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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その八

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。

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 ああっ、家からココログに繋がるようになった!

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.60
人の業とは思えないほど……
「幕屋の偶像」(『トーキングヘッズ叢書』№78)で述べたが、ジャーヒリーヤ(前イスラム)時代のタージク(アラブ)は、彫像を崇拝対象としても美術品としても好んだが、なぜか自分たちで作ろうとはしなかった。単純な浅浮彫がせいぜいである。
 ユーナーン(ギリシア)人の写実的な彫像は、もちろん大人気だった。自分たちには作ることのできない見事な像に、タージクたちはひょっとしたら「人間わざではない」とすら思っていたかもしれない。聖典には、預言者にして偉大な魔術師であるスライマン(ソロモン)王がジン(妖霊)たちに彫像(おそらく広間に飾るためのもの)を作らせた、とある。
 
このように、イスラムの聖典では偶像崇拝は厳禁しているものの、人を含む動物の具象芸術には肯定的である。もっとも人(動物)の具象表現が偶像崇拝に通じることへの恐れは早くからあったようで、現存する初期の宗教施設(AD7−8世紀)に見られるのは植物や無生物のモチーフだけである。
 一方、世俗芸術にはそのような制約はなく、現存する8−9世紀の宮殿や写本にはサーサーン朝風、あるいはルーム(ローマ)風の人物画や動物画が多数描かれている。
 
後代のイスラムの、偶像崇拝と具象芸術を同一視する傾向は、預言者ムハンマドが絵画に難色を示したとか、画家は地獄に落ちると述べた、という伝承を根拠とする。しかし聖典がムハンマドの死から20年ほど後に編纂されたのに対し、彼の言行についての伝承が編纂されたのは200年以上後の9世紀以降である。
 
参考:『世界美術大全集 東洋編17 イスラーム』(小学館)、徳永里砂『イスラーム成立前の諸宗教』(国書刊行会)、阿部克彦「民衆のなかの聖なるイメージ」(『民衆のイスラーム』山川出版社)

イスマイールたちの倍ほどの年齢の……
 メソポタミアの月神シン(またはナンナ)は最古の都市の一つであるウル(現在のイラク南部)の主神だが、ハッラーン(現在のトルコ南西部)も古来、ウルと並ぶシン信仰の中心地だった。ウルのシン神殿の名をエキシュヌガル、ハッラーンのそれはエフルフルといった。
 シンは男神であり、歴代の王朝は王家の女性をシンの妻として両神殿へ送った。男性神官もいたのかどうかは寡聞にして知らないのだが、「神の妻」のほうが地位が高かったのは間違いない。
 新バビロニアの最後の王ナボニドス(在位BC555−539)は、ハッラーンのエフルフル神殿の神官だった母の影響でシンを篤く信仰した。ファールス(ペルシア)のキュロス大王は、バビロニアを滅ぼしたのはナボニドスに蔑ろにされたマルドゥク(バビロニアの主神)に懇願されたからだ、と碑文に記した。
 参考:岡田明子/小林登志子『古代メソポタミアの神々』(集英社)
 ハッラーンのシン神殿は、AD11世紀初めまで存続するが、女性神官の伝統が続いていたかどうかは寡聞にして知らない。それでも本作において神官長が女性であり、上級・下級を問わず女性神官の比率が高いということにしたのは、この神殿が中世の中東におけるヒルミス(ヘルメス)主義の中心地であり、アレクサンドリアの錬成術(錬金術)との関わりが深かったこと、そしてアレクサンドリアの錬成術(錬金術)師には女性が少なくなかったことに因む。
 アレクサンドリアのユーナーン(ギリシア)学術は女性に対しても開かれており、哲学者のヒュパティアが有名である。AD415年、キリスト教徒たちによるヒュパティアの惨殺は、古代以来の知の伝統の終焉を象徴する事件だった。

 前回が長かったし、次回も長くなる予定なので、今回はここまで。

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