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「自然」と「文明」の性別は

 いちおう前の記事からの続きですが、読んでなくてもいいですよ。

 帝国主義的なジェンダー観としてしばしば槍玉に挙げられるのが、「男は文明/文化、女は自然/野性」という二元論である。文明が自然/野性を征服するように、女は男に征服され、開拓されなくてはならない、という理屈だ。

 てゆうか、この二元論は未だに時々聞く。言ってる人は女性賛美のつもりらしいが(この価値観の「逆転」については後述)。まあとにかく本来の意味では、男は文明/文化が自然/野性より優れていると思っているから、自らを文明/文化としたのである。
 しかし現在まで生き残っている、これとは真逆の二元論がある。すなわち「男は自然/野性、女は文明/文化」である。

 中世~近世のヨーロッパにおいて、文化的であること(洗練されていること)のバロメーターは礼儀作法(エチケット、マナー)だった。騎士道の貴婦人崇拝は、騎士が貴婦人に相応しい存在になるべく己を高める、というのが基本だが、「高める」というのは単に武勲を上げることではなかった。信心に励み、高潔に振る舞い、彼女を讃える詩を大量に詠み、礼儀作法を磨く。
 こうした研鑽は騎士が自力で行うもので、貴婦人は一切手出し口出しすることなく、結果だけを評価するのだが、これも「男性を精神的・道徳的に導く女性」像の一つである。

 貴婦人崇拝という観念が成立したのは、中世後期(12、13世紀)である。実態がどんなものだったかはともかくとして、その観念は文学によって後世に伝えられ、永く影響力を保った。
 それにより、礼儀作法とは「貴婦人の前で恥ずかしくない振る舞い」とほぼ同義となり、また貴婦人は詩や音楽など芸術の審判者となった。
 貴婦人を中心とするこのような「洗練された文化」が逸早く成立したのがフランスで、17世紀初頭には、貴婦人によって「サロン」が主催されるようになる。同時期に書かれた『信仰生活への手引き』という書物では、社交生活において粗暴な男性に洗練された趣味を教えることは女性の義務でありキリスト教の理念にも合致する、と述べられているという。 .

 こうした女性主導の「サロン文化」は「洗練された文化」そのものとして、他のヨーロッパ諸国の憧れの的となった。各国の上流階級はこぞってサロン文化を採り入れた。彼らはサロン文化を「女性的文化」と見做したが、そこに否定的な意味はまったくなかった。「女性的文化」=「洗練された文化」だったのである。
 ところが本場フランスでは、早くも17世紀半ばから、サロンで活動する「プレシューズ」(才女)たちを批判・風刺する男たちが現れた。モリエールはその一人で、「滑稽なプレシューズたち」(邦訳タイトルは「才女気取り」など)という戯曲を書いて揶揄した。

 1世紀後には、「女性的文化亡国論」が盛んに唱えられるようになる。筆頭はモンテスキューで、『法の精神』(1748年)では女性的文化の特徴は奢侈、虚栄、優柔などであり文明を衰退させると述べる。
 これに対し、文明を発展させることになるのはもちろん「男性的文化」ということになるのだが、具体的にどのような文化が想定されていたのか、私が参照した論考では触れられていなかった。まあ「洗練されていない文化」「質実剛健な文化」なのは確かである。

「男は自然/野性、女は文明/文化」という二元論はまだ確立されていないが、文明(都市はその象徴)を悪、自然(農村などの「田舎」も含む)を善とする思想は古代ギリシア・ローマ、旧約・新約聖書にも見られる。
 中世を経てヨーロッパ各地で都市が発達してくると、自然への憧れも復活してくる。モンテーニュは『エセー』(16世紀末)でこの思想をはっきりと打ち出したが、彼はまた「高貴な野蛮人」という概念も生み出した。自然や未開人、田舎といったものへの賛美は、フランス国内で受け継がれ発展し、ルソー(1712-1778)によって完成された。この「先進思想」はもちろん他のヨーロッパ諸国や北米にも伝播した。

 この段階では「野性」は平和と寛容の象徴だったが、やがてロマン主義の時代に入ると、前時代までの理性至上主義への反動から、「野性」の中でもそれまで否定されてきた「蛮性」「獣性」への憧憬も生じる。
 革命とか国民国家とかの熱狂と血生臭さはロマン主義と強く結びついているわけだが、とりあえず芸術分野に話を絞ると、最も端的なのが異教時代のヨーロッパの「復権」だろう。「野蛮な異教徒」として否定してきた古代ヨーロッパ人を、「先祖」として再認識し、誇りを抱くようになったのだ。

 この時代に流行したオリエンタリズム(東洋趣味)の絵画にはオダリスク(後宮の女奴隷)を主題にしたものが多い。オリエンタリズム(東洋蔑視)の図式としてよく引き合いに出されるのが、「西洋=文明、東洋(非西洋)=野蛮」だが、オダリスクたちが象徴するのは、明らかに「野蛮」ではなく「退廃した文明/文化」である。

 自然/野蛮の価値が上がると、シーソーで文明/文化の価値が下がる。とはいえ「男による女の征服」=「文明による野蛮/自然の征服」のメタファーは、帝国主義と非常に相性がいい。そんな中、「男は自然/野蛮、女は文明/文化」という図式はなかなか表に出てこないだろう。

 しかし帝国主義の下、西洋の男たちが「文明による野蛮/自然の征服」と称して非西洋の土地や民族を征服している間、西洋の女たちに負わされた役割は「家庭の天使」として男たちを「精神的・道徳的に導く」ことだった。この「道徳」には礼儀作法、すなわち中世以来の「文化のバロメーター」も含まれる。
 ペリーが日本に向けて出航する準備をしていた1852年、欧米で高まっていた日本への関心を受けて、英国の学者チャールズ・マクファーレンが、当時知られていた日本に関する情報を掻き集めて1冊の本を出した(『日本1852』のタイトルで邦訳あり)。
 マクファーレンは日本女性を優雅で魅力的だと称賛していて、ジャポニズムの走りともなっているが、その前置きとして「一国の女性の品性は、その文明の高さをはかる究極の、そして最も容易な評価基準」と述べているそうである。それが当時の通念だったのだろう。

 自らを文明、征服対象を野蛮と見做す以上、野蛮を賛美するのは矛盾しているが、社会ダーウィニズム(「弱肉強食」やら「生存闘争」やら)のお蔭で、獣性や蛮性の正当化は容易になった。
 また露骨な暴力表現への禁忌も、蛮性の賛美の支障になったと思われるが、この禁忌も時代が下がるにつれて緩和された。「蛮人コナン」の誕生は、1932年である。

 このシリーズにおける「野蛮>文明/文化」の図式は、非常に明快である。しかもコナンは「北方」の民であり、すなわち非西洋人ではなく西洋人の輝かしい祖先であることが暗示される。非西洋的な蛮族は、退廃した文明国と同じく、コナンの征服の対象である。
 蛮人コナンが真の男であるのに対し、文明国の男たちは軟弱だったり邪悪だったりするが、「文明=女」という単純な図式は見いだせない。出てくる美女のほとんどが文明世界に属し、そんな彼女らをコナンはモノにしたり袖にしたりと思うがままなのだが、これを「男=野蛮による女=文明の征服」と解釈するのは、こじつけが過ぎる(そんなつまらん話だったら、ヒロイック・ファンタジーの元祖にして金字塔たりえてないよね)。

 古代ゲルマン賛美といえばナチズムで、自分たちの蛮行も古代ゲルマン人の蛮行になぞらえて正当化したわけだが、一方で近代的な文化、「洗練された文化」はユダヤ人の所産として排除した。で、ユダヤ人は「女性的な人種」と見做されていて、つまり「女性的文化亡国論」ナチズム版なわけだ。
 ちなみにユダヤ人と女性の同一視を確立したオットー・ヴァイニンガー(1880-1903)は、改宗ユダヤ人なんだよな。なんという屈折。

 しかし征服活動を文明の利器に頼っている限りは、「男=文明」の図式を完全に否定することはできない。その点、米国の反知性主義は文明の完全否定が可能だ。文化的なことはすべて、礼儀作法も教養も芸術も「男らしくない」と切り捨てる。
 反知性主義だから、細かい理屈とか考えなくていいし(というか考えてはいけない)、言行に矛盾が出ても気にしなーい。

 とりとめがなくなってきたな。
 戦闘、征服、殺人のメタファーに強姦を持ってくるのは、古今東西ほぼ共通である。そこに文化的・文明的なのは自分たちだけで、異民族はすべて野蛮だとするイデオロギーが加われば、「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は完成する。
 それを露骨に表現したのが古代ギリシアで、彼らの美術や文学には「異民族の征服」の表徴として、「ケンタウロスの征服」と「アマゾネスの征服」という二つの主題がセットで描かれた。
 半人半獣のケンタウロスは、もちろん「野蛮=獣性」の象徴である。これに対しアマゾネスの征服は、単なる強姦の暗喩ではない。アマゾネスは女だけの戦闘民族であり、「男によって支配される秩序正しい社会」への叛逆の象徴であり、忌むべき「野蛮」そのものにほかならない。

 ヨーロッパ帝国主義の「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は、古代ギリシアのものを受け継いだと見ていいだろう。私の知識じゃ、その軌跡を跡付けることはできないんだが。
「我々」以外はみな野蛮、という思想がヨーロッパの専売特許じゃないのは言うまでもないが、たとえば中国にしてもイスラム世界にしても、「男=文化/文明、女=野蛮/自然」の二元論は、ヨーロッパほど明確には現れていない。
 しかし中国、インド、イスラム世界でも、この二元論は共有されていた(それ以外の文明圏ではどうだったのかは知らない)。それを象徴するのが、犬人国と女人国である。

 犬頭人身の怪物もアマゾネスも、古代ギリシアでは辺境に住む蛮族とされたが、これが3、4世紀の「アレクサンドロス大王伝説」以降、しばしば隣接する民族同士、あるいは一方が西の果て、他方が東の果てに住む、というようにセットにされるようになった。
 半人半獣の犬人は、ケンタウロスと同じく野蛮人の獣性の象徴であり、しばしば食人族だとされた。
 イスラム世界の博物誌・地理誌はヘレニズムのものをそのまま踏襲しているが、インドと中国の犬人国・女人国伝説が、独自のものなのか他の文明圏から影響を受けているのかどうかは不明である。しかし意味するものは同じであろう。

 女=自然というメタファーは、古代の地母神信仰ともちろん関係あるが、信仰は消えてメタファーだけ残ったと見るべきだな。

 一方、「男=野蛮/自然、女=文化/文明」について。
 ユダヤ教だと、バビロニアやペルシア、エジプトといった先進文明に対して、自らを沙漠や荒野に投影する傾向があったし、士師の時代まではほとんどの異民族はユダヤより進んだ文化を持っていたから、「異民族(異教徒)=悪=文化/文明」という図式が成り立った。
 さらにサムソンを誘惑して陥れるデリラやソロモンの異教徒の妻たちには、こうした異教の先進文化の「悪」と女を結び付ける思考が窺える。
 新約の『ヨハネ黙示録』ではより明確で、「大淫婦バビロン」はバビロン(イスラエルの民を迫害した邪悪な文明)を邪悪な女になぞらえたものであり、ローマ帝国の寓意だとされる。

 アテネはまさに文化を掌る女神だ。ただし知恵(学問)、芸術・工芸、機織り・糸紡ぎのうち、女性の領分は機織り・糸紡ぎだけで、しかも機織りはまだしも糸紡ぎは芸術性が入る余地のない単純労働である。
 彼女はまた、「男の領分」の真髄と言える「戦争」の女神でもあるが、もう一柱の軍神アレスが狂乱や破壊など戦争の負の側面を掌るのに対し、栄光や戦略など正の側面を掌る。
 アテネはギリシア最強国アテナイの守護神であり、神話の中でも扱いがよいが(後述)、アレスは粗野で残忍な神として嫌われており、それも悪役というよりは、アフロディテとの不倫現場を押さえられて笑いものになるなど、不名誉な扱いである。
 アレスはケンタウロスと同じく、男の獣性や蛮性を象徴しており、ケンタウロスのように征服されたりはしないまでも、理性的なアテネの風下に置かれるべき存在なのだ。
 制御不能の自然の象徴である荒ぶる海神ポセイドンも、アテネとの知恵比べに負けている。

 アテナイの支配層は、ケンタウロスに象徴される「男の野性/獣性」を恐れていた。それは文化/文明を破壊するからだ。だからアテネという「女」を、文化(および理知)の象徴に据えた。
 そうして祀り上げるからには、アテネは並みの女、並みの女神であってはならない。彼女はアテナイ人の「母」である。鍛冶の神ヘパイストス(製鉄は当時の科学の粋)との間に、性交も妊娠も出産もなしでアテナイ人の始祖をもうけた。彼女自身、母の産道からではなく、父ゼウスの頭から生まれている。
 つまり処女にして母であるばかりか出産という「女の穢れ」から完全に切り離されている、聖母マリアの上を行く「超」女なのだ。

 アテネは、男たちを「尻に敷」いたり、その野性/獣性を矯めすぎて「去勢」してしまうことは決してない。彼女は英雄たちを励まし、助言を与え、物理的な援助も行うが、あくまで脇役に徹し、彼らのお株を奪ったりはしない。アイスキュロスは彼女についてこう述べる。
「よろずにつけて男に味方し」「心底から父親側」
 だから彼女は、女が突出することを赦さない。美貌を誇ったメドゥーサを怪物に変え、機織りの才(絵を織り出すので、単なる技術ではなく芸術の才)を誇ったアラクネは打擲し恥辱を与えて自殺に追い込んだ。

「男=野蛮/自然、女=文化/文明」の最も初期の例は、間違いなく『ギルガメシュ叙事詩』である。
 獣人エンキドゥは聖娼シャムハトと7日間性交し、獣としての力を失う代わりに人間の知性を得た。シャムハトはさらにエンキドゥに人間についての知識を与えた。
 エンキドゥとギルガメシュは、森を守護する怪物や聖なる牛を殺す。神々は2人のうち一方を殺すことにし、エンキドゥを選ぶ。死が迫ったエンキドゥは、自分を人間にしたシャムハトを呪う(人間にならなければ、神罰を受けることもなかった)。しかし太陽神シャマシュに、「シャムハトのお蔭で人間になれたから、ギルガメシュと親友になることもできたのだ」と諭され、彼女を赦して死を迎える。

 すでに4000年以上昔、「男を教化し、成長させてくれる女」への希求と、「男を教化し、その野性やら才能やらを矯めてしまう女」への恐怖が、エンキドゥとシャムハトという一組の男女に凝縮されているのである。
 それにしてもエンキドゥは、ずいぶんと人間ができてるなあ。

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