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文字の文化と探偵小説

 少し前に、オングの『声の文化と文字の文化』(藤原書店 原著は1982年)に触発されて、あれこれ雑感を書いた。
 それらとは直接繋がりはないんだが、今回も「文字の文化」についての雑感(たぶん最後)。
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 偶々、『声の文化と文字の文化』のすぐ後に、『日本探偵小説を知る――150年の愉悦』を読んだ。日本のミステリ史をテーマとする論考集で、著者の一人、押野武志先生からいただいた御本である。
 ミステリ史にはまったく疎いので、それだけで興味深い内容だったのだが、『声の文化と文字の文化』とどう関係するのかというと、同書では第6章をまるまる使って「探偵小説」(偶々この本でもミステリとか推理小説とかではなく「探偵小説」という訳語を使っている)について論じているのだ。
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 オングは探偵小説を「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を持つ物語の「完成形態」であると定義する。彼によれば探偵小説には、「倦むことなく高まる緊張、巧妙にきっちりと仕組まれた発見、逆転、そして完全な解決に達する大団円がある」。
 では探偵小説が登場する以前の物語がどんなものだったかと言えば、「挿話の寄せ集め」であり、これは識字率の低い文化における物語の特徴である。
 予め書き留められたのでない「物語」が短い挿話の寄せ集めになるのは当然のことで、書き留めもせずに「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を練り上げるのは不可能だし、「聴衆」のほうも張り巡らせられた伏線のすべてを憶えておくのは不可能だろう。
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 探偵小説が成立する遥か以前、すでにギリシア悲劇は「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」を持っていたが、これは戯曲というのが書かれたテキストであるからだ。
 ギリシア悲劇から探偵小説まで、文字の文化が浸透するのにここまで時間がかかったわけだが、せっかく完成した「文字の文化特有の物語」はこの数十年の間に、そのあまりにきっちりと組み立てられたプロットゆえに「安易」だと見做されるようになった、とオングは述べる。
 そのため「今や前衛文学は物語のプロットを取り払うか、それを曖昧にすることを義務としている。しかしそうした話は、かつての挿話を寄せ集めた物語ではない。それらの話は、それらに先立つプロットのある話を印象主義的に変奏したものなのである」。
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「安易」とは具体的にどういうことなのか、オングは説明していないが、別のところで、実生活の経験は「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」よりも「挿話の寄せ集め」に似ている、と述べている。
 かつて私は、「現実にクライマックスはない。物語とは現実から適当な要素を切り取ってきて作り出されたものだ」というようなことを述べた(『ミカイールの階梯』後書き)。当時はオングの著書の存在も知らなかったのではあるが。
 私自身のこの見解と考え併せて、オングの言う「安易」とは「合目的に作り込まれ過ぎて不自然」だということだと解する。
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 この解釈は、すぐ後に読んだ『日本探偵小説を知る』によって補強された。前述のとおり、ミステリ史には疎いので、ミステリが早くも1890年代から「リアリティがない」「人間が描けていない」といった批判を受け続けてきたことや、ミステリにおいては一つの殺人の価値が最大限に高められているという見解などは、この本で初めて知ったことである。
 もっとも後者については、もう十数年前のことだが、読売新聞だったかの小説家養成講座で、講師の小説家(名前は忘れてしまいました)が述べたことが思い出された。「小説の中では人が偶然死ぬことはない」。現実には人は「偶然」死ぬ。しかし小説のキャラクターを「偶然」死なせると、「安易」だと非難される、と。
 キャラクターが死ぬには理由がなくてはならない。その理由の必要性を最大限まで高めたのが、ミステリだということになるのだろう。
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  「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」の完成形としての探偵小説について述べた第6章に続く第7章で、オングは「人間を描く」ことについて紙幅を割いている。
  探偵小説と同じく、文字文化が浸透しなければ成立しなかったのが「立体的」な人物造型である、とオングは述べる。「立体的」とはつまり「内面」を持ったキャラクターということだが、それに対して前近代的な物語のキャラクターは「平面的」で、「内面」を持たないかのように見える。
 しかしオングによれば、自分の「内面」を見つめる、すなわち内省という行為は、書くことを前提としている。内省と読み書きは直接には結びつかないように思えるが、オングが同書の別のところで引用している、アレクサンドル・ルリアが1930年代初めに行った調査によれば、読み書きがまったく、もしくはほとんどできない人々は自己分析というものができない。
「あなたはどのような性格ですか」という質問に答えていわく、 「自分で自分の心はこうだなんて言えないよ。自分の性格はこうだなんて人に話せると思うかね。ほかの人に訊いてくれよ。連中なら、俺のことをあんたにいろいろと話せるだろうから。自分からは何も言えないよ」
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 分析的な思考というのは読み書き能力を前提として初めて身に着くものなので、自己分析すなわち内省も当然ながら……というわけだ。
 文字文化の発展によって人間が自己の「内面」を発見したことで、すべての人間には「内面」があるということになり、物語のキャラクターにも「内面」がある、すなわち「立体的」であることが求められるようになる。 「立体的」なキャラクターについてオングは、「深い内面的な動機を持ち謎めいてはいるが、しかし一貫した仕方で内面から動かされているような」キャラクターである、と説明している。
 つまり文字文化の発展によって、「一貫性のあるプロット」と「一貫性のある人物像」は同時に発展してきたことになる。
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 しかしオングは特に言及はしていないが、「内面」の有無はともかく、人間に「一貫性がある」というのも、現実の経験に「一貫性のあるプロット」が存在しないのと同様に、ある種の幻想である。
 近年の心理学実験によると、人間は自分が「一貫性がある」と見做されることを望んでいる。だから「一貫性がない」と見做した他人を非難し、フィクションのキャラクターにも「一貫性」を求める。しかし脳科学の知見によれば、意思決定とは理性ではなく、その時々の気分に基づいており、またある程度はランダムですらある。
 識字率の低い文化において、人間の「一貫性」がどのように評価されていた(いる)のかは寡聞にして知らないが、少なくとも人間の言動を文字で記録できるようになったことが「一貫性」の価値を高めているのは確かだろう。
 したがって、ミステリを「人間が描けていない」、つまり「一貫性のある内面を持つ人間」が描けていない、と批判するのは、文字文化の発展がなければ成立しなかった二つの幻想のうち、一方が他方を批判しているということであり、実に興味深い現象である。
 ミステリ好きだったナボコフが、『ロリータ』の中で、人間には一貫性があると見做すのは幻想だと指摘しているのも、また興味深い。そういえば、人によってはロリータの失踪にミステリ要素を見出すようですね。私は他人のレビューで見かけるまで、そういう見方にはまったく気が付きませんでしたが。
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 ところで私はミステリではアガサ・クリスティが一番好きなのだが、彼女の作品群は  「クライマックスに向かって収束していく一貫性のあるプロット」の完成形としての探偵小説の完成形であると言えよう。このある意味究極の「人工的な物語」を彼女が完成させたのが、両大戦間という人工性の高い時代だったのは偶然ではあるまい。
 クリスティは第二次大戦後も活躍しているが、シリーズの主人公たちが老いていくのにしたがって「時代遅れ感」が色濃くなっていくことを(おそらくは)敢えて隠そうとはしていないし、実際のところポアロとミス・マープルの「完結編」が執筆された、つまりクリスティ自ら「探偵小説」に引導を渡したのは第二次大戦中という「一貫性のある現実」という幻想が崩壊した時代である。
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