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男女間闘争としてのロマンス

 尾崎俊介氏の論文「後ろめたい読書――女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」について」(オンライン閲覧可)には、米国の「女性向けロマンス」(「通俗的で紋切り型」とされる恋愛小説。以下、代表的レーベルの名から「ハーレクイン・ロマンス」と総称する)の愛読者を対象として1980年に行われた、とある調査が紹介されている。
 それによると、調査対象者50人は全員女性で、大半が既婚者で子持ち。毎日夫と子供の世話をしなくてはならないし、人によっては外で働かなければならない。唯一の息抜きが、ハーレクイン・ロマンスを読むことなのだという。
 しかしこの「息抜き」は、同時に「後ろめたさ」で彼女たちを苦しめることになる。読んでいる間は家事や仕事を放棄することになるし、本を買うのにお金も使う。しかも彼女たちが愛するハーレクイン・ロマンスは、世間から「低俗な読み物」と見下されている。それらすべてが、「後ろめたい」というのだ。

 いや、息抜きというからには毎日何時間も読みふけるわけじゃなし、そのペースでは月に何冊も買えないだろう。しかもペーパーバックである。
 その程度の「贅沢」を後ろめたく思わざるを得ないって、どんだけ人権抑圧社会だよ。
 アメリカという国は、いろいろと差別がひどいが、それに対する抵抗運動も激しい(しばしば命懸けで行われる)ように思うんだが、このイメージがまったくの的外れというのでなければ、ハーレクイン・ロマンスの愛読者たちの状況は明らかに異常である。

 彼女たちの「息抜き」が同程度の金と時間を使う別の趣味だったら(別ジャンルの小説とか)、周囲からとやかく言われることは少なかっただろうし、何より彼女たちが後ろめたく思うことはなかったはずである。
 たとえば極端な話、ソフトポルノと揶揄されるハーレクイン・ロマンスではなく、がっつりハードポルノ小説だったとしても、バッシングはさらに強くなるかもしれないが、そういう「息抜き」を選ぶような女性は、「女がポルノを消費して何が悪い」と同じくらい激しく抵抗するだろう(アメリカという国へのイメージ)。

 調査が行われたのは1980年であり、今はそんなことはないと思いたい。しかし「後ろめたい読書」は、「ハーレクイン・ロマンスは読みたいけど、恥ずかしいから買えない」女性が大勢いることが明らかになった2000年代初頭の事例を挙げているし、ググったところ案の定と言うべきか、ハーレクイン・ロマンス(および類似レーベル)の電子書籍版が売り上げを伸ばしているそうだ。
 ハーレクイン・ロマンスを読むのは、それほどまでに「後ろめたい」行為なのだ。

 1963年にアメリカに登場したハーレクイン・ロマンスは、70年代に入って一大ブームを巻き起こす。これを受けて70年代末頃から、ジャーナリズムが「低俗な量産品とそれを読み漁る大勢の低俗な女たち」について、おもしろおかしく書き立てるようになる。
 こうした批判ですらない嘲笑や中傷に対し、女性の側からハーレクイン・ロマンス擁護論も出されたが、それらにしたところで、「低俗だけど、女性の息抜きになるからいいじゃない」というものであった。
 ジャーナリズムによる(男性が中心と思われる)バッシングの具体例は挙げられていないが、米国におけるハーレクイン・ロマンスの一般的評価は、翻訳小説を読んでいれば時々遭遇するものである(後日、事例を紹介する予定)。

 なぜハーレクイン・ロマンスは、アメリカ(ヨーロッパでも似たような状況らしい)でここまで叩かれるのか。
 この疑問はそのまま、「ではなぜ日本ではそこまで叩かれないのか」という疑問に繋がる。

 先日の記事で述べたように、オリエンンタリズム小説である「シークもの」について調べようとしたところ、このサブジャンルのみならずハーレクイン・ロマンスそのものの研究(邦文文献)がほとんど存在しないことを「発見」したのであった。
「日本におけるハーレクイン・ロマンス」に限定すれば、研究は皆無ではなかろうか(尾崎俊介氏の研究対象は、米国および西洋のハーレクイン・ロマンスである)。批評についても、せいぜいが「紹介」といったところだ。
 面倒なので出版点数の確認はしないが、ハーレクイン・ロマンスおよび類似レーベルから出版される小説、およびそのコミカライズ作品は、この出版不況においてすら相当な割合を占めているはずである。にもかかわらず、だ。

 まあアメリカでも、バッシング(低レベルな嘲笑や中傷)でない、研究や批評と呼べるものであっても、「低俗」であることを否定するものはほとんど無いようだ。
 それに比べれば、正面きって研究や批評の対象にされない代わりにバッシングも軽い(それでも読者にとっては充分すぎるほど不快であろうが)日本の状況は、遥かにマシである。

 アメリカでは70年代末のジャーナリズムによるバッシングに続き、80年代にはフェミニズムよるハーレクイン・ロマンス批判が始まった。要約すると、「経済力も社会的地位も高く傲慢なヒーロー(この場合はヒロインの相手役という意味)に、か弱いヒロインが虐げられ続けた挙句、従順な妻として屈服する」物語を喜んで読むような女は男の性的願望を助長させている、というのである。
 日米のフェミニズムの違いについては解らないので、日本でフェミニズムの立場から目立ったハーレクイン・ロマンス批判が見受けられない理由も解らないが、アメリカの場合は、その時期からも窺えるように、ジャーナリズムによるバッシング(「低俗な読み物に耽溺する低俗な女たち」)へのリアクションという側面もあるのではなかろうか。「女が全員そうだと思うな」的な。実際、そのうち沈静化したし。
 このフェミニズムからの批判に対し、やはり女性批評家によるハーレクイン・ロマンス擁護論も出された。ハーレクイン・ロマンスは「金も権力もあるヒーローを、ヒロインが愛の力で飼い慣らす」物語である、というのだ。

 ロマンスを男女間の権力闘争と見做すこうした批評は、結局のところ水掛け論にしかならないので、90年代には下火になったそうである。
 しかし近代小説の元祖にしてすべてのロマンスの元祖である『パミラ』(1740年)からしてすでに、男女間の権力闘争でヒロインが勝利する物語であり、作者のサミュエル・リチャードソンもそれを自覚していた。本編の前に、「編者リチャードソン」の「親友」を名乗る匿名の人物による『パミラ』への賛辞が置かれているのだが(もちろんリチャードソンによる創作)、その中に次のような一文がある。

 そうしてついには、この類まれなる忍耐と、勇敢にして俯仰不屈の守りによって、すっかり包囲されていた彼女が、包囲していた彼に対して輝かしい勝利を収めるのみならず、今度は彼をすっかり包囲してしまうということになるのです。

 この「勝利」とは、尾崎氏が挙げる、「ロマンスの元祖としての『パミラ』の3つの要点」のうちの②に当たる。

 ① ストーリーがすべてヒロインの一人称で語られる。
 ② ヒロインが固い貞操観によってヒーローを改心させる。
 ③ ヒロインはヒーローと結婚し、それによって身分が上昇する(玉の輿)。

 貞操は、キリスト教倫理の一部である。西洋においては道徳全般はもとより礼儀作法ですら「信仰」の要素であったが、『パミラ』の時代には、あまりに宗教色を前面に押し出し過ぎるのは敬遠されるようになり、「信仰」は「道徳」の一部となった。
 やがて「道徳」も敬遠されがちになり(すでに『パミラ』の道徳ですら、「偽善的で押しつけがましい」と反発を買っていた)、ロマンスのヒロインが行使するのは「愛の力」となったのである。

「愛」こそは欧米社会における絶対善にして最終兵器である。愛は元来、キリスト教的善である。キリスト教は重視しないが道徳は重視する者にとっても、愛は至高の道徳であり、キリスト教も道徳も敬遠する向きにとってすら、愛は最高の善である。

 では、パミラと彼女に続くロマンスのヒロインたちは善なる力でもって、具体的にはどのようにヒーローを「改心」させたのか。
 端的に言うと、ヒロインと結婚し、かつ死ぬまで彼女だけを愛し続けるようにさせたのである。

 キリスト教倫理においては婚外交渉は重罪だったから、結婚は「救済」であった(もちろん互いに不倫をしなければの話)。「愛ある結婚」が推奨されたのは、愛が絶対善であるというだけでなく、夫婦が互いに愛し合っていれば不倫もないはず、という理屈だからであろう。
 しかし近代に至るまで(というか近代に至ってもなお)結婚とは家同士の結びつきであり、しかも同じくらい永らく身分違いの結婚はほぼ不可能であった。
 独身の男女同士であっても、結婚を「恋愛の成就」とするのは難しく、プラトニックを貫かない限り「罪人」とならざるを得なかったのである。
 だが実態としては、女にとって婚外交渉は社会的な死を招きかねず(古い時代には実際に殺されかねなかった)、それが強い抑止力となったのに対し、男の場合は非難も実質的な制裁も、女のそれより重いことは稀だった。聖職者や信心家の説教など、馬耳東風である。

 パミラの「勝利」とはすなわち、「御主人様」に婚外交渉し放題の「権利」を放棄させ、「愛」によって彼女に一生縛りつけることに成功したという「勝利」である。
 パミラの勝利はまた「市民階級の勝利」でもある。市民階級の台頭によって、身分違いの結婚のハードルは低くなり、また結婚は個人同士のもの、という価値観も広まりつつあった。結婚を「恋愛の成就」とする可能性が広がったのである(『パミラ』は実話を基にしているのだそうである)。上流階級の男たちにとっては、下層階級の女に手を付けても、身分違いを理由に結婚を逃れられる可能性が減ったわけだ。
 しかも貴賤結婚で不利益を被るのは「貴」の側であり、御主人様にそこまでさせた、という意味でもパミラの勝ちなのである。

  また『パミラ』の時代より半世紀ほど下った18世紀末頃から、女には性欲がないという学説が次第に優勢になる。女は男を結婚によって「救済」する「家庭の天使」となったのである。

 ところで、西洋における愛は古来、キリスト教における絶対善であるだけでなく、「闘争」でもあった。この場合の愛とは、恋愛である(ヨーロッパ諸語に愛と恋の区別はないんだが)。以下、異性愛に限定して述べる。
 恋愛を闘争と見做す価値観が、いつ、なぜ、西洋に根付いたのかは不勉強で知らないのだが、闘争と性交を互換性のあるメタファーとするのは古来多くの文化に共通しているし、いわゆるプラトニックラブという概念は文化の洗練があって初めて成立するものであり、そうでなければ恋愛とはすなわち性愛である。
 肉欲が罪とされた西洋では、プラトン哲学としてのプラトニックラブが導入されるルネサンス期よりも早く、中世末期に貴婦人崇拝が流行し、以後も「理想的な愛」として称揚され続けたが、理想はあくまで理想であって、実態としては恋愛=性愛だった。

 上述のように、近代以前には結婚を「恋愛の成就」とするのが困難であり、高尚なプラトニックは理念上のものに過ぎないとなれば、即物的に性交渉の成立をもって「恋愛の成就」となる。
 ここに性交と闘争を同一視する価値観が加われば、「恋の勝者」は常に男ということになる。1回ヤりさえすれば、「勝者」は「敗者」を好きなように扱える「権利」を得たことになる。もちろん現実の戦争がそうであるように、「敗者」を手酷く扱うのは人倫に悖るが、「勝者」は人倫を無視することもできるのだ。

 このような恋愛観があるから、ドン・ファンのように次々女をヤリ捨てるだけの行為を、なんの疑問もなく「恋」と呼ぶし、女に膝を屈して散々愛を乞うていた男が、ヤった後は掌を返して冷たくする、という筋立てが、特にフランス文学では飽きもせずに繰り返される。
 つまりロマンスにおける結婚という結末は、

 ① ヒロインにとっては玉の輿(社会的・経済的な身分の上昇)という勝利だが、ヒーローにとっては身分違いの結婚によるさまざまな不利益(現代でもそれなりにある)を受けることになる「社会的な敗北」である。
 ② ヒロインにとっては愛という絶対善(元来はキリスト教倫理)によって、ヒーローに婚外交渉し放題という「悪」から足を表わせたという勝利だが、ヒーローにとっては「権利」喪失という敗北である。
 ③ ②のような倫理的な意味での「愛」による「敗北」のみならず、「闘争としての恋愛」においても、残る生涯を1人の女に縛り付けられるということは、その女への「敗北」を意味する。

 ②は、以前の記事で述べた「女性による男性の教化」であるが、婚外交渉し放題という「権利」に固執する男性にとっては、「善を振りかざす女による精神的去勢」にほかならない。
 日本でも「尻に敷く」という表現があるように、パートナーの女性に頭が上がらない男性を嘲笑するのは昔からだが、欧米と違って「女に飼い慣らされる」ことへの恐怖はそれほど根強くない。

 同様に恋を男女間の闘争とする見方も、日本にも一応あるにはあるが(「惚れた弱み」「惚れたが負け」等)、「勝ち負け」にこだわりすぎる向きは敬遠されるだろう。いや、身をもって痛感させられたからね。

 2000年代初頭のことだが、私はある非SF系小説新人賞への応募用に、恋愛を主題とした長篇を執筆した。応募に先立って数人の友人(互いに知り合いではない)に読んでもらったところ、彼らは異口同音に「主人公の性格がひどすぎる」とドン引きした。
 この主人公というのが、「惚れたが負け」の価値観を持つ15歳の少年で、私が表現したかったのは幼稚さゆえの冷酷さだったから、友人たちの反応は「大成功」であった。
 ……が、賞の選考委員をもドン引きさせて、「あまりにも殺伐としていて、この賞にはふさわしくない」という理由で3次選考通過止まりだったのだから、完全に本末転倒である。
 しかも読んでくれた友人たちからはその後、申し合わせたかのように(繰り返すが、彼らは互いに知り合いではない)距離を置かれ、最終的に縁が切れてしまったのだが、原因の少なくとも一部は、私自身が件の主人公と同じ価値観の持ち主だと思われたことであるらしい。もう散々ですよ。
 ことほど左様に、恋愛を勝ち負けだけで判断する見方は、日本人には馴染みがなく受け入れがたいものである。

 しかし恋愛を「男女間の闘争」と見るのなら、「(女性向け)ロマンス」とは「必ず女性が勝つ(必ず男が負ける)物語」である。
 その観点からすれば、たとえば『ジェイン・エア』(1847)は「男を支配せんとする女の底なしの欲望」の物語として読める。
 ただし前回の記事で述べたように、『ジェイン・エア』は「典型的なロマンス」とは言い難い。
 典型的なロマンスでは、そのヒロインも女性読者も、そのようなおどろおどろしい欲望をあられもなく抱いたりはしない。当時、ジェインの「反抗心」は男性からだけでなく女性からも批判されたという。

 ところで私は未だにハーレクイン・ロマンスもしくは類似レーベルの作品を一冊も読んでいないのだが、オリエンンタリズム小説分析のために「シークもの」を読まなくてはならないのなら、「典型的」な作品であればあるほど読む冊数を少なく済ませられる、ハーレクイン・ロマンスが好まれる理由の一つが「類型的」であることなら、人気のある作品ほど類型的すなわち典型的であるに違いない、という発想から、レビューサイトをあれこれ訪ねてみたところ、どうやら「気の強いヒロイン」は不評であるらしいことを「発見」した。
 これは何も日本特有の傾向ではない。本場アメリカでも人気なのは、か弱く内気で健気、清楚可憐なヒロインなのだそうだ。
 対するヒーローは傲岸不遜なので、その横暴にヒロインはひたすら涙を呑んで耐え忍ぶ。「踏みつけにされるヒロイン」ということで、「ドアマット・ヒロイン」と揶揄されている。

 一方、ジェイン・エアに限らず、古典ロマンスのヒロインは、私が知る限りでは総じて気が強い。パミラからして道徳を振りかざして御主人様に抵抗し(それが「押しつけがましい」と読者の不評も買っている)、『高慢と偏見』(1813)のエリザベスもダーシーに激しく反発する。
 まあヒロインの身分が特に低い場合は、いくら貞操観が強くても、気が弱かったら押し切られた挙句に罪悪感に押し潰される『テス』(トマス・ハーディ 1891)になっちゃうからね。

『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター 1912)も、ひねった構成ではあるが典型的なロマンスで、「あしながおじさん」は親切なだけじゃなくてジュディの行動をコントロールしようと干渉するが、彼女はそれに正論で抵抗する。また、出してもらったお金は何年がかりでも全額返済する気でいるので、おじさんが余分なお小遣いをくれたりしても断っている。
 すでに読んだ「シークもの」の元祖『シーク――灼熱の恋』(エディス・ハル 1919年)のダイアナも気が強いが、そもそも当時は気の弱い白人女性が砂漠の一人旅などしたりしない(現地人の同行者が何人いようと数には入れない)。

 ロマンスにおけるヒロインの性格の変化は、「身分の壁を乗り越える」ことがかつてより容易になったのが最大の要因であろうが、ハーレクイン社はリサーチを入念に行って、読者の好みを「製品」に反映しているそうなので、「気の強いヒロインは苦手」という傾向は元からあったのだがリサーチをするまで明らかではなかった、ということなのかもしれない。
 なぜ「気の強いヒロインが苦手」なのかは、読者の感情移入とか共感が絡んでくるのだが、それについては後日述べる(つもり)。
 作劇上の都合としては、ヒロインがヒーローを道徳や正論を振りかざして言い負かしたり、激しく罵ったりは一切せずに、ひたすら耐えて耐えて耐え忍んだほうが、ヒーローがついに膝を屈して愛を乞うた時のカタルシスは確実に大きい。
 また、愛を至高とするイデオロギーにおいては、ヒロインがヒーローに勝利するのは、あくまでも愛によってでなければならないのである。

 でも結局のところ、向こうの男性にとっては、ヒロインがどんな性格だろうと関係なく、「女が男を打ち負かす」物語がとにかく許せないんだろう。そもそも読んだ上で叩いてるのかも怪しいし。

 近作の「シークもの」を2冊ばかり読んだら、私がハーレクイン・ロマンスを読むことは二度となく、SFやファンタジーのレーベルに潜んでいるロマンス要素の強い作品を注意深く避けていくことになるだろう(いろいろ調べたことが役立てばいいな)。
 まして海外のハーレクイン・ロマンス事情など、いっそう関わりのないことである。ただ、「趣味を見下され、否定される」境遇というのは、どうにも他人事じゃなくてな。

 というわけで、次回はフィクションと自己投影について。

 まあどんな事情があろうと、自分で自分の趣味を肯定できない人には、じゃあその趣味やめれば、としか言えないんだが。

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本当は怖い『ジェイン・エア』

 

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本当は怖い『ジェイン・エア』

 ネタバレ注意。

 前回の記事で紹介した『ホールデンの肖像』によると、サミュエル・リチャードソンの『パミラ』(1740)で創出されて以来、現在のハーレクイン・ロマンスまで連綿と受け継がれてきた「ロマンスの3条件」というものがあって、それはだいたい次のようなものである。

 ① ストーリーはすべてヒロイン視点で語られる。
 ② ヒーロー(ヒロインの相手役)はハンサムで傲慢な大金持ちとして登場するが、ヒロインの「愛の力」によって、最後には改心させられる。
 ③ ヒーローとの結婚によって、ヒロインの身分が上昇する(玉の輿)。
 そして『パミラ』に続く古典的ロマンスとして挙げられるのが、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813)とシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847)である。

『高慢と偏見』は、数年前に『高慢と偏見とゾンビ』の予習として読んでおり、言われてみれば確かに「3条件」を満たしているなあと納得したのだが、『ジェイン・エア』ってそんな話だっけ?
 読んだのは35年ほど前で、子供向けにリライトされたものだが、序盤のジェインの境遇が、子供向けフィクションではあまりお目にかかれないひどさだったのと、精神を病んだ妻の存在を隠して二重結婚を目論んだロチェスターの屑っぷりとで、強く印象に残っていた。
 火事で都合よく妻が死んでくれたものの、ロチェスターは屋敷も財産も失ったばかりか、一生介護が必要な身体障碍者となってしまう。
 そんな彼を支えて生きていくことがジェインの幸福となるので、ハッピーエンドではあるのだが、紋切り型ロマンスの紋切り型ハッピーエンドとは言い難い。
 まあ読んだのはだいぶ昔だし、ジュヴナイル版だしな、と、この機会に光文社の新訳を読んでみた。数ヵ月以上前なので「思い出し鑑賞記」。

 だいたい記憶にあるとおりだったが、再読してもまったく記憶が蘇らない箇所もかなりあった。昔読んだのは子供向けとはいえ対象年齢やや高めで分量も多かったが、それでも多少は省略されてたんだろうな。
 しかし、ロチェスターの妻の存在が暴露されてからジェインが彼の許に戻るまでの経緯がまるごと記憶になかったのは、省略されていたとも思えないので、当時の私にはよく解らなくておもしろくなかったから忘れてしまったのだろう。

 絶望の余り荒野をさ迷い、行き倒れかけたジェインを助けてくれたのが、これまで存在も知らなかった実の従兄だった、という古典的な御都合主義は、古典的すぎるがゆえに理解不能だったと思われる。えっ、そんな偶然ってあり得る? どういうこと??? と混乱したのではあるまいか。
 また、この従兄セント・ジョンは清教徒的という意味で狂信的で独善的な人物で、宣教師としてインドへ赴任するために妻を必要としており、ジェインに白羽の矢を立てる。貧困に慣れているジェインなら宣教師の妻に相応しいと考えたからだが、互いに恋愛感情がないことを理由に彼女が断ると、「神聖な使命のために愛のない結婚をすることは殉教である」という謎理論を持ち出して結婚を迫る。
 なかなか興味深い人物造型と展開だが、10歳かそこらの子供には、ただただ理解不能でおもしろくなかっただろうな。

 そんなわけでセント・ジョンに関わる情報はきれいさっぱり記憶から抜け落ちていたので、彼の父親すなわちジェインの叔父の遺産のことも忘れていたのであった。この遺産のお蔭で、ジェインはロチェスターを養っていくことができるようになったのである。

 憶えていた以上に御都合主義だった……というのが三十数年ぶりの再読の感想だったが、先日、偶々読んだ川本静子氏の『ガヴァネス ヴィクトリア朝時代の〈余った〉女たち』(中公新書)で考えが変わる。
「ガヴァネス(女家庭教師)小説」の古典として『ジェイン・エア』を論じているのだが、それによると、ジェインは①不美人である、②何よりも自立を望んでいる、という2点において、まったく新しいヒロインであった。

 ロチェスターに妻がいることが露見する以前、ジェインに彼との結婚を躊躇わせたのは、社会的および経済的な格差だった。愛する男性とは経済的にも精神的にも対等でありたい、というジェインの願いは、結局のところ時代の制約によって御都合主義(川本氏は「強引なプロットの展開」と表現する)でしか叶えることができなかった――と川本氏は結論する。

 ……あれ? ジェインが願ったのは「対等」だけど、結果はロチェスターが経済的にも精神的にもジェインに依存することになってるよね? これって「猿の手」的展開じゃね?

 ジェインが手に入れた遺産は絶縁状態だった叔父のものだが、これがすごく親しい間柄で、若くして非業の死を遂げてたりしたら、まるっきり「猿の手」だ。
 いや、「猿の手」なら、ジェインは「こうなることを望んだわけじゃ……」と絶望に沈むはずだが、それどころかロチェスターが彼女に依存せざるを得ないことになって、心から満足しているのである。「猿の手」より怖いじゃねえか。

『パミラ』は刊行後直ちに大ベストセラーになったが、「こんなに巧く行くわけがない」とか「道徳が押しつけがましい」と反発する読者も多かったそうだ。人気作家ヘンリー・フィールディングもその一人で、『シャミラ』と題するパロディを翌年発表する。パミラは実は計算尽くで玉の輿に乗ったのだ、という内容だそうだ(邦訳があるので、そのうち読みます)。
『ジェイン・エア』も、遺産が転がり込んできたのもロチェスターが金も健康も失ったのも彼の妻が死んでくれたのも、全部ジェインが仕組んだことだった、ということにしたら、立派なクライム・ノベルの出来上がりだな。
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サミュエル・リチャードソンはすごいぞ

 いわゆる「恋愛もの」に興味がなく、読んだり観たりしたこともあまりなかったんだが、SFやファンタジーを濫読していると、恋愛メインの作品に当たることもある。偶にだったらいいんだが、間を置かずに何作品にも当たってしまうと、精神力がかなり削られる。
 いや、「恋愛要素」だけなら全然いいんです、愛だの恋だのは物語を強力に駆動し得るし、そこまで至らない「淡い思慕」みたいなのでもキャラの掘り下げには非常に有効ですし。しかし、それがメインになってしまうと、私にはきつい。特に近年はパラノーマルものが増えているので、遭遇してしまう確率が高くなっている。つらい。

 しかしオリエンタリズムについて考える上で、避けて通れない作品というか、ジャンルがある。「シークもの」だ。
 とにかく読みたくなくて先延ばしにしてきたのだが、邦訳されているオリエンタリズム小説をほぼ読み尽くしてしまった。もはやこれ以上の先延ばしはできない……まずは外堀から埋めようと、シークものの研究文献を探すことにする。悪あがきである。

 シークものは、いわゆるハーレクイン・ロマンスと総称される(日本での話。後述)ジャンルのサブジャンルで、日本でも高い人気を保っている。だから日本語の研究文献もそれなりにあるだろうと思ったのだが、探し方が悪いのか、論文も含め一つも見つけられない(英語のものは幾つか見つけたが、読んでいる時間がない)。
 仕方ないので、ハーレクイン・ロマンスについての研究を探す。本家本元のあのレーベルは、書店でバイトしていた90年代後半、毎月数冊ずつ買っていく女性客が数人いたし、現在でもたいがいの書店で一角を占めているので、固定層に人気があることは知っていた。

 だから日本語の研究テキストもそれなりに出ているのだと思っていたのだが、日本でハーレクイン・ロマンスを主題とした研究を行っているのは、どうやら尾崎俊介氏だけのようである。氏の著作『ホールデンの肖像: ペーパーバックからみるアメリカの読書文化』(新宿書房 2014)は、タイトルどおりアメリカのペーパーバックが主題だが、かなりの紙幅を割いてハーレクイン・ロマンスについて論じている。
 もう1冊見つけたのは、『ロマンスの王様 ハーレクインの世界』(洋泉社 2010)で、これは入門書というか案内書。尾崎氏の上記著書の一部は、このムック本に掲載されたものである。
 2冊とも分量はそれほど多くないが、シークものを取り上げている。シークものについては後日改めて記事にする(予定)。今回はハーレクイン・ロマンスとその元祖について。

 先に読んだ『ホールデンの肖像』で初めて知ったんだが、英語圏におけるromanceというのは、少なくとも近年では日本語の「恋愛小説/恋愛もの」と同義ではなく、「必ずハッピーエンドになる通俗的で類型的な」作品を指すのだそうである。
 類型的であることを強調する場合は、「フォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンス」と呼ぶそうだが、日本ではその代表にして元祖であるレーベルの名をとって「ハーレクイン・ロマンス」が通称である(と言ってよいだろう)。この記事でも、「紋切り型量産ロマンス」を「ハーレクイン・ロマンス」と総称することにする。

 ハーレクインが元祖というのは、「類型化と量産化を確立した」という意味での元祖である。この量産される類型/紋切り型の原型となったのが、英国のサミュエル・リチャードソンによる『パミラ』(1740)である。以下、ネタバレ注意。
 尾崎氏は「ハーレクイン・ロマンスの原型」としての『パミラ』の特徴を、次のように要約する。

 ① ストーリーがすべてヒロインの一人称で語られる。
 ② ヒロインの固い貞操観がヒーロー(ヒロインのお相手)を改心させる。
 ③ ヒロインはヒーローと結婚し、それによって身分が上昇する(玉の輿)。

 なお上記のパラノーマルものも、少女向けのレーベル(コバルトみたいなものか)でブームになったのが、ハーレクインをはじめとする成人女性向けレーベルに波及したものである。

 二つある邦訳のうち、原田範行氏による『パミラ、あるいは淑徳の報い』(研究社 2011年)を読む。
 ヒロインのパミラは、貴族の未亡人に仕えるメイド。家は貧しいが、元々は中産階級だったようである。パミラが両親に宛てて書いた多数の手紙を中心に、他の人々に宛てた手紙、それらの人々から彼女に宛てて書かれた手紙などを、サミュエル・リチャードソンが「編纂」したという体裁である。
 第一の手紙は、奥様が亡くなってその息子が新しい主人となったことを報告する。パミラは15歳で、この新しいご主人様のB氏は10歳ほど年長、ハンサムだが傲慢な性格である。

 このB氏が美しいパミラを愛人にしようと目論むのを、パミラは固い貞操でもってはねつけ続け、ついにはB氏は彼女に屈して正式に結婚する。と一言で説明できる話が、800頁近くにわたって続く。
 いや、すごいね、これ。尾崎氏の解説を読んでも、あんまりピンと来なかったんだが、これは「少女漫画のテンプレだけで構成された小説」だ。
 その「少女漫画のテンプレ」も、むしろパロディでしか知らないものばかりなんだけど。少女漫画も、恋愛メインの作品はほとんど読んだことがないからなあ。

 田舎のメイドによる手紙という体裁だから、原文はくだけた表現や方言が多く、それに対する批判も多かったので、後の版では改訂されているそうである。旧訳では改訂版を底本にしているが、原田氏の訳は初版を底本として口語的な文体を忠実に表現しようとしたそうで、そのお蔭でいっそう(昔の)少女漫画(のパロディ)っぽい。「ああ、心臓がドキドキしてしまったわ!」「私、いったいどうなっちゃうのかしら!」
 足りなかったのは「美人で意地悪なライバル」くらいだが、これはおそらく「外見が美しければ心も美しい」という中世的な価値観が依然、根強かったためではなかろうか。

 そんなわけで「テンプレ少女漫画のパロディ」に読めてしまう『パミラ』なんだが、言うまでもなくパロディどころかこれが「元祖」なのである。次から次へと繰り出されるテンプレに、「こ、これが元祖か……」とひたすら圧倒される。
 しかもすごいのは、少女漫画にせよハーレクインにせよ「すべての女性向けロマンスの元祖」に留まらないことである。『パミラ』は、「近代小説の元祖」でもあるのだ。
『パミラ』を「近代小説の元祖」たらしめているのは、「市民」(貴種ではない人々)の心理と人間関係の丁寧な描写である。『パミラ』より20年ほど早いデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)が、「市民を主人公にした最初の小説」という点で「近代小説の起源」とされながら「元祖」とされないのは、心理描写の欠如による。

「心理と人間関係の丁寧な描写」を可能にしたのは、「女性によって書かれた手紙」を中心とした構成である。
 以前にこのブログで紹介したオングの『声の文化と文字の文化』によれば、前近代のヨーロッパでは、文学作品の書き手は「修辞学の訓練を受けた男性」だった。修辞学というのは、演説や議論のための技術である。したがって前近代のヨーロッパにおける文学は、多かれ少なかれ演説または議論調だった(「対話篇」は要するに議論である)。
 しかし17世紀頃から女性の識字率が上がり始め、女性による文学作品も多く書かれるようになる。彼女たち女性作家は男性作家と違い、修辞学の訓練を受けていなかった。そのため彼女たちの文章は、演説調でも議論調でもなかった。
 またこの時代には商人が台頭してくるが、彼らもまた識字能力はあっても修辞学とは無縁だった。
 女性と商人による、「演説的でない生活に根差した」文章が近代小説の成立に寄与しており、特に女性の貢献が大きかった、というのがオングの見解である。

 さて、なぜかオングは取り上げていないのだが、サミュエル・リチャードソンこそは「近代小説成立への女性と商人の貢献」を一人で体現している人物である。
 1689年、貧しい指物師の息子として生まれたリチャードソンは、一代で成り上がった大印刷業者であり、修辞学を含む「正規の教育」は受けていない。
 そして彼の最初の小説である『パミラ』は女性一人称で書かれているが、上述したように、体裁としては「作者リチャードソンが女性一人称で書いた」のではなく、「実在の女性が書いた手紙を編者リチャードソンが編纂した」ものなのである。

(追記:ヘンリー・フィールディングが『パミラ』の翌年に出したパロディ、『シャミラ』(邦訳は朝日出版社)の訳者解説によると、リチャードソンは「編者」としてすら匿名だったそうだ)

『パミラ』は書簡体小説の嚆矢でもあるが、ミュラーの『メディアとしての紙の文化史』(東洋書林)によると、書簡体小説というものは、その前世紀(17世紀)に登場した「……の遺稿から」形式の文書の発展型である。
 まず背景として印刷文化の普及があり、印刷された文書が巷に溢れるようになることで、印刷されていない、つまり未発表の文書の価値が上がる。特に「遺稿」は、著者がすでに死亡していることから、秘教的・奥義的、さらには暴露的な様相を帯びることになる。

 そういうわけで当然の流れとして、著者が死亡しているのをいいことに、名前を勝手に借りた捏造文書も作られることになるのだが、それもこれも、「……の遺稿から」形式の文書の内容がフィクションではなく「事実」だという大前提があるからだ。
 このようにして非常にありがたがられた「未発表文書」には、手紙も含まれる。これもまた17世紀後半以降、識字率の向上、紙の普及、さらに郵便業務の拡大によって、私的な手紙の遣り取りが活発になったことが背景となっている。

『パミラ』訳者解説によると、この作品が書かれた経緯は次のようなものである。
 1730年代、リチャードソンは事業の成功によって、著名な文人や学者との交流を広げるが、この頃から教育レベルがあまり高くない層向け読み物の執筆や編集も自ら手掛けるようになった。その一環として、知人の出版業者から依頼されたのが、「日常生活のさまざまな場面において、手紙を書くのに多少不自由を感じるような人々のための模範書簡文例集」の執筆だった。1739年11月のことである。
 当初の予定では「模範書簡文例」を幾つか書くだけだったのが、かつてある友人から聞いた「実話」を基にした「設定」で書くことを思いつき、その結果生まれたのが「文例集」の枠をはるかに超えた一大ロマンスだった、というわけである。

『メディアとしての紙の文化史』の見解に従えば、『パミラ』は前世紀以来の「……の遺稿から」形式の伝統に則って、ノンフィクションとして書かれたことになる。
 つまりリチャードソンが女性一人称で書いたのは、単に文学的技法の一つとしてではなく、完全にヒロインのパミラになりきってのことだったのだ。
 50過ぎのおっさんの、15歳の少女へのなりきりぶりは、『パミラ』を元祖とするジャンルである「ロマンス」が、現在に至るまで女性によって読まれ、女性によって書かれ続けてきたことが証左となるだろう。
 そこまで「なりきった」からこそ、「演説的でない生活に根差した」文章を書くことができ、結果として人間関係と心理を丁寧に描写する「近代小説」を生み出したのである。なりきりにより、「演説的でない生活に根差した」文章を「発見」できたとも言える。ほぼ800年前に、紀貫之が『土佐日記』でやったことと同じだな。
 大長編『パミラ』は、わずか2ヵ月で書き上げられたのだそうだ。「演説的でない生活に根差した」文章を書くのは、それほどまでに楽しかったんだろう。

『パミラ』訳者解説によると、若い頃のリチャードソンは、反政府系の印刷物を数多く引き受けていたそうである。それらがどんなものだったのか具体的な説明はないが、「……の遺稿から」形式の暴露系捏造文書も含まれていたのではなかろうか。
 つまり、文章を「本物」っぽく見せる技術を実地で学んでいたかもしれない、ということだ。『パミラ』には「編者リチャードソン」による序とあとがきに加え、「編者の友を名乗る匿名の人物二名が編者に宛てた手紙」まで付されているが、これも「技術」の一つかもしれない。

 もっとも、「パミラとその手紙」の実在を信じた読者が果たしていたのかどうかは明らかではない。『メディアとしての紙の文化史』にも、「実在の書簡を編集したという設定を読者が本気にするか、虚構と見抜くかにかかわらず」と述べられているだけである。

 なお、上記のとおり見覚えのあるテンプレートのオンパレードに感動したものの、物語自体には120頁を過ぎたくらい(序を除くと100頁余り)で飽きました。恋愛ものがとにかく合わないというのもありますが、一つの事件や事柄が何度も語られていて冗長なせいでもある。
 これはパミラが一つの事件/事柄について、ある人物宛ての手紙に書いた後、別の人物あての手紙でも同じ事件/事柄について書き、さらにそれらの人々からの返信に、その事件/事柄についての意見が書かれていて……ということが繰り返されるのが大きい。『パミラ』の本来の目的であった「手紙の書き方マニュアル」としては、まあ妥当ではあるが、小説としてはあまりに冗長だ。あと、それほど量は多くないとはいえ詩やら歌詞やらも挿入されてるし。

 冗長性を徹底的に切り詰めて、半分(それでも350頁強)足らずの「抄訳」にしてしまったら、テンプレの詰め合わせにジェットコースター展開という現代的要素も加わって、「紋切り型量産ロマンス」のすごくよくできたパロディになるんじゃないかと思う。いや、これが元祖なんだけど。

『声の文化と文字の文化』紹介の記事

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「ノイズから物語を紡ぐ」こぼれ話的なもの

 

 

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「ノイズから物語を紡ぐ~脳科学の見地から夢を解く」のタイトルで、エッセイを寄稿させていただきました。
 脳科学の見地からだけでも、夢にまつわるネタは大量にあります。その中から、テーマである「悪夢」に寄せたトピックを選んで書きました。
 サブタイトルにある「夢を解く」というのは、前近代の卜占の一つである夢解き、精神分析の夢解釈に掛けています。前者の例として挙げたのがイスラムの夢解きで、付記した「参考文献」にある、イブン・ハルドゥーン(1332-1406)の『歴史序説』(岩波文庫)を参照したものです。

 というわけで、こぼれ話的なもの(今回はこの記事だけです)。

『歴史序説』は歴史そのものについてではなく、その前提として歴史学とは何か、文明とは何か、というところから論じ、各種職業や学問についてまで解説している。拙稿で言及したとおり、「夢解き」もその中に含まれている。
 夢解きの背景には、「夢は超常的存在からもたらされるもの」という考えがある。イスラムでは特に、預言者ムハンマドが「夢は46番目の啓示」と言った、という伝承があり、夢は神聖なものと信じられている。

 この「46番目」というのはどういう意味か。ムハンマドが受けた啓示が45回だったら話は簡単なんだが、クルアーンには114もの啓示が収められている。「43番目」とか「70番目」とする異伝もあり、頭を悩ます人もいたようだが、イブン・ハルドゥーンは「“たくさん”という以上の意味はない」とあっさり片づけている。
 それ以前に問題なのは、夢を啓示とすることである。これはムハンマド自身の夢に限定されてはいない。彼は毎朝、信徒たちから夢の内容を聞き出し、そこから予兆を読み取っていた、という伝承もある。つまりどんな人間でも(おそらくは異教徒でさえ)、毎晩のように啓示を授けられる、と言っているわけだ。

 啓示(神のお告げ)を授かる者のことを「預言者」と呼ぶのはユダヤ教、キリスト教、イスラムで共通しており、「啓示宗教」とも総称される。イスラムではこれ以上新しい啓示宗教が生まれるのを防ぐため、ムハンマドを「最後の預言者」としている(クルアーンにもそう記されている)。
 そのため、ムハンマドより後の人間が預言者を称すれば、それだけで異端者決定となる。スーフィズム(イスラム神秘主義)などでは、聖者と呼ばれる人々の大多数が「お告げ」を授かるのだが、それらは「天の声」とか「どこからともなく聞こえてくる声」といった感じでぼかされている。
 ムハンマドの言葉は神の言葉であるクルアーンに次ぐ権威だが、「ムハンマドは最後の預言者」(神)と「すべての人間の夢は啓示」(ムハンマド)との矛盾に頭を悩ませたムスリムはいなかったようである。
 まあ原理主義者でもない限り、イスラムは基本大らかだからね。

 しかし「夢解き」という言葉からも明らかなように、たいがいの夢は「解釈」(こじつけ)をしなければ意味不明であるし、どうこじつけようにも無意味な夢も少なくない。ムスリムもそれは解っていたから、同じくムハンマドの言葉として「夢には3種類あって、神からの夢、天使からの夢、悪魔からの夢がある」と伝えられている。
 イブン・ハルドゥーンによれば、「神からの夢」は夢解きの必要がない、すんなり理解できる夢、「天使からの夢」は夢解きが必要な夢、「悪魔からの夢」は混乱した(つまり無意味な)夢である。

 人知では及ばないことを知るのに、「夢のお告げ」を待つのではなく、積極的に呼び寄せる方法もあった(『歴史序説』第1章)。
 数日間の斎戒の後、就寝前にある呪文を唱える。すると「私はあなたの正確な写しです」(ママ)と名乗る人物(霊的分身?)が現れ、知りたいことについてのお告げを与えてくれるのだそうである。イブン・ハルドゥーン自身もこの方法で、知りたかったことを知ることができたと述べている。
 呪文も記されており、「タマギス・バァガン・ヤスワッダ・ワグダス・ナウファナ・ガディス」(邦訳ではラテン文字表記)という。イブン・ハルドゥーンは「アラビア語ではない言葉」としているだけだが、訳注によると、元の言葉はアラム語だと推測されており、近い発音を当てはめると「汝が眠る時、呪文を言えば、突如として眠りが訪れる」となるという。

 明らかに「望みの夢を見る」ではなく不眠治療の呪文ぽいし、しかも元のアラム語では呪文ですらなさそうである。
 アラム語を知らないアラブ人(別の民族の可能性もあるが)のまじない師が、アラム人に「見たい夢が見れる呪文」を教えてもらおうとして、言葉の行き違いで上記の「呪文」を教えられたとか、元々は不眠治療の呪文としてアラム語を使ってみました、というのが時を経て用途が変わってしまったとか。「急急如律令」みたいなものだろうな。

「知りたいことを知る夢」というのは、「明晰夢」の一種なのかもしれない。
 明晰夢というのは、夢だと気づきながら見る夢である。夢が支離滅裂なのは前頭葉の論理的判断を掌る領域(背外側前頭前皮質)がOFFになるからだが、稀にこの領域がONのまま夢を見ることがある。
 その状態の夢でも非現実的なことは起きるのだが、普通の夢と違って、「これは現実にはあり得ない、つまり夢だ」と気づくことができる。そこから訓練次第で、思いどおりの夢を見ることができるそうである。が、私が参照したどの本(拙稿末尾の「参考文献」に挙げた3冊、ほか数冊)でも、「訓練」の具体的内容に触れているものはなかった。
 いずれにせよ、思いどおりの夢を見るための第一歩は、夢を夢だと気づくことだそうである。
『歴史序説』で挙げられている例は、夢と自覚している夢なのかどうか明言はされていないが、斎戒と呪文という儀式はつまり、見たい夢を見るための自己暗示にほかならない。

『TH』拙稿で明晰夢に言及しなかったのは、「悪夢」がテーマだったためだが、もう一つ、私自身が「明晰夢のような夢」を割合よく見るからでもある。
「半明晰夢」とでも言ったらいいのか、明晰夢のようではあるけど、解説されてる明晰夢とはまた違う。そういう自分が、「明晰夢とは、かくかくしかじかである」とは記述しづらくてね。

 夢の内容は比較的よく憶えているほうだと思うが、記録はつけていないので、以下はだいたいの印象である。
 私が見る夢は「鑑賞型」と「体験型」に大別できて、前者は映画を観たり、小説や漫画を読んでいる夢。それらの「作品」は、いずれも現実には存在しない。「体験型」に比べて見る頻度は低いが、それでも3、4割にはなると思う。「ジャンル」は決まってSFやファンタジーなど、非日常系である。
「体験型」は私自身が夢の中でいろんな体験をする。日常的なシチュエーションから始まり、ストーリー性は低くて、とりとめがない。

 どちらのタイプでも夢だと気づく場合と気づかない場合があり、「鑑賞型」のほうが夢だと気づきやすい。
 夢だと気づくきっかけは、「体験型」の場合は、何か非現実的なことが起こる――たとえば人や動物、物がいつの間にか別の何かにすり替わったり、脈絡もなく場面が変わったりする。「鑑賞型」では、物語の辻褄が合わなくなることである。

 夢だと気づいていてもいなくても、まずやることは「バグの修正」である。思考するだけで修正できるが、あまり巧くいかない。
 たとえば「体験型」の夢だと、可愛い子猫と遊んでいたら、いつの間にか猫がぬいぐるみに変わってしまう(ちなみに猫は好きだが、飼ったことはない)→ぬいぐるみじゃない、本物(?)猫がいい→ぬいぐるみは生き物に変わるが、なぜか猫ではなく人懐っこいがタスマニアンデビルに似ている未知の動物→猫のほうがいい。だいたいこれ、野生動物じゃないか?→いつの間にか周囲は森になっている→ああ、この森に棲んでるのか……って、さっきまで屋内にいただろ!
 ……ってな具合である。「鑑賞型」の場合も、「体験型」よりは巧くいくが、すぐにまた辻褄の合わない展開になってしまう。

 また、どちらのタイプでも夢だと気づいているほうが修正は巧くいくものの、程度の問題に過ぎない。「体験型」の場合、夢だと気づいている状態で修正を推し進めようとすると、目が覚めてしまう。明晰夢を見ている時の意識は非常に不安定な状態なので、長く続くことはないのだそうだ。
 いろんなテキストの解説によれば、明晰夢は「訓練」によって超人的な活躍をしたり、神秘的な体験をしたりすることができるのだそうだ。しかし私は、夢だと気づいている時でも、そういう体験をしたいと思ったことがない。覚醒時でも、そういう夢を見たいとは思わないからな。
 強いて言うなら、どうせ夢の中の体験なら、もっと猫と遊びたいが、上記の例でも示したとおり、巧くいった試しがない。
 夢だと気づいていようといまいと、夢の中でも私は私で、どんなかたちでもスペックが上がることはない。仮に「体験型」の夢で、超人的な体験をするために自分のスペックを上げようと試みても、たぶん目が覚めてしまうだけだろう。「鑑賞型」では徹頭徹尾、鑑賞者に徹してるし。
 そもそも「体験型」は、そのとりとめのなさにイライラさせられる。「鑑賞型」は物語に一貫性があるので、夢を見るならそっちのほうがいいが、夢の「種類」を選ぶこともできない。

 夢の中で「鑑賞」する「作品」は、必ず私好みである、当初は。だから辻褄が合わなくなると、非常にイライラさせられる。夢だと気づいていようといまいと、バグ修正を繰り返しているうちに、ストレスがたまってくる。
 細かい修正を根気よく続けるお蔭か、「物語」の一貫性は保たれるものの、どんどんグロくてエグい展開になる。必ずなる。ものすごく生々しく、翌日は一日中胃がむかつくことすらある。
 グロくてエグいのが嫌だとか、どの口が言うかという感じですが、限度というものがあるのですよ……修正したくても、プロットや設定等をコントロールすることはできない。できるのは、細かい辻褄合わせだけである。

 以上のことから判るのは、私は自覚している以上に整合性にこだわっているということだが、それはともかく、こんな半端なコントロールしかできないのに、果たして明晰夢と言えるのだろうか。
 夢だと自覚しつつ、かつ(多少は)コントロールできる夢、というのは、遅くとも高校時代から見続けている。当時に比べると、現在はコントロール能力はいちおう向上しているし、夢だと気づく頻度も上がったようだが、30年間の進歩としては微々たるものである。「訓練」の方法なんて、見当もつかないしな。

 そういうわけで、明晰夢については歯切れの悪いことしか書けないのでした。

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