「ガーヤト・アルハキーム」解説 その四十
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
下段12行
麝香(ムスク)
タージク(アラビア)語で「麝香」は「マサク」といい、英語のmuskと語源は同じで、サンスクリット語の「ムスカ」(睾丸)。「マサク」も英語も(「マスクメロン」とか「マスカット」の「マスク」)馴染みがないんで、日本語の慣例どおりの表記「ムスク」にする。まあいつもどおり、その場のノリで決めました。
麝香の原料はヒマラヤ一帯に生息する麝香鹿の雄の分泌物である。語源が「睾丸」なのは、この分泌物を出す麝香嚢が睾丸の近くにあるためだと考えられている。AD6世紀のキーム(エジプト)の地理学者コスマスは、若い頃は海洋貿易に従事する商人であり、シンド(インド)で得た見聞を基に、「モスコス(麝香)はその小さな動物(麝香鹿のこと)を矢で射て、臍の辺りに溜まった血を採取したものである」と記した。この見解は、イスラム世界にも受け継がれた。
エチオピア高地と東南アジアに生息する麝香猫の分泌物も香料の原料となり、霊猫香(シベット)と呼ばれるが、イスラム世界では代用麝香あるいは偽麝香として扱われることが多かった。
麝香は焚香料としては、香木類と違って単独ではにおいが強すぎて悪臭となってしまうので、少量を他の香料と混ぜて使う。また油脂に混ぜて塗布剤としても使われたし、この場面のように、飲食物の香りづけとしても使われた。
医薬品としては、砂糖と同じく「熱、乾」の性質を持つとされたが、効能はまた違って、身体を温め、心臓その他の内臓を強くし、頭痛や気鬱も治した。
「乾」ではなく「湿」だという説もあり、その場合は、男女の交わりを円滑にし、性欲を亢進する働きもあるとされた。
龍涎香(アンバル)
抹香鯨の腸内で分泌物が固まってできる。体外に排出されて浜に打ち上げられた物が採取される。「抹香鯨」の名はそれに因むが、少なくとも現代の「抹香」に龍涎香は使われていない。
タージク(アラビア)語では「アンバル」という。語源は不明で、西洋でも東洋でも古代には知られていなかった。後期ラテン語ambarを含め、ヨーロッパ諸語で龍涎香を表わす語はタージク語「アンバル」を語源としている。
タージク人がいつからアンバルを知っていたのかは、解説その三十二で述べた理由により、最も古い記録でも8世紀を遡らないため不明。
中国では唐代の記録にある「阿末香」が「アンバル」の音写だとされる。後に海棲の龍の涎が固まった物だという説が流布し、「龍涎香」の名が定着する。この「龍の涎」説は、イスラム世界で流布していた幾つかのアンバル成因説のうち、「海中生物の排泄物」説と「海底からの湧出物」説が複合した上に、ファンタジックに美化されたものだと思われる。西洋では身も蓋もなく、鯨の精液または糞便だと考えられていた。
なおイスラム世界では後に龍涎香と琥珀は混同され、たとえば16世紀の書物には、「アンバルはある山から蜜蝋が海中に流れ落ちて固まった物で、時にアンバルの中に蜂が閉じ込められているのはそのためである」と記されている。
この謬説は、次のような過程で成立したのだろう。まず、琥珀は宝飾品としてだけではなく、香料としても使われ(匂いは強くない)、また溶かせばニスになる。さらに琥珀にはしばしば蜂などの昆虫が閉じ込められることから、「琥珀の成分は蜜蝋」という説が生まれたのだろう(蜜蝋も燃やすと芳香がする)。
遅くとも15世紀には成立していた『千夜一夜』中の「シンドバードの冒険」第6の航海では、「龍涎香成因説」の別ヴァージョンが語られている。「ある山から龍涎香の原料となる物質が海中に流れ出て、海中の生物がそれを食べて排出する」
この「龍涎香成因説シンドバード版」と「琥珀=蜜蝋説」とが、どういうわけか複合したと思われる。琥珀も海岸で採取されるし。
この誤解が西洋にも伝わり、フランス語で琥珀を「黄色いアンバル」と呼ぶようになり、その後、区別のため本来のアンバルである龍涎香を「灰色のアンバル」と呼ぶようになった。今日の英語では琥珀はamberで、龍涎香はambergris、すなわち「灰色のアンバー」と呼ぶ。なお西洋での琥珀の古名は、古代ユーナーン(ギリシア)語「エレクトロン」(擦ると静電気を生じるので、electricの語源となった)、ラテン語「スキヌム」などである。
龍涎香は海岸に打ち上げられるのを偶然見つけるしかないので、最も高価な香料である。単独だと、麝香や霊猫香のような悪臭とまではいかないものの匂いがきつすぎるので、他の香料と組み合わせるのが普通だった。やはり焚香料や香油にするだけでなく、飲食物の香りづけにも使われ、いずれの場合も麝香と相性がよいとのことである。
医薬品としての効能は、脳と神経、心臓の病気、中風、関節炎、水腫、さらには「あらゆる病気」に効くとまでされた。なお、「四性質説」ではどれになるのかは、調べた資料には載っていなかった。
麝香と同じく性欲亢進剤としても使われたが、この場面では別にそういう目的で飲んでいるのではないのは言うまでもない。
ところで、参考文献を付記していたりしていなかったりしますが、原則として、1冊(または1本)から参照している情報が多い場合は付記しています。付記しないのは、情報があまりにも分散している場合です(文献数が多い上に、参照しているのが各文献数行以下の分量だったりする)。
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