「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.63
下段13行
名代(ハリーファ)を立てることにした
「名代」という訳語については、解説その一の「名代」の項参照。
一般に「代理人」と訳される「ハリーファ」は本来、「唯一神の使徒のハリーファ」のことだった、というのが定説である(「唯一神の使徒」とは預言者ムハンマドのこと)。本作のこのパートで述べているように、ムハンマドが後継者を指名せず没したので(AD632年)、ハリーファ(名代)が選出された。初代ハリーファが2年後に死去したので、その次に選ばれたハリーファは「唯一神の使徒のハリーファのハリーファ」と名乗ったが、長たらしいので3代目からは省略して「ハリーファ」(正確には定冠詞付きの「アルハリーファ」)とのみ称するようになった。
……と文献史料は伝えるのだが、それらはいずれも100年以上後、つまり本作の時代前後かそれ以上後に書かれたり編纂されたものである。それ以前だと、文献史料は残っていない。当時のタージク(アラブ)人は著作の習慣を持たなかったし、公文書の類も失われてしまったのだ(文献史料の問題については後述)。
そこで後世の改竄を経ていないことが確実な貨幣や印章などの銘文、石碑などの碑文やごくわずかだがパピルス文書などを用いた研究が、亀谷学氏の「ウマイヤ朝期のカリフの称号」(『中東学会年俸』24巻1号)である。それによると、それらの史料で「唯一神の使徒のハリーファ」とか「唯一神の使徒のハリーファのハリーファ」という称号は確認できないそうである。
ちなみに使用されていたのが確実なのは、「使徒のハリーファ」ではなく「唯一神のハリーファ」という称号で、本作の時代より約半世紀前のハリーファであるアブドゥルマリク(在位685-705年)が発行した貨幣に刻まれているそうだ。そもそも「ハリーファ」という称号は、聖典の「私(唯一神)は地上にハリーファを派遣しよう」(第2章30節、アーダム=アダムへの言葉)や「私はおまえを地上におけるハリーファとした」(第38章26節、ダーウード=ダヴィデへの言葉)に基づく。元来は「唯一神の使徒のハリーファ」ではなく、「唯一神のハリーファ」なのである。
しかし「使徒のハリーファ」が確認できないからといって使われていなかったと断定するのは性急、とは亀谷氏も述べているし、いずれにせよ本作では「唯一神のハリーファ」という称号は登場しないので、上記の「定説」のほうを採用した。
なお、「ハリーファ」は「後継者」と訳されることもあり、実際、君主の嫡男が「○○(父の名)のハリーファ」と呼ばれるなど、文脈によっては「後継者」と訳したほうが適切なこともある。しかし「使徒のハリーファ」ならともかく、「唯一神のハリーファ」を「唯一神の後継者」と訳しては、不敬極まりない称号になってしまう。
イスラム世界の最高指導者の称号としての「ハリーファ」(アルハリーファ)は、かつてはしばしば「教主」と訳された。これだと原義にはかすりもしていない。
「教主」の訳を当てるなら、通常は「信徒の長」と訳される「アミール・アルムウミニーン」のほうが、まだ妥当である。「ムウミニーン」は「信徒」の複数形なので、「全信徒の長」と訳されることもある。
これもイスラム世界の最高指導者の称号だが、少なくとも本作の時代(8世紀半ば)やそれ以前には、「ハリーファ」よりも確実に広範に使われていた。
では、なぜ本作で史実に即してこちらの称号を使わなかったかというと、まず「信徒の長」という日本語が、称号としてはやや冗長で、その分印象が弱い。「教主」なら簡潔だが、いかにも神権国家っぽく、ウマイヤ朝は神権国家というには世俗的すぎて(後述)相応しくない。ファーティマ朝(後述)とかだったら相応しいんだけどね。
しかも、「長」と訳される「アミール」は、正確には軍隊の司令官のことである。総督に該当する役職も「アミール」と呼ばれた。後世のイスラム世界で、地方国家の君主が「アミール」を称したのは、建前上はハリーファからその地域の総督権を委ねられた、ということになっていたからだ。
最初に「アミール・アルムウミニーン=(全)信徒の長」の称号を用いたのは、第2代ハリーファだったとされる。預言者ムハンマドの死以来、信徒の棄教と反乱が相次いでいたという事情が背景にある。
「信徒の長」にせよ「教主」にせよ、「総司令官」という原義と食い違う上に、どのみち「全信徒の総司令官」というさらに冗長な称号を用いたとしても、イスラム共同体が危機に瀕していた時代ゆえの切迫感は伝わらない。
解説その六の「硝子ランプ」の項で述べたように、本作では「世界観の演出」として、固有名詞を除き、カタカナ語はなるべく使わないが、中東特有の称号や事物などには日本語訳になるべく原音に近いルビを振っている。だから「イスラム世界の最高指導者」の称号も日本語訳にルビを振ることになるわけだが、「アミール・アルムウミニーン」はルビにするにしても長ったらしすぎる。
実は本作ではこの箇所の後、二度「全信徒の長」の称号を使っている(ルビ付きとルビ無し)。状況的に「名代」よりも相応しいと判断したからだが、全篇で使っていたら、かなり鬱陶しいことになっていただろう。これが本作でこの称号をメインで使わなかった最大の理由。
一方、「名代」にルビ「ハリーファ」なら簡潔である。ファンタジー作品において、広大な国家の支配者の称号が「名代」というのも、そうそう例がなく、奇異な感じを与えるだろう。この「奇異な感じ」もまた、「世界観の演出」の一環である。
さて、御存知の方やお気づきの方もおいでだろうが、日本では「ハリーファ」は「カリフ」と表記するのが慣例である(カリフ:英語形から。ハリーファの「ハ」は喉にかかる音だから、発音に忠実にラテン文字表記するとkhaとなる。その転訛。英語形のスペリングはkhalif、calif、caliphなどがあるが、発音はいずれも「ケイリフ」になるから、日本語のほうがまだ原音に近い)。
本作でなぜ「カリフ」という語を使わなかったかというと、「原音に忠実な日本文字表記」にこだわる気はないものの、あまりに懸け離れた表記もどうかと思うのと、何より「カリフ」という語を目にして/耳にして、あなたが思い浮かべたそのイメージを排除したかったからである。
あるいは、「カリフ」という語になんのイメージも浮かばない、「カリフ」という語についてなんの情報も持っていない、という方もおられるかもしれない。それならなおのこと、「ハリーファ」という語を使うのに問題はない。
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