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少女漫画とハーレクイン

 先日の記事で、アメリカに比べて日本ではハーレクイン・ロマンスがそれほど叩かれない理由について、日本と欧米の恋愛観およびジェンダー観の違いを挙げた。
 欧米では(恋)愛を至上の道徳とする一方、恋愛を男女間闘争と見るので、「女が必ず勝つ(男が必ず負ける)物語」であるロマンスは女性に喜ばれる一方、男性には忌避される。また「男性を精神的に導く女性」と、その裏面である「男に道徳を押し付けて軟弱化させる女」というステレオタイプも古くからあり、ロマンスは女性の視点からは「女性が男性を精神的に導く」物語であるのに対し、男性の視点からは「女が男に道徳(=愛)を押し付けて軟弱化させる」物語なのである。
 日本ではこのような恋愛観およびジェンダー観が存在しない(一応あるにはあるが、根強くない)ため、ハーレクイン・ロマンスが(男性に)敵視されることがない。

 というのが主旨であったが、まあ仮にこれが正しかったとしても、「日本でハーレクインが(比較的)叩かれない」理由としては、潜在的なものでしかない。
 もっと顕著かつ重要な理由として挙げられるのは、少女漫画である。ハーレクイン・ロマンス(レーベル)が日本に上陸した1979年当時、すでに日本には少女漫画があった。

 少女漫画の典型的な定義に、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」というものがある。で、この定義はそのまま「読者(女性)は“白馬の王子様”を待つだけの人生を送るようになる」という批判・バッシングに繋がる。

 今、この記事を書いてる手を止めて、「白馬の王子様」でググると、「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけの女性」を批判する記事が大量に出てくる。
 そういう記事には、「少女漫画に出てくるような白馬の王子様」としているものが少なくない。が、具体的な作品名を挙げて記事は見当たらなかった。
 幾つかの記事は「白馬の王子様のルーツ」に言及しているが、挙げられるのは「白雪姫」や「シンデレラ」などの童話、あるいはそのディズニーアニメである。
 しかし今時、10代20代、あるいは30代40代の女性で、生き方にまで影響を受けるほど「白雪姫」や「シンデレラ」の童話やディズニーアニメに耽溺していた人っているんだろうか。

 直接の「影響源」が挙げられないまま、「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけの女性」が批判され、それと同様に、「少女漫画とは、なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”(的なイケメン)が迎えに来てくれる作品」という定義(決めつけ)でも、具体的な作品名が挙げられることはまずない。

 このような少女漫画評がいつ出てきたのかも、ちょっとわからない。とりあえず70年代初めまでに、漫画全体の中でも少女漫画を低く見る風潮が出来上がっていたようだが、「どのように質が低いのか」ということすら論じられない、批判はおろかバッシングですらなく、ただただ軽んじられていたという状況らしい。
 1960年代以前に少女漫画と同じ位置を占めていた少女小説も、同じような扱いだったようである。
 70年代後半になると少女漫画の質の高さを賞賛する評論家が出てくるが、その対象となった「24年組」の作品はいずれも、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」ものではまったくない。 

 私は1973年生まれで、中学に上がる80年代半ばまで家庭で漫画を禁止されていたが、図書館と年上のいとこたちのお蔭で、70年代~80年代前半の漫画はそれなりに読むことができた。後に復刊されたものもかなり読んでおり、それらに占める少女漫画の割合はかなり高い。80年代半ば以降はリアルタイムでも読んだから、90年代末くらいまでの少女漫画については、そこそこ知識があると言っていいかと思う。
 にもかかわらず、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」という定義に該当する作品を読んだ憶えがない。

 恋愛ものに興味がないのは昔からで、それらしきものは避けてきたから、その中に「白馬の王子様もの」も含まれてたのかもしらんが、少女漫画全体における割合は、ごく低かったんじゃないか? 
 いや、それを言うなら恋愛もの自体の割合も、それほど高くなかったのではあるまいか。もちろん恋愛をまったく扱ってない少女漫画は少なかろうが、恋愛メインでない作品ならごまんとあるぞ。
 まあ何をもって「恋愛メイン」とするか、という問題もあるが。そもそも私はフィクションにおける恋愛を、「物語の駆動」や「キャラクターの掘り下げ」の手段としか見ていないんで、恋愛に起因するドラマやコメディは楽しむけど、恋愛そのものの顛末や恋情の描写には関心がない。
 だから恋愛要素のある物語(少女漫画に限らないし、ノンフィクションも含む)における「恋愛そのものの顛末や恋情の描写」は印象に残らないし、「恋愛そのものの顛末や恋情の描写」中心の作品は読むのがつらい。
 そういう私にも楽しめる、恋愛メインでない少女漫画作品が大量にあるというのに、遅くとも80年代から現在に至るまで、「少女漫画=恋愛漫画」という偏見が飽きもせず再生産され続けている。

 言うまでもなく、「女は恋愛のことしか考えてない」という偏見があるからで、それはつまり「女は恋愛以外のことは考えるな」という願望なんだが、にもかかわらず(あるいは、だからこそ)「少女漫画=恋愛漫画=程度が低い」と見下される。未だに「少女漫画の枠を越えた」「少女漫画らしくない」といった物言いが、褒め言葉として通用している有様だ。

 そしてそのような少女漫画に耽溺していた女性は「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけ」になる、という言説は、18世紀後半以降のヨーロッパにおける、「ロマンス小説を読み耽る女は、玉の輿に憧れて現実に不満を抱き、道を踏み外す」というバッシングとまったく変わるところがない。中には「白馬の王子様を待ち続けて行き遅れる」どころか、「白馬の王子様願望に付け込まれて騙される」だの「結婚後も現実に不満を抱き、家庭を崩壊させる」だのと飛躍する人までいる。
 近代ヨーロッパでも現代日本でも、「読者(女性)はヒロインに自己投影している」ことを、(根拠もなく)大前提としているところも共通している。

 このような「有害論」を持ち出すことすらしない、「少女漫画を読むから女は馬鹿」「女が読むから少女漫画は馬鹿げている」というトートロジーは、1970年代末以降のアメリカのジャーナリズムによるハーレクイン・ロマンス叩きをなぞるかのようだ。
 こちらもおそらくは、「ヒロインへの自己投影」を前提としており、同時に「自己投影」という読書の仕方も見下している。

「日本におけるハーレクイン・ロマンス」に話を戻す。
 ハーレクイン・ロマンスは、「ハンサムで大金持ちだが愛を軽視しているヒーロー(ヒロインの相手役)を、ヒロインが愛の力だけで屈服させる」物語である。しかし上記のとおり、日本においては愛を「道徳」とする価値観も、恋を「男女間闘争」とする価値観も希薄である。
 したがって日本の読者が、「愛という絶対善の戦士であるヒロインが、愛を知らないセックスという悪行を繰り返してきたヒーローを改心させる正義の戦い」という道徳的側面を意識することはほとんどないと思われる。
 典型的なハーレクイン・ロマンスのヒロインは、容姿、才能、社会的地位といったスペックは、低めに設定してあるという(ただし容姿については、絶世の美女ではないものの可愛い系という設定が多い)。私はまだハーレクイン・ロマンス(および類似レーベル)は1冊も読んでいないんだが、古典ロマンスやロマンス要素の強いSFやファンタジー(近年、パラノーマル・ロマンスの進出が著しい)でも、ヒロインの容姿や社会的地位についてはハーレクイン・ロマンスと共通するようである。

 ただしSF/ファンタジーのレーベルから邦訳が出るだけあって、ハーレクイン・ロマンスの規格からすると変則的な作品が多いように思われる。ヒロインとヒーローが結ばれなかったりするのもそうだが、ヒロインの設定についても、容姿や社会的地位はともかく、才能は突出している場合が少なくない。
 気の強いヒロインが多いのも、「変則」であろう。古典ロマンスでも強気なヒロインが多いが、ハーレクイン・ロマンスでは内気なヒロインが人気だそうだ。

「愛という絶対善の戦士であるヒロインによる勧善懲悪」という側面を無視してしまうと、ハーレクイン・ロマンスは「なんの取柄もないヒロインが、ひたすらヒーローを愛するという以外はなんの努力もせずに、ヒーローを射止めて玉の輿」という物語になる。
 しかしすでに「そういうもの」として誹りを受ける少女漫画というジャンルが存在しており、かつ小説は漫画より上位カーストに置かれているため、ハーレクイン・ロマンスはバッシング対象とされてこなかったのではないだろうか。
(もちろん現状のハーレクイン・ロマンス低評価も充分不当だと思いますし、まして今後、今以上に叩かれればいいなどとは思ってないですよ)

 もう一つ、日本でハーレクイン・ロマンスが(比較的)叩かれない顕在的理由として、過激な性描写がないことも挙げられるんじゃないかと。まあこれについて論じようと思ったら、日本および欧米の女性向けポルノの歴史にまで踏み込まなきゃならず、そこまで脱線(オリエンタリズムの考察から)する気はないんで、ただの憶測、印象論に留めておきます。
(オリエンタリズムからしてがポルノの歴史と密接に結びついてるんだが、文献がないんだよ~)

「男女間闘争としてのロマンス」
「フィクションと自己投影」

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