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「幕屋の偶像(アイドル)」追補

 発売中の『トーキングヘッズ叢書』№79「人形たちの哀歌」に、「幕屋の偶像(アイドル)」を寄稿しております。

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 サーデグ・ヘダーヤトの二つの短篇、人形愛をテーマとした「幕屋の人形」(『生埋め』所収)とペルシア系仏教徒(=偶像崇拝者)が主人公の歴史小説「最後の微笑」(『サーデグ・ヘダーヤト短篇集』所収)を取り上げ、「イスラムにおける偶像観」を論じています。

「人形」がテーマの今回の特集ですが、いや実にいろんな切り口があるものですね。「人形」というと、人形愛と人形恐怖症(ホラーや怪談の題材としても)くらいしか思い浮かばなかった自分の不明を反省……
 言い訳をすると、実は5歳の時に怖い夢を見たせいで、かなり重症の人形恐怖症なのです。見たのは41年前の夏休み、ちょうど今頃ですが、古い無人の日本家屋になぜか入り込んでしまい、当時の自分と同じサイズの市松人形に追いかけ回されたという悪夢で、以来、人形だけでなくぬいぐるみも着ぐるみも怖い。

 それと学生時代、人形好きの友人(ハンス・ベルメールをとりわけ偏愛していた)がいたことから、人形愛と人形恐怖症は表裏なのではないかと思ったわけですよ。なぜ自分はこんなに人形が怖いのか、解明したいと思って。
 といっても、心理学や精神医学の分野では納得行く説明を見つけられなかったし、人形についての随筆や評論の類からも得られるものは少なくて、結局のところ調べると言っても、人形を題材としたフィクションを漁るくらいでしたけどね。しかもホラーは苦手なんで除外するから、作品数も限られる。

 そうして決して多くない作品を読んだり観たりしてきて思ったのは、人形の「人形らしさ」(端的にはたとえば関節の継ぎ目など)へのフェティシズムを表現したものは意外と少ないということ。ピュグマリオン伝説から『砂男』、『未来のイヴ』、それに「人でなしの恋」といった古典作品は、いずれも理想を体現する生身の女が見つからないから人形を身代わりにしている、と言える。
 そうではない、人形という物そのもの(フェティッシュ)への愛(フェティシズム)というのは現実にはかなりありふれているはずで、たとえば前記の友人がそうだったし、彼が好んだような人形を好む人たちの大半もそうではないかと思うのです。
 しかしこれまで私が出会った中で、そのような愛を真正面から捉えた作品だと思えるのは、リチャード・コールダーの『アルーア』と、ヘダーヤトの「幕屋の人形」くらいです。
 んで、「頑張ってとんがってます」のコールダーよりも、ヘダーヤトのほうが、現実の人形愛(フェティシズム)に近いものを描いているのではないかと(いや、コールダーも好きですけどね)。

 さて、「幕屋の人形」を読んだのは数年前のことですが、人間の具象表現(人形も含む)を偶像崇拝として排斥するのは、ムスリムの中でも偏狭な手合いに限られるとすでに知っていたので、ヘダーヤトが「正しく」人形愛を書き得たことを意外に思いはしなかったんですが(それに何しろヘダーヤトだし)、その少し後に「最後の微笑」を読んで、「……何これ」。
 まあ一言で言うと、仏教徒を仏像フェチとして描いてしまっているわけです。ヘダーヤトは「異民族」から押し付けられた信仰であるイスラムに反感を抱いており、ゾロアスター教や仏教、ヒンドゥーといった異教に強い関心を持って、かなり勉強もしていたようです。「最後の微笑」の主人公は、9世紀初頭にアラブ系であるカリフに粛清されたペルシア系の宰相で、その粛清理由は歴史上の謎なわけですが、ヘダーヤトは宰相の一族の先祖が仏教徒だったという史実から、粛清理由を「隠れ仏教徒だったのが露見したから」ということにしている。同じペルシア系である宰相に完全に肩入れしていて、仏教信仰も理解し共感しようと頑張ってるのが、読んでいてひしひしと伝わってきます。
 ……でも、「仏像フェチ」としか理解できていない。

 ヘダーヤトほどの知性と異文化共感をもってしても、こんな頓珍漢な異教理解しかできないのか、と。「幕屋の偶像(アイドル)」で、中世のムスリムの典型的な偶像観の例を挙げましたが、あれと根っこは同じだと思ったわけです。「偶像」崇拝を、「神の象徴としての偶像」崇拝だとも、偶像に「偶(やど)った」神あるいは神の力の一部の崇拝だとも理解せず、偶像という「物そのもの」(フェティッシュ)の崇拝(フェティシズム)としか理解しない、できない。
 その後、イスラム神秘主義についていろいろ調べて、イスラム神秘主義によく見られる聖者、聖廟、聖遺物などの崇拝は、要するにそれらに宿った「バラカ(神寵)」という「神の力の一部」の崇拝だと理解し、それでますます、ならばなぜ偶像崇拝をフェティシズムとしか理解できないのかと謎は深まるばかりなんですが。

 なお、中世イスラムの史料にしばしば現れる、「偶像崇拝者たちは馬鹿なので、狡賢い奴(旅行記や歴史書などの「実話」では神官、『千夜一夜』のような説話ではジン)が偶像の手足を動かしたり声色を使ったりするのに騙されて、偶像を神だと思い込む」というエピソードを、「中世ムスリムの典型的な偶像観」とするのは私見です。
 この類型化されたエピソードは、私が知る限りではイスラム初期の史料には見られず、10世紀の『中国とインドの諸情報』が最古の例の一つなんじゃないかと。まあ私の「知る限り」というのは日本語テキスト(論考でも原典翻訳でも結構な量は出てますが)に加えて英文を多少読んでるだけの本当に限りがあるものなので、専門家の御意見を伺いたいところです。

「ムスリムの偶像観」みたいなものを包括的に論じたテキストは見つけることができませんでしたし、イスラムに関する私の知識は、だいたい10世紀くらいまでならそこそこ詳しいと言えるのではないかと思いますが、それ以降は時代が下るに従って少なくなっていく(特に近現代は中央アジアに偏る)。
 そんなんで中世ムスリムと20世紀前半のヘダーヤトの偶像観を一括りにするのは些か乱暴かもしれませんが、ただ、「最後の微笑」の少し後に読んだ論文、記録を取らなかったので確認できないのですが、確かイスラム神秘主義がテーマで、日本人研究者の論文がメインだけど外国人研究者の論文の翻訳も幾つか入っているという論文集(書籍)に収められていた、中央アジア(たぶんカザフスタン)の女性研究者が現地の遊牧民の聖者崇拝を調査したものがありました。
 調査対象はとある聖者の廟で、泉の傍に建っている。自身もムスリマである研究者は、その聖者についての記録が見つからないので、実在しなかったに違いない、ということを批判的に述べていて(少々執拗な印象を受けた)、泉のほうはまったく眼中にない。まあちょっと齧っただけの私にも、真の崇拝対象は泉であり、遊牧民たちがイスラム化される以前から崇拝していた聖なる泉に架空のイスラム聖者をこじつけただけ、というイスラム圏全体で普遍的に見られる現象なのは明白なわけです。
 その論文を翻訳した日本人研究者の方も、注記で「なぜこんな明白なことに彼女は気づかないのか」という感じで困惑を表しており、どうも現代に至るまで多くのムスリムにとって、異教というのはどうにも理解しがたいものなのではないかと。

 いや、現代のイスラム聖者崇拝についての論考もかなり読んできたつもりですが、日本および欧米の研究者の間では、聖者崇拝はイスラム化以前の信仰との習合が多い、というのが常識である一方、ムスリムたち自身(実際に聖者崇拝を実践している人々や、それらを研究している人々)はその「常識」をどう考えているのか(あるいはそもそも知っているのか)ということに言及したテキストにはお目にかかったことがありません。聖者崇拝を「偶像崇拝」として弾圧する原理主義者たちにしても、この場合の「偶像」とは単に「神以外のもの(被造物)」というだけであって、歴史的背景とかは一切考えてなさそうだし。
 専門家の御意見を伺いたいところです。

 聖者崇拝というのはイスラム神秘主義の形態の一つでもありますが、神秘主義の最も根本的な精神は「信仰=愛」だと言っていいかと思います。拙稿でも挙げた『ラースと、その彼女』では、プロテスタントの善男善女たちが「人形愛は偶像崇拝に当たるか」を議論しますが、結論は「愛は崇拝ではない(からOK)」というものでした。しかしイスラム神秘主義だと、愛=信仰になる。つまり人形を神のように崇拝していると見做されかねない。
 だからヘダーヤトも、「最後の微笑」で偶像「崇拝」を描こうとして偶像「愛」(フェチ)にしかならなかったんじゃないかと。ただ問題は、ヘダーヤトが神秘主義の影響をどの程度受けているのかがわからないことで、そもそも「愛=信仰」という思想を発展させたのは中世ペルシアの神秘主義者たちですが、そのペルシアでは16世紀に成立したサファヴィー朝による徹底的な弾圧によって、神秘主義はすっかり衰退してしまっている。まあ現代に至るまでハーフェズの神秘主義詩が民衆レベルで膾炙しているなど、ペルシア文化に浸透してるのは確かなんですが、ヘダーヤト個人はどうだったのか。
 これでヘダーヤトがハーフェズを愛好してたりすれば話は簡単なんですが、彼が偏愛していたのはオマル・ハイヤームのほうで、しかもハイヤームを神秘主義者と見做していたかどうかもわからない。
 専門家の御意見を伺いたいところです。

 人形恐怖症に話を戻すと、じゃあ人形の写真でいっぱいの『TH』今号はどうなんだというと、まあ写真なんで実物ほどは恐怖を引き起こしません。それに私が一番恐怖するタイプの人形は「古びて汚れた安物の大量生産品」なので、近いタイプの図版は阿澄森羅氏の「あなたの知らない人形怪談の世界」掲載の「お菊人形」くらいでしたから。あれも単に「古びて」いるだけですし。手垢で汚れてるようなのが一番怖いんですよ。
「髪が伸びる」だの「動き回る」だのの怪異は屁とも思わんのに、「念が籠ってそう」なのが怖いのかもしれません。人形恐怖症の原因となった悪夢の市松人形は、別に古びても汚れても安っぽくもなかったし、我ながら恐怖とは非合理なものです。

 

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