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すばらしきウィルフ

『ハヤカワ文庫SF総解説2000』の刊行(2015年)以来、未読のSFの山脈から、おもしろそうなものをチェックしては片っ端から読んでいる。
 80年代半ばにジュヴナイルSFを卒業して、早川や東京創元に「進学」したものの、数年で「冬の時代」が来てSFから離れてしまい、ブランクは10年に及ぶ。SF作家のくせにSFを充分読んでいるとは言えなかった私だが、お蔭でようやくそのブランクを埋めつつある。.

 古典的傑作として名前だけは知っていたが読んでいなかった作品、名前も知らなかった埋もれた傑作、そこまで行かずとも、忘れられているのが惜しい佳作・良作にたくさん出会うことができた(まだリストは長いので、今後も出会えるであろう)。
 明らかな外れには、一度も当たっていない。執筆者諸氏が限られた字数で、的確に解説をされておられることの証左であろう(私が担当した4本もそうだといいんだが)。客観的な出来の良し悪しだけでなく、単に好みじゃなかった、ということも今のところない。
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 とはいえ、「ここをこうすれば、もっとおもしろくなっただろうに」という、残念な作品にはそれなりに当たっている。「ここをこうすれば」というのが解りやすいものばかりなので、それはそれで勉強になるから、「残念な読書」だったということにはならない。
. そういう作品の一つが、ゴードン・R・ディクスンの『こちら異星人対策局』(1998年 原書THE MAGNIFICENT WILFは1995)である。もう1年くらい前になるかな。大好きな『地球人のお荷物』(解説を担当させていただいた)の作者の片割れだし、ファンタジーの『ドラゴンになった青年』も結構おもしろかったので、読んでみた。
 中村融氏の解説に「職人技の娯楽作といったところか」とあるとおり、ベテランが力を抜いて書いた感じの軽いコメディである。残念ながら「軽妙洒脱」の域にまで達していないのは、おもしろくなりそうなアイデアを幾つも出しながら活かしきれていないのが主因であろう。
 以下、ネタバレ注意。
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 各章は短く、番号が振ってあるだけでタイトルはない。しかし幾つかの章がまとまって1つのショートストーリー(事件とその解決)をなしており、長篇というよりは連作短篇の体だ。
 その「第1話」では、主人公の若い夫婦の飼い犬が送信型のテレパシスト(自分の思考を相手に伝えることはできるが、相手の思考は読めない)になってしまう。「第1話」ではたいへんなドタバタを引き起こすのだが、「第2話」以降、この設定はまったく活かされない。第1話でこの犬が可愛いだけに残念である。
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 こういった「おもしろくなりそうなのに活かされていないアイデア」の一つが、「ウィルフ」である。なお本記事タイトルは、上述した原題THE MAGNIFICENT WILFに拠る。
 ある事件で主人公のトムは、異星人の暗殺者に無理やり弟子にされる。その暗殺者が、トムの妻ルーシーを、「ウィルフ」と勘違いする。トムはその勘違いを利用して、命じられた暗殺をせずに済ませる。ルーシーは「ウィルフ」がなんなのか知らないが(トムは知っている)、話を合わせる。
 一件落着後、ルーシーはトムに、ウィルフとは何かを尋ねる。
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 トムの口調は鈍くなった。「ウィルフは地球人の女性に似た姿をしてる。ともかく、異星人にはそう見えるらしい。でも、地球人とは全然ちがう種族だ。性別もない。宇宙のあちこちで、ほかの種族を慕ってつきまとう。いったん親しくなった相手には、とことんまで尽くす」
(中略)
「ウィルフ人は非常に道徳観が強い。その上、正義感も強い。ほかの生き物の性格を変えて、自分たちと同じ道徳観を持たせることに大きな喜びをおぼえる。当然、ほかのウィルフ仲間の性格を変えるのは難しい――みんな、もともと道徳観が強いからね。だから、ほかの異星人に近づいて、非常に知的なやりかたで絆を結ぶんだろう」
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 この「ウィルフ」の定義、「家庭の天使」に代表される、西洋近代の女性像に当てはまる。「家庭の天使」とは、ヴィクトリア朝の中・上流階級における主婦の理想像であり、彼女たちの役割は夫と息子に自己犠牲的に献身し、また次世代の「家庭の天使」(娘)を再生産することだ。
 といっても、こうした階級の主婦は家事も子育ても子供の教育もすべて他人任せにするのが理想とされたから、夫と息子への献身とは彼らに慰安を与えること、そして「道徳的・精神的に導く」ことである(後者は「家庭の天使の再生産」にも適用される)。
「道徳的・精神的に導く」とは具体的には、家庭内のモラルを監督することだったらしいが、女性にそれが可能とされたのは、「女には性欲がないから、男より道徳的に優れている」というものだった。
「家庭の天使」という名称は英国のものだが、他のヨーロッパ諸国や米国でも、似たり寄ったりの理想の女性像が形成されていた。
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 さて、「ウィルフ」とは「ばか、まぬけ」を意味する俗語である。このことが如実に示すように、ウィルフとは上記のような女性像のパロディである。
(なお、wilfは手持ちの英和辞典に載っていない上に、ググってもこの意味でのヒット件数は少ない。この作品が出た1990年代の米国でも、あまり使われない語だったかもしれない) 
 トムの「押しかけ師匠」は、ルーシーをウィルフだと誤認すると、こう叫ぶ。
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「おまえ、そのウィルフに苦しんでいるのか!(中略)わしが救ってやる」
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 要するにウィルフ(ルーシー)を排除してやろうというのだ。しかしトムは次のように主張する。
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「昔のぼくなら標的を前にすれば、ためらわないで分解器(暗殺者の武器のこと)を使ったでしょう。きっと、大いに楽しんだと思います。でも、ウィルフの感化でぼくは変わりました。今のぼくのほうが……そのう……昔のぼくよりも、はるかにましです」
(中略)
「ぼくが標的に狙いをつければ、ウィルフは当然、ぼくの分解器の前へ身を投げだすはずです」
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 最後の台詞は、トムに罪を犯させないために、ウィルフが我が身を犠牲にするはずだ、という意味である。師匠はトムの不甲斐なさに憤懣やるかたなくも、諦めるしかない。
 トムに上述のウィルフの定義を教えてもらったルーシーは、憤然として述べる。
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「あたしは道徳観も正義感も弱い女よ。でも、あなたはそれでもいいんでしょう? “そうだ”と答えたほうが身のためよ」
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 西洋文化における「男性を道徳的・精神的に導く女性」像には、幾つかのタイプがある。「家庭の天使」のような「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」の原型は、中世後期(12、13世紀)の貴婦人崇拝、『神曲』(14世紀初頭)のベアトリーチェ、『デカメロン』(14世紀半ば)のグリゼルダ辺りか。
 このうちグリゼルダは貴族の奥方とはいえ、元は貧しい村娘で、ひたすらの敬虔と貞節と自己犠牲によって横暴な夫を改心させる。
 時代はずっと下って1740年、リチャードソンの『パミラ』は女中のヒロインがその高潔さによって、不道徳な主人を改心させ、最後に2人は結ばれる。彼女のモラルはキリスト教的というよりは市民的である。
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 まあなんにせよ、「自ら規範を示すことによって男性を導く有徳の女性」像は、それが逍遥されたのと同じ時代にすでに揶揄・パロディの対象となっていた。「小市民的道徳によって男の野性を矯めて殺してしまう女」である。
 言い換えれば「尻に敷く」タイプなわけだが、クサンティッペを典型とする「男の才能を理解せず、瑣末な俗事(=食っていくための仕事など)に縛りつけようとする」悪妻とか、中世のフォークロアにあるような、小言ばかりか暴力にまで訴えて夫を虐待する悪妻とはまた違う。
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 子供の頃から翻訳ものばかり読んできたが、児童文学を含め欧米の小説には、この「男に小市民的道徳を押し付ける女」が少なからず登場するように思う。男に「お行儀よくしなさい」と言う女だ。
 児童文学に多いのは、「少年の母親代わりのオールドミス」である。『トム・ソーヤーの冒険』(1876)のポリー伯母さんが典型だろう。主人公の少年に勉強と礼儀作法と家の手伝いと信心を押し付け、「冒険」を邪魔立てする存在だ。『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)でハックの養母となったオールドミスもこのタイプである。
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 このタイプの「オールドミス」(念のために言うと、敢えてこの語を使っているのである)が登場するのは、児童文学だけではない。このタイプを繰り返し作品に登場させたサキ(1870-1916)は彼自身、母親を早く亡くしてこのタイプの叔母に育てられた(そして深く根に持っていた)そうなので、未婚女性が多かったヴィクトリア朝(および老いた彼女たちが生き残っていた20世紀前半)には、このタイプのオールドミスが実際にいたのは確かだが、サキと同じような身の上でもない作家たちまでがこうした役柄を、それを本来果たすべき母親ではなく未婚の年配女性に押し付けたのは、一言で言えば都合がよかったからだろう。  
 つまり、少年の「冒険」を邪魔立てする小うるさい女、という役柄を実の母親に与えてしまうと、「家庭の天使」像の根幹を成す母性のイデオロギーに抵触する。元から軽んじられ揶揄されてきたオールドミスなら無問題、というわけだ。
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「母」ではなく「妻」なら作家にも躊躇いはなく、海外児童文学も含めて、「英雄」(的な活躍をした男性主人公)が、意中の女性を射止めて結婚するが、彼女に「躾けられ」てすっかりお行儀よくおとなしくなって「しまい」、良き夫・良き父として「家庭に収まってしまう」、というオチを幾つも読んだ覚えがある。タイトルも物語自体も一つとして思い出せないが。
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「ウィルフ」すなわち「小市民的道徳によって男を矮小化する女」という隠然たるステレオタイプの存在に気づいたのは、『こちら異星人対策局』を読むさらに数ヵ月前、一昨年のいつかだったかに読んだ、ゾラの「スルディス夫人」(1880年。光文社古典新訳文庫『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家」所収)によってである。
 ネタバレ注意。
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 非凡な才能を持つ画家が、妻の経済的な支えお蔭で描き続けることにより、名声を得る。しかし成功したせいで、かえって才能は枯渇し始める。創造性はないものの優れた技術を持つ妻は、夫の絵を手伝うようになる。夫の名声が上がるのと比例して、妻の「手伝い」の比重は上がっていき、夫が描くのは下絵だけ、スケッチだけとなり、ついには妻がゼロから描いた絵にサインをするだけになる。そして酒に溺れる。
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 夫の「才能」はインスピレーション(息/精神を霊的存在によって吹き込まれること)で、妻の「才能」は小手先の技術(必要なのは「精神」ではなく肉体のみ)とする辺り、ゾラのジェンダー観は実に解りやすいが、単なる価値観の問題に留まらない。この夫妻には、モデルがいるんだそうな。
 国語の教科書の「最後の授業」でお馴染みのアルフォンス・ドーデとその妻である。「スルディス夫人」の巻末解説によると、ドーデの作品が妻ジュリアとの共同執筆であることは「公然の秘密」だったそうだ。
「公然の秘密」という表現だけでも、「妻との共同執筆」が世間でどう思われていたかを窺わせる。Wikiによるとドーデ自身はジュリアの文学的才能を高く評価しており、1888年には彼女を中傷した新聞の主幹と決闘している。
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「スルディス夫人」のモデルがドーデ夫妻だと確定しているわけではないが、ゾラが同作品をドーデの死後の1900年までフランス国内で発表しなかったことは有力な根拠の一つだ。1894年のドレフュス事件で、ゾラがドレフュスの無罪を主張したのに対し、ドーデは反ドレフュス派となって反目したそうだが、少なくともジェンダーに関しては、ゾラは当時の価値観から一歩も踏み出すことができなかったわけだ。
 それは抜きにしても、友人とその愛妻をモデルにこういう話を書くのは人としてどうなの、と思う。1886年の『制作』でも、少年時代からの友人だったセザンヌをモデルとした主人公に悲惨な人生を送らせて本人を怒らせてるしな。
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 少々話が逸れた。「凡人」(小市民)には理解できない「高尚」な夫の才能を、凡人に理解できるレベルに「矯正」する、具体的には「小市民」の客間に飾れる「お行儀のよい」絵に変えてしまう妻の物語である「スルディス夫人」を読んだことで、「小市民的道徳によって男を矮小化する女」というステレオタイプの存在に気づいた数ヵ月後、「ウィルフ」というガジェットによって、さらに明確に意識するようになったのであった。
 意識はするようにはなったが、このステレオタイプが登場する作品を幾つも読んだ覚えはあっても、ほとんどのタイトルが思い出せないので調べようがない。そもそも「ウィルフ」と名付けられたのも、このステレオタイプに名前がないからだ。
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 日本の場合はどうだろ。母性のイデオロギーに疑義が呈されるようになれば、「抑圧的な母親」像も描かれるようになる。それは日本でも変わらない。文学、漫画、映像作品を問わず、母子の泥沼の確執を描いた作品は、私が思いあたるものだけでもそれこそ無数だ。
 同時にまた母性のイデオロギーは未だ健在だから、特に子供向け作品ではヒーロー(少年・青年)の母親は、冒険の「障害物」となる前に存在を抹消される。『ONE PIECE』はその典型で、作者自ら「冒険の対義語は母親」と明言している。
「妻」も同じく「冒険」の障害物として認識しているのだろう。主要なキャラクターには30代以上の男性も大勢いるが、彼らの多くは独身または配偶者の有無不明である。
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 しかし妻または恋人として「小市民的道徳を押し付けて男を矮小化する女」を描いた作品って、日本にあるのかなあ。いや、私が知らんだけで、ないってことはないんだろうけど、少なくとも欧米ほどは隠然たるステレオタイプを形成してないのは確かだ。
 現実においてなら、男が女をそういうふうに見做すことがあるのは確実なんだけどね。
 大学ではある男子に彼女ができてしばらくすると、その友人(男子)たちが「あいつはすごくおもしろい奴だったのに、良識的でつまらない奴になった」と、それがその彼女の「教化」によるものだとして寄ってたかって彼女の陰口を言うというケースに何度か遭遇したものである。いやあ実にホモソーシャルな情景ですな。そういうのを題材にした作品て、ありそうなんだけどなあ。御存知の方がおられましたら、是非とも御教示ください。
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「男性を道徳的・精神的に導く女性」像なら、それなりに作品数があると思う。この女性像には幾つかタイプがあるが、特に「女の自己犠牲」と結びついたものは好まれてるだろう。
 ちなみに『ミザリー』のアニーはこの女性像のホラー版だが(最後に殺されるのも「自己犠牲」だと言えなくもない)、そのオマージュとされる『ジョジョ』第4部の山岸由花子も、単なるストーカーに留まらず、康一の「精神的な成長」(文字どおりの意味でも、精神の力であるスタンドのパワーアップという意味でも、学力向上という意味でも)を「導く」役割をきっちりこなしている。あ、ネタバレでしたね。
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 というわけで、せっかく「名前のないもの」に名前を付けたというのに、一発ネタで終わらせてその後の展開がまったくないことも含めて、『こちら異星人対策局』は残念な作品なのでした。
 いや、実はこの「ウィルフ」が表わす女性像は、オリエンタリズムと関わりがあるんですよ。で、オリエンタリズムは一昨年から呻吟している作品と関わりがあるわけです。しかし「ウィルフ」と執筆中の作品とでは、直接の関わりはないので、一年ほどかけて、折を見てちょっとずつ調べてきて、とりあえずどうにか考えをまとめられるだけの知識を集められたわけです。
 無関係なことにかまけて執筆をさぼってたのではないですよ、という話。いやほんとに。
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 というわけで、次回に続く。

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