「ガーヤト・アルハキーム」解説 その十八
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.62
上段18行
あらゆる事物事象はエネルゴンから……
現実において、あらゆる物質がエネルギーに変換できるように、本作の世界でもあらゆる物質はエネルゴンに変換できる。ただし現実の物理と比較して、変換は非常に容易である。
とはいえ、p.59の「防護霊」のように、ごく短時間「発現」(個別のまとまった形で出現すること)させるのはかなり容易であるものの、作中で言明されているように、出力の調整は困難だし、長時間安定した出力を保つのはさらに至難の業である。
「エネルゴン」と現実の物理学における「エネルギー」とのもう一つの違いは、生命現象も、ニューロン・ネットワークから生み出される思考や感情、さらには精神そのものも、エネルゴンから構成されている、つまりエネルゴンに変換できるということである。
数学という普遍の言語
この世界における数学は、数秘術的な側面も多分に有している。つまり各数字が意味を持っている、それぞれ何かを表している、ということである。
数字に意味がある(何かを象徴している)という考えは非科学的だが、それでも数秘術は数学の知識と正確な計算を必要とする。本作p.59で登場した「魔方陣」が、その好例である。また、この魔方陣が描かれた護符の裏側に描かれた六芒星も、コンパスや定規を使って正確に作図されたものである。
これが「魔術」であれば、魔方陣ではなく呪文、六芒星その他の記号の作図はフリーハンド、ということになる。
各数字が表わす(象徴する)ものは、おそらく文化によって異なる。詳しくは後述。
錬成
物質を構成するのがエネルゴンである以上、その構成を変えれば物質の変成が可能である。再現性の概念を持たない「魔術」による物質変成は、ほとんど偶然に近い。
「錬成」という語については次々項を参照されたい。
黒土の国(キーム)
古代エジプト人は自らの国土を「ケメト」すなわち「黒土/黒い大地」と呼んだ。エジプトのユーナーン(ギリシア)錬成術(錬金術)の最盛期であったAD4世紀のエジプト語であったコプト語では「ケーメ」という。
タージク(アラビア)語にはe音がないので、「キーム」となる。本作では、同じ単語が言語によって発音が多少変わる場合、煩雑さを避ける便宜上、表記をなるべく統一している。
黒土の国の術(キミア)
ヘレニズム期のユーナーン(ギリシア)人が錬成術(錬金術)のことをなんと呼んだのかは、資料によって「ケメイア」「ケミア」「キミア」「キュメイア」等、表記がばらばらである。ギリシア文字のラテン文字への置換、そのカタカナ表記に伴う問題であろうが、原典史料のスペリングも統一されていないのだろう。本作ではタージク(アラビア)語の「アルキーミヤー」に近い「キミア」を選択。
「キミア(錬成術)」という語がエジプトの古名である「キーム」に由来する、というのは、多くの研究者によって否定されているが、現在でも通説と言っていいほど流布している。この説は、古くはAD1世紀のプルタルコスにまで遡るそうだ。
1965年に書かれたアシモフの『化学の歴史』は、この「黒土の国の術」説を紹介した後、「現在、いくぶん支持者の多い第二の説」として、「植物の汁」を意味するユーナーン(ギリシア)語「クモス」語源説を紹介している。こっちのほうが「黒土の国の術」説より、さらにこじつけめいてると思うんだが、それはさておき、この『化学の歴史』の邦訳は河出書房(「新社」ではない)から出ていて、私が読んだのは1977年の「新装版」で(新装でない旧版の出版年は記載がなかった)、河出書房側によるアシモフの紹介が、小説家であることに一言も触れていなくて、1977年にもなってこの有様とは、当時はSFもミステリも地位が低かったんだなあと、むしろ感心したものである。
話を戻すと、私自身は「キミア」の語源としては、AD4世紀初頭のゾシモスの錬成術理論と、3世紀の金属加工(金や銀の模造など)術とに明白な関連を見出せることから、金属の鋳造を意味するユーナーン語(これも資料によってラテン文字およびカタカナの表記がさまざま)から派生したという説が最も妥当であると思う。このことから、本作では「錬成」という語を使うのである。
参考:R・J・フォーブス『古代の技術史』浅倉書店、ローレンス・M・プリンチーペ『錬金術の秘密』勁草書房
しかしエジプトにルーツを持つ中世のユーナーン人錬成術師たちが信じていたのは、「黒土の国の術」説であろう。
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