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草の上の月

 ここのところつらつら綴っている「男性を教化する女性」像で思い出した、昔観た映画。
 レニー・ゼルウィガー、ヴィンセント・ドノフリオ主演、1996年。

 何度か当ブログの映画レビュー(「鑑賞記」カテゴリー)で書いているが、ゼルウィガーは私が嫌いな数少ない女優の1人である(ほかはメリル・ストリープくらい)。
 何が嫌いなのかというと、「わたしってこんな馬鹿な女を演じられるのよ、ほんとは違うんだけどね」的な演技である。「馬鹿な」の部分は作品によって「がさつな」「無教養で下層階級の」等に置き換えられたりもするが、とにかく「ほんとは違うんだけどね」がありありと見て取れる(少なくとも私には)のが、ものすごくイラッとさせられるのだ。

 で、この嫌悪の次には「昔はあんなに可愛かったのに……」という嘆きが来る。「昔」というのは『ザ・エージェント』(1996)と『ライアー』(1997)のことである。野暮ったい初々しさというか、垢抜けないんだけど可愛いんだ、すごく。
『草の上の月』はこの2作と『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)の間に撮られたと思ってたんだが、この記事を書くために確認したら、『ザ・エージェント』の1つ前じゃん。えー……
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 ああ、思い返してみれば確かに、『草の上の月』の無神経なヒロインには「ほんとは違うんだけどね」感がない。無神経な女だとは思わずに演じてるっぽい。素で無神経なんだ……ということはつまり、『ザ・エージェント』と『ライアー』が例外だっただけか……
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 原作は、先日の記事で触れた「蛮人コナン」の生みの親ロバート・E・ハワードの恋人だったノーヴェリン・プライスの回想録である。
 1930年代、小説家志望の小学校教師ノーヴェリン(ゼルウィガー)は、地元の小説家(ドノフリオ)と、彼がどんな作品を書くのかも知らないまま、小説家だというだけでお近づきになる。その後初めて、彼が「低俗なパルプ作家」と周囲から見下されていること、彼自身も相当な変人であることを知るが、それでも交際を始める。
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 交際を始めてしばらくしてから、ようやくノーヴェリンはハワードの作品を読み、その「野蛮さ」に強いショックを受ける。
 そこでハワードにこう訴えるわけだ。「世の中には美しいものがたくさんあるのに、どうしてそれについて書かないの?」「人間の精神を高めるような作品を書くべきよ」――十数年前の鑑賞なのでうろ覚えだが、だいたいこんな感じのことを言い募る。
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 それに対しハワードは曖昧に流して済ませるが、ノーヴェリンはその後も「母親離れすべきだ」「もっと大人になるべきだ」等々苦言を呈し続け、ハワードも反発を強めていく。
 やがてノーヴェリンは自らの才能に見切りをつけ(つまりハワードに書かせようとしていた「清く正しく美しい小説」を書く才能が自分にもないことを悟り)、教師としての道をまっとうすることにする。それとともに、ハワードにも「見切りをつける」。
 一方ハワードは、以下ネタバレというかネタバレも何も「コナン」の読者なら誰でも知っている悲劇に向かって、まっしぐらに進んでいくのであった。
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 私は美少女がばっさばっさと人を殺しまくる野蛮なSF(パルプ雑誌によって育てられたジャンルである)を書く女で、幸いにして「世の中には美しいものがたくさんあるのに、どうしてそれについて書かないのか」「人間の精神を高めるような作品を書くべきだ」などと言われたことは一度もないが、仮にそんなことを言われたら、相手が男だろうと女だろうと、とりあえずまあ埋めてやろうかくらいは思いそうである。
 つまり本質的にはジェンダー無関係なわけだが、ノーヴェリンの場合、ハワードにあれこれ説教したのは、ヴィクトリア朝の「家庭の天使」に代表される「男性を精神的・道徳的に導く女性」像(同時代の米国では「真の女性」と呼んだそうだ)に従ってのことだったように思われる。
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 ハワードの死から半世紀後に出されたノーヴェリンの回想録は未読なので(私の英語力では本1冊読むのに時間がかかりすぎる。そこまで時間をかけるほどこの問題に興味があるわけではない)、当時および半世紀後のノーヴェリンの心情は知らないが、「男を教化する」「真の女性」の観点からすれば、彼女はハワードの「教化」に失敗したのであるが、悪いのは「教化」の試み自体ではなく、受け入れなかったハワードだということになる。
『草の上の月』のノーヴェリンには、ハワードへの態度を悔いている様子がまったく窺えず、彼女から見たハワードは、「せっかく導いてあげようとしたのに、受け入れずに自滅した憐れで愚かな人」として描かれているように思われる。
 これが、演じるゼルウィガーの滲み出る無神経さゆえか、それともノーヴェリン本人が、当時も半世紀後も、ハワードをそのように見做していたためなのかはわからない。
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 一方で、ノーヴェリンの視点を離れたところでは、ハワードは「世間の無理解に追い詰められた孤独な天才」として描かれている。こちらの視点では、ノーヴェリンは「世間の無理解」の一部もしくは代表であり、「男を教化(しようと)して、男の野性やら才能やらを矯める女」である。
 あくまで推測だが、この齟齬の原因は、原作であるノーヴェリンの回想録におけるハワード像が「せっかく導いてあげようとしたのに、受け入れずに自滅した憐れで愚かな人」であるのに対し、映画制作者側のハワード像が「世間の無理解に追い詰められた孤独な天才」であり、それでいてノーヴェリンのハワード像をそのままにしていることにあるのではないだろうか。
 監督、制作、脚本が全員男性なのと関係があるのかどうかは、敢えて論じない。
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 もちろん、一つの作品内に複数の視点・観点があるのは悪いことではない。しかしこの作品の場合、「Aという見方もあるが、Bという見方もある」ではなく、「原作者ノーヴェリンから見たハワード」と「映画制作サイドから見たハワード」を不器用に継ぎはぎしたかのような噛み合わなさなのだ。
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 何が原因だったにせよ、どうにもちぐはぐで変な映画でありましたよ。
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「自然」と「文明」の性別は 「男性を教化する女性」像について。「蛮人コナン」にも言及。
アパルーサの決闘 レニー・ゼルウィガー評の一例。

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