« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段12行
麝香(ムスク)
 タージク(アラビア)語で「麝香」は「マサク」といい、英語のmuskと語源は同じで、サンスクリット語の「ムスカ」(睾丸)。「マサク」も英語も(「マスクメロン」とか「マスカット」の「マスク」)馴染みがないんで、日本語の慣例どおりの表記「ムスク」にする。まあいつもどおり、その場のノリで決めました。
 麝香の原料はヒマラヤ一帯に生息する麝香鹿の雄の分泌物である。語源が「睾丸」なのは、この分泌物を出す麝香嚢が睾丸の近くにあるためだと考えられている。AD6世紀のキーム(エジプト)の地理学者コスマスは、若い頃は海洋貿易に従事する商人であり、シンド(インド)で得た見聞を基に、「モスコス(麝香)はその小さな動物(麝香鹿のこと)を矢で射て、臍の辺りに溜まった血を採取したものである」と記した。この見解は、イスラム世界にも受け継がれた。
 エチオピア高地と東南アジアに生息する麝香猫の分泌物も香料の原料となり、霊猫香(シベット)と呼ばれるが、イスラム世界では代用麝香あるいは偽麝香として扱われることが多かった。
 麝香は焚香料としては、香木類と違って単独ではにおいが強すぎて悪臭となってしまうので、少量を他の香料と混ぜて使う。また油脂に混ぜて塗布剤としても使われたし、この場面のように、飲食物の香りづけとしても使われた。
 医薬品としては、砂糖と同じく「熱、乾」の性質を持つとされたが、効能はまた違って、身体を温め、心臓その他の内臓を強くし、頭痛や気鬱も治した。
「乾」ではなく「湿」だという説もあり、その場合は、男女の交わりを円滑にし、性欲を亢進する働きもあるとされた。

龍涎香(アンバル)
 抹香鯨の腸内で分泌物が固まってできる。体外に排出されて浜に打ち上げられた物が採取される。「抹香鯨」の名はそれに因むが、少なくとも現代の「抹香」に龍涎香は使われていない。
 タージク(アラビア)語では「アンバル」という。語源は不明で、西洋でも東洋でも古代には知られていなかった。後期ラテン語ambarを含め、ヨーロッパ諸語で龍涎香を表わす語はタージク語「アンバル」を語源としている。
 タージク人がいつからアンバルを知っていたのかは、解説その三十二で述べた理由により、最も古い記録でも8世紀を遡らないため不明。
 中国では唐代の記録にある「阿末香」が「アンバル」の音写だとされる。後に海棲の龍の涎が固まった物だという説が流布し、「龍涎香」の名が定着する。この「龍の涎」説は、イスラム世界で流布していた幾つかのアンバル成因説のうち、「海中生物の排泄物」説と「海底からの湧出物」説が複合した上に、ファンタジックに美化されたものだと思われる。西洋では身も蓋もなく、鯨の精液または糞便だと考えられていた。
 なおイスラム世界では後に龍涎香と琥珀は混同され、たとえば16世紀の書物には、「アンバルはある山から蜜蝋が海中に流れ落ちて固まった物で、時にアンバルの中に蜂が閉じ込められているのはそのためである」と記されている。
 この謬説は、次のような過程で成立したのだろう。まず、琥珀は宝飾品としてだけではなく、香料としても使われ(匂いは強くない)、また溶かせばニスになる。さらに琥珀にはしばしば蜂などの昆虫が閉じ込められることから、「琥珀の成分は蜜蝋」という説が生まれたのだろう(蜜蝋も燃やすと芳香がする)。
 遅くとも15世紀には成立していた『千夜一夜』中の「シンドバードの冒険」第6の航海では、「龍涎香成因説」の別ヴァージョンが語られている。「ある山から龍涎香の原料となる物質が海中に流れ出て、海中の生物がそれを食べて排出する」
 この「龍涎香成因説シンドバード版」と「琥珀=蜜蝋説」とが、どういうわけか複合したと思われる。琥珀も海岸で採取されるし。
 この誤解が西洋にも伝わり、フランス語で琥珀を「黄色いアンバル」と呼ぶようになり、その後、区別のため本来のアンバルである龍涎香を「灰色のアンバル」と呼ぶようになった。今日の英語では琥珀はamberで、龍涎香はambergris、すなわち「灰色のアンバー」と呼ぶ。なお西洋での琥珀の古名は、古代ユーナーン(ギリシア)語「エレクトロン」(擦ると静電気を生じるので、electricの語源となった)、ラテン語「スキヌム」などである。
 龍涎香は海岸に打ち上げられるのを偶然見つけるしかないので、最も高価な香料である。単独だと、麝香や霊猫香のような悪臭とまではいかないものの匂いがきつすぎるので、他の香料と組み合わせるのが普通だった。やはり焚香料や香油にするだけでなく、飲食物の香りづけにも使われ、いずれの場合も麝香と相性がよいとのことである。
 医薬品としての効能は、脳と神経、心臓の病気、中風、関節炎、水腫、さらには「あらゆる病気」に効くとまでされた。なお、「四性質説」ではどれになるのかは、調べた資料には載っていなかった。
 麝香と同じく性欲亢進剤としても使われたが、この場面では別にそういう目的で飲んでいるのではないのは言うまでもない。

 ところで、参考文献を付記していたりしていなかったりしますが、原則として、1冊(または1本)から参照している情報が多い場合は付記しています。付記しないのは、情報があまりにも分散している場合です(文献数が多い上に、参照しているのが各文献数行以下の分量だったりする)。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十九

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段11行
調合
 以下は鈴木貴久子「ムスリムたちの食生活 アッバース朝宮廷社会と中世カイロの都市社会」(栄光教育文化研究所『文明としてのイスラーム』所収)、杉田英明『葡萄樹の見える回廊 中東・地中海文化と東西交渉』(岩波書店)、および山田憲太郎『南海香薬譜 スパイス・ルートの研究』(法政大学出版局)に掲載されていた中世イスラム世界の飲料の調合を参考に、できるだけ高価そうな材料を組み合わせたものである。したがって味は知らん。御想像にお任せします。
 この飲料の名称については後述(御存じの方もおいでかと思いますが、「シャーベット」の語源です)。

白葡萄
 ノンアルコール飲料によく使用される果汁として挙げられていたのは葡萄、柘榴、レモン、オレンジ。このうち柘榴は収穫時期が9~10月で、後述するがこの場面は9月初頭なので少々早いかな、と。レモンは中東では年中収穫できるようだし、保存しやすいし、皮が厚いから運搬も楽だし、ということであんまり高価じゃないかな、と。
 オレンジはこの時代の中東には苦くて生食には向かない品種(ビターオレンジ)しかないはずで、もし果汁を飲料に使うとしても、香りづけ程度だろう。どのみち収穫は晩秋以降。
 葡萄は季節が合うのと、レモンに比べてあらゆる点で傷みやすいから、その分高価だろうな、と。赤ではなく白葡萄にしたのは、マスカットを想定しているので。北アフリカ原産で、この時代(AD8世紀半ば)以前に地中海地方全域に広がっていたので、ハッラーン(現トルコ南東部)でも入手可能だろう。

薔薇水
 薔薇水は中世以来、イラン、イラク、シリアなど中東各地の特産品であり、香水としてだけでなく飲食物にも使用される。
 ちなみに薔薇水はファールス(ペルシア)語で「ゴラーブ」と言う(文字どおり「薔薇(ゴル)」+「水(アーブ)」)。薔薇水をメインに甘味料(砂糖または蜂蜜)を加えた飲料をタージク(アラビア)語で「ジュッラーブ」と言うが、これは「ゴラーブ」の転訛である(タージク語にはG音がないのでJ音に変わる)。「ジュッラーブ」を語源とするのが、欧米のカクテル「ジュレップ」だが、なぜかミントフレーバーで、薔薇はまったく関係ない。
 香水としてでも飲食物としてでも、麝香(次回解説)と合わせて使われることが多かった。
 古代・中世では西洋でも東洋でも、香料は単なる嗜好品ではなく医薬品でもあった。薔薇水の効能は、頭痛、動悸、発熱に効き、体力をつけ、内臓諸器官を丈夫にする、とされた。
 薔薇水の製法については後述。

砂糖(スッカル)
 解説その一の「蜜菓子」の項で述べたように、AD8世紀半ばの中東では(というか中東に限らず)、砂糖は高級品だった。
「スッカル」はタージク(アラビア)語で「砂糖」のことで、パーリ語の「サッカラ」もしくはそれに類するインド諸語のどれかを語源とする。ユーナーン(ギリシア)語・ラテン語の「サッカロン」、英語のsugarも語源は同じである。
 ファールス(ペルシア)で砂糖黍栽培がいつ始まったのかは不明だが、イラクで栽培が始まったのはサーサーン朝時代(AD3世紀前半~7世紀半ば)である。本作の時代には、キーム(エジプト)でも栽培が始まっていた。
 というわけで、すでにそこそこ生産量は増えており、その後も順調に増産が続くのだが、中世を通じて砂糖は高級品であり、大量には使えないため甘味料というよりは香料(スパイス)という扱いだった。大導師(イマーム)の御曹司イスマイールでも、白葡萄果汁がさらに甘くなるほどの大量の砂糖を日常的に消費するのは無理だろう。
 現代の白砂糖は高度に精製されすぎて「風味」がほとんどないため、スパイスだったと言われてもピンと来ないかもしれないが、黒砂糖の「風味」を考えれば、なんとなく納得できるのではないだろうか。精製した粉状の砂糖(スッカル)に対し、粗糖は「カンド」と呼ばれた。「キャンディ」の語源である。
 しかしイスラム世界では、風味の少ない白砂糖のほうが好まれた。風味が少ないからこそとか、より甘いからとか、精製に手間が掛かって高価だからというよりは、その白さが「純粋さ」と結びつけられたのである。上述のように香料は医薬品でもあったから、「純粋」なほうが効果が高いと考えられたのだった。イスラム医学では、砂糖は四性質説(解説その二十五の「熱、冷、乾、湿」の項参照)の「熱、乾」の性質を持つとされた。内臓諸器官、脳、眼に効果があり、鎮痛剤にもなった。
 西洋でもタージク語やファールス語の医学書の翻訳などを通じて、砂糖はスパイスおよび医薬品として広まった。

 リストの途中ですが、長くなったので続きはまた明日

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十八

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段4行
送金
 イスラム世界では、早くもAD8世紀後半から為替手形や小切手が使用されていたとされる。残念ながら、本作の時代(8世紀半ば)には少々間に合わない。すでにその原型があったのかもしれないし、そうでなければ文字どおり現金を送った(あるいは軽い香料などを送って換金した)ということになる。

奴隷
 AD4世紀から8世紀前半の中央アジアで書かれた3点の奴隷契約書が発見されているが、それらには次のような定型文が見られる。
「(購買者は)この奴隷を好きなように打ったり、酷使したり、縛ったり、売り飛ばしたり、人質としたり、贈り物として与えるなり、なんでもしたいようにしてもよい」(森安孝夫『興亡の世界史5 シルクロードと唐帝国』講談社)
 一方、イスラムが成立したのは7世紀初めだが、その聖典では奴隷に温情を掛け、いずれは解放して自由にしてやることを信徒の義務としている (もっとも後世には、この「善行」を為したい富裕層のために奴隷狩りが横行するという本末転倒が起きるのだが)。
 奴隷は非タージク(アラブ)人であることが多く、タージク人男性と奴隷の異民族女性との間に生まれた子供は混血として差別されたが(解説その二の「忌むべき混血」の項参照)、多くの場合、父親から認知され、その母親は解放されて正式な妻となった。混血の子供は「純血」の子供よりも相続や後継問題で不利だったが、イスマイールの曽祖父の場合のように父親の跡を継ぐ例も珍しくなかった(解説その七の「混血を厭いません」の項参照)。

タージク式に腰を下ろし
 タージク(アラブ)人は遊牧民(ベドウィン)だけでなく定住民も、椅子ではなく床座りが基本である。西ヨーロッパでは寒冷湿潤な気候のため、椅子やテーブル、ベッドなど「床から離れる」家具が発達した。もちろん、木材が豊富だったためでもある。一方、タージク(アラビア)半島では、床に直接座ったほうが涼しく、またそもそも木材が貴重である(ジョナサン・ブルーム『世界の美術 イスラーム美術』岩波書店)。
 これはタージク半島に限らず、中東の大部分の地域でも共通している。つまり本作の舞台であるハッラーン(現トルコ南西部)にも当てはまるのだが、本作では冒頭の酒場の場面で敢えて椅子とテーブルを出した。これはハッラーンが永くユーナーン(ギリシア)およびルーム(ローマ)文化の影響下にあったことから、本作の時代(AD8世紀半ば)に椅子とテーブルの文化が残っていてもおかしくはないだろう、というのと、このイスマイールの屋敷の場面との対比を出すためである。

サマルカンド錦
 ファールス(ペルシア)で発達した錦は、内側に人物や動物などを配した円を規則正しく並べた図柄(連珠文)で、日本では法隆寺の四騎獅子狩文錦が有名である。サマルカンドやブハラなどの中央アジアのソグド諸国でもAD7世紀後半以降、この図柄の錦は流行し、やがて中国やファールスにまで輸出されるようになった。中国で発見された連珠文錦は従来、すべてファールス製とされてきたが、近年の研究によれば実はその多くがソグド製だという。図柄が多少異なる(ソグド製には中国からの影響も認められるという)だけでなく、全般にファールス製より品質が劣るのだそうだ。
 イスラム時代に入ると、ソグド錦はタージク(アラブ)人の間で大いに流行した。本作の時代(8世紀半ば)では、まだファールス製のほうが品質が高かった可能性があるが(解説その三十三の「日出づる処から日没する処まで」の項で述べたように、ソグド諸国では8世紀初頭以来、戦乱が頻発しているし)、図柄に独自性があるのに加え、この時代は一般に、遠来の品というだけでありがたがられ、品質や運搬コスト以上の値が付いたものである。
 もちろん作者としては、サマルカンドという地名で国際色を出すのが最大の目的である。
なお、解説その八の「人の業とは思えないほど……」の項で述べたように、本作の時代には人を含む動物の図像は反イスラムとは見做されていない。

銀の杯
 前イスラム時代(AD7世紀前半以前)の中東では、ルーム(東ローマ)が金本位制、ファールス(ペルシア)が銀本位制だった。ファールス最大の銀鉱山は、ホラーサン(ファールス東部)のヒンドゥークシュ山脈中にあるパンジャヒール銀山で、これはイスラム時代に入っても中東最大の生産量を誇った。
 10世紀に入ると銀資源およびその精錬のための木材が枯渇し、イスラム世界の経済は危機に陥る。これが銀行、そして錬成術(錬金術)の発達を促したそうだが、まだ先の話である(宮崎正勝『イスラーム・ネットワーク アッバース朝が繋げた世界』講談社)。
 というわけでファールスでは銀器も発達しており、この銀杯もファールス製だろう。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十七

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
P.64
上段21行
救世主(マフディ)
 解説その十六の「メシアス教」の項で述べたが、日本では一般に「救世主」の意だとされる「メシア」の語源はヘブライ語の「マシアハ」で、「(聖油を)注がれた者」の意。タージク(アラビア)語「マシーフ」も同じ意味だが、「救世主」の意味は薄く、イーサー(イエス)の別名のような扱いである。
 イスラムにおいて「救世主」に当たる呼称は「マフディ」で、「(唯一神に)導かれた者」を意味する。ヘブライ語「マシアハ」は元来、理想の君主を指し、「救世主」の呼称となったのは終末論においてだが、イスラムにおける「マフディ」も当初は理想の君主を意味するに過ぎなかった。
 アリー派(解説その三十四参照)の最初の反乱は、解説その三十五で述べたように「悔悟者たち」による玉砕(AD684年)だったが、その翌年に反乱を起こしたのが、「悔悟者たち」と同じクーファ市民だが玉砕には加わらなかったムフタールという人物である。ムフタールはアリーの息子の一人イブン・ハナフィーヤ(ハサンとフサイン兄弟とは異母兄弟)を「マフディ」として奉じたが、この場合の「マフディ」に「救世主」的イメージはなかったと思われる。
 結局、ムフタールは2年後にかつての仲間と同じく玉砕し、イブン・ハナフィーヤは祀り上げられただけで反乱には参加していないということで赦免された。
 その後、ウマイヤ朝の幾人かの名代(ハリーファ)たちが「マフディ」と自称したり他称されたりしたが、いずれも救世主ではなく「理想の君主」の称号としての使用である。
 一方、イブン・ハナフィーヤは700年代初めに死去したが、彼の支持者たちの一部はその死を認めず、いずれ「マフディ」として再臨すると信じた。この「マフディ」には明らかに「救世主」のイメージが付与されている。
 彼らのこの願望はアリー派に共有され、「預言者ムハンマド(あるいはその従弟アリー)の血を引く大導師(イマーム)が一度死んだ後、マフディとして再臨し、正義を実現し物質的繁栄をもたらすと同時に、ウマイヤ家をはじめとするアリー派の敵を滅ぼす」という独自の思想へと発展した。
 アリー一族の当主として「イマーム」と呼ばれる第5代ムハンマド・バーキル(713年に就任)と第6代ジャアファル・サーディク(733年に就任。イスマイールの父)は、まさにこの「マフディ思想」形成の時代を生きたわけだが、武力蜂起を戒め、いつの日かマフディが再臨するまでイマーム(つまり自分)の導きに従うよう説いたという。
 参照:菊池達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』(講談社)および『イスマーイール派の神話と哲学 イスラーム少数派の思想史的研究』(岩波書店)

 切りがいいところまで来たので、続きはまた明日

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十六

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
上段16行
ジャアファル・サーディク
 イスマイールの父。生没年はAD702-765。733年に没した父の跡を継ぎ、アリー一族の当主となる。
 より原語に忠実に表記するなら「ジャアファル・アッサーディク」であるが、「アッ」は定冠詞なので(「アル」が発音規則により促音化)、日本語では省略されることが多い。もちろん私も簡潔なほうを採る。
「ジャアファル」が個人名で、「サーディク」は「誠実なる(者)」というような意味で一種の尊称だが、「ジャアファル」だと「ジャービル」と字面が似ているので、本作では通称(?)として「サーディク」を選択。ちなみに「サーディク」は後世、普通に個人名として使われるようになった。そのファールス(ペルシア)語形が、イランの小説家ヘダーヤト(白水社『盲目の梟』など。1903-1951)の名「サーデグ」である。
 サーディクが錬成術(錬金術)師だったという記録(彼の著作とされる錬成術書が多数あるそうだが、現存するんだろうか?)は、後世の捏造である可能性が高く、そうなると彼がジャービルの師だったというのも疑わしくなってくる(後述)。しかし本作のこの箇所で述べたサーディクの人物評については、特に疑う理由はない。
 実際、彼が置かれていた状況(解説その三十四および三十五参照)を考えれば、一族郎党を守るために温厚篤実に振る舞わざるを得ず、学問に打ち込んだのも、野心がないことのアピールでもあったのではあるまいか。

第六代大導師(イマーム)
 解説その一の「大導師」の項で述べたように、「イマーム」は「ある派の人々」にとっては「イスラム世界の最高指導者」すなわち「ハリーファ(名代)」の異称なので、その意味では「大導師」の語を当てるが、イスラム主流派(スンナ派)にとって「イマーム」は単に「導師」、すなわち「宗教的指導者」全般を指す。だからハリーファも、都市の一地区や小さな村の宗教指導者も等しく「イマーム」である。
「ある派の人々」とは「アリー派」(解説その三十四参照)のことで、彼らにとっての「大導師」の概念については次回解説する。
 ひとまず「アリー一族(イスマイールの曽々々祖父アリーの子孫たち)の当主」という意味での歴代の「イマーム」は次のとおり。
① アリー
② ハサン(アリーの長男)
③ フサイン(アリーの次男)
④ 小アリー(フサインの息子で、祖父と名前が同じというだけでなく、長じて容姿がそっくりになったのでこう呼ばれたという)
⑤ ムハンマド・バーキル(小アリーの息子)
⑥ ジャアファル・サーディク(ムハンマド・バーキルの息子。イスマイールの父)
 ハサンは自主的に隠遁したため(解説その三十一の「ハサン」の項参照)、アリー一族当主の地位はフサインの子孫(フサイン家)に受け継がれることとなった。

全信徒の長(アミール・アルムウミニーン)
 解説その三十参照。

 次項が長くなる予定なので、また明日

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十五

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
上段13行
幾度となく政府転覆を試みたが
 本作p.64上段2行目以降で述べているように、アリー(第4代正統ハリーファ、イスマイールの曽々々祖父)の次子フサインは、クーファ(現イラク中部)の市民にハリーファとして推戴され、クーファに向かう途中でウマイヤ朝第2代ハリーファの軍に惨殺された(AD680年)。クーファ市民はハリーファの軍隊がフサインに差し向けられたことを知っていながら、これを座視した。フサインの死後、深い悔悟に囚われた彼らは「悔悟者」を名乗り、4年後の684年、ウマイヤ朝に戦いを挑んで大敗した。
 この「悔悟者たちの乱」を皮切りに、本作の時点(745年夏)までに起きたアリー派の反乱すべてを網羅した書籍あるいは論文には、お目にかかったことがない。史料によって記録されていたりされていなかったりする反乱が少なくないのである。
 解説その三十二で述べたとおり、この時代の記録は基本、口伝されて8世紀後半以降にようやく文字で書き記されたものだから、どの史料にも記録されていない反乱もあるかもしれない。数が多いのもあるが、この箇所で述べたように、ほとんどが短期間で鎮圧されているせいでもあるだろう。蜂起の前に首謀者が逮捕・処刑された例もある(後述)。
 本作の5年前の740年には、フサインの孫でイスマイールの大叔父に当たる(アリー一族の先代当主の弟)ザイドが反乱を起こした。この「ザイドの乱」の発端については後述するが、例の如くたちどころに鎮圧され、ザイドは処刑された。
 ザイドの息子はホラーサン(ファールス=ペルシア東部)へ逃亡したが、3年後、現地の総督に捕らえられ、処刑された。しかし「ザイド派」の残党は性懲りもなく、今度はアリーの兄の曾孫(ザイドと同世代)を奉じ、744年、つまり本作の前年に再び反乱を起こした。
 アリーの兄の子孫であってアリーの直系の子孫ではないのだが、アリーの兄も預言者ムハンマドの従弟ではある。神輿に乗ってくれるアリーの子孫が払底していたためであろうが、こういう場合も広義のアリー派に含まれる。
 で、例によってあっと言う間に蹴散らされるのだが、このアリーの兄の曾孫は案外強かで、マダーイン(ファールス西南部)に逃れると、現地のファールス系ムスリムの支持を集めるのだった。つまりイスマイールは、不満分子たちが政府転覆の旗印と仰ぐ一族の嫡男であるだけでなく、身内が首謀者の反乱が現在進行形なので、警察(シュルタ。解説その三の「警察」の項参照)に目を付けられるのも致し方ない立場なのだった。
 アリーの兄の曾孫および「ザイド派」のその後については、後ほど改めて解説する。

彼らの敗因は
 研究者の方々の見解が概ね一致しているので、本作ではそれに従ったが、私見を述べさせてもらえば、アリー派の最大の敗因は、揃いも揃って無計画だからである。「アリーの後裔のうち誰を大導師と仰ぐかで分裂し、団結を欠く」のも、後述するように「無計画」の表れである。「大導師(イマーム)」については次回解説(解説その一の「大導師」の項も参照のこと)。
 アリー派の最初の反乱である「悔悟者たちの乱」は、上述したようにアリーの次子フサインを無責任に担ぎ上げておいて見殺しにしたことへの贖いが目的であり、最初から玉砕覚悟だったようだ。しかし以後の反乱はことごとく、自分たちが正義であり唯一神の御心に適っていると信じ込んでいるので、まともに計画を立てないのである。こういう連中に担がれるほうも担がれるほうである。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十四

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
上段12行
アリー派
 タージク(アラビア)語「シーア・アリー」の訳。アリーについては解説その三十一の「若きアリー」の項参照。
 イスラムの正統派(いわゆるスンナ派。「スンナ」は「(イスラム的)範例」の意)からの分派(シーア)のうち、最大勢力がこのアリー派である(「○○派」と呼ばれるイスラム分派のほとんどが、このアリー派からの分派)。そのため、「シーア」だけでアリー派を指すようになった。
 だから、「シーア派」という日本語は「派派」になるんですよ。

不満分子
 初期のアリー派は、「預言者の従弟にして娘婿であるアリーの血統を尊ぶ」という以外に、分派としての独自性は持っていなかった。この血統主義は、イスラムの原則である「全信徒の平等」に反しているのだが(前回の「聖典が説く信徒の平等を無視し」の項参照)、まあ中世の人間が血統主義を捨て去るのは、なかなか困難なのである(イスラムがそれだけ革新的であったということである)。
 アリーの次子フサインがウマイヤ朝第2代ハリーファによって壮絶な最期を遂げたため(解説その三十一の「ウマイヤ家のムアーウィヤ」および「フサイン」の項参照)、ウマイヤ朝に不満を抱く人々はアリー一族を「正義」のシンボルに祀り上げたのである。
 アリー派はイスラム最初の分派ではない(アリーの生前の支持者を含めないなら)。本作p.63下段21行以下で述べているように、ウマイヤ家のムアーウィヤは第4代ハリーファ(正統ハリーファ)となったアリーに対し背いたが、戦乱が長引いたため両者は和議を結ぶことにした。アリーの支持者の一部は、和議を妥協と見做して離反した。これが後のハワーリジュ派である(ハワーリジュ=離反者たち)。
 アリーは彼らを奇襲して虐殺したため、生き残りによって暗殺された(AD661年)。ムアーウィヤは単独のハリーファとなり、さらに息子に跡を継がせたが、その間にハワーリジュ派は自らの教義を固め、勢力もそれなりに拡大させ、その後もアリー派ほどではないものの、永きにわたって騒乱の種になる。
 ハワーリジュ派の教義は原初のイスラム原理主義とも呼ぶべきもので、「イスラムの理念」に少しでも背いたムスリムは、来世で罪を償う(=地獄に落ちる)だけでは充分ではなく、現世でも罪を償わなければならない、すなわち処刑されなければならない、とする。聖典の第49章13節の「(ムスリムの中で)最も貴いのは一番敬虔な人間」の文字どおりの実践を目指しており、「行いの(イスラム的な)正しさ」以外の一切に価値を見出さない。正統派以上に血統主義の否定を徹底する上に、そもそもアリーを殺しているのだから、アリー派とは決して相容れない(はずである)。
 まあとりあえず当初のアリー派は、ウマイヤ朝に不満はあるが、ハワーリジュ派の過激さ、厳格さにはついていけない人々の受け皿となったのだった(その後の展開については後日改めて解説)。

 今回は短いですが、また明日

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十三

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
上段9行
聖典が説く信徒の平等を無視し
 イスラムの教義の一つである「全信徒の平等」は、聖典第49章の10節「信徒はみな兄弟」、同13節「我ら(唯一神の一人称)はおまえたちを男と女に分けて創り、おまえたちを多くの種族に分かち、部族に分けた。これはみな、おまえたちをお互い同士よく識り合うようにしてやりたいと思えばこそ。まこと唯一神(アッラー)の御目から見て、おまえたちの中で一番貴いのは一番敬虔な人間」を典拠とする。13節の「おまえたちをお互い同士よく識り合うようにしてやりたいと思えばこそ」という一文は、男女、人種、民族、部族(氏族)間の対立や差別の禁止と解釈されている。
 ウマイヤ朝がこの信徒平等の原則を無視し、タージク(アラブ)人の、それも特定の氏族だけを優遇していた、という情報が文字で記録されたのは、前回解説したとおり、ウマイヤ朝が滅亡した後である。しかし本作の時代(AD8世紀半ば)の頃から記録され始めた詩や伝承には、前イスラム時代(6世紀以前)のタージク人の異民族差別や氏族主義、およびそれらがイスラムによって禁じられた後も根強く残っていたことが明確に表れている。
 このように差別された異民族や冷遇された氏族の不満を原動力にしてウマイヤ朝を倒したのが、アッバース朝である(後述)。この二つの勢力はその後100年にわたってアッバース朝を支えたが、前述したようにタージク人の異民族差別は解消に至らず(解説その二の「忌むべき混血」の項参照)、氏族主義もまた同様だった。またかつて差別されていた氏族や民族が優遇されることで、「既得権」を失った者たちによる反乱も頻発するようになったのだが、それは先の話である。

日出づる処(ホラーサン)から日没する処(マグリブ)まで
 先に「マグリブ」について解説すると、タージク(アラビア)語であり、意味はルビのとおり。地域名としては北アフリカ(サハラ沙漠以北)西部で、現在の国名で言えばモロッコ、アルジェリア、チュニジアの3ヵ国。広義にはリビアや西サハラなどを含む。ちなみに「モロッコ」の名は首都「マラケシュ」の転訛で、正式名称は「マグリブ王国」。
 タージク語で「マグリブ」の対義語「日出づる処」は「マシュリク」で、紅海以東のイスラム諸国、いわゆる「東方イスラム世界」を指す(場合によっては紅海以東のタージク語圏、またはファールス=ペルシア以東のイスラム諸国を指す)。
「ホラーサン」はファールス語であり、意味はルビのとおり。地域名としては、狭義には現在のイラン・イスラム共和国の東部、広義にはアフガニスタンも含む。原音により忠実に表記するなら「ホラーサーン」で、現在ではこれが一般的だが、冗長なので長音記号を1つ省略。古来、イラン・アーリア民族の中心地であったファールス地方(現イラン南部)から見て東方、という意味。なおファールス語で「日没する処」という名の地域はないようである。
 本作の時代(AD8世紀半ば)のイスラム世界は、ちょうど「ホラーサンからマグリブまで」であった。一応、ホラーサンより東、中央アジアのソグド人都市国家群も征服はされていたのだが(8世紀初頭)、反乱は頻発するわ(ソグド人と移住させられたタージク人の両方)、トルコ系騎馬民族は攻め込んでくるわで、支配が確立しているとは到底言えない状況だった(唐の政府もトルコ人やソグド人を煽動しており、751年にはタラス河畔の戦いへと至る)。ホラーサンについては後ほど改めて解説。

 前回長かったので、続きはまた明日

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十二

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
上段9行
多くは奢侈に耽り酒色に溺れた
 これまで何度か言及してきたが、この時代(AD8世紀半ば)の中東は、同時代の記録、特にタージク(アラビア)語のものはほぼ現存しない。その理由について、この項でがっつり解説しておこうと思う。
 前イスラム時代(7世紀前半以前)、タージク人は絵画よりもカリグラフィーを好み、発達させていたにもかかわらず、文学は口承に限られ、もちろん史書や学術書の類が書かれることもなかった。
 預言者ムハンマドに下された啓示(唯一神からの「お告げ」)もまた、信徒たちによって暗記され、伝えられていたが、ムハンマドの死後(632年)の内戦によって、これらの暗記者たちがどんどん戦死してしまったので(暗記者だからといって、戦闘は免除されなかったのである)、危機感を覚えた当時の名代(ハリーファ)たちが啓示を書き記して1冊の書物にした。これが聖典である(「聖典」の名称については後述)。
 タージク語で書かれた最初の書物であり、その後永らく、唯一の書物だった。Bibleの語源がユーナーン(ギリシア)語のβιβλια(biblia「書物」)であり、the Bookで聖書を指すように、現代でもタージク語では「定冠詞+書物」(アルキターブ)でイスラムの聖典を指す。
 ムハンマドに下った啓示は、唯一神の許にある「書」の内容と同じだと信じられている。聖典で言及されている「明瞭なキターブ(書物)」(第10章61節)、「キターブの母」(第43章4節)や「護られた書板」(第85章22節)などが、この聖典の「原典」を指すとされる。
そのため、啓示を書き記して書物にすることにはそれほど抵抗はなかったと思われる。しかしその後のムスリムたちは聖典を崇めるあまり、それ以外の書物は一切書かれるべきではない(少なくとも「聖なる言語」であるタージク語では)と考えるようになった。
 またイスラム世界が拡大するにつれて、公文書など文字による記録の必要も当然ながら増えていったが、ハリーファをはじめタージク人支配層は、異民族の奴隷や改宗者に、ユーナーン語やファールス(ペルシア)語など、それぞれの母語で書かせるだけで事足れりとしていた。これら現地語で作成されていた公文書が、タージク語に切り替えられたのは7世紀末から8世紀初め(本作の時代より約半世紀前)の改革によってである。
 それからさらに時を経て、本作の時代の少し前から、ようやくタージク語の記載文学と呼べるものが現れ始めた。それらはユーナーン語やファールス語などの文学作品の翻訳、また口承されてきたタージク語の詩や逸話(主にムハンマドに関するもの)の記録だった。
 最初の歴史書が書かれるのは本作から数年後のことで、その後、紙の生産が始まったこともあってタージク語の記載文学は急激に発達し、史書の類も次々書かれるようになる。
 これら初期の歴史書は、ほとんどが9世紀半ば以降に書かれた歴史書に断片的な引用の形でしか残っていないか、後世の「編纂」を経て多かれ少なかれ加筆や削除を受けている。また、たとえ「現存」するものであっても、原本ではなく後世の写本だから、正確なコピーではない。
 それ以前に、当然ながら初期の歴史書が依拠したタージク語資料は、口頭による伝承である。異国語の記録があったとしても、広く知られたもの(多数の写本が出回っていたもの)はなかっただろうし、それらを利用できたのは非タージク系に限られていた可能性が高い。前近代の「純血」を誇るタージク人は、概して異国語学習の意欲が低かった。
 口頭のみによる伝承というものが、数世代・数十世代を経て連綿と不変のまま続いてきたと考えるのは誤りである。まず、記録媒体が人間の脳しかないのだから、正確さを確認しようがない。複数の人間が、合唱するかのように同時に詠唱すれば、彼らが記憶しているのが一言一句同じであるかどうかの確認はできる。しかし、それが「オリジナル」と同じであるかどうかの確認は不可能だ。
 さらに、言葉は変化するものだから、たとえ(部分的にせよ)一言一句正確に口伝していったとしても、やがてそれらの一言一句はオリジナルとは意味が違ってしまい、最終的には意味不明な音の連なりとなってしまう。
 また、巧みな語り部というのものは、聴衆の反応によって語りを操作するものだ。だから同じ物語でも、語られるたびに要素が省かれたり新たに付け加えられたり、改変されたりする。
 そして記憶とは非常に歪みやすいものであり、しかもそれを自覚することは難しい。意識的に自らの記憶を歪曲した場合ですら、歪曲したことを忘れてしまいかねない。そうなれば、歪曲された記憶こそが「正しい」記憶となる。
こんな例がある。20世紀初頭、アフリカのある民族が口頭で伝承していた建国神話が、西洋人によって文字で記録された。数十年後、同じ建国神話が再び記録されたが、最初のものと内容がだいぶ異なっていた。だが当人たちは、自分たちは同じ神話を語り継いできたのであり、文字記録のほうが間違っていると主張した。
 私たち「文字の文化」の人間は、彼ら「声の文化」の人々を愚かだと嗤うことはできない。1986年、スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故の翌日、ある心理学教授が学生106人に、そのニュースを聞いた時、どこにいたか、何をしていたか、どう感じたかについて細かく書かせた。2年半後、同じ学生たちに同じ質問をして口頭で答えさせた。
 彼らのうち、すべての質問に対し正確に前回と同じ答えを語った学生は10%に満たなかったという。残りのうち大多数は比較的小さな食い違いだったが、25%は大きく食い違っていた。多くの学生が、自分が手書きした記録を突き付けられてもなお、記憶の歪曲を認めなかった。学生の1人は次のように述べたという。「確かにわたしの字だけど、あの時のわたしが感じたりしたりしたことは、ここに書かれていることとは違う」
 参照:W・J・オング『声の文化と文字の文化』藤原書店、ロバート・A・バートン『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』河出書房新社
 話を戻す。そういうわけで、ウマイヤ朝の名代(ハリーファ)やその一族の行状について、同時代の記録は現存しない。そして前回の「ウマイヤ家のムアーウィヤ」の項で述べたとおり、ウマイヤ朝初代ハリーファのムアーウィヤ(680年没)は、「不正な」手段(脅迫等)によりハリーファ職を世襲とし、「正統ハリーファ」の時代を終わらせた。息子である2代目は第4代正統ハリーファの息子にして預言者ムハンマドの孫であるフサインを殺害したのに加えて、イスラム第一の聖都マッカに立て籠もった反乱軍を包囲攻撃した挙句にカァバ神殿を炎上させた(683年)。
 王朝初期のこれらの所業だけでも、後世のムスリムたちがウマイヤ家全体の評価を低くするには充分である。さらに、ウマイヤ朝を打倒して新王朝を建てたアッバース家(後述)は、自己正当化のため自分たちの敬虔さとウマイヤ家の不敬さを喧伝した。
 したがって何世代も語り継がれた伝承はもちろん、ウマイヤ朝末期の社会を体験している人々(最初期の史書の著者らはこの世代)の証言であっても、歪んでしまっている可能性が高い。
 が、ウマイヤ朝ハリーファたちが沙漠に建造した豪華な離宮が幾つも残っていることから、「奢侈に耽」る傾向があったのは間違いない。これらの離宮が建てられるようになったのは8世紀に入ってからだが、その前段階として7世紀末頃からの禁欲主義の広まりがある。
 これは「反イスラム的」と考えられる一切(その判断は人それぞれである)と一切の快楽を断ち、ひたすら断食や不眠といった苦行に明け暮れるというもので、イスラム世界の中心であるシャーム(シリア)とイラク、東端に近い東ファールス(ペルシア)で同時多発的に発生した。前者はメシアス(キリスト)教の隠者や苦行者からの、後者は仏教からの影響が指摘されているが、いずれにせよ背景にあったのは、当時の社会に蔓延していた現世的で享楽的な風潮だったとされる。
 初期の禁欲主義に関する情報もまた、何世代もの口頭伝承を経て記録されたものだが、当時のイスラム世界は拡大によって非常に豊かになると同時に、さまざまな「反イスラム的」要素を内包するようになってきていたのは確かなので、それに対する反発は当然生じていただろう。さらにこの禁欲主義の潮流は途切れることなくアッバース朝時代にも受け継がれ、やがてそこから神秘主義(スーフィズム)が生まれることになるのである。
 そういうわけで、8世紀にウマイヤ朝のハリーファたちがわざわざ沙漠に離宮を建てたのは、禁欲主義の広まりを考慮してのことと思われる。それ以前は人目をはばからず豪華な宮殿を建てていたのだろうが、それらは現存していない。
 したがってウマイヤ家ハリーファ(および一族の) 「多くは奢侈に耽り酒色に溺れた」という後世の評価は、誇張されてはいるだろうが根も葉もきちんとある、と判断した次第である。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十一

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.63
下段14行
若きアリー
 彼についての本作の記述は、史実に即している。アリーの生年はAD600年頃なので、従兄で義父のムハンマドが死去した時(632年)は30代初めである。
 イスマイールの曽々々祖父。没年は661年。

ウマイヤ家のムアーウィヤ
 名代(ハリーファ)になるには、イスラム共同体から承認を得なければならない。具体的には、「バイア(忠誠の誓い)」を受けなければならない。しかし共同体が拡大すれば、全信徒からの承認など不可能になる。アリーは支持者たちからハリーファとして「忠誠の誓い」を受けたが、ムアーウィヤもまた支持者たちからハリーファとして「忠誠の誓い」を受けたのだった。
 したがってムアーウィヤも正当な手続きを経てハリーファになったと言ってよいのだが、息子を次期ハリーファにするため、各地の有力者を脅迫するなどして強引に「忠誠の誓い」を取り付けた(AD680年)のは正当化できない。
 本作でも述べたように、以後、ハリーファは世襲制になり、王朝が交代してもそれは続いた。世襲制であっても、臣民からの「忠誠の誓い」は儀式化して踏襲されたので、反乱を起こす者も支持者からの「忠誠の誓い」を受けてハリーファを名乗るという手続きを取るようになった。本作の現ハリーファであるマルワーン2世(在位744-750)も、ウマイヤ家の一員ではあるが、そのようにして即位している。
 本作の時代から200年ほど後、イスラムの知識人たちはアリーを含む最初の4人のハリーファを、「正統ハリーファ」と呼ぶようになった。唯一なる神に正しく導かれたハリーファたち、という意味である。ムアーウィヤは、多数の信徒に支持されて即位したのではあるが、ハリーファを世襲制にしたために正統ハリーファには数えられない。以後のハリーファたちも、どれだけ名君であろうと、「正統」とはされない。

ハサン
 彼についての本作の記述は、史実に即している。イスマイールの曽々祖父の兄。生没年はAD624-690。父アリーの死後(661年)、ハリーファに推戴される。
「正当」な手続きによってハリーファになったものの、政敵のムアーウィヤより支持者が少なかった、在位期間が短く、自発的に退位した、などの理由で、一般に「正統ハリーファ」には数えられない。
 彼の子孫の一族(ハサン家)については後述。

p.64
フサイン
 彼についての本作の記述は、史実に即している。イスマイールの曽々祖父。ハサンの同母弟。ちなみに「ハサン」は「美男」の意で、「フサイン」は「小美男」だそうだ。
 生没年はAD626-680年。彼の子孫の一族については解説その七の「フサイン家」および「混血を厭いません」の項参照。

聖都マッカ
「メッカ」の表記が一般的だが、近年はこっちも増えてきた。タージク(アラビア)半島西部にあるイスラム第一の聖都。カァバ神殿がある。
 フサインの在所は第二の聖都マディーナ(同じく半島西部)だったが、この時はマッカにいたのである。解説その五の「聖都マディーナ」の項で述べたように、彼の子孫は代々マディーナを本拠地とする。

 やあ今回はサクサク進みましたよ。次項が長くなりそうなので、また明日

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.63
下段13行
名代(ハリーファ)を立てることにした
「名代」という訳語については、解説その一の「名代」の項参照。
 一般に「代理人」と訳される「ハリーファ」は本来、「唯一神の使徒のハリーファ」のことだった、というのが定説である(「唯一神の使徒」とは預言者ムハンマドのこと)。本作のこのパートで述べているように、ムハンマドが後継者を指名せず没したので(AD632年)、ハリーファ(名代)が選出された。初代ハリーファが2年後に死去したので、その次に選ばれたハリーファは「唯一神の使徒のハリーファのハリーファ」と名乗ったが、長たらしいので3代目からは省略して「ハリーファ」(正確には定冠詞付きの「アルハリーファ」)とのみ称するようになった。
 ……と文献史料は伝えるのだが、それらはいずれも100年以上後、つまり本作の時代前後かそれ以上後に書かれたり編纂されたものである。それ以前だと、文献史料は残っていない。当時のタージク(アラブ)人は著作の習慣を持たなかったし、公文書の類も失われてしまったのだ(文献史料の問題については後述)。
 そこで後世の改竄を経ていないことが確実な貨幣や印章などの銘文、石碑などの碑文やごくわずかだがパピルス文書などを用いた研究が、亀谷学氏の「ウマイヤ朝期のカリフの称号」(『中東学会年俸』24巻1号)である。それによると、それらの史料で「唯一神の使徒のハリーファ」とか「唯一神の使徒のハリーファのハリーファ」という称号は確認できないそうである。
 ちなみに使用されていたのが確実なのは、「使徒のハリーファ」ではなく「唯一神のハリーファ」という称号で、本作の時代より約半世紀前のハリーファであるアブドゥルマリク(在位685-705年)が発行した貨幣に刻まれているそうだ。そもそも「ハリーファ」という称号は、聖典の「私(唯一神)は地上にハリーファを派遣しよう」(第2章30節、アーダム=アダムへの言葉)や「私はおまえを地上におけるハリーファとした」(第38章26節、ダーウード=ダヴィデへの言葉)に基づく。元来は「唯一神の使徒のハリーファ」ではなく、「唯一神のハリーファ」なのである。
 しかし「使徒のハリーファ」が確認できないからといって使われていなかったと断定するのは性急、とは亀谷氏も述べているし、いずれにせよ本作では「唯一神のハリーファ」という称号は登場しないので、上記の「定説」のほうを採用した。
 なお、「ハリーファ」は「後継者」と訳されることもあり、実際、君主の嫡男が「○○(父の名)のハリーファ」と呼ばれるなど、文脈によっては「後継者」と訳したほうが適切なこともある。しかし「使徒のハリーファ」ならともかく、「唯一神のハリーファ」を「唯一神の後継者」と訳しては、不敬極まりない称号になってしまう。
 イスラム世界の最高指導者の称号としての「ハリーファ」(アルハリーファ)は、かつてはしばしば「教主」と訳された。これだと原義にはかすりもしていない。
「教主」の訳を当てるなら、通常は「信徒の長」と訳される「アミール・アルムウミニーン」のほうが、まだ妥当である。「ムウミニーン」は「信徒」の複数形なので、「全信徒の長」と訳されることもある。
 これもイスラム世界の最高指導者の称号だが、少なくとも本作の時代(8世紀半ば)やそれ以前には、「ハリーファ」よりも確実に広範に使われていた。
 では、なぜ本作で史実に即してこちらの称号を使わなかったかというと、まず「信徒の長」という日本語が、称号としてはやや冗長で、その分印象が弱い。「教主」なら簡潔だが、いかにも神権国家っぽく、ウマイヤ朝は神権国家というには世俗的すぎて(後述)相応しくない。ファーティマ朝(後述)とかだったら相応しいんだけどね。
 しかも、「長」と訳される「アミール」は、正確には軍隊の司令官のことである。総督に該当する役職も「アミール」と呼ばれた。後世のイスラム世界で、地方国家の君主が「アミール」を称したのは、建前上はハリーファからその地域の総督権を委ねられた、ということになっていたからだ。
 最初に「アミール・アルムウミニーン=(全)信徒の長」の称号を用いたのは、第2代ハリーファだったとされる。預言者ムハンマドの死以来、信徒の棄教と反乱が相次いでいたという事情が背景にある。
「信徒の長」にせよ「教主」にせよ、「総司令官」という原義と食い違う上に、どのみち「全信徒の総司令官」というさらに冗長な称号を用いたとしても、イスラム共同体が危機に瀕していた時代ゆえの切迫感は伝わらない。
 解説その六の「硝子ランプ」の項で述べたように、本作では「世界観の演出」として、固有名詞を除き、カタカナ語はなるべく使わないが、中東特有の称号や事物などには日本語訳になるべく原音に近いルビを振っている。だから「イスラム世界の最高指導者」の称号も日本語訳にルビを振ることになるわけだが、「アミール・アルムウミニーン」はルビにするにしても長ったらしすぎる。
 実は本作ではこの箇所の後、二度「全信徒の長」の称号を使っている(ルビ付きとルビ無し)。状況的に「名代」よりも相応しいと判断したからだが、全篇で使っていたら、かなり鬱陶しいことになっていただろう。これが本作でこの称号をメインで使わなかった最大の理由。
 一方、「名代」にルビ「ハリーファ」なら簡潔である。ファンタジー作品において、広大な国家の支配者の称号が「名代」というのも、そうそう例がなく、奇異な感じを与えるだろう。この「奇異な感じ」もまた、「世界観の演出」の一環である。
 さて、御存知の方やお気づきの方もおいでだろうが、日本では「ハリーファ」は「カリフ」と表記するのが慣例である(カリフ:英語形から。ハリーファの「ハ」は喉にかかる音だから、発音に忠実にラテン文字表記するとkhaとなる。その転訛。英語形のスペリングはkhalif、calif、caliphなどがあるが、発音はいずれも「ケイリフ」になるから、日本語のほうがまだ原音に近い)。
 本作でなぜ「カリフ」という語を使わなかったかというと、「原音に忠実な日本文字表記」にこだわる気はないものの、あまりに懸け離れた表記もどうかと思うのと、何より「カリフ」という語を目にして/耳にして、あなたが思い浮かべたそのイメージを排除したかったからである。
 あるいは、「カリフ」という語になんのイメージも浮かばない、「カリフ」という語についてなんの情報も持っていない、という方もおられるかもしれない。それならなおのこと、「ハリーファ」という語を使うのに問題はない。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その二十九

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.63
下段12行
最後にして最大の預言者
 イスラムの預言者ムハンマド(AD570頃-632)のこと。「最後」というのは、聖典の第33章40節で唯一なる神がムハンマドを「預言者の封印」と呼んだことに基づく。「封印」とは、アーダム(アダム)以来続いてきた預言者の系譜の「打ち留め」(井筒訳ではこの訳語を当てる)という意味である。預言者とは啓示(唯一なる神のお告げ)を下される人間のこと。
 なおイスラムではアーダムをはじめ、ヌーフ(ノア)、イブラヒーム(アブラハム)、ルート(ロト)、イスマイール(イシュマエル)など、ユダヤ教の聖書に登場する著名な人物が預言者とされる一方、ユダヤ教の預言者たちとはほとんど一致しない。確実なのはユーヌス(ヨナ)とザカリーヤー(ザカリヤ)だけで、後はエノクなど異説のある人物が数人。メシアス(キリスト)教の聖書からは、ヤフヤー(ヨハネ)とイーサー(イエス)の2名のみ。
 イスラムによる定義では、メシアス(キリスト)教はユダヤ教の改良版であり、さらにその改良版がイスラムで、もはやこれ以上改良の必要がない完璧な宗教である。だから、これ以上啓示が下されることはないのだ。
「最大」については、聖典において唯一なる神が否定している。(「(ムハンマドは)古今東西未曾有の使徒なぞというものではない」(第46章9節)「使徒」とはこの場合、「預言者」と同義と考えてよい。伝承によれば、ムハンマド自身も自分が先行する預言者たちより偉大であることを否定したという。
 しかし信徒の心情としては……というわけで、「最後にして最大の預言者」なのである。
 このように、どちらも聖典の記述であるにもかかわらず、信徒たち自身によって「最大の預言者でない」のほうは無視(否定)されている一方、「最後の預言者」のほうは否定したら、つまり632年に没したムハンマドよりも後の人間に唯一神の啓示が下ったと認めたら、イスラムそのものを否定したことになってしまう。新たな啓示は、イスラムの聖典を改良するものになるはずだからだ。
 ところでイスラムの民間信仰では、「聖者」と呼ばれる人々が崇拝される。聖者とは唯一なる神から分け与えられた力(バラカ=神寵)によって奇蹟を起こすことのできる人物で、メシアス(キリスト)教の聖人と似たようなものだと考えていいだろう。教会の認定は必要ないので(イスラムには教会組織に該当するものが存在しない)、聖者の誕生は遥かにフリーダムである。広い地域で崇敬されている聖者もいるが、ごく狭い地域・共同体でのみ崇敬される「ご当地聖者」はそれこそ無数だ。
「聖者」と訳される語は、地域や時代によってさまざまだが、聖典やムハンマドに関する伝承の中でこれに該当するのは「ワリー」である。これは「(唯一なる神の)友」という意味で、友達だからバラカ(神寵)が分け与えられるのである。そして友達なので当然、交流もある。
 しかし上述したように、ムハンマド以降のムスリムが唯一神の「声」を聞いた、すなわち啓示が下ったと主張することは、背教行為にほかならない。だから聖者伝などでは、「天の声」「姿なき声」「どこからともなく聞こえる声」という感じで誤魔化してある。
 聖者とイスラム神秘主義(スーフィズム)の関係はややこしいので解説は省くが、イスラム神秘主義教団は、その教団と関わりのある独自の聖者(教団の開祖など)を持つことが少なくない。また神秘主義独自の聖者論には、「聖者の封印」というものがある。
 これは「預言者の封印」と同じく、「最後の聖者」ということで、「最後の預言者」が「最大の預言者」であるのと同じく、「最大の聖者」だということになっている。
 で、神秘主義教団ごとに、自分たちの聖者を「最後の聖者」だと主張してたりするのであった。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その二十八

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.63
上段23行
唯一なる神(アルイッラーフ)
 イスラムで唯一神を指す「アッラー」(より原音に忠実に表記するなら「アッラーフ」)の語源はタージク(アラビア)語の定冠詞「アル」+普通名詞「イッラーフ(「神」)」、つまり「the God」である……というのは割りとよく知られていると思うが、実は確たる証拠があるわけではない仮説、解釈に過ぎない。提唱したのはドイツの学者ユリウス・ヴェルハウゼン(1844-1914)。「確たる証拠」というのは、まあたとえば初期イスラム時代(AD7‐8世紀)かそれ以前のタージク語で「アル・イッラーフ」、つまり「定冠詞」と「(普通名詞の)神」とを分けて表記した例が見つかっているとか、そういうことだ。
 証明されたわけではないものの説得力があるので、今日ではムスリムの間でも「定説」となっているのである。
 イスマイールは「多神教徒が神と呼ぶもの」という大神官の発言(12行前)を受け、「そなたらの神々(「ラリーハ」=「イッラーフ」の複数形=gods)」に対し、イスラムの唯一神を「アル・イッラーフ」(the God)と呼んだのである。「アッラーフの語源はアル+イッラーフ」という認識がなくても、「アル・イッラーフ」という表現は不自然ではあるまい。

追記
 タージク(アラビア)語の普通名詞「神」は、より原音に忠実に表記するなら「イラーフ」である。本作で「イッラーフ」としたのは、間違えたのではなくて、そのほうが「アッラー(フ)」との繋がりが解りやすいだろうと思ったからである。
「外国語の原音に忠実な日本文字表記」にはこだわらない、と本作の解説だけでも再三述べているので、今回わざわざ断り書きする必要もないだろうと思っていたんですが、気づいた人に誤字・誤表記だと思われるのもなあ、と思い直したのでした。
 それと、この解説を書くために読み返したら、「イラーフ」の表記でもよかったんじゃないか、という気もしてきたので。外国語のカタカナ表記をどこまで「原音に忠実」にするかは、いつもこんな感じでその場のノリで決めています。

世界に遍在する唯一なる神は、全エネルゴンの総体
 イスラムの聖典にある次の言葉から導き出された見解。
「東も西も唯一なる神のもの。それゆえに、汝らいずこに顔を向けようとも、必ずそこに唯一なる神の御顔がある」(第2章115節)

多神教は唯一なる神という多面体の各面を……
 イスラムへの改宗は至って簡単で、「唯一神のほかに神はなし(ラー・イラーハ・イッラッラーフ)、ムハンマドは唯一神の使徒なり(ムハンマドゥン・ラスーッラーヒ)」と唱えるだけでよい(棄教は原則として死罪とされるが)。
 この「唯一神(アッラーフ)のほかに神はなし」という言葉はやがて、「唯一神のほかに存在はない」、すなわち唯一なる神のみが存在し、他のいかなるもの(被造物)もすべて、唯一神の一部に過ぎない、という発想を生み出す。
 これを理論化したのが、イブン・アラビー(AD1165-1240)の「存在一性論」である。彼はさらにそこから、「すべての被造物は唯一なる神に等しいのだから、なんであれ被造物を信仰するのは唯一なる神を信仰するのと同じ」というラディカルな思想を導き出す。
 しかしこれは決して突然変異的に生まれたのではなく、イスラム神秘主義(スーフィズム)の潮流の中で必然的に花開いたのである。たとえば11世紀の詩人バーバー・ターヒルは「ムスリム、マギ(ゾロアスター)教徒、メシアス(キリスト)教徒、外の形がなんであれ、汝(唯一神)は我らが真性の信仰」と詠んだ。
 イスラム神秘主義において、唯一なる神への信仰とは神を愛することである。これはイスラム正統派から異端と見做されがちだった。そこで迫害を避けるため、特にファールス(ペルシア)語圏では、唯一神への愛の隠喩としての恋愛詩が発達した。意中の美女(あるいは美少年。ファールス語には三人称代名詞に性別がない)への愛や讃美に見せかけて、唯一神への愛や讃美を詠うのである。また詩に詠まれる佳人は、(異教の)偶像に喩えられた。「偶像=美しいもの」と認識されていたからだが、これは同時に唯一神を偶像に喩えていることにもなる。
 こうして詩人たちもまた、「すべての被造物は唯一なる神に等しいのだから、なんであれ被造物を愛するのは唯一なる神を愛する(信仰する)のと同じ」という結論に達するのである。
「唯一神への愛」を初めて説いたのは、バスラ(現在のイラク南東部)のラービアという女性だとされる。数百年後に書かれた伝記を信じるならば生年は710年頃で、イスマイールたちより10歳ほど年長だということになる。しかし若い頃は奴隷だったというから、仮に本作の時代(8世紀半ば)にはすでに解放されて神秘家としての活動を始めていたとしても、ハッラーン(トルコ南東部)やマディーナ(イスマイールの故郷。タージク=アラビア半島西部)まで名が知られていたとは考えがたい。
 本作においてイスマイールが数百年分を飛躍してイブン・アラビーの思弁へと到達し得たのは、ユーナーン(ギリシア)錬成術の「万物(物質のみならず霊的存在も)はエネルゴンで構成される」という理論を踏み台としたためである。
 その結果、「唯一なる神すらもエネルゴンから構成される(したがってその他のあらゆるものと同じく人間に操作可能である)」という、大神官らが恐れる結論に行き着いてしまうことにもなったのだった。
 そしてこれこそが、私が4半世紀余り探し求めてきた「あらゆる神話・信仰を包括するシンクレティズム神学体系の原理」なのである。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その二十七

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.63
上段14行
哲学者(ファイラスフ)
 φιλοσοφος(philosophos ピロソポス 英語形はphilosopher)「知恵を愛する者」のタージク(アラビア)語形。タージク語はP音がないのでF音に変わる。
 まあこの発言はシャーム(シリア)語で為されているし、そもそもAD8世紀半ばに「ピロソポス」のタージク語形発音が存在したのかは定かではないのだが(「ピロソポス」という語を知っているタージク人は、本作のジャービルやイスマイールのように外国語の知識があったはずである)、そこはそれ、雰囲気を出すためである。
 史実においても本作においても、ユーナーン(ギリシア)の学問領域では伝統的に「実践」が蔑まれてきた。理論の構築には熱心だが、実験、観察・観測、計量・計測という「肉体を使う作業」による実証は軽んじられてきたのである。だから錬成術(錬金術)が発展したのも、ユーナーン本土ではなく、ルーム(ローマ)時代のキーム(エジプト)だった。
 4世紀以降、ユーナーン錬成術が実践を軽んじるようになったのは、ルーム全体の衰退が背景にあるのはもちろんだが、ユーナーンの伝統的価値観が根強かったのも一因かもしれない。
 本作の舞台である都市ハッラーンはヘレニズム時代、キームのアレクサンドリアと並んで、錬成術が盛んだった。錬成術はヒルミス(ヘルメス)信仰と密接に結びついており、この時代にバビール(バビロニア)以来のシン信仰とヒルミス信仰とが混淆した可能性がある(解説その二十の「父祖たちは東方へ逃れ……」の項参照)。ハッラーンのシン神殿は、シン=ヒルミス信仰の中心だった。
 またサーサーン朝皇帝ホスロウ1世(在位539-628年)は異国の学問導入の一環として、ハッラーンに「ユーナーン人の学校」を建てたが(解説その二十一参照)、こちらは古代およびヘレニズム時代のユーナーンの学問継承の中心となった。
 しかし10世紀の記録によると、ハッラーンの神殿と学園は対立していたという。またユーナーンの学術書を数多くタージク語に翻訳し、自身も優れた数学者、天文学者だったサービト・イブン・クッラ(826-901)は、ハッラーン古来の宗教を信仰しており、『ヒルミスの教え』という書を著してもいるが、教義上の意見の不一致のため、神殿への出入りを禁止されたという。
 ハッラーンのシン神殿で人間の犠牲を伴う秘儀や妖術が行われていた、という後世のムスリムによる報告は中傷にしても(解説その四の「偶像に生贄を捧げて……」および「犠牲に選ばれるのは……」の項参照)、ヒルミス=シン信仰に秘教的な色彩が強かったのは確かだろう。そもそもこのヒルミスは、ヘルメス・トリスメギストスなわけだから。
 前近代のムスリムは概して異教に無関心で、それぞれを区別しない。だからたとえばハッラーンの宗教について、9‐10世紀の知識人の間では、「ボザスプ(菩薩=ボディサットヴァ)の僧侶たちが、ファールス(ペルシア)のジャムシード(『王書』に登場する伝説上の王。善政を敷いたが後に堕落し、暴虐なザッハークに王位を奪われる)の父(または兄)を改宗させたのが始まりで、太陽を崇拝する(ミトラス教と混同している?)」という妄説が流布していた(『伝ウマル・ハイヤーム ノウルーズの書』東アジア人文情報学研究センター)。
 しかし例外的に信憑性が高いと思われるシャフラスターニー(1153年没)や、ムスリムでありながらハッラーンの叡智を継承したと称する10世紀の異端者たち(後述)の著作によると、ハッラーン人たちの教義は、ヒルミス主義の中でも特にピュタゴラス主義の比重が高く、輪廻転生を信じ、数学(および数秘術)、天文学(および占星術)、音楽を重んじていた。またピュタゴラスをヒルミスやアガトダイモーン(元来は古代ユーナーンの神だが、ヘレニズム期には実在の錬成術師と見做された)と並ぶ自分たちの祖先だと信じていた。
 解説その九の「預言者」の項で見たように、ヒルミスはマーニー教(マニ教)において預言者の一人に数えられ、やがてムスリムたちにも預言者として崇敬されるようにになった。シンクレティズム(諸教混淆)の一例である。9世紀以降、一神教を装うようになるハッラーン人たちも、ヒルミスを預言者だと見做すようになり、さらにはピュタゴラスも預言者だとすることもあったという。
 ヒルミス主義には実にさまざまな(言い換えれば雑多な)要素が詰め込まれているが、なかでもピュタゴラス主義は秘教の代表と言っていいだろう。ちなみにピュタゴラスのタージク語形は「フィタグルス」である。
 ハッラーンで継承されてきたユーナーンおよびヘレニズム文化のうち、秘儀を伴う神秘主義を担ったのが神殿で、理性(ロゴス)を重んじる哲学を担ったのが学園だったのだろう。同じ宗教の信者でも、両者の間には必然的に「教義上の見解の違い」が生じたと思われる。
 大神官が同胞である哲学者たちを悪しざまに言ったのには、こうした事情があったのですよ、という話。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その二十六

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。しばらく連日更新。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.63
上段9行
わたくしたち多神教徒が……
 この段落で述べられている見解こそが、本作を「マジック・パンク」、すなわち「魔法が存在するスチームパンク」とした最大の目的である。
 解説その十七で、「魔法」や「霊的存在」といった非SF要素を採り入れたのは、単に「史実よりも科学を発展させる動力」としてではない、と述べた。その二十六にして、ようやくその続きを解説できますよ。同じ記事で、「イスラムでスチームパンク」というアイデアに至ったのが去年の秋頃だとも述べたが、そこからさらに遡り、4半世紀以上前のこと。
 学生時代のいつ頃からか、シンクレティズム(諸教混淆)に興味を持つようになった。子供の頃から文化混淆に興味あった(NHK特集「シルクロード」が大好きだった)のに加えて、龍谷大学という環境も大きな要因となっているだろう。何しろ仏教系の大学なので、民俗学など直接関係のない講義でも仏教を取り上げがちであり、何しろ仏教なので宗教混淆に話が及びがちだったのである。
 しかし、じゃあその研究をしよう、とはならずに、「神から精霊、妖怪の類に至るありとあらゆる神話・信仰を包括したシンクレティズム神学体系を構築したい」となったのだから、それはまあ研究者ではなく小説家になるのが必然だったと言えよう。神話学(学問)の「研究」ではなく、あらゆる「霊的存在」が「実在」すると仮定した上での「創作」である。
 それからおよそ10年後、シンクレティズム炸裂の『グアルディア』でデビューすることになるのだが、件の「シンクレティズム神学体系」はというと、とっかかりすら摑めずに行き詰まったまま放置という有様だった。「原理」なくして「体系」は構築できないが、その原理が見つからなかったのである。そうして4半世紀余り、意識の片隅の半端なアイデアを押し込んである倉庫から時々引っ張り出して眺めてはまた仕舞い込む、ということを繰り返していたのであった。
 それが「ホラー&ダーク・ファンタジー専門誌」である『ナイトランド・クォータリー』という場をいただけたのをきっかけに、「イスラムでスチームパンク」の「史実よりも科学を発展させる動力」と「あらゆる信仰を包括したシンクレティズム神学体系」の「原理」の二つを一度に解決するアイデアが降って湧いたのであった。
「神学体系の原理」問題までもが解決したのは、「イスラムでスチームパンク」の「イスラム」という要素に負うところが大きい。
 異教・異文化に不寛容なイスラム、というイメージは、ISのような原理主義(および「西側」の不寛容)のせいで強まる一方だが、その原理主義と対極にあるのが、イスラム神秘主義(スーフィズム)の中の一つの潮流である。これについては後ほど解説する。
 ひとまず今回はイスラム神秘主義抜きで、p.63上段9‐12行の文章を解説しよう。
 AD8世紀半ば、イスラムの優位がもはや揺るぎない中東におけるマイノリティ(ハッラーンとその周辺にしか残っていない特殊な宗教の信者)の代表者として、大神官は慎重に言葉を選んでいる。彼らが継承し発展させてきた錬成術(錬金術)は、タージク(アラビア)の妖霊(ジン)、ユーナーン(ギリシア)の精霊(ダイモーン)、ファールス(ペルシア)の善霊(フラワシ)と悪霊(デーヴ)を等しく「エネルゴン体」(一まとまりのエネルゴン)と定義する。単なる空論ではなく、物質を構成するエネルゴンと同じく、適切な手段によって操作可能である。
 これら「霊的存在」は、いわゆる下級神格であり、古い時代には神々として崇められていた(あるいは悪神として恐れられていた)。イスラムの聖典にも、預言者ムハンマドの時代には未だ「神」とジンの区別が曖昧だったことが明記されている。
 多神教におけるこれら下級神格が「エネルゴン体」であるならば当然、上級神もエネルゴン体であり、より強力ではあるものの操作可能だということになる。イスラムの「唯一なる神」(アッラー)は元来、タージク人が信仰する多数の神々の一柱だった。だから聖典では、多神教徒たちがアッラーを「神々のうちの一柱」と見做すのを激しく否定し、神の唯一性を繰り返し強調しているのである。
 イスラムの神を「神々のうちの一柱」と見做すのはもちろん、それが「人間に操作可能なエネルゴン体」と見做している、とムスリムに誤解されたりしたら、迫害は必至である。それを避けるため、「わたくしたち多神教徒が神と呼ぶもの」という回りくどい言い方をしているのである。
「相」とはこの場合、それぞれの神(および霊的存在)が司る事物や性格を指す。ヒルミス(ヘルメス)なら技芸、学問、策略、商業、旅、冥界、豊穣、水星、魔術、占星術、錬成術……と実に多彩である。
 霊的存在というエネルゴン体に、これらの相を与える(創造する)のは人間である。感情や思考など、人間の精神の働きもエネルゴンなのだから、人間の信仰が霊的存在に「相」を付与し得るのである。ある霊的存在への信仰が変化すれば当然、その「相」も変化する。
 それどころか、世界を構成するエネルゴンから、一まとまりの「エネルゴン体」を切り出す、つまり「発現」(解説その十四参照)させるのもまた、人間の信仰である。p.61下段10・11行で大神官が「ここは聖域ですから、発現させるだけなら容易です」と述べているが、これはエネルゴンが多い場所(したがってエネルゴン体を切り出しやすい)と少ない場所があることを示している。
 たとえば火山なら「火」の相を帯びたエネルゴン体、水場なら「水」の相、といった具合に、最初は単純な相関だっただろう。その場所が「聖域」として信仰されるようになれば、「相」はいっそう明確になり、さらに新たな相も付け加えられる。もちろん「名」も与えられる。
 またたとえば、聖域ではない場所にできた都市も、人間のエネルゴンの集合体であり、そこから自然崇拝よりも抽象的な都市の神、商業の神、学問の神といったものが生み出される。
 本作の背景解説としては、これくらいで充分だろう。
 というわけで、「宗教Aの神aが宗教Bの神bと同一視される」というシンクレティズムの典型的現象を、本作の「エネルゴン理論」で説明すると、「ヒルミス、トフト、シンの三柱は、一つのエネルゴン体を別々の面から見たもの」となるのである。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その二十五

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。しばらく連日更新。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.62
下段21行
熱、冷、湿、乾
 アリストテレスが提唱した「四性質」。すべての物質の最も基本となる性質とされる。
 中東ではAD 5世紀以降、古代ユーナーン(ギリシア)の学術書が盛んにシャーム(シリア)語に翻訳された(解説その十一の「シャーム語」の項参照)。これらは9世紀以降、国家事業としてタージク(アラビア)語に翻訳され、中でもアリストテレスの学説は医学や錬成術(錬金術)を含む科学全般に多大な影響を及ぼすことになる。720年代初め生まれのジャービルの錬成術理論には、すでに四性質説が採り入れられている。
 ちなみに現代タージク語でアリストテレスは「アルシトゥー」だが、中世には「アリストゥタリス」または「アリスタタリス」だった。

クセリオン
 イスラムの錬成術(錬金術)は、アレクサンドリアで発達したユーナーン(ギリシア)錬成術の影響が顕著だが、そのユーナーン錬成術における、物質を変成させる薬剤の名(の一つ)。これがタージク(アラビア)語化され、「アルイクシール」となった(「アル」はタージク語の定冠詞)。
「クセリオン(ξηριον xerion)」の語源は、古代ギリシア語の「乾」(ξηρος xeros クセロス)である。では、何が「乾」なのか。物質操作には「乾」の性質が重要だと考えられからだという説と、もともとあった医薬品の名前を流用したという説があり、後者によると「クセリオン」は「乾いた粉末」という意味だそうだ(つまり本来のクセリオンは粉薬だったわけだ)。
 万能の霊薬が「乾いた粉末」では、文字どおり無味乾燥に過ぎる。また前項で述べたように、史実のジャービルの錬成術理論は四性質説に基づいているので、本作では「アルイクシールの想定される性質は乾である」ということにした。

生命も霊魂もエネルゴンです
 解説その十八の「あらゆる事物事象はエネルゴンから……」参照。
 
p.63
エネルゴンとしての霊魂の錬成
 ユーナーン(ギリシア)錬成術(錬金術)は、時代が下るにつれて実験や操作といった実際の経験を伴わない理論、要するに机上の空論と化していった。アレクサンドリアのステファノス(AD7世紀)は実践からさらに乖離し、メシアス教(キリスト教)による霊魂の救済の比喩・象徴として錬成術理論を利用した。「霊魂の錬成」というわけである。この傾向は以後のルーム(東ローマ帝国)の錬成術において主流となった。
 一方、中東に移植されたユーナーン錬成術は、西方に比べればまだしも実践を重視していた。しかし物質の実際の操作という「実践的錬成術」の復活は、ジャービルの登場を待たねばならなかった。
 以上は史実における錬成術である(R・J・フォーブス『古代の技術史 上』浅倉書店)。本作においては、ルームの状況は史実どおり。中東では史実よりも物質操作の実践を重視しつつ、「霊魂の錬成」を最終目標としてきた。そして本作の世界では、物質のみならず人間の魂をも含む「霊的存在」も「エネルゴン」によって構成されており、適切な手段により操作可能なのである。
 史実においても本作においても、ジャービルは「実践的錬成術」を復活させつつ、「霊魂の錬成」を目的とする「精神的錬成術」をも継承した。イスラムにおける「精神的錬成術」については後述する。

 続きます。

目次

|

「ガーヤト・アルハキーム」解説 その二十四

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。更新再開。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.62
下段20行
アルイクシール
「エリクサー」という語なら御存知の方は多いと思うが、その語源となったタージク(アラビア)語であり、命名者は本作登場の錬成術(錬金術)師ジャービルとされる。
「アル(定冠詞)+イクシール」で、原語により忠実に表記するなら「アル・イクシール」だが、煩雑さを避けるため「・」は省略。「イクシール」の語源については後ほど解説。
「万能薬」「霊薬」などと訳される西洋の「エリクシル(エリクサー)」は、どんな病も治療すると同時に、鉛などの卑金属を黄金に変えるともされる。しばしば「賢者の石」と同一視されるが、こちらは液体とされることが多い。
 イスラム世界の「アルイクシール」もまた、万能治療薬であると同時に、物質を黄金に変える、すなわち化金薬でもあると考えられていた。ジャービルはこの薬品を使って黄金をつくり出しただけでなく、万病も治療したとされる。
 イブン・ハルドゥーン(AD1332-1406)は『歴史序説』(岩波書店)第6章で、鉛や錫や銅のような鉱物を火で熱してアルイクシールを加えると黄金に変わる、と述べている。しかしその少し後で、魔術書『ガーヤト・アルハキーム』(本作のタイトルはこれに因む)の著者とされるマスラマ・アルマジュリティー(950-1007)の弟子である2人の錬成術師の間で交わされた書簡を引用しているのだが、そこでは「アルイクシール」の語は出てくるものの、「化金薬」とされるのは「卵」または「石」(すなわち「賢者の石」)と呼ばれる物体である。
 なお訳注によると、この書簡は偽書だそうだ。
「アルキーミヤー」(あるいはラテン語の「アルキミア」)とは、錬金術すなわち黄金の生成(のみ)を目的とする(怪しげな)技術ではない。そのようなイメージは、17世紀末の西洋で初めて出現したのである。それまでは西洋でも中東と同様、「アルキミア」は「物質操作」全般を目的としており、黄金生成は(とりわけ重要ではあるものの)あくまで目的の一つに過ぎなかった。「アルキミア=錬金術」というイメージは、「アルキミア」から霊的要素を排除した「キミア」すなわち化学が分離する過程で、排除された要素を貶めるために(「キミクス」すなわち化学者によって)生み出されたものにほかならない。
 したがって「アルイクシール」も、単なる「化金薬」ではない。それは物質を「より高等な物質」に変成する薬剤である。同様に、「病気の人間」も「健康な人間」に変成させるのである。
『錬金術の秘密』(ローレンス・M・プリンチーペ 勁草書房)によれば、イスラム錬成術では物質や目的ごとに、すなわち卑金属を貴金属に変えたり、石やガラスを宝石に変えるたり、病気を治療したりするごとに、「アルイクシール」の処方が変わるのが主流だったという。つまり「アルイクシール」は数百あるいは数千種類の薬品の総称だったというわけだ(したがって、「万能」薬ではなかったわけだ)。
 しかしそれでは煩雑に過ぎ、またその分、インパクトも弱い。かといってそれ一つですべてが解決する「万能薬」というのも、おもしろみがないし、本作の「エネルゴン理論」とも相容れない。さらに後述する「世界および人間(の魂)を錬成するアルイクシール」という「精神的錬成術」論から、本作ではアルイクシールを「万能の触媒」と定義する。

 不調から回復途中なのと、1項だけで長くなってしまったのでまた明日

目次

|

「解説」再開します

 御無沙汰しております。9月末に突然体調を崩し、その後1ヵ月余り、回復してきたと思ったらまた逆戻りを何度か繰り返してきましたが、ようやく拙作「ガーヤト・アルハキーム」の解説を再開できるところまで来ました。明日からです。
 自分用の覚え書きを兼ねてるとはいえ、それほど優先順位が高いものでもない、それをまた始められるようになったというのは、だいぶ元気になったということであります。様子見でしばらく書き溜めてたので、まあ1週間くらいは連日更新できると思いますが、その後はわかりません。とはいえ何週間も中断することは、もうないと思います。たぶん。

 不調の原因は不明なんですが、考えられるのは、夏に体調を崩して9月か10月に持ち直す、ということを毎年繰り返していたので、今年は夏に負けないよう頑張ろう、とものすごく健康に気を遣った生活を続け、一度も体調を崩さずに夏を乗り切ったのですよ。そしたら9月末にいきなり来たんで、どうも夏の疲れが原因なんじゃないかと。

 夏に体調を崩すのは、故郷の長野を出た大学時代以来、毎年なんですが、ここ数年は12月か1月頃にも体調を崩して2月か3月に持ち直すことを繰り返しているので、12月ってもう来月じゃん……頑張って乗り切ろうと、日々健康に気を遣っております。夏には(最終的に)負けたけど、冬には負けないぞ。

|

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »