「ガーヤト・アルハキーム」解説 その十九
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.62
預言者二本角(ズールカルナイン)
イスラムの聖典では、「二本角(ズールカルナイン)」なる人物の事績が語られている(第18章)。唯一なる神によって力を与えられた彼は、陽の没する処から陽の昇る処まで世界を巡って信仰を広め、最後に世界の果てに辿り着く。
そこには二つの峰が聳え立っており、その向こうには野蛮な「ヤージュージュとマージュージュ」の民が住んでいる。この蛮族に苦しめられている人々の嘆願により、二本角は双峰の間に巨大な壁を築き、蛮族を封じ込める。
「ヤージュージュとマージュージュ」とは、旧約聖書の「ゴグとマゴグ」のタージク(アラビア)語形である。イスラムの聖典や伝説には、旧訳・新訳聖書のエピソードやユダヤ・キリスト教の伝説が数多く採り入れられている。「二本角」は聖書はもちろん、ユダヤ・キリスト教の伝説には登場しないが、AD3世紀頃にアレクサンドリアで編纂されたとされる「アレクサンドロス物語」(アレクサンドロス大王の遠征に従軍したカリステネスに帰されている。『アレクサンドロス大王物語』のタイトルで国文社から邦訳あり)の中の、ユダヤ色の強い系統の写本では、大王がゴグとマゴグの侵略を防ぐ壁を山峡に建設している。
したがって「二本角」の呼称の由来は不明ながら、それがイスカンダル(「アレクサンドロス」のタージク語形)のことであるという認識は、早くからイスラム世界に広がっていた。この認識が「定説」となる経緯は省略するが、聖典において「神から力を授けられた信仰の戦士」という位置づけであるため、二本角=イスカンダル=預言者、という図式も早い時期から成立していた。
イスカンダルは異教徒だったはず、と反論する識者もいるにはいたが、大半の人はそういう細かいことは気にしなかったのである。
以上は、本作が掲載されている『ナイトランド・クォータリー』vol.18の特集、国立民族学博物館の特別展示「驚異と怪異――想像界のいきものたち」を企画された山中由里子氏の『アレクサンドロス変相』(名古屋大学出版会)に拠る。同誌のブックガイドで紹介されているので、ぜひ御参照されたい。
位取りと零の概念
零の記号と位取り方式による数字が記されたシンド(インド)最古の文献は、AD9世紀のものである。しかしこれは現在のシンド国内に限った話であり、シンド文化圏全体で見れば、パキスタンで発見された4‐5世紀のものと思われるサンスクリット語文献まで遡ることができる(ジョージ・G・ジョーゼフ『非ヨーロッパ起源の数学』講談社)。つまり成立は、さらに早い。
およそ三百年前
シンド(インド)数学(位取りと零、そして計算術)についての、シンドより西における最も早い記録はAD7世紀のシリア系キリスト教徒によるものだが、もちろん伝播はもっと早かったはずだ。
AD5世紀のアレクサンドリアはシンドとの交易が活発で、多くのシンド商人が訪れていた。このことから、K・メニンガーは『図説 数の文化史』(八坂書房)の中で、この時代のアレクサンドリアにシンド数学が伝わった可能性を指摘している。
計算術
要するに筆算。小学校で習うあれの基礎となったものである。位取りと零の概念があって初めて可能になるものであり、本作の時代(AD8世紀半ば)の中東においては、紛れもなく特殊技能であった。
参考:三村太郎『天文学の誕生』(岩波書店)
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