« 本当は怖い『ジェイン・エア』 | トップページ | フィクションと自己投影 »

男女間闘争としてのロマンス

 尾崎俊介氏の論文「後ろめたい読書――女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」について」(オンライン閲覧可)には、米国の「女性向けロマンス」(「通俗的で紋切り型」とされる恋愛小説。以下、代表的レーベルの名から「ハーレクイン・ロマンス」と総称する)の愛読者を対象として1980年に行われた、とある調査が紹介されている。
 それによると、調査対象者50人は全員女性で、大半が既婚者で子持ち。毎日夫と子供の世話をしなくてはならないし、人によっては外で働かなければならない。唯一の息抜きが、ハーレクイン・ロマンスを読むことなのだという。
 しかしこの「息抜き」は、同時に「後ろめたさ」で彼女たちを苦しめることになる。読んでいる間は家事や仕事を放棄することになるし、本を買うのにお金も使う。しかも彼女たちが愛するハーレクイン・ロマンスは、世間から「低俗な読み物」と見下されている。それらすべてが、「後ろめたい」というのだ。

 いや、息抜きというからには毎日何時間も読みふけるわけじゃなし、そのペースでは月に何冊も買えないだろう。しかもペーパーバックである。
 その程度の「贅沢」を後ろめたく思わざるを得ないって、どんだけ人権抑圧社会だよ。
 アメリカという国は、いろいろと差別がひどいが、それに対する抵抗運動も激しい(しばしば命懸けで行われる)ように思うんだが、このイメージがまったくの的外れというのでなければ、ハーレクイン・ロマンスの愛読者たちの状況は明らかに異常である。

 彼女たちの「息抜き」が同程度の金と時間を使う別の趣味だったら(別ジャンルの小説とか)、周囲からとやかく言われることは少なかっただろうし、何より彼女たちが後ろめたく思うことはなかったはずである。
 たとえば極端な話、ソフトポルノと揶揄されるハーレクイン・ロマンスではなく、がっつりハードポルノ小説だったとしても、バッシングはさらに強くなるかもしれないが、そういう「息抜き」を選ぶような女性は、「女がポルノを消費して何が悪い」と同じくらい激しく抵抗するだろう(アメリカという国へのイメージ)。

 調査が行われたのは1980年であり、今はそんなことはないと思いたい。しかし「後ろめたい読書」は、「ハーレクイン・ロマンスは読みたいけど、恥ずかしいから買えない」女性が大勢いることが明らかになった2000年代初頭の事例を挙げているし、ググったところ案の定と言うべきか、ハーレクイン・ロマンス(および類似レーベル)の電子書籍版が売り上げを伸ばしているそうだ。
 ハーレクイン・ロマンスを読むのは、それほどまでに「後ろめたい」行為なのだ。

 1963年にアメリカに登場したハーレクイン・ロマンスは、70年代に入って一大ブームを巻き起こす。これを受けて70年代末頃から、ジャーナリズムが「低俗な量産品とそれを読み漁る大勢の低俗な女たち」について、おもしろおかしく書き立てるようになる。
 こうした批判ですらない嘲笑や中傷に対し、女性の側からハーレクイン・ロマンス擁護論も出されたが、それらにしたところで、「低俗だけど、女性の息抜きになるからいいじゃない」というものであった。
 ジャーナリズムによる(男性が中心と思われる)バッシングの具体例は挙げられていないが、米国におけるハーレクイン・ロマンスの一般的評価は、翻訳小説を読んでいれば時々遭遇するものである(後日、事例を紹介する予定)。

 なぜハーレクイン・ロマンスは、アメリカ(ヨーロッパでも似たような状況らしい)でここまで叩かれるのか。
 この疑問はそのまま、「ではなぜ日本ではそこまで叩かれないのか」という疑問に繋がる。

 先日の記事で述べたように、オリエンンタリズム小説である「シークもの」について調べようとしたところ、このサブジャンルのみならずハーレクイン・ロマンスそのものの研究(邦文文献)がほとんど存在しないことを「発見」したのであった。
「日本におけるハーレクイン・ロマンス」に限定すれば、研究は皆無ではなかろうか(尾崎俊介氏の研究対象は、米国および西洋のハーレクイン・ロマンスである)。批評についても、せいぜいが「紹介」といったところだ。
 面倒なので出版点数の確認はしないが、ハーレクイン・ロマンスおよび類似レーベルから出版される小説、およびそのコミカライズ作品は、この出版不況においてすら相当な割合を占めているはずである。にもかかわらず、だ。

 まあアメリカでも、バッシング(低レベルな嘲笑や中傷)でない、研究や批評と呼べるものであっても、「低俗」であることを否定するものはほとんど無いようだ。
 それに比べれば、正面きって研究や批評の対象にされない代わりにバッシングも軽い(それでも読者にとっては充分すぎるほど不快であろうが)日本の状況は、遥かにマシである。

 アメリカでは70年代末のジャーナリズムによるバッシングに続き、80年代にはフェミニズムよるハーレクイン・ロマンス批判が始まった。要約すると、「経済力も社会的地位も高く傲慢なヒーロー(この場合はヒロインの相手役という意味)に、か弱いヒロインが虐げられ続けた挙句、従順な妻として屈服する」物語を喜んで読むような女は男の性的願望を助長させている、というのである。
 日米のフェミニズムの違いについては解らないので、日本でフェミニズムの立場から目立ったハーレクイン・ロマンス批判が見受けられない理由も解らないが、アメリカの場合は、その時期からも窺えるように、ジャーナリズムによるバッシング(「低俗な読み物に耽溺する低俗な女たち」)へのリアクションという側面もあるのではなかろうか。「女が全員そうだと思うな」的な。実際、そのうち沈静化したし。
 このフェミニズムからの批判に対し、やはり女性批評家によるハーレクイン・ロマンス擁護論も出された。ハーレクイン・ロマンスは「金も権力もあるヒーローを、ヒロインが愛の力で飼い慣らす」物語である、というのだ。

 ロマンスを男女間の権力闘争と見做すこうした批評は、結局のところ水掛け論にしかならないので、90年代には下火になったそうである。
 しかし近代小説の元祖にしてすべてのロマンスの元祖である『パミラ』(1740年)からしてすでに、男女間の権力闘争でヒロインが勝利する物語であり、作者のサミュエル・リチャードソンもそれを自覚していた。本編の前に、「編者リチャードソン」の「親友」を名乗る匿名の人物による『パミラ』への賛辞が置かれているのだが(もちろんリチャードソンによる創作)、その中に次のような一文がある。

 そうしてついには、この類まれなる忍耐と、勇敢にして俯仰不屈の守りによって、すっかり包囲されていた彼女が、包囲していた彼に対して輝かしい勝利を収めるのみならず、今度は彼をすっかり包囲してしまうということになるのです。

 この「勝利」とは、尾崎氏が挙げる、「ロマンスの元祖としての『パミラ』の3つの要点」のうちの②に当たる。

 ① ストーリーがすべてヒロインの一人称で語られる。
 ② ヒロインが固い貞操観によってヒーローを改心させる。
 ③ ヒロインはヒーローと結婚し、それによって身分が上昇する(玉の輿)。

 貞操は、キリスト教倫理の一部である。西洋においては道徳全般はもとより礼儀作法ですら「信仰」の要素であったが、『パミラ』の時代には、あまりに宗教色を前面に押し出し過ぎるのは敬遠されるようになり、「信仰」は「道徳」の一部となった。
 やがて「道徳」も敬遠されがちになり(すでに『パミラ』の道徳ですら、「偽善的で押しつけがましい」と反発を買っていた)、ロマンスのヒロインが行使するのは「愛の力」となったのである。

「愛」こそは欧米社会における絶対善にして最終兵器である。愛は元来、キリスト教的善である。キリスト教は重視しないが道徳は重視する者にとっても、愛は至高の道徳であり、キリスト教も道徳も敬遠する向きにとってすら、愛は最高の善である。

 では、パミラと彼女に続くロマンスのヒロインたちは善なる力でもって、具体的にはどのようにヒーローを「改心」させたのか。
 端的に言うと、ヒロインと結婚し、かつ死ぬまで彼女だけを愛し続けるようにさせたのである。

 キリスト教倫理においては婚外交渉は重罪だったから、結婚は「救済」であった(もちろん互いに不倫をしなければの話)。「愛ある結婚」が推奨されたのは、愛が絶対善であるというだけでなく、夫婦が互いに愛し合っていれば不倫もないはず、という理屈だからであろう。
 しかし近代に至るまで(というか近代に至ってもなお)結婚とは家同士の結びつきであり、しかも同じくらい永らく身分違いの結婚はほぼ不可能であった。
 独身の男女同士であっても、結婚を「恋愛の成就」とするのは難しく、プラトニックを貫かない限り「罪人」とならざるを得なかったのである。
 だが実態としては、女にとって婚外交渉は社会的な死を招きかねず(古い時代には実際に殺されかねなかった)、それが強い抑止力となったのに対し、男の場合は非難も実質的な制裁も、女のそれより重いことは稀だった。聖職者や信心家の説教など、馬耳東風である。

 パミラの「勝利」とはすなわち、「御主人様」に婚外交渉し放題の「権利」を放棄させ、「愛」によって彼女に一生縛りつけることに成功したという「勝利」である。
 パミラの勝利はまた「市民階級の勝利」でもある。市民階級の台頭によって、身分違いの結婚のハードルは低くなり、また結婚は個人同士のもの、という価値観も広まりつつあった。結婚を「恋愛の成就」とする可能性が広がったのである(『パミラ』は実話を基にしているのだそうである)。上流階級の男たちにとっては、下層階級の女に手を付けても、身分違いを理由に結婚を逃れられる可能性が減ったわけだ。
 しかも貴賤結婚で不利益を被るのは「貴」の側であり、御主人様にそこまでさせた、という意味でもパミラの勝ちなのである。

  また『パミラ』の時代より半世紀ほど下った18世紀末頃から、女には性欲がないという学説が次第に優勢になる。女は男を結婚によって「救済」する「家庭の天使」となったのである。

 ところで、西洋における愛は古来、キリスト教における絶対善であるだけでなく、「闘争」でもあった。この場合の愛とは、恋愛である(ヨーロッパ諸語に愛と恋の区別はないんだが)。以下、異性愛に限定して述べる。
 恋愛を闘争と見做す価値観が、いつ、なぜ、西洋に根付いたのかは不勉強で知らないのだが、闘争と性交を互換性のあるメタファーとするのは古来多くの文化に共通しているし、いわゆるプラトニックラブという概念は文化の洗練があって初めて成立するものであり、そうでなければ恋愛とはすなわち性愛である。
 肉欲が罪とされた西洋では、プラトン哲学としてのプラトニックラブが導入されるルネサンス期よりも早く、中世末期に貴婦人崇拝が流行し、以後も「理想的な愛」として称揚され続けたが、理想はあくまで理想であって、実態としては恋愛=性愛だった。

 上述のように、近代以前には結婚を「恋愛の成就」とするのが困難であり、高尚なプラトニックは理念上のものに過ぎないとなれば、即物的に性交渉の成立をもって「恋愛の成就」となる。
 ここに性交と闘争を同一視する価値観が加われば、「恋の勝者」は常に男ということになる。1回ヤりさえすれば、「勝者」は「敗者」を好きなように扱える「権利」を得たことになる。もちろん現実の戦争がそうであるように、「敗者」を手酷く扱うのは人倫に悖るが、「勝者」は人倫を無視することもできるのだ。

 このような恋愛観があるから、ドン・ファンのように次々女をヤリ捨てるだけの行為を、なんの疑問もなく「恋」と呼ぶし、女に膝を屈して散々愛を乞うていた男が、ヤった後は掌を返して冷たくする、という筋立てが、特にフランス文学では飽きもせずに繰り返される。
 つまりロマンスにおける結婚という結末は、

 ① ヒロインにとっては玉の輿(社会的・経済的な身分の上昇)という勝利だが、ヒーローにとっては身分違いの結婚によるさまざまな不利益(現代でもそれなりにある)を受けることになる「社会的な敗北」である。
 ② ヒロインにとっては愛という絶対善(元来はキリスト教倫理)によって、ヒーローに婚外交渉し放題という「悪」から足を表わせたという勝利だが、ヒーローにとっては「権利」喪失という敗北である。
 ③ ②のような倫理的な意味での「愛」による「敗北」のみならず、「闘争としての恋愛」においても、残る生涯を1人の女に縛り付けられるということは、その女への「敗北」を意味する。

 ②は、以前の記事で述べた「女性による男性の教化」であるが、婚外交渉し放題という「権利」に固執する男性にとっては、「善を振りかざす女による精神的去勢」にほかならない。
 日本でも「尻に敷く」という表現があるように、パートナーの女性に頭が上がらない男性を嘲笑するのは昔からだが、欧米と違って「女に飼い慣らされる」ことへの恐怖はそれほど根強くない。

 同様に恋を男女間の闘争とする見方も、日本にも一応あるにはあるが(「惚れた弱み」「惚れたが負け」等)、「勝ち負け」にこだわりすぎる向きは敬遠されるだろう。いや、身をもって痛感させられたからね。

 2000年代初頭のことだが、私はある非SF系小説新人賞への応募用に、恋愛を主題とした長篇を執筆した。応募に先立って数人の友人(互いに知り合いではない)に読んでもらったところ、彼らは異口同音に「主人公の性格がひどすぎる」とドン引きした。
 この主人公というのが、「惚れたが負け」の価値観を持つ15歳の少年で、私が表現したかったのは幼稚さゆえの冷酷さだったから、友人たちの反応は「大成功」であった。
 ……が、賞の選考委員をもドン引きさせて、「あまりにも殺伐としていて、この賞にはふさわしくない」という理由で3次選考通過止まりだったのだから、完全に本末転倒である。
 しかも読んでくれた友人たちからはその後、申し合わせたかのように(繰り返すが、彼らは互いに知り合いではない)距離を置かれ、最終的に縁が切れてしまったのだが、原因の少なくとも一部は、私自身が件の主人公と同じ価値観の持ち主だと思われたことであるらしい。もう散々ですよ。
 ことほど左様に、恋愛を勝ち負けだけで判断する見方は、日本人には馴染みがなく受け入れがたいものである。

 しかし恋愛を「男女間の闘争」と見るのなら、「(女性向け)ロマンス」とは「必ず女性が勝つ(必ず男が負ける)物語」である。
 その観点からすれば、たとえば『ジェイン・エア』(1847)は「男を支配せんとする女の底なしの欲望」の物語として読める。
 ただし前回の記事で述べたように、『ジェイン・エア』は「典型的なロマンス」とは言い難い。
 典型的なロマンスでは、そのヒロインも女性読者も、そのようなおどろおどろしい欲望をあられもなく抱いたりはしない。当時、ジェインの「反抗心」は男性からだけでなく女性からも批判されたという。

 ところで私は未だにハーレクイン・ロマンスもしくは類似レーベルの作品を一冊も読んでいないのだが、オリエンンタリズム小説分析のために「シークもの」を読まなくてはならないのなら、「典型的」な作品であればあるほど読む冊数を少なく済ませられる、ハーレクイン・ロマンスが好まれる理由の一つが「類型的」であることなら、人気のある作品ほど類型的すなわち典型的であるに違いない、という発想から、レビューサイトをあれこれ訪ねてみたところ、どうやら「気の強いヒロイン」は不評であるらしいことを「発見」した。
 これは何も日本特有の傾向ではない。本場アメリカでも人気なのは、か弱く内気で健気、清楚可憐なヒロインなのだそうだ。
 対するヒーローは傲岸不遜なので、その横暴にヒロインはひたすら涙を呑んで耐え忍ぶ。「踏みつけにされるヒロイン」ということで、「ドアマット・ヒロイン」と揶揄されている。

 一方、ジェイン・エアに限らず、古典ロマンスのヒロインは、私が知る限りでは総じて気が強い。パミラからして道徳を振りかざして御主人様に抵抗し(それが「押しつけがましい」と読者の不評も買っている)、『高慢と偏見』(1813)のエリザベスもダーシーに激しく反発する。
 まあヒロインの身分が特に低い場合は、いくら貞操観が強くても、気が弱かったら押し切られた挙句に罪悪感に押し潰される『テス』(トマス・ハーディ 1891)になっちゃうからね。

『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター 1912)も、ひねった構成ではあるが典型的なロマンスで、「あしながおじさん」は親切なだけじゃなくてジュディの行動をコントロールしようと干渉するが、彼女はそれに正論で抵抗する。また、出してもらったお金は何年がかりでも全額返済する気でいるので、おじさんが余分なお小遣いをくれたりしても断っている。
 すでに読んだ「シークもの」の元祖『シーク――灼熱の恋』(エディス・ハル 1919年)のダイアナも気が強いが、そもそも当時は気の弱い白人女性が砂漠の一人旅などしたりしない(現地人の同行者が何人いようと数には入れない)。

 ロマンスにおけるヒロインの性格の変化は、「身分の壁を乗り越える」ことがかつてより容易になったのが最大の要因であろうが、ハーレクイン社はリサーチを入念に行って、読者の好みを「製品」に反映しているそうなので、「気の強いヒロインは苦手」という傾向は元からあったのだがリサーチをするまで明らかではなかった、ということなのかもしれない。
 なぜ「気の強いヒロインが苦手」なのかは、読者の感情移入とか共感が絡んでくるのだが、それについては後日述べる(つもり)。
 作劇上の都合としては、ヒロインがヒーローを道徳や正論を振りかざして言い負かしたり、激しく罵ったりは一切せずに、ひたすら耐えて耐えて耐え忍んだほうが、ヒーローがついに膝を屈して愛を乞うた時のカタルシスは確実に大きい。
 また、愛を至高とするイデオロギーにおいては、ヒロインがヒーローに勝利するのは、あくまでも愛によってでなければならないのである。

 でも結局のところ、向こうの男性にとっては、ヒロインがどんな性格だろうと関係なく、「女が男を打ち負かす」物語がとにかく許せないんだろう。そもそも読んだ上で叩いてるのかも怪しいし。

 近作の「シークもの」を2冊ばかり読んだら、私がハーレクイン・ロマンスを読むことは二度となく、SFやファンタジーのレーベルに潜んでいるロマンス要素の強い作品を注意深く避けていくことになるだろう(いろいろ調べたことが役立てばいいな)。
 まして海外のハーレクイン・ロマンス事情など、いっそう関わりのないことである。ただ、「趣味を見下され、否定される」境遇というのは、どうにも他人事じゃなくてな。

 というわけで、次回はフィクションと自己投影について。

 まあどんな事情があろうと、自分で自分の趣味を肯定できない人には、じゃあその趣味やめれば、としか言えないんだが。

関連記事:
すばらしきウィルフ
「自然」と「文明」の性別は
サミュエル・リチャードソンはすごいぞ
本当は怖い『ジェイン・エア』

 

|

« 本当は怖い『ジェイン・エア』 | トップページ | フィクションと自己投影 »

諸々」カテゴリの記事