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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その二十三

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.62
下段14行
不干渉
 現代のイスラムの「常識」では、「異教徒」は信徒(ムスリム)に税を納める代わりに庇護してもらうが、「異教徒」として認められるのは「啓典の民」だけである、とされる。「啓典の民」とは、①一神教、②預言者を通じてもたらされた神の啓示を記した聖典すなわち「啓典」を有する、という条件を満たす宗教(いわゆる「啓示宗教」)の信者である、とされる。「啓典の民」ではない多神教徒や偶像崇拝者は強制改宗の対象となる、とされる。
 が、本作の舞台であるハッラーン(トルコ西南部)で、古代バビル(バビロニア)とユーナーン(ギリシア)の宗教が混淆した独自の多神教が、イスラム支配下で100年以上も堂々と存続していることからも明らかなように、初期イスラム時代(AD7、8世紀)には上記のような「常識」は存在しなかった。
 ハッラーンの多神教徒は、ファールス(ペルシア)のマギ(ゾロアスター)教徒と同じように扱われたのだろう。サーサーン朝が定めた「正統教義」のマギ教は、最高神オフルミスド(アフラ・マスダー)と、それに仕える中級・下級の神々という体系で一神教に近く、偶像崇拝も禁じられていた。しかしそれが徹底されたのはファールスの西部だけであり、他のイラン(現イラン・イスラム共和国ではなく、インド・アーリア民族と分かれたイラン・アーリア民族のこと)文化圏では偶像崇拝を伴う多神教的マギ教が信仰されていた。どのみち「正統教義」にしても、「預言者」や「啓示」という概念は持たなかったので、マギ教は明らかに「啓示宗教」ではない。
 しかしイスラムの支配者たちは、ファールス各地のマギ教徒の命と安全と心身の自由(つまり信教の自由も)を保障し、代わりに税を納めさせた。そのためファールスのイスラム化は進行が遅く、改宗が人口の50%を超えるのは9世紀に入ってからである。
 このように総督や司令官など、実際に統治を行う地位にある者の多くは、「啓典の民」でない住民が大半を占める広大な地域で強制改宗を行う危険を弁えていた。それ以前に、改宗者が増えれば税収が減ってしまうのである。しかし一般信徒はマギ教徒に対し、しばしば「犬いじめ」などの嫌がらせを行ったし(解説その二の「犬のように無視される」の項参照)、宗教的情熱から強制改宗を試みる者も地位を問わずいた。
 そのような狂信者が統治者となった不運な地域が、ファールス東部のホラーサンとその向こうのソグディアナ(現在のウズベキスタンとタジキスタンを中心とする地域)である。上述のようにこれらの地域では偶像崇拝を伴う多神教的マギ教が信仰されていたのだが、8世紀初め(本作の時代の3、40年前)にホラーサンの総督となってソグディアナを征服したその人物は、強制改宗を断行し、多数の偶像と神殿を破壊した。以後この地域では、住民が棄教して反乱→鎮圧して強制改宗→棄教して反乱→鎮圧して……がルーティンとなる。彼の後任となった総督たちも、棄教だけは認めるわけにはいかなかったので、数世代にわたって反乱と鎮圧が延々繰り返されたのだった。
 ホラーサンとソグディアナについては、後ほど改めて解説する。
 イスラム世界全体でも、9世紀以降は非「啓典の民」に対して、建前だけでも「啓典の民」を装うよう圧力がかけられるようになる。こうしてマギ教は宗祖ザラスシュトラ(ゾロアスター)を「預言者」、聖典を「啓典」、オフルミスド以外の諸神は「天使」として、「啓示宗教」の体裁を整えていく。この手法は後に仏教やヒンドゥーにも用いられる。ハッラーンの多神教徒たちも「啓典の民」を装うことになるのだが、とりあえず先の話である。
 参考:メアリー・ボイス『ゾロアスター教』(講談社)、青木健『ゾロアスター教史』(刀水書房)、青木健「ザラスシュトラの預言者化」(『宗教研究』82巻4号)、清水宏祐「イラン世界の変容」(『西アジア史Ⅱ』山川出版社)

 続きます。

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