「ガーヤト・アルハキーム」解説 その九
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.60
上段14行
錬成術の祖
ヘルメス・トリスメギストスのこと。作中でも解説されているように、ユーナーン(ギリシア)の学問と技芸の神ヒルミス(ヘルメス)が、アレクサンドロス大王(在位BC336−BC323)の遠征以後、エジプトに持ち込まれ、当地の知恵の神トートと同一視された(この「習合」については後述)。
やがてヘレニズム文化の下、エジプトで錬成術(錬金術)が盛んになると、ヒルミス/トートは錬成術の祖と目された。ほかにもイシス、アガトダイモーン(「善霊」の意で、知識を司るユーナーンの神。エジプトの農耕神クヌムと同一視された)といった神々も錬成術の祖とされ、彼らの作とされる錬成術文書も作られた。
これら神々のうちヒルミスが、神と同名の人間だと考えられるようになり、錬成術の祖にして魔術師ヘルメス・トリスメギストスとなった。「トリスメギストス」は「3倍偉大な」「3重に偉大な」等と訳されるが、「3」の由来は諸説あって不明。
マーニー
「マニ」の表記が一般的。「マーニー」のほうがより原音に近く、その宗祖の名は「マーニー・ハイイェー」と長音を省略せず表記するのが定着しつつあるようだが、宗教としての呼称は「マニ」教のままである。
以前述べたように、私は「原音に忠実な(カタカナ)表記」にはこだわらないのだが、ゾロアスター教を「マギ教」としたため、「マニ教」だと紛らわしくなってしまうのである。
本作の時代(AD8世紀半ば)は、中東におけるマーニー教の最盛期だった。これは一つには、支配者であるタージク(アラブ)たちが異教に寛容、というか無関心だったからである。
もう一つの理由は、マギ(ゾロアスター)教を国教とし、異端を厳しく取り締まっていたサーサーン朝ファールス(ペルシア)が滅んだため、その締め付けからファールス系知識人が解放され(マギ教は民族宗教なので、異民族への布教はなかったが、ファールス系が異教や異端思想を信奉することは許されなかった)、彼らにとって単純すぎるイスラムよりも、衒学的なマーニー教に惹かれたためである。
本作からわずか数年後、「異端」への大弾圧が始まり、マーニー教も大打撃を受けることになるのだが、とりあえず本作とは関係ない話である。
参考:青木健『マニ教』(講談社)
預言者
マーニー(マニ)教の最大の特徴は、あらゆる宗教の要素を取り込み、それらの宗教に「擬態」することだった。だからこそ恐れられたのだが、とにかくその伝で、中東のマーニー教徒たちはヒルミス(ヘルメス。ここでは神ではなく賢者ヘルメス・トリスメギストス)を宗祖マーニー・ハイイェー(AD216−277)に先行する大預言者の1人に数えた。ちなみにマーニー教における預言者は、布教先での競合宗教によって変わる。マギ教ならザラスシュトラ(ゾロアスター)、キリスト教ならイエス、仏教なら釈迦である。
「預言者ヒルミス」はマーニー教を迫害したイスラムの神学および民間信仰に入り込み、ハヌーフ(旧約聖書のエノク)など著名な預言者と同一視されるようになった。本作の時点(AD8世紀半ば)では、まだその段階には至っていない。
参考:アンリ・コルバン『イスラーム哲学史』第4章(岩波書店)、イブン・バットゥータ『大旅行記』第1章(平凡社)
アイギュプトス
ユーナーン(ギリシア)人はエジプトをこう呼んだ(というか、「エジプト」の語源である)。当地の創造神にして鍛冶を司るプタハに由来するが、ユーナーン神話では同名の王に因むとされる。
ミスル
「エジプト」のタージク(アラビア)語名。現在のエジプトの正式名称「エジプト・アラブ共和国」も、原語では「エジプト」の部分が「ミスル」である。
エジプトはAD639年にイスラム軍によって征服された。この「大征服時代」、イスラム軍は征服した土地に支配拠点となる都市を定め、タージク人を氏族単位で移住させた。これを「ミスル(軍営都市)」と呼び、エジプトにも置かれたので、資料によっては国名「ミスル」の語源としているが、まあ旧約聖書でエジプトを指す「ミツライム」のタージク語形である「ミスル」(同音異義語)のほうだろう。
「ミツライム」はノアの息子ハムの息子でエジプト人の祖となった同名の人物に因むとされるが、もちろん順序は逆。ヘブライ語やタージク語と同じセム語のアッカド語で「境界地域」を意味する語に遡るそうだ。
いずれにせよ、この名称が広まったのは、タージクによる征服後である。「アイギュプトス」に由来するタージク語の呼称もあって、「キブト」という。日本でいうところの「コプト」。
トフト
トート神のタージク(アラビア)語形。「トート」はユーナーン(ギリシア)人による呼称だが、本来の古代エジプト語の名の転訛だとされる。
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