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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その十二

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.60
下段7行
割礼
 古代のユーナーン(ギリシア)では包茎が是とされたことは、割と知られた話であろう。ハンス・ペーター・デュル『性と暴力の文化史』(法政大学出版局)によると、ペニスの勃起はたいてい意思とは無関係に起こるものであるため、知られている限りすべての文化で、勃起したペニスは豊穣や男らしさの象徴であると同時に、自制心の欠如の表れでもあると見做されてきた。そして露出した亀頭は、勃起していない状態でも勃起を思わせる。
 したがって理性を何より重んじたユーナーン人にとって、亀頭が露出していない(かつ小さい)ペニスは理性的である証しであり、「美」だったのである。
 一方、ユダヤ人とタージク(アラブ)は多くの文化的な共通点を持つが、神との契約として包皮を切除する割礼の慣習も共有している。おそらくこの慣習の本来の目的は、意図せぬ勃起すなわち意図せぬ亀頭の露出は自制心の欠如→意図的に常に亀頭を露出させておく=亀頭の露出(勃起)をコントロールできている=意志の強い男、という図式で導き出されるだろう。
 とはいえ彼らにとっても亀頭が恥部であることには変わりないので、かつてのユーナーン人と違って裸体を非常に嫌う(米軍はアブグレイブ刑務所でこの羞恥心を利用し、しばしば被疑者を裸にして拷問した)。
 そしてユーナーン人にとっては、割礼は野蛮極まりない風習であったことは想像に難くない。
 余談だが(いや、この「解説」自体、余談ですが)、欧米におけるユダヤ人差別の起源は、ヘレニズム期のユーナーン人にまで遡る。その原因は一言で言えば、当時のユダ王国が国家規模で展開していた強制改宗に尽きる。周辺の異民族を征服しては「神との契約」を結ばせる、すなわち男性に対しては強制割礼を施していたのである。ユダヤ教が「民族宗教」(原則として異民族の改宗はない。当然、布教もしない)となったのは、中世末期以降のことである。
 帝政ルーム時代になると、異民族の改宗者には割礼を免除する「半改宗」が主流となり、自主的な改宗者も増えるのだが、BC1、2世紀のユダ王国周辺にはユーナーン人都市が数多くあり、当然ながらその住民も割礼を免除されることはなかった(シュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』筑摩書房)。
 ……さぞや憎んでも余りあったであろうなあ、と他人事ながら同情する次第である。
 話を戻すと、神官たちは亡命者の子孫であり、もはやユーナーン語は母語ではなく、混血も進んでいるが、だからこそ父祖の文化に執着している。そこには包茎を美とする価値観も含まれているだろう。
 この発言はユーナーン語だったため、イスマイールには通じなかったが、彼がユーナーン語を知らないという確証があったわけではないし、ジャービルがユーナーン語に堪能なことは神殿の全員が知るところである。
 発言者、そして大神官も含めた彼らの態度は、支配者であるタージク人に阿りつつ、内心では無知なバルバロイと見下していることを示す。

書字板
 古代・中世のメモ用紙。板に厚く塗られた色つきの蝋に、金属などの硬くて先の尖った棒をペンにして書く。表面を均せば、また新たに書き込める。「蝋板」とも言う。2枚の蝋板を蝶番で繋ぎ、蝋を塗った面を内側にして閉じれば、携帯にも便利である。
 古代メソポタミアで発明され、ユーナーン(ギリシア)、ルーム(ローマ)、中世ヨーロッパへと継承された。本作の時代(AD8世紀半ば)のハッラーン(メソポタミア北部)でも使用されていただろう。
 信徒(ムスリム)には、なぜか継承されることはなかった。本作から20年ほどで、紙の大量生産が始まったのが大きかったのは確かだろう。それ以前はと言うと、メモ用紙が必要なほど書きものをする習慣が、タージク(アラブ)にはなかった。
 一度に多くの計算をする場合、書くスペースを要するが、計算過程は保存の必要がない。中世の中東では計算専用の筆記具として、筆算と一緒にシンド(インド)から伝わった「算板」が使われた。板に砂を敷いたもので、書いたり消したりが容易である(三村太郎『天文学の誕生』岩波書店)。
 そのため筆算は、本場のインドと同じく「塵計算」と呼ばれた。蝋引きの書字板よりも安上がりだが、使い勝手は悪そうである。
 筆算については後ほど改めて解説します。

 続きます。

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