「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十九
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段11行
調合
以下は鈴木貴久子「ムスリムたちの食生活 アッバース朝宮廷社会と中世カイロの都市社会」(栄光教育文化研究所『文明としてのイスラーム』所収)、杉田英明『葡萄樹の見える回廊 中東・地中海文化と東西交渉』(岩波書店)、および山田憲太郎『南海香薬譜 スパイス・ルートの研究』(法政大学出版局)に掲載されていた中世イスラム世界の飲料の調合を参考に、できるだけ高価そうな材料を組み合わせたものである。したがって味は知らん。御想像にお任せします。
この飲料の名称については後述(御存じの方もおいでかと思いますが、「シャーベット」の語源です)。
白葡萄
ノンアルコール飲料によく使用される果汁として挙げられていたのは葡萄、柘榴、レモン、オレンジ。このうち柘榴は収穫時期が9~10月で、後述するがこの場面は9月初頭なので少々早いかな、と。レモンは中東では年中収穫できるようだし、保存しやすいし、皮が厚いから運搬も楽だし、ということであんまり高価じゃないかな、と。
オレンジはこの時代の中東には苦くて生食には向かない品種(ビターオレンジ)しかないはずで、もし果汁を飲料に使うとしても、香りづけ程度だろう。どのみち収穫は晩秋以降。
葡萄は季節が合うのと、レモンに比べてあらゆる点で傷みやすいから、その分高価だろうな、と。赤ではなく白葡萄にしたのは、マスカットを想定しているので。北アフリカ原産で、この時代(AD8世紀半ば)以前に地中海地方全域に広がっていたので、ハッラーン(現トルコ南東部)でも入手可能だろう。
薔薇水
薔薇水は中世以来、イラン、イラク、シリアなど中東各地の特産品であり、香水としてだけでなく飲食物にも使用される。
ちなみに薔薇水はファールス(ペルシア)語で「ゴラーブ」と言う(文字どおり「薔薇(ゴル)」+「水(アーブ)」)。薔薇水をメインに甘味料(砂糖または蜂蜜)を加えた飲料をタージク(アラビア)語で「ジュッラーブ」と言うが、これは「ゴラーブ」の転訛である(タージク語にはG音がないのでJ音に変わる)。「ジュッラーブ」を語源とするのが、欧米のカクテル「ジュレップ」だが、なぜかミントフレーバーで、薔薇はまったく関係ない。
香水としてでも飲食物としてでも、麝香(次回解説)と合わせて使われることが多かった。
古代・中世では西洋でも東洋でも、香料は単なる嗜好品ではなく医薬品でもあった。薔薇水の効能は、頭痛、動悸、発熱に効き、体力をつけ、内臓諸器官を丈夫にする、とされた。
薔薇水の製法については後述。
砂糖(スッカル)
解説その一の「蜜菓子」の項で述べたように、AD8世紀半ばの中東では(というか中東に限らず)、砂糖は高級品だった。
「スッカル」はタージク(アラビア)語で「砂糖」のことで、パーリ語の「サッカラ」もしくはそれに類するインド諸語のどれかを語源とする。ユーナーン(ギリシア)語・ラテン語の「サッカロン」、英語のsugarも語源は同じである。
ファールス(ペルシア)で砂糖黍栽培がいつ始まったのかは不明だが、イラクで栽培が始まったのはサーサーン朝時代(AD3世紀前半~7世紀半ば)である。本作の時代には、キーム(エジプト)でも栽培が始まっていた。
というわけで、すでにそこそこ生産量は増えており、その後も順調に増産が続くのだが、中世を通じて砂糖は高級品であり、大量には使えないため甘味料というよりは香料(スパイス)という扱いだった。大導師(イマーム)の御曹司イスマイールでも、白葡萄果汁がさらに甘くなるほどの大量の砂糖を日常的に消費するのは無理だろう。
現代の白砂糖は高度に精製されすぎて「風味」がほとんどないため、スパイスだったと言われてもピンと来ないかもしれないが、黒砂糖の「風味」を考えれば、なんとなく納得できるのではないだろうか。精製した粉状の砂糖(スッカル)に対し、粗糖は「カンド」と呼ばれた。「キャンディ」の語源である。
しかしイスラム世界では、風味の少ない白砂糖のほうが好まれた。風味が少ないからこそとか、より甘いからとか、精製に手間が掛かって高価だからというよりは、その白さが「純粋さ」と結びつけられたのである。上述のように香料は医薬品でもあったから、「純粋」なほうが効果が高いと考えられたのだった。イスラム医学では、砂糖は四性質説(解説その二十五の「熱、冷、乾、湿」の項参照)の「熱、乾」の性質を持つとされた。内臓諸器官、脳、眼に効果があり、鎮痛剤にもなった。
西洋でもタージク語やファールス語の医学書の翻訳などを通じて、砂糖はスパイスおよび医薬品として広まった。
リストの途中ですが、長くなったので続きはまた明日。
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