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「ノイズから物語を紡ぐ」こぼれ話的なもの

 

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)』№77「夢魔~闇の世界からの呼び声」
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「ノイズから物語を紡ぐ~脳科学の見地から夢を解く」のタイトルで、エッセイを寄稿させていただきました。
 脳科学の見地からだけでも、夢にまつわるネタは大量にあります。その中から、テーマである「悪夢」に寄せたトピックを選んで書きました。
 サブタイトルにある「夢を解く」というのは、前近代の卜占の一つである夢解き、精神分析の夢解釈に掛けています。前者の例として挙げたのがイスラムの夢解きで、付記した「参考文献」にある、イブン・ハルドゥーン(1332-1406)の『歴史序説』(岩波文庫)を参照したものです。

 というわけで、こぼれ話的なもの(今回はこの記事だけです)。

『歴史序説』は歴史そのものについてではなく、その前提として歴史学とは何か、文明とは何か、というところから論じ、各種職業や学問についてまで解説している。拙稿で言及したとおり、「夢解き」もその中に含まれている。
 夢解きの背景には、「夢は超常的存在からもたらされるもの」という考えがある。イスラムでは特に、預言者ムハンマドが「夢は46番目の啓示」と言った、という伝承があり、夢は神聖なものと信じられている。

 この「46番目」というのはどういう意味か。ムハンマドが受けた啓示が45回だったら話は簡単なんだが、クルアーンには114もの啓示が収められている。「43番目」とか「70番目」とする異伝もあり、頭を悩ます人もいたようだが、イブン・ハルドゥーンは「“たくさん”という以上の意味はない」とあっさり片づけている。
 それ以前に問題なのは、夢を啓示とすることである。これはムハンマド自身の夢に限定されてはいない。彼は毎朝、信徒たちから夢の内容を聞き出し、そこから予兆を読み取っていた、という伝承もある。つまりどんな人間でも(おそらくは異教徒でさえ)、毎晩のように啓示を授けられる、と言っているわけだ。

 啓示(神のお告げ)を授かる者のことを「預言者」と呼ぶのはユダヤ教、キリスト教、イスラムで共通しており、「啓示宗教」とも総称される。イスラムではこれ以上新しい啓示宗教が生まれるのを防ぐため、ムハンマドを「最後の預言者」としている(クルアーンにもそう記されている)。
 そのため、ムハンマドより後の人間が預言者を称すれば、それだけで異端者決定となる。スーフィズム(イスラム神秘主義)などでは、聖者と呼ばれる人々の大多数が「お告げ」を授かるのだが、それらは「天の声」とか「どこからともなく聞こえてくる声」といった感じでぼかされている。
 ムハンマドの言葉は神の言葉であるクルアーンに次ぐ権威だが、「ムハンマドは最後の預言者」(神)と「すべての人間の夢は啓示」(ムハンマド)との矛盾に頭を悩ませたムスリムはいなかったようである。
 まあ原理主義者でもない限り、イスラムは基本大らかだからね。

 しかし「夢解き」という言葉からも明らかなように、たいがいの夢は「解釈」(こじつけ)をしなければ意味不明であるし、どうこじつけようにも無意味な夢も少なくない。ムスリムもそれは解っていたから、同じくムハンマドの言葉として「夢には3種類あって、神からの夢、天使からの夢、悪魔からの夢がある」と伝えられている。
 イブン・ハルドゥーンによれば、「神からの夢」は夢解きの必要がない、すんなり理解できる夢、「天使からの夢」は夢解きが必要な夢、「悪魔からの夢」は混乱した(つまり無意味な)夢である。

 人知では及ばないことを知るのに、「夢のお告げ」を待つのではなく、積極的に呼び寄せる方法もあった(『歴史序説』第1章)。
 数日間の斎戒の後、就寝前にある呪文を唱える。すると「私はあなたの正確な写しです」(ママ)と名乗る人物(霊的分身?)が現れ、知りたいことについてのお告げを与えてくれるのだそうである。イブン・ハルドゥーン自身もこの方法で、知りたかったことを知ることができたと述べている。
 呪文も記されており、「タマギス・バァガン・ヤスワッダ・ワグダス・ナウファナ・ガディス」(邦訳ではラテン文字表記)という。イブン・ハルドゥーンは「アラビア語ではない言葉」としているだけだが、訳注によると、元の言葉はアラム語だと推測されており、近い発音を当てはめると「汝が眠る時、呪文を言えば、突如として眠りが訪れる」となるという。

 明らかに「望みの夢を見る」ではなく不眠治療の呪文ぽいし、しかも元のアラム語では呪文ですらなさそうである。
 アラム語を知らないアラブ人(別の民族の可能性もあるが)のまじない師が、アラム人に「見たい夢が見れる呪文」を教えてもらおうとして、言葉の行き違いで上記の「呪文」を教えられたとか、元々は不眠治療の呪文としてアラム語を使ってみました、というのが時を経て用途が変わってしまったとか。「急急如律令」みたいなものだろうな。

「知りたいことを知る夢」というのは、「明晰夢」の一種なのかもしれない。
 明晰夢というのは、夢だと気づきながら見る夢である。夢が支離滅裂なのは前頭葉の論理的判断を掌る領域(背外側前頭前皮質)がOFFになるからだが、稀にこの領域がONのまま夢を見ることがある。
 その状態の夢でも非現実的なことは起きるのだが、普通の夢と違って、「これは現実にはあり得ない、つまり夢だ」と気づくことができる。そこから訓練次第で、思いどおりの夢を見ることができるそうである。が、私が参照したどの本(拙稿末尾の「参考文献」に挙げた3冊、ほか数冊)でも、「訓練」の具体的内容に触れているものはなかった。
 いずれにせよ、思いどおりの夢を見るための第一歩は、夢を夢だと気づくことだそうである。
『歴史序説』で挙げられている例は、夢と自覚している夢なのかどうか明言はされていないが、斎戒と呪文という儀式はつまり、見たい夢を見るための自己暗示にほかならない。

『TH』拙稿で明晰夢に言及しなかったのは、「悪夢」がテーマだったためだが、もう一つ、私自身が「明晰夢のような夢」を割合よく見るからでもある。
「半明晰夢」とでも言ったらいいのか、明晰夢のようではあるけど、解説されてる明晰夢とはまた違う。そういう自分が、「明晰夢とは、かくかくしかじかである」とは記述しづらくてね。

 夢の内容は比較的よく憶えているほうだと思うが、記録はつけていないので、以下はだいたいの印象である。
 私が見る夢は「鑑賞型」と「体験型」に大別できて、前者は映画を観たり、小説や漫画を読んでいる夢。それらの「作品」は、いずれも現実には存在しない。「体験型」に比べて見る頻度は低いが、それでも3、4割にはなると思う。「ジャンル」は決まってSFやファンタジーなど、非日常系である。
「体験型」は私自身が夢の中でいろんな体験をする。日常的なシチュエーションから始まり、ストーリー性は低くて、とりとめがない。

 どちらのタイプでも夢だと気づく場合と気づかない場合があり、「鑑賞型」のほうが夢だと気づきやすい。
 夢だと気づくきっかけは、「体験型」の場合は、何か非現実的なことが起こる――たとえば人や動物、物がいつの間にか別の何かにすり替わったり、脈絡もなく場面が変わったりする。「鑑賞型」では、物語の辻褄が合わなくなることである。

 夢だと気づいていてもいなくても、まずやることは「バグの修正」である。思考するだけで修正できるが、あまり巧くいかない。
 たとえば「体験型」の夢だと、可愛い子猫と遊んでいたら、いつの間にか猫がぬいぐるみに変わってしまう(ちなみに猫は好きだが、飼ったことはない)→ぬいぐるみじゃない、本物(?)猫がいい→ぬいぐるみは生き物に変わるが、なぜか猫ではなく人懐っこいがタスマニアンデビルに似ている未知の動物→猫のほうがいい。だいたいこれ、野生動物じゃないか?→いつの間にか周囲は森になっている→ああ、この森に棲んでるのか……って、さっきまで屋内にいただろ!
 ……ってな具合である。「鑑賞型」の場合も、「体験型」よりは巧くいくが、すぐにまた辻褄の合わない展開になってしまう。

 また、どちらのタイプでも夢だと気づいているほうが修正は巧くいくものの、程度の問題に過ぎない。「体験型」の場合、夢だと気づいている状態で修正を推し進めようとすると、目が覚めてしまう。明晰夢を見ている時の意識は非常に不安定な状態なので、長く続くことはないのだそうだ。
 いろんなテキストの解説によれば、明晰夢は「訓練」によって超人的な活躍をしたり、神秘的な体験をしたりすることができるのだそうだ。しかし私は、夢だと気づいている時でも、そういう体験をしたいと思ったことがない。覚醒時でも、そういう夢を見たいとは思わないからな。
 強いて言うなら、どうせ夢の中の体験なら、もっと猫と遊びたいが、上記の例でも示したとおり、巧くいった試しがない。
 夢だと気づいていようといまいと、夢の中でも私は私で、どんなかたちでもスペックが上がることはない。仮に「体験型」の夢で、超人的な体験をするために自分のスペックを上げようと試みても、たぶん目が覚めてしまうだけだろう。「鑑賞型」では徹頭徹尾、鑑賞者に徹してるし。
 そもそも「体験型」は、そのとりとめのなさにイライラさせられる。「鑑賞型」は物語に一貫性があるので、夢を見るならそっちのほうがいいが、夢の「種類」を選ぶこともできない。

 夢の中で「鑑賞」する「作品」は、必ず私好みである、当初は。だから辻褄が合わなくなると、非常にイライラさせられる。夢だと気づいていようといまいと、バグ修正を繰り返しているうちに、ストレスがたまってくる。
 細かい修正を根気よく続けるお蔭か、「物語」の一貫性は保たれるものの、どんどんグロくてエグい展開になる。必ずなる。ものすごく生々しく、翌日は一日中胃がむかつくことすらある。
 グロくてエグいのが嫌だとか、どの口が言うかという感じですが、限度というものがあるのですよ……修正したくても、プロットや設定等をコントロールすることはできない。できるのは、細かい辻褄合わせだけである。

 以上のことから判るのは、私は自覚している以上に整合性にこだわっているということだが、それはともかく、こんな半端なコントロールしかできないのに、果たして明晰夢と言えるのだろうか。
 夢だと自覚しつつ、かつ(多少は)コントロールできる夢、というのは、遅くとも高校時代から見続けている。当時に比べると、現在はコントロール能力はいちおう向上しているし、夢だと気づく頻度も上がったようだが、30年間の進歩としては微々たるものである。「訓練」の方法なんて、見当もつかないしな。

 そういうわけで、明晰夢については歯切れの悪いことしか書けないのでした。

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