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「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十二

『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。

目次

頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
上段9行
多くは奢侈に耽り酒色に溺れた
 これまで何度か言及してきたが、この時代(AD8世紀半ば)の中東は、同時代の記録、特にタージク(アラビア)語のものはほぼ現存しない。その理由について、この項でがっつり解説しておこうと思う。
 前イスラム時代(7世紀前半以前)、タージク人は絵画よりもカリグラフィーを好み、発達させていたにもかかわらず、文学は口承に限られ、もちろん史書や学術書の類が書かれることもなかった。
 預言者ムハンマドに下された啓示(唯一神からの「お告げ」)もまた、信徒たちによって暗記され、伝えられていたが、ムハンマドの死後(632年)の内戦によって、これらの暗記者たちがどんどん戦死してしまったので(暗記者だからといって、戦闘は免除されなかったのである)、危機感を覚えた当時の名代(ハリーファ)たちが啓示を書き記して1冊の書物にした。これが聖典である(「聖典」の名称については後述)。
 タージク語で書かれた最初の書物であり、その後永らく、唯一の書物だった。Bibleの語源がユーナーン(ギリシア)語のβιβλια(biblia「書物」)であり、the Bookで聖書を指すように、現代でもタージク語では「定冠詞+書物」(アルキターブ)でイスラムの聖典を指す。
 ムハンマドに下った啓示は、唯一神の許にある「書」の内容と同じだと信じられている。聖典で言及されている「明瞭なキターブ(書物)」(第10章61節)、「キターブの母」(第43章4節)や「護られた書板」(第85章22節)などが、この聖典の「原典」を指すとされる。
そのため、啓示を書き記して書物にすることにはそれほど抵抗はなかったと思われる。しかしその後のムスリムたちは聖典を崇めるあまり、それ以外の書物は一切書かれるべきではない(少なくとも「聖なる言語」であるタージク語では)と考えるようになった。
 またイスラム世界が拡大するにつれて、公文書など文字による記録の必要も当然ながら増えていったが、ハリーファをはじめタージク人支配層は、異民族の奴隷や改宗者に、ユーナーン語やファールス(ペルシア)語など、それぞれの母語で書かせるだけで事足れりとしていた。これら現地語で作成されていた公文書が、タージク語に切り替えられたのは7世紀末から8世紀初め(本作の時代より約半世紀前)の改革によってである。
 それからさらに時を経て、本作の時代の少し前から、ようやくタージク語の記載文学と呼べるものが現れ始めた。それらはユーナーン語やファールス語などの文学作品の翻訳、また口承されてきたタージク語の詩や逸話(主にムハンマドに関するもの)の記録だった。
 最初の歴史書が書かれるのは本作から数年後のことで、その後、紙の生産が始まったこともあってタージク語の記載文学は急激に発達し、史書の類も次々書かれるようになる。
 これら初期の歴史書は、ほとんどが9世紀半ば以降に書かれた歴史書に断片的な引用の形でしか残っていないか、後世の「編纂」を経て多かれ少なかれ加筆や削除を受けている。また、たとえ「現存」するものであっても、原本ではなく後世の写本だから、正確なコピーではない。
 それ以前に、当然ながら初期の歴史書が依拠したタージク語資料は、口頭による伝承である。異国語の記録があったとしても、広く知られたもの(多数の写本が出回っていたもの)はなかっただろうし、それらを利用できたのは非タージク系に限られていた可能性が高い。前近代の「純血」を誇るタージク人は、概して異国語学習の意欲が低かった。
 口頭のみによる伝承というものが、数世代・数十世代を経て連綿と不変のまま続いてきたと考えるのは誤りである。まず、記録媒体が人間の脳しかないのだから、正確さを確認しようがない。複数の人間が、合唱するかのように同時に詠唱すれば、彼らが記憶しているのが一言一句同じであるかどうかの確認はできる。しかし、それが「オリジナル」と同じであるかどうかの確認は不可能だ。
 さらに、言葉は変化するものだから、たとえ(部分的にせよ)一言一句正確に口伝していったとしても、やがてそれらの一言一句はオリジナルとは意味が違ってしまい、最終的には意味不明な音の連なりとなってしまう。
 また、巧みな語り部というのものは、聴衆の反応によって語りを操作するものだ。だから同じ物語でも、語られるたびに要素が省かれたり新たに付け加えられたり、改変されたりする。
 そして記憶とは非常に歪みやすいものであり、しかもそれを自覚することは難しい。意識的に自らの記憶を歪曲した場合ですら、歪曲したことを忘れてしまいかねない。そうなれば、歪曲された記憶こそが「正しい」記憶となる。
こんな例がある。20世紀初頭、アフリカのある民族が口頭で伝承していた建国神話が、西洋人によって文字で記録された。数十年後、同じ建国神話が再び記録されたが、最初のものと内容がだいぶ異なっていた。だが当人たちは、自分たちは同じ神話を語り継いできたのであり、文字記録のほうが間違っていると主張した。
 私たち「文字の文化」の人間は、彼ら「声の文化」の人々を愚かだと嗤うことはできない。1986年、スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故の翌日、ある心理学教授が学生106人に、そのニュースを聞いた時、どこにいたか、何をしていたか、どう感じたかについて細かく書かせた。2年半後、同じ学生たちに同じ質問をして口頭で答えさせた。
 彼らのうち、すべての質問に対し正確に前回と同じ答えを語った学生は10%に満たなかったという。残りのうち大多数は比較的小さな食い違いだったが、25%は大きく食い違っていた。多くの学生が、自分が手書きした記録を突き付けられてもなお、記憶の歪曲を認めなかった。学生の1人は次のように述べたという。「確かにわたしの字だけど、あの時のわたしが感じたりしたりしたことは、ここに書かれていることとは違う」
 参照:W・J・オング『声の文化と文字の文化』藤原書店、ロバート・A・バートン『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』河出書房新社
 話を戻す。そういうわけで、ウマイヤ朝の名代(ハリーファ)やその一族の行状について、同時代の記録は現存しない。そして前回の「ウマイヤ家のムアーウィヤ」の項で述べたとおり、ウマイヤ朝初代ハリーファのムアーウィヤ(680年没)は、「不正な」手段(脅迫等)によりハリーファ職を世襲とし、「正統ハリーファ」の時代を終わらせた。息子である2代目は第4代正統ハリーファの息子にして預言者ムハンマドの孫であるフサインを殺害したのに加えて、イスラム第一の聖都マッカに立て籠もった反乱軍を包囲攻撃した挙句にカァバ神殿を炎上させた(683年)。
 王朝初期のこれらの所業だけでも、後世のムスリムたちがウマイヤ家全体の評価を低くするには充分である。さらに、ウマイヤ朝を打倒して新王朝を建てたアッバース家(後述)は、自己正当化のため自分たちの敬虔さとウマイヤ家の不敬さを喧伝した。
 したがって何世代も語り継がれた伝承はもちろん、ウマイヤ朝末期の社会を体験している人々(最初期の史書の著者らはこの世代)の証言であっても、歪んでしまっている可能性が高い。
 が、ウマイヤ朝ハリーファたちが沙漠に建造した豪華な離宮が幾つも残っていることから、「奢侈に耽」る傾向があったのは間違いない。これらの離宮が建てられるようになったのは8世紀に入ってからだが、その前段階として7世紀末頃からの禁欲主義の広まりがある。
 これは「反イスラム的」と考えられる一切(その判断は人それぞれである)と一切の快楽を断ち、ひたすら断食や不眠といった苦行に明け暮れるというもので、イスラム世界の中心であるシャーム(シリア)とイラク、東端に近い東ファールス(ペルシア)で同時多発的に発生した。前者はメシアス(キリスト)教の隠者や苦行者からの、後者は仏教からの影響が指摘されているが、いずれにせよ背景にあったのは、当時の社会に蔓延していた現世的で享楽的な風潮だったとされる。
 初期の禁欲主義に関する情報もまた、何世代もの口頭伝承を経て記録されたものだが、当時のイスラム世界は拡大によって非常に豊かになると同時に、さまざまな「反イスラム的」要素を内包するようになってきていたのは確かなので、それに対する反発は当然生じていただろう。さらにこの禁欲主義の潮流は途切れることなくアッバース朝時代にも受け継がれ、やがてそこから神秘主義(スーフィズム)が生まれることになるのである。
 そういうわけで、8世紀にウマイヤ朝のハリーファたちがわざわざ沙漠に離宮を建てたのは、禁欲主義の広まりを考慮してのことと思われる。それ以前は人目をはばからず豪華な宮殿を建てていたのだろうが、それらは現存していない。
 したがってウマイヤ家ハリーファ(および一族の) 「多くは奢侈に耽り酒色に溺れた」という後世の評価は、誇張されてはいるだろうが根も葉もきちんとある、と判断した次第である。

 続きます。

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