庭の天使」像の根幹を成す母性のイデオロギーに抵触する。元から軽んじられ揶揄されてきたオールドミスなら無問題、というわけだ。
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「母」ではなく「妻」なら作家にも躊躇いはなく、海外児童文学も含めて、「英雄」(的な活躍をした男性主人公)が、意中の女性を射止めて結婚するが、彼女に「躾けられ」てすっかりお行儀よくおとなしくなって「しまい」、良き夫・良き父として「家庭に収まってしまう」、というオチを幾つも読んだ覚えがある。タイトルも物語自体も一つとして思い出せないが。
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「ウィルフ」すなわち「小市民的道徳によって男を矮小化する女」という隠然たるステレオタイプの存在に気づいたのは、『こちら異星人対策局』を読むさらに数ヵ月前、一昨年のいつかだったかに読んだ、ゾラの「スルディス夫人」(1880年。光文社古典新訳文庫『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家」所収)によってである。
 ネタバレ注意。
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 非凡な才能を持つ画家が、妻の経済的な支えお蔭で描き続けることにより、名声を得る。しかし成功したせいで、かえって才能は枯渇し始める。創造性はないものの優れた技術を持つ妻は、夫の絵を手伝うようになる。夫の名声が上がるのと比例して、妻の「手伝い」の比重は上がっていき、夫が描くのは下絵だけ、スケッチだけとなり、ついには妻がゼロから描いた絵にサインをするだけになる。そして酒に溺れる。
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 夫の「才能」はインスピレーション(息/精神を霊的存在によって吹き込まれること)で、妻の「才能」は小手先の技術(必要なのは「精神」ではなく肉体のみ)とする辺り、ゾラのジェンダー観は実に解りやすいが、単なる価値観の問題に留まらない。この夫妻には、モデルがいるんだそうな。
 国語の教科書の「最後の授業」でお馴染みのアルフォンス・ドーデとその妻である。「スルディス夫人」の巻末解説によると、ドーデの作品が妻ジュリアとの共同執筆であることは「公然の秘密」だったそうだ。
「公然の秘密」という表現だけでも、「妻との共同執筆」が世間でどう思われていたかを窺わせる。Wikiによるとドーデ自身はジュリアの文学的才能を高く評価しており、1888年には彼女を中傷した新聞の主幹と決闘している。
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「スルディス夫人」のモデルがドーデ夫妻だと確定しているわけではないが、ゾラが同作品をドーデの死後の1900年までフランス国内で発表しなかったことは有力な根拠の一つだ。1894年のドレフュス事件で、ゾラがドレフュスの無罪を主張したのに対し、ドーデは反ドレフュス派となって反目したそうだが、少なくともジェンダーに関しては、ゾラは当時の価値観から一歩も踏み出すことができなかったわけだ。
 それは抜きにしても、友人とその愛妻をモデルにこういう話を書くのは人としてどうなの、と思う。1886年の『制作』でも、少年時代からの友人だったセザンヌをモデルとした主人公に悲惨な人生を送らせて本人を怒らせてるしな。
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 少々話が逸れた。「凡人」(小市民)には理解できない「高尚」な夫の才能を、凡人に理解できるレベルに「矯正」する、具体的には「小市民」の客間に飾れる「お行儀のよい」絵に変えてしまう妻の物語である「スルディス夫人」を読んだことで、「小市民的道徳によって男を矮小化する女」というステレオタイプの存在に気づいた数ヵ月後、「ウィルフ」というガジェットによって、さらに明確に意識するようになったのであった。
 意識はするようにはなったが、このステレオタイプが登場する作品を幾つも読んだ覚えはあっても、ほとんどのタイトルが思い出せないので調べようがない。そもそも「ウィルフ」と名付けられたのも、このステレオタイプに名前がないからだ。
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 日本の場合はどうだろ。母性のイデオロギーに疑義が呈されるようになれば、「抑圧的な母親」像も描かれるようになる。それは日本でも変わらない。文学、漫画、映像作品を問わず、母子の泥沼の確執を描いた作品は、私が思いあたるものだけでもそれこそ無数だ。
 同時にまた母性のイデオロギーは未だ健在だから、特に子供向け作品ではヒーロー(少年・青年)の母親は、冒険の「障害物」となる前に存在を抹消される。『ONE PIECE』はその典型で、作者自ら「冒険の対義語は母親」と明言している。
「妻」も同じく「冒険」の障害物として認識しているのだろう。主要なキャラクターには30代以上の男性も大勢いるが、彼らの多くは独身または配偶者の有無不明である。
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 しかし妻または恋人として「小市民的道徳を押し付けて男を矮小化する女」を描いた作品って、日本にあるのかなあ。いや、私が知らんだけで、ないってことはないんだろうけど、少なくとも欧米ほどは隠然たるステレオタイプを形成してないのは確かだ。
 現実においてなら、男が女をそういうふうに見做すことがあるのは確実なんだけどね。
 大学ではある男子に彼女ができてしばらくすると、その友人(男子)たちが「あいつはすごくおもしろい奴だったのに、良識的でつまらない奴になった」と、それがその彼女の「教化」によるものだとして寄ってたかって彼女の陰口を言うというケースに何度か遭遇したものである。いやあ実にホモソーシャルな情景ですな。そういうのを題材にした作品て、ありそうなんだけどなあ。御存知の方がおられましたら、是非とも御教示ください。
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「男性を道徳的・精神的に導く女性」像なら、それなりに作品数があると思う。この女性像には幾つかタイプがあるが、特に「女の自己犠牲」と結びついたものは好まれてるだろう。
 ちなみに『ミザリー』のアニーはこの女性像のホラー版だが(最後に殺されるのも「自己犠牲」だと言えなくもない)、そのオマージュとされる『ジョジョ』第4部の山岸由花子も、単なるストーカーに留まらず、康一の「精神的な成長」(文字どおりの意味でも、精神の力であるスタンドのパワーアップという意味でも、学力向上という意味でも)を「導く」役割をきっちりこなしている。あ、ネタバレでしたね。
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 というわけで、せっかく「名前のないもの」に名前を付けたというのに、一発ネタで終わらせてその後の展開がまったくないことも含めて、『こちら異星人対策局』は残念な作品なのでした。
 いや、実はこの「ウィルフ」が表わす女性像は、オリエンタリズムと関わりがあるんですよ。で、オリエンタリズムは一昨年から呻吟している作品と関わりがあるわけです。しかし「ウィルフ」と執筆中の作品とでは、直接の関わりはないので、一年ほどかけて、折を見てちょっとずつ調べてきて、とりあえずどうにか考えをまとめられるだけの知識を集められたわけです。
 無関係なことにかまけて執筆をさぼってたのではないですよ、という話。いやほんとに。
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 というわけで、次回に続く。

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文字の文化と探偵小説

 少し前に、オングの『声の文化と文字の文化』(藤原書店 原著は1982年)に触発されて、あれこれ雑感を書いた。
 それらとは直接繋がりはないんだが、今回も「文字の文化」についての雑感(たぶん最後)。
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 偶々、『声の文化と文字の文化』のすぐ後に、『日本探偵小説を知る――150年の愉悦』を読んだ。日本のミステリ史をテーマとする論考集で、著者の一人、押野武志先生からいただいた御本である。
 ミステリ史にはまったく疎いので、それだけで興味深い内容だったのだが、『声の文化と文字の文化』とどう関係するのかというと、同書では第6章をまるまる使って「探偵小説」(偶々この本でもミステリとか推理小説とかではなく「探偵小説」という訳語を使っている)について論じているのだ。
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 オングは探偵小説を「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を持つ物語の「完成形態」であると定義する。彼によれば探偵小説には、「倦むことなく高まる緊張、巧妙にきっちりと仕組まれた発見、逆転、そして完全な解決に達する大団円がある」。
 では探偵小説が登場する以前の物語がどんなものだったかと言えば、「挿話の寄せ集め」であり、これは識字率の低い文化における物語の特徴である。
 予め書き留められたのでない「物語」が短い挿話の寄せ集めになるのは当然のことで、書き留めもせずに「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を練り上げるのは不可能だし、「聴衆」のほうも張り巡らせられた伏線のすべてを憶えておくのは不可能だろう。
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 探偵小説が成立する遥か以前、すでにギリシア悲劇は「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を持っていたが、これは戯曲というのが書かれたテキストであるからだ。
 ギリシア悲劇から探偵小説まで、文字の文化が浸透するのにここまで時間がかかったわけだが、せっかく完成した「文字の文化特有の物語」はこの数十年の間に、そのあまりにきっちりと組み立てられたプロットゆえに「安易」だと見做されるようになった、とオングは述べる。
 そのため「今や前衛文学は物語のプロットを取り払うか、それを曖昧にすることを義務としている。しかしそうした話は、かつての挿話を寄せ集めた物語ではない。それらの話は、それらに先立つプロットのある話を印象主義的に変奏したものなのである」。
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「安易」とは具体的にどういうことなのか、オングは説明していないが、別のところで、実生活の経験は「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」よりも「挿話の寄せ集め」に似ている、と述べている。
 かつて私は、「現実にクライマックスはない。物語とは現実から適当な要素を切り取ってきて作り出されたものだ」というようなことを述べた(『ミカイールの階梯』後書き)。当時はオングの著書の存在も知らなかったのではあるが。
 私自身のこの見解と考え併せて、オングの言う「安易」とは「合目的に作り込まれ過ぎて不自然」だということだと解する。
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 この解釈は、すぐ後に読んだ『日本探偵小説を知る』によって補強された。前述のとおり、ミステリ史には疎いので、ミステリが早くも1890年代から「リアリティがない」「人間が描けていない」といった批判を受け続けてきたことや、ミステリにおいては一つの殺人の価値が最大限に高められているという見解などは、この本で初めて知ったことである。
 もっとも後者については、もう十数年前のことだが、読売新聞だったかの小説家養成講座で、講師の小説家(名前は忘れてしまいました)が述べたことが思い出された。「小説の中では人が偶然死ぬことはない」。現実には人は「偶然」死ぬ。しかし小説のキャラクターを「偶然」死なせると、「安易」だと非難される、と。
 キャラクターが死ぬには理由がなくてはならない。その理由の必要性を最大限まで高めたのが、ミステリだということになるのだろう。
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  「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」の完成形としての探偵小説について述べた第6章に続く第7章で、オングは「人間を描く」ことについて紙幅を割いている。
  探偵小説と同じく、文字文化が浸透しなければ成立しなかったのが「立体的」な人物造型である、とオングは述べる。「立体的」とはつまり「内面」を持ったキャラクターということだが、それに対して前近代的な物語のキャラクターは「平面的」で、「内面」を持たないかのように見える。
 しかしオングによれば、自分の「内面」を見つめる、すなわち内省という行為は、書くことを前提としている。内省と読み書きは直接には結びつかないように思えるが、オングが同書の別のところで引用している、アレクサンドル・ルリアが1930年代初めに行った調査によれば、読み書きがまったく、もしくはほとんどできない人々は自己分析というものができない。
「あなたはどのような性格ですか」という質問に答えていわく、 「自分で自分の心はこうだなんて言えないよ。自分の性格はこうだなんて人に話せると思うかね。ほかの人に訊いてくれよ。連中なら、俺のことをあんたにいろいろと話せるだろうから。自分からは何も言えないよ」
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 分析的な思考というのは読み書き能力を前提として初めて身に着くものなので、自己分析すなわち内省も当然ながら……というわけだ。
 文字文化の発展によって人間が自己の「内面」を発見したことで、すべての人間には「内面」があるということになり、物語のキャラクターにも「内面」がある、すなわち「立体的」であることが求められるようになる。 「立体的」なキャラクターについてオングは、「深い内面的な動機を持ち謎めいてはいるが、しかし一貫した仕方で内面から動かされているような」キャラクターである、と説明している。
 つまり文字文化の発展によって、「一貫性のあるプロット」と「一貫性のある人物像」は同時に発展してきたことになる。
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 しかしオングは特に言及はしていないが、「内面」の有無はともかく、人間に「一貫性がある」というのも、現実の経験に「一貫性のあるプロット」が存在しないのと同様に、ある種の幻想である。
 近年の心理学実験によると、人間は自分が「一貫性がある」と見做されることを望んでいる。だから「一貫性がない」と見做した他人を非難し、フィクションのキャラクターにも「一貫性」を求める。しかし脳科学の知見によれば、意思決定とは理性ではなく、その時々の気分に基づいており、またある程度はランダムですらある。
 識字率の低い文化において、人間の「一貫性」がどのように評価されていた(いる)のかは寡聞にして知らないが、少なくとも人間の言動を文字で記録できるようになったことが「一貫性」の価値を高めているのは確かだろう。
 したがって、ミステリを「人間が描けていない」、つまり「一貫性のある内面を持つ人間」が描けていない、と批判するのは、文字文化の発展がなければ成立しなかった二つの幻想のうち、一方が他方を批判しているということであり、実に興味深い現象である。
 ミステリ好きだったナボコフが、『ロリータ』の中で、人間には一貫性があると見做すのは幻想だと指摘しているのも、また興味深い。そういえば、人によってはロリータの失踪にミステリ要素を見出すようですね。私は他人のレビューで見かけるまで、そういう見方にはまったく気が付きませんでしたが。
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 ところで私はミステリではアガサ・クリスティが一番好きなのだが、彼女の作品群は  「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」の完成形としての探偵小説の完成形であると言えよう。このある意味究極の「人工的な物語」を彼女が完成させたのが、両大戦間という人工性の高い時代だったのは偶然ではあるまい。
 クリスティは第二次大戦後も活躍しているが、シリーズの主人公たちが老いていくのにしたがって「時代遅れ感」が色濃くなっていくことを(おそらくは)敢えて隠そうとはしていないし、実際のところポアロとミス・マープルの「完結編」が執筆された、つまりクリスティ自ら「探偵小説」に引導を渡したのは第二次大戦中という「一貫性のある現実」という幻想が崩壊した時代である。
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