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フィクションと自己投影

 尾崎俊介氏の『ホールデンの肖像』によると、女性向け紋切り型量産ロマンス(以下、「ハーレクイン・ロマンス」と総称)は、「女性読者がヒロインに自己投影する」ことを前提に「製造」されているという。
 言い換えれば、ハーレクイン・ロマンスの読者は「ヒロインに自己投影する女性」だと見做されている、ということだ。

 ここで言う「自己投影」とは、心理学用語としての、否認したい自己の資質(欠点)を他人に投影するという意味での「自己投影」(自分の心の弱さを認められないので、他人の心の弱さを非難するなど)ではなく、キャラクターと自己を同一視し願望を充足させている、といった程度の意味だろう。
 以下、「自己投影」の語はこの意味で使う。
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 ところで、私は「物語」のキャラクターに自己投影することがない。幼少期から冒険ものとかバトルもの(絵本や童話にそんなものはなかったが、TV番組とか)を専ら好んでいたが、非常にものぐさだったので、自分で冒険したり闘ったりしたいとは思わなかった。
 仲のよい近所の女の子もヒーロー番組が好きだったので、ままごととかよりもガッチャマンごっことかウルトラマンごっこをすることが多かったが、しんどいしめんどくさいしで、あまり楽しくはなかった。しんどくならないだけの体力が欲しい、とは思わず、体力があろうがなかろうが、とにかく動き回らねばならないのがめんどくさかった。
(それらのヒーローたちの人形でも持っていればそれで遊んだであろうが、生憎40年も昔のこととて、私も彼女も「男の子のおもちゃ」は買ってもらえなかった。)
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 そういう体験が関係しているのかは不明だが、その後の人生でもフィクションに自己投影はしないというか、できない。
 では感情移入はどうかというと、これも定義が曖昧な語だが、とりあえず悲しい場面を観たり読んだりすれば悲しくなるといったように、ミラーニューロンは活動する(出来の悪い作品でなければ)。 
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 ロマンスのような恋愛メインの作品が昔から苦手だったが、その理由は考えたことがなかった。ロマンスの読者は自己投影するものだ、という大前提を挙げられて、なるほど私は自己投影をしない(できない)からロマンスが苦手なのだな、と納得する……より先に、まず抱いたのが、
「ロマンスの読者人口は日米ともに相当高いが、その人たちが全員、ヒロインに自己投影するものなんだろうか」
 という疑問であった。
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 これは何も、私が自己投影しない/できないから、というだけではない。
『ホールデンの肖像』を読むよりも先に、ハーレクイン・ロマンスを中心にレビューしている読書ブログなどを幾つか回ってみていたのだが、多くのレビューが感情移入(共感)できるか否かを作品の出来の良し悪しの判定基準としている一方で、その読者が自己投影していると明確に読み取れるレビューは見当たらなかったのだ。
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 で、続けて『ロマンスの王様 ハーレクインの世界』というムック本を読んだ(『ホールデンの肖像』の一部は、これに掲載されている)。
 この時はあくまで「シークもの」について知ることが目的だったから、大部分の記事は流し読みで済ませたのだが、巻頭のハーレクイン・ロマンス(レーベルおよびジャンル)の解説からして「ハーレクイン・ロマンスは読者がヒロインに自己投影する」ことが大前提であった。
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 そうした中、特異だったのが、杉浦由美子氏の「「恋バナ」をするように読む」である。全3頁中、4分の3くらいは「読者はヒロインに自己投影する」観点で論じているが、残り4分の1まで来たところで
「読者もそうそう簡単に異国のヒロインに自己投影できない。もっと客観的に読んでいるのではないか」
 と異議を呈する。そして
「私はハーレクイン作品を読んでいると、まるで女友達の「恋バナ」を聞いているような気分になってくる。もちろん「恋バナ」には時々、さまざまな願望が混ざった「妄想」が入ってくるものだ。そしてそんな話を聞いていると、ついついそれに対してあれこれと意見を言いたくなる。」
 と続け、
「そんな会話(恋バナ)は現実の自分の恋愛には少しも役に立たない。でもそれでいいのだ。なぜなら「恋バナ」は時に現実の恋愛自体よりもよっぽど楽しいのだから。女性にとって「恋バナ」はメジャーな一大娯楽だ。リアルの恋愛以外を題材にして「恋バナ」をしてもいいのではないか。優れた「恋バナ」の題材としてもハーレクインは求め続けられるだろう。」
 と締めくくる。
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 フィクションに自己投影しない/できないという自身の経験からも、ハーレクイン・ロマンスの読者レビューからも、杉浦由美子氏の見解は「ハーレクイン・ロマンスの読者はヒロインに(全員が必ず)自己投影するもの」という大前提(決めつけ)よりも、はるかに腑に落ちるものであった。
 なるほど、私がハーレクイン・ロマンスに限らず恋愛もの全般に興味が持てないのは、「知らない人の恋バナ」に興味がないからなのか。
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 友人知人の恋バナなら、その人についてより深く知ることができるので興味深い。とはいえ、当人が話したくない事柄を無理に聞き出す気はなく、当人以外から聞く気もない。
 したがって知らない人の恋バナには、まったく興味が湧かない。私にとって恋愛ものとは、初対面の全然知らない人、もう二度と会うこともない人から、一方的に恋バナをされているようなものなのである。
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 しかしそうなると、じゃあ再三再四繰り返される、あの大前提(決めつけ)はなんなん? という話になる。
 ハーレクイン・ロマンス(レーベル)は日米ともに入念な市場調査を行っているそうだが、「読者はヒロインに自己投影するもの」という大前提でいいのか? 仮に、文化あるいは価値観の違いによりアメリカの読者は(ほぼ)全員が自己投影するとしても、日本では明らかにそうじゃないんだが?
 まあそんなことは、ハーレクイン・ロマンスの読者でもない私が気にしてもしょうがないことである。たとえリサーチが間違っているとしても売れているのだから、読者の求めているものと偶々一致しているのであろう。
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 それより気になるのは、ハーレクイン・ロマンスを嘲笑する巷の言説までもが、「ハーレクイン・ロマンスの読者はヒロインに(全員が必ず)自己投影するもの」と決めつけていることである。「自己投影している」と断じていないとしても、この大前提の下でなければ成り立たないものばかりだ。
 つまり、「自己投影なんかしていない」の一言で否定できるものばかりなのである。
 これは日本に限った話ではなく、前回の記事で紹介した、アメリカで1970年代末に始まったハーレクイン・ロマンス叩きおよび批判にも言えることである。尾崎俊介氏はバッシング(批判とは呼べない嘲笑や中傷)については、「低俗」とされた、としか言及していないが、私が見つけた事例では、明らかに「自己投影」を前提としている(後日紹介)。
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 フェミニズムからの批判は、「男性優位の構造を容認している」という主旨なので、自己投影ではなく、恋バナを聞くように「客観的」に読んでいる場合にも一応は当てはまる。しかしこれに対するハーレクイン・ロマンス擁護論は、「女性の社会的・経済的成功は現実では困難なので、その願望を充足させてくれるもの」とする。やはり自己投影が前提だ。
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 ところで尾崎氏の論文「後ろめたい読書――女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」」(オンライン閲覧可)によると、ハーレクイン・ロマンスへのフェミニズムの立場からでない批判(主に男性による)は、1970年代末に突然始まったものではない。
 もちろんハーレクイン・ロマンスすなわち「女性向け紋切り型量産ロマンス」が米国に登場したのは1963年、大ブームとなったのは70年代に入ってからであり、上記のアンチ・ハーレクイン言説はその反動である。

 しかし『パミラ』以来、「ロマンスの3条件」(前回の記事参照)を満たす「紋切り型ロマンス」(まだ「量産」ではない)は、連綿と女性読者に支持されてきた。「後ろめたい読書」によれば、「紋切り型ロマンス」の発展は、読書する女性の増加と軌を一にしている。
 そして『パミラ』刊行からほどない1770・80年代頃から、「小説を読む女」へのバッシングが盛んになる。小説とは具体的にはロマンス小説のことで、「若い御婦人は小説に影響を受けやすいので、ロマンス小説のような劇的な恋と玉の輿結婚に憧れ、現実に不満を抱くようになる」というのである。
 英国に限らずこれ以後、西洋諸国では「(ロマンス)小説の読み過ぎで堕落する女」というステレオタイプが形成され、定着する。

 確かにフローベールの『ボヴァリー夫人』(1857)は、そのものずばりの内容で、「ボヴァリズム」という用語を生んだ。また19世紀のロシア文学でも、「フランスの恋愛小説を読み過ぎたお嬢さん」というステレオタイプが時々登場する。
 大方は「ロマンチックな空想に浸りがちな、やや~かなり頭がゆるふわなお嬢さん」という揶揄や苦笑のニュアンスだったように思うが、『戦争と平和』のピョートルの「堕落」した妻エレナや、男に騙されて「堕落」しかけるナターシャ(後にピョートルに「救済」される)は、「フランスの恋愛小説」を読んでたっけ、どうだったかな。あの作品では、「フランス文化」それ自体が「ロシア文化を損なうもの」という扱いだったのは確かだが。

 それにしても実際のところ、ロマンス小説を愛読する女性のうち何割が、「ロマンス小説のヒロインのような人生に憧れ、現実に不満を抱」いたのであろうか。一時的にならともかく、何年も何十年も不満を燻らせ続けた女性は、そんなに多かったのだろうか。まして、エマ・ボヴァリーのように自身も周囲も不幸にした挙句に破滅するような女性が、現実にいたとしてもその割合は。
 まあフローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉からも窺えるように、「理想と現実のギャップに悩む己自身」を彼女に投影したのであって、「ロマンス小説に耽溺する女性」を攻撃するのが目的だったわけではないのだが。
 しかしフローベールの意図がなんだったにせよ、エマ・ボヴァリーはまさに「(ロマンス)小説の読み過ぎで堕落する女」というステレオタイプそのものであり、そこには、ロマンス小説の愛読者の実像とは一切関わりなく、「女は馬鹿だから馬鹿げたロマンス小説なんかに夢中になり、馬鹿だからそれに影響されて堅実な人生に不満を抱き、堕落する」という偏見がある。 
 では、なぜロマンス小説が馬鹿げているかと言えば、「女が夢中になるもの」だから、であり、同語反復である。

 一方、文化果つる国アメリカではどうだったかというと、『パミラ』以来のロマンス小説は、前述の3条件の1つ、「ヒロインの固い貞操観がヒーロー(ヒロインのお相手)を改心させる」が強調され、若い女性に相応しい「道徳的な読み物」として大いに推奨されたという。
 しかも、1740年の『パミラ』の時点で、すでに「市民的道徳」の一部でしかなかった「信仰心」が、アメリカでは道徳の上に置かれ、20世紀に入ってもなおその状況だったのである。
 また、ヒロインとヒーローが結ばれるハッピーエンドではなく、「悪漢によってヒロインが誘惑され、堕落し、最終的に惨めな死を遂げる」という「誘惑小説」ですら、若い女性のための「道徳的な読み物」として喧伝されたという。
 なぜそんなことがあり得たかというと、これらの誘惑小説は完全なフィクションだったにもかかわらず、「実話」と銘打たれ、若い女性の「反面教師」だということにされていたからである(さすがに19世紀半ばには人気が廃れたそうだが)。

 実にアメリカらしい、プリミティヴな文化受容の仕方だな。
 そして上述したように、1970年代末になってようやく(ヨーロッパから200年遅れて)バッシングが始まるのである。

「自己投影している」という批判・バッシングは、「自己投影していない」の一言で否定できる、と上で述べた。しかし尾崎氏の論考に限らず文学史の類でも、ロマンス(ハーレクイン・ロマンスでも古典ロマンスでも)を登場させている(海外の)フィクションでも、「自己投影を否定するロマンス読者」に出会った覚えがない。
 では欧米のロマンス読者は、全員必ず自己投影するのか。
 そんなことはないと思うんだが、邦文文献が少なすぎ、かつこの記事で使っている意味での「自己投影」を英語でどう表現するのかすらわからない私には英文文献をチェックできないので憶測でしかない。が、たとえ否定したとしても聞く耳持たれないのではあるまいか。

 だって日本に限らず、フィクションへの「読者/視聴者/ユーザーは虚構と現実の区別がつかない」という批判・バッシングは、「読者/視聴者/ユーザーはキャラクターに自己投影している」とほとんど同義だからな。当の読者/視聴者/ユーザーたちが、「虚構と現実の区別はついている」と言っても、「自己投影していない」と言っても、まったく聞く耳持たれない。

 仮に虚構と現実の区別がつかなくて、問題を起こす人がいたとしよう(明白な犯罪に限らず、生き方や対人関係に支障を来すなど)。それは彼らがフィクションのキャラクターに自己投影した結果であるかもしれない。
 しかしフィクションのキャラクターに自己投影する人すべてが、虚構と現実の区別をつけられなくなるわけではあるまい。私はキャラクターに自己投影しない/できないので、推測でしかないが。自己投影したって、虚構と現実の区別がついていれば、なんの問題もないんじゃないの?

 要するに、特定の作品もしくはジャンルを叩く人々は、実際にそのファンがどのように作品を受容しているのかは眼中にない。その作品/ジャンルとファンを叩きたいから、「虚構と現実の区別がついていない」「自己投影している」ということにしたいのだ。
 フィクションを叩きたい輩にとって現実はどうでもいい、というのはすでに散々言い尽くされてきたことであり、にもかかわらずなんの効果も上げていないのだが、今日的な意味でのフィクションが成立して間もない18世紀後半以来の強固な「伝統」だもんな。効果がないのも当然なのかもしれないな。

 ところで「現実と虚構の区別がつかない結果、現実において問題を起こすから」という理由づけすらせず、自己投影という行為そのものを嘲笑する向きもあり、それを受けてか昨今では、同じ作品/ジャンルのファンの中でも、「自己投影しない派」が「する派」を叩くということが起きているようである。いや、昨今生じたのではなく、顕在化しただけかもしらんけど。

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