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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その十

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次 

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.60
上段19行
バビル
「バビロン」のタージク(アラビア)語形。より原音に忠実な表記は「バービル」。長音を省略したのは冗長だから、というより、こちらのほうが「バビロン」や「バベル」との関連が判りやすいだろうと思ったから(『バビル2世』は観た/読んだことないです)。
「バビロン」は古代メソポタミア南部の中心都市「バブゥ・イリ」(アッカド語で「神(々)の門」)のユーナーン(ギリシア)語形。メソポタミア南部地方、あるいはその地の古代国家の名としての「バビロニア」もユーナーン語で、当地ではこれに該当する呼称はなかった。現代タージク語でも「バビロニア」に該当する表現は「バビルの国」という。
 本作でこの語を口にした大神官はユーナーン系なので、「バビロニア」の意味で「バビル」と言っている(使用言語はユーナーン語ではない。後ほど解説)。

暦の神シンとして
 ある宗教の神を別の宗教の神と同一視する、すなわち「習合」という概念はまだ存在しない、少なくとも明確に意識されていないので、「A教の神aは、B教では神bとして信仰されている」と捉えているのである。
 ユーナーン(ギリシア)の神ヒルミス(ヘルメス)がエジプトの神トフト(トート)と習合したことは多くの証拠があるが、ヒルミス/トフトがバビル(バビロニア)の神シンと習合したことを明確に示す文献または考古学資料は見つかっていないようである。
 しかし先日述べたように、中世の信徒(ムスリム)の大半は異教に無関心で、客観的な事実よりも偏見を優先するので、ハッラーンの多神教の教義に関する彼らの記録は当てにならない。人身供犠やら殺人を伴う妖術やらはすでに紹介したが、ほかにも「ハッラーンの宗教はファールス(ペルシア)の伝説的な王タフムーラスの時代にボザスプ(サンスクリット語ボディサットヴァ=菩薩)の僧侶たちがもたらしたもので、タフムーラス王はこれを受け入れ、太陽を崇めた」という無茶苦茶な説が流布していた(守川知子/稲葉穣・訳注/校訂『ノウルーズの書』東方学資料叢刊第19冊)。
 前述のように、ハッラーンで信仰されていたのは古代以来の月神シンである(月の神は暦も支配する)。このシン神殿が中世にはヒルミス信仰の中心地でもあったのは確実であり、水星神ヒルミスと月神トフトが問題なく習合されたのだから、ヒルミス/トフトと月神シンの習合にも特に支障はなかったであろう。
 作中でも言及しているように、ヒルミスが司るのは学問と技芸である。トフトは知恵の神であり、書記の守護神であり、技芸の神でもある。水星と月の違いはあれど、領分は重なるのである。そして月神トフトは時/暦も司り、同じく月と暦を司るシンは、運命をも操る強力な神だった。
 古代のタージク(アラブ)は「サイーン」と呼ばれる神を信仰しており、タージクは古来、太陽よりも月を重視してきた(現代に至るまで)のもあって、古い学説ではサイーンはシンのことだとされていたが、現在はサイーンが月神なのかは不明な上、音韻学的にも無関係だとされている(徳永里砂『イスラーム成立前の諸宗教』国書刊行会)。
 
なお、「シン」は原音は「スィーン」だったようだ。現代タージク(アラビア)語でも「スィーン」。「シン」とあまり変わらないし、ヒルミスやトフトと比べてメジャーな神というわけでもないのでそのまま。
 ヒルミス/トフトとシンとの習合の起源については、後ほど改めて解説します。

 続きます

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