「ガーヤト・アルハキーム」解説 その五
『ナイトランド・クォータリー』vol.18掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
その一 p.56~(頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。以下同)
その二 p.58上段11行~
その三 p.58上段23行~
その四 p.58下段8行~
p.59
発熱
「操霊術」によって発現させた「霊」は熱源に使われることもあると思われるが(後述)、そうでない用途の場合、発熱するのは発現に無駄があるからである。
スライマン
旧約聖書のソロモン王のこと。イスラムでは預言者にして偉大な魔術師とされ、特にジン(妖霊)の使役に長けていたことは聖典でも述べられている。『千夜一夜』には、スライマンに封印されたジンがしばしば登場する。
原音に近い表記は「スライマーン」だが、冗長なので長音は省略。外国語の仮名表記ついては、日本語を表音するために作られた文字で外国語の「原音に忠実な表記」なんて限界があるじゃん、という考えです。
「幕屋の偶像」(『トーキングヘッズ叢書』№79)でトルコ風の発音である「スレイマン」の表記にしたのは、日本では「スライマン/スライマーン」よりも馴染みがあるような気がしたからだが、別にそんなことはないかもしれない。
六芒星
ユダヤ・キリスト教の民間信仰では六芒星を円で囲んだ図形をソロモンに結び付けているが、その由来は不明。『千夜一夜』でジンを封印する「ソロモンの封印」が具体的にどのような外見なのかの描写はないが、六芒星自体はモロッコの旧国旗に見られるように、イスラムでも聖性を帯びたシンボルとしてしばしば使われてきた。ので、解りやすさを出すために採用。「操霊術」においては、次の次の項で解説する「魔方陣」のほうが重要である。
作図は精確
後ほど言及するが、「霊」の操作においてシンボルの象徴的意味を重視して作図の精確さにこだわらないのが魔術、象徴性よりも幾何学的な精確さにこだわるのが錬成術(錬金術)。
四行四列に区切られた正方形
魔方陣。中国からインドを経由して中東に伝わった。中東における魔方陣についての最初の著作は9世紀半ばのサービト・イブン・クッラのものだが(ジョージ・G・ジョーゼフ『非ヨーロッパ起源の数学』講談社)、遅くとも7世紀半ば以前にはインド数学が知られていたので(三村太郎『天文学の誕生』岩波書店)、魔方陣もその頃伝わっていた可能性がある。
ちなみにサービト・イブン・クッラは本作の舞台であるハッラーン出身である。
シンド数字
「シンド」は中東におけるインドの呼称。厳密には西北インド(現在のパキスタン辺り)を指し、それ以外のインド全体を「ヒンド」と呼ぶが、あまり使い分けられることはなく、「シンド」も「ヒンド」も漠然とインド全体(現在のパキスタン、インド、バングラデシュから広義には東南アジアまで)を指した。これは『千夜一夜』のような説話や一介の船乗りによる航海記から、一流の学者による史書や地誌でも変わらない。
「シンド」のほうが響きが好きなので採用。
シンド(インド)の数字はその数学とともに、遅くとも7世紀半ばには中東で知られていた(前項)。「アラビア数字」の原型であり、タージク(アラビア)語では現在でも「ヒンド数字」と呼ぶ。
別の組合せを検討してみましょう
錬成術(錬金術。本作では操霊術や数学も含む)の知識と技能は、本職であるジャービルのほうが上。イスマイールはあくまでアマチュアである。
聖都マディーナ
半島(アラビア半島)西部の都市。「メディナ」と表記されることが多い。イスラム第二の聖都。イスマイールの一族は代々このマディーナを本拠地とする。ハッラーンは現在のトルコ南西部なので、とても遠い。
彼らがルームの皇帝(カイサル)に逐われてから……
「カイサル」は「カエサル」の転訛。ルーム(ローマ)の皇帝全般を指す一般名詞。この意味での「カエサル」は早くも新約聖書に見られ(「カエサルの物はカエサルに」)、後代の西洋でも「カイザー」や「ツァーリ」など国家元首の称号とされた。
「カイサルに逐われ」た、というのは、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によるアテナイのアカデメイア閉鎖(AD529年)を指す。プラトンによる創設(BC387頃)以来、古代の知の総本山であったアカデメイアの学園は、同時にキリスト教化したローマ帝国内における異教(ギリシアの多神教)の最後の牙城でもあった。キリスト教の国教化から200年以上経ったユスティニアヌス帝の時代でも、学園の哲学者たちの大半は古代の神々を信仰していた。
哲学者たちはサーサーン朝領内に亡命し、皇帝ホスロウ1世に庇護を求めた。学芸保護で名高いこの皇帝の下で、ファールス(ペルシア)にヘレニズム学術が花開いた―-というのが通説であるが、実際には亡命した哲学者は7人だけで(学生も同行していたかもしれないが)、しかも532年のホスロウとユスティニアヌスが結んだ平和協定によって安全を保障されたので、全員アテナイへ帰国している(國方栄二『新プラトン主義を学ぶ人のために』7章 岩波書店)。
まあホスロウ1世がユーナーン(ギリシア)やシンド(インド)の学問の収集に熱心だったのはサーサーン朝の史料に明記されており、イスラム時代に入ってからも有名な逸話としてたびたび史書に記されている(後述)。ただ、ユーナーンというかヘレニズムの学術の東方流入に関しては、アレクサンドロス以来、連綿と続いており、ことにローマで異端とされたネストリウス派などの諸宗派の役割が大きい。高橋英海「ユーラシアの知の伝達におけるシリア語の役割」(『知の継承と展開』 明治書院)、嶋田襄平「「翻訳時代」前史」(『オリエント』13巻3-4号)、伊藤俊太郎『近代科学の源流』(中央公論新社)第5章など。
とはいえ、ホスロウ1世がハッラーンに「ユーナーン(ギリシア)人の学校」を建てたのは、哲学者たちの受け入れが契機であっただろうし、彼らの帰国後もこの学院は存続し、上述のサービト・イブン・クッラもここで学んだ。
……という事情は煩雑なので作中では触れず、「ユーナーン人の錬成術師たち」はホスロウ1世時代に亡命してきたユーナーン人の子孫ということにしてある。いずれにせよ、アカデメイア閉鎖が「ヘレニズムの遺産の東方流出」を象徴する事件であったのも確かである。
続きます。
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