「ガーヤト・アルハキーム」解説 その三十三
『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載の短篇「ガーヤト・アルハキーム」の解説です。連日更新中。
頁数は『ナイトランド・クォータリー』本体のものです。
p.64
上段9行
聖典が説く信徒の平等を無視し
イスラムの教義の一つである「全信徒の平等」は、聖典第49章の10節「信徒はみな兄弟」、同13節「我ら(唯一神の一人称)はおまえたちを男と女に分けて創り、おまえたちを多くの種族に分かち、部族に分けた。これはみな、おまえたちをお互い同士よく識り合うようにしてやりたいと思えばこそ。まこと唯一神(アッラー)の御目から見て、おまえたちの中で一番貴いのは一番敬虔な人間」を典拠とする。13節の「おまえたちをお互い同士よく識り合うようにしてやりたいと思えばこそ」という一文は、男女、人種、民族、部族(氏族)間の対立や差別の禁止と解釈されている。
ウマイヤ朝がこの信徒平等の原則を無視し、タージク(アラブ)人の、それも特定の氏族だけを優遇していた、という情報が文字で記録されたのは、前回解説したとおり、ウマイヤ朝が滅亡した後である。しかし本作の時代(AD8世紀半ば)の頃から記録され始めた詩や伝承には、前イスラム時代(6世紀以前)のタージク人の異民族差別や氏族主義、およびそれらがイスラムによって禁じられた後も根強く残っていたことが明確に表れている。
このように差別された異民族や冷遇された氏族の不満を原動力にしてウマイヤ朝を倒したのが、アッバース朝である(後述)。この二つの勢力はその後100年にわたってアッバース朝を支えたが、前述したようにタージク人の異民族差別は解消に至らず(解説その二の「忌むべき混血」の項参照)、氏族主義もまた同様だった。またかつて差別されていた氏族や民族が優遇されることで、「既得権」を失った者たちによる反乱も頻発するようになったのだが、それは先の話である。
日出づる処(ホラーサン)から日没する処(マグリブ)まで
先に「マグリブ」について解説すると、タージク(アラビア)語であり、意味はルビのとおり。地域名としては北アフリカ(サハラ沙漠以北)西部で、現在の国名で言えばモロッコ、アルジェリア、チュニジアの3ヵ国。広義にはリビアや西サハラなどを含む。ちなみに「モロッコ」の名は首都「マラケシュ」の転訛で、正式名称は「マグリブ王国」。
タージク語で「マグリブ」の対義語「日出づる処」は「マシュリク」で、紅海以東のイスラム諸国、いわゆる「東方イスラム世界」を指す(場合によっては紅海以東のタージク語圏、またはファールス=ペルシア以東のイスラム諸国を指す)。
「ホラーサン」はファールス語であり、意味はルビのとおり。地域名としては、狭義には現在のイラン・イスラム共和国の東部、広義にはアフガニスタンも含む。原音により忠実に表記するなら「ホラーサーン」で、現在ではこれが一般的だが、冗長なので長音記号を1つ省略。古来、イラン・アーリア民族の中心地であったファールス地方(現イラン南部)から見て東方、という意味。なおファールス語で「日没する処」という名の地域はないようである。
本作の時代(AD8世紀半ば)のイスラム世界は、ちょうど「ホラーサンからマグリブまで」であった。一応、ホラーサンより東、中央アジアのソグド人都市国家群も征服はされていたのだが(8世紀初頭)、反乱は頻発するわ(ソグド人と移住させられたタージク人の両方)、トルコ系騎馬民族は攻め込んでくるわで、支配が確立しているとは到底言えない状況だった(唐の政府もトルコ人やソグド人を煽動しており、751年にはタラス河畔の戦いへと至る)。ホラーサンについては後ほど改めて解説。
前回長かったので、続きはまた明日。
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